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環(6)

ー/ー



 はっと、老婦人は目を醒ました。
 その手には、手垢で黒ずんだ木彫りの鳩が握られている。
「お目覚めですかな」
 正面に座っている見目麗しい紳士が、白い歯をこぼした。
「あら? あなた、好い男ね」
 老婦人は、ホウっと嘆息を洩らした。
「ご、ご丈母(じょうぼ)さま?」
 老婦人の隣に座す壮年の男が、畳をとんとんと叩いて気づきを促す。まだ春うららかな季節なのに、額には冷や汗が(にじ)んでいた。
 庭の梅の枝に止まっている(うぐいす)が、澄んだ(さえず)りを響かせる。
「この子のせいかしら。懐かしい人の夢を見ていました」
 老婦人が、手にしていた木彫りの鳩を紳士にそっと返した。
「されば、この鳩の元の持ち主であらせられますな。残念ながら、私は面影しか覚えておりません。ご教授いただければ幸いに存じます」
 紳士は、宝物かのように鳩を両手へしまった。
「ええ、もちろんですよ。あの方とは、私がいちばん長く過ごしたのですから。今となっては、良きところしか覚えていません。あら、でも良いところなんて、あったかしら。ところで……」
 あなたは誰の孫だったかしら?
「ご、ご丈母さま」
 汗みどろの壮年の男が、再び老婦人に注意を喚起した。
 春の涼やかな風が庭を渡り、山桜の葉がそよいだ。
「この子は、私が五十一の時に産んだ子なの。嫌だわ、誰も信じてくださらないけど、本当なのよ。年寄りの子だから、つい甘やかしてしまって……」
「……うう。ご丈母さま。違います、それは私ではありません」
「母上、この人は私の夫の(みん)です」
 壮年の男の隣に座っていた淑女が顔を向け、諭すように口を挟んだ。
 ホウっと、老婦人は嘆息を洩らした。
「ハ、ハ、ハ。息子といえば、私はこの鳩をいただいた時点で、彼女のそれであったと思いたい。すなわち、あなたにとって、私は弟と言えましょう。是非、お姉さまと呼ばせてください」
 紳士が涼やかな口調で述べると、老婦人はにっこり微笑んだ。
「まあ、孫みたいなあなたに〈お姉さま〉だなんて言われると、ご丈母さま、嬉しくなっちゃう」
「淵公の兵法、第三条でござる」
「あら、懐かしい言葉ね。そうね『女房衆には、どんなご年配でもお姉さまと呼べ』だったかしらね。あの人ったら、真面目な顔してそんなことを言うのだもの、おかしいったら。あなたにもそんなことを仰っていたの?」
「なんといっても、淵公のご息女ですからな、私は信じておりますぞ」
「お馬鹿さんね。第五条『戦場では誰かの後ろに隠れて、生き残れ』よ。淵公がそんなこと言うわけないじゃないの」
 老婦人はカラカラと笑い、義理の息子はまた目を白黒させるしかなかった。
「ちなみに、第一条は何ですの?」
 淑女(むすめ)が尋ねると、老婦人と紳士が同時に答えた。
「挨拶は元気よく!」
 息ぴったりだな、おい。
 貴賓(きひん)との席に慣れていない泯は、もはや総毛立つ思いであった。
 
 相対している紳士こそ、暁光(ぎょうこう)公儀の宰相にして、伝坊(でんぼう)廿(にじゅう)三万石藩主・星頌(せいしょう)その人である。初代大樹心仁(しんじん)公の武断政治から文治への転換を促し、六合(りくごう)の「二百五十年の平和」の(いしずえ)を築いた。特筆すべきは藩政において、殉死の禁止、学校の創設、貧民の救済、年金の先駆け等、近代的な社会福祉を実地した点にあろう。
 このたび、鼎将(ていしょう)方面への視察の折、()家の嫡流・(みん)(じん)家への婿入り祝いを兼ね、(えにし)の深い環媼(たまきおうな)(おとの)うたのである。
 人家は鼎将(たん)藩七万石の小藩ながら、開祖より使えし譜代の家柄。環媼は、四十を過ぎてから側室に迎えられ、人家の男子は、全てこの環媼の産である。さらに実娘(じつじょう)の婿として、淵公の曾孫である(みん)を迎え、万感極まっていた。
 諸侯としての戈家を滅ぼしたのが、環媼の義父・石伏(せきふく)の裏切りだったからだ。
 もはや戈の男系は泯しかおらず、彼の父が、とある事件に連座して島流しの憂き目に遭っていたため、戈家はそのまま歴史の闇に埋もれるところだった。そこを環媼の働きかけで、放免ならびに小藩とはいえ譜代の家の婿として、引きあげることができた。
 泯の子孫は、高家として戈家を紡いでゆき、現在も(なお)織られている。
 
 環媼は、表向きは実家の罪滅ぼしとして、大事をやり遂げた。その反動で気が抜けたのか、ちょっとこの頃、(ほう)け気味なのはご愛敬だ。もはや、(よわい)は九十を迎えんとしている。
 本当は、私の親愛なる方への、ご恩返し。
――たま、でかした。
 あの時のように、褒めてくださるだろうか。
「……そう、そうだったわ。淵公の兵法、第十条。あれで私は助かったのよ。馬鹿にしたものでもないかしら」
「たとい絶体絶命でも、命乞いでもなんでもして生き延びろ……でしたな」
「母上、そんな危ない目に遭ったことがございますの?」
「どうだったかしらねえ」
 環媼は、遠い目でのどかな庭を眺める。
――もう、みんな旅立ってしまったわね。
 地面を(ついば)んでいた(つがい)の鳩が、くっくるーと鳴いて空へ羽ばたいた。
 山桜の(つぼみ)も膨らんで、明日には(ほころ)ぶかもしれない。
 星頌が、春の穏やかさを損ねぬよう、声を落として言った。
「では、お聞かせ願いましょうか。つむぎさま――いえ、(いん)姫のお話を」
 もちろんですとも。では、どこからお話しいたしましょう。
 
 了


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 はっと、老婦人は目を醒ました。
 その手には、手垢で黒ずんだ木彫りの鳩が握られている。
「お目覚めですかな」
 正面に座っている見目麗しい紳士が、白い歯をこぼした。
「あら? あなた、好い男ね」
 老婦人は、ホウっと嘆息を洩らした。
「ご、ご|丈母《じょうぼ》さま?」
 老婦人の隣に座す壮年の男が、畳をとんとんと叩いて気づきを促す。まだ春うららかな季節なのに、額には冷や汗が|滲《にじ》んでいた。
 庭の梅の枝に止まっている|鶯《うぐいす》が、澄んだ|囀《さえず》りを響かせる。
「この子のせいかしら。懐かしい人の夢を見ていました」
 老婦人が、手にしていた木彫りの鳩を紳士にそっと返した。
「されば、この鳩の元の持ち主であらせられますな。残念ながら、私は面影しか覚えておりません。ご教授いただければ幸いに存じます」
 紳士は、宝物かのように鳩を両手へしまった。
「ええ、もちろんですよ。あの方とは、私がいちばん長く過ごしたのですから。今となっては、良きところしか覚えていません。あら、でも良いところなんて、あったかしら。ところで……」
 あなたは誰の孫だったかしら?
「ご、ご丈母さま」
 汗みどろの壮年の男が、再び老婦人に注意を喚起した。
 春の涼やかな風が庭を渡り、山桜の葉がそよいだ。
「この子は、私が五十一の時に産んだ子なの。嫌だわ、誰も信じてくださらないけど、本当なのよ。年寄りの子だから、つい甘やかしてしまって……」
「……うう。ご丈母さま。違います、それは私ではありません」
「母上、この人は私の夫の|泯《みん》です」
 壮年の男の隣に座っていた淑女が顔を向け、諭すように口を挟んだ。
 ホウっと、老婦人は嘆息を洩らした。
「ハ、ハ、ハ。息子といえば、私はこの鳩をいただいた時点で、彼女のそれであったと思いたい。すなわち、あなたにとって、私は弟と言えましょう。是非、お姉さまと呼ばせてください」
 紳士が涼やかな口調で述べると、老婦人はにっこり微笑んだ。
「まあ、孫みたいなあなたに〈お姉さま〉だなんて言われると、ご丈母さま、嬉しくなっちゃう」
「淵公の兵法、第三条でござる」
「あら、懐かしい言葉ね。そうね『女房衆には、どんなご年配でもお姉さまと呼べ』だったかしらね。あの人ったら、真面目な顔してそんなことを言うのだもの、おかしいったら。あなたにもそんなことを仰っていたの?」
「なんといっても、淵公のご息女ですからな、私は信じておりますぞ」
「お馬鹿さんね。第五条『戦場では誰かの後ろに隠れて、生き残れ』よ。淵公がそんなこと言うわけないじゃないの」
 老婦人はカラカラと笑い、義理の息子はまた目を白黒させるしかなかった。
「ちなみに、第一条は何ですの?」
 |淑女《むすめ》が尋ねると、老婦人と紳士が同時に答えた。
「挨拶は元気よく!」
 息ぴったりだな、おい。
 |貴賓《きひん》との席に慣れていない泯は、もはや総毛立つ思いであった。
 相対している紳士こそ、|暁光《ぎょうこう》公儀の宰相にして、|伝坊《でんぼう》|廿《にじゅう》三万石藩主・|星頌《せいしょう》その人である。初代大樹|心仁《しんじん》公の武断政治から文治への転換を促し、|六合《りくごう》の「二百五十年の平和」の|礎《いしずえ》を築いた。特筆すべきは藩政において、殉死の禁止、学校の創設、貧民の救済、年金の先駆け等、近代的な社会福祉を実地した点にあろう。
 このたび、|鼎将《ていしょう》方面への視察の折、|戈《か》家の嫡流・|泯《みん》の|人《じん》家への婿入り祝いを兼ね、|縁《えにし》の深い|環媼《たまきおうな》を|訪《おとの》うたのである。
 人家は鼎将|旦《たん》藩七万石の小藩ながら、開祖より使えし譜代の家柄。環媼は、四十を過ぎてから側室に迎えられ、人家の男子は、全てこの環媼の産である。さらに|実娘《じつじょう》の婿として、淵公の曾孫である泯《みん》を迎え、万感極まっていた。
 諸侯としての戈家を滅ぼしたのが、環媼の義父・|石伏《せきふく》の裏切りだったからだ。
 もはや戈の男系は泯しかおらず、彼の父が、とある事件に連座して島流しの憂き目に遭っていたため、戈家はそのまま歴史の闇に埋もれるところだった。そこを環媼の働きかけで、放免ならびに小藩とはいえ譜代の家の婿として、引きあげることができた。
 泯の子孫は、高家として戈家を紡いでゆき、現在も|尚《なお》織られている。
 環媼は、表向きは実家の罪滅ぼしとして、大事をやり遂げた。その反動で気が抜けたのか、ちょっとこの頃、|呆《ほう》け気味なのはご愛敬だ。もはや、|齢《よわい》は九十を迎えんとしている。
 本当は、私の親愛なる方への、ご恩返し。
――たま、でかした。
 あの時のように、褒めてくださるだろうか。
「……そう、そうだったわ。淵公の兵法、第十条。あれで私は助かったのよ。馬鹿にしたものでもないかしら」
「たとい絶体絶命でも、命乞いでもなんでもして生き延びろ……でしたな」
「母上、そんな危ない目に遭ったことがございますの?」
「どうだったかしらねえ」
 環媼は、遠い目でのどかな庭を眺める。
――もう、みんな旅立ってしまったわね。
 地面を|啄《ついば》んでいた|番《つがい》の鳩が、くっくるーと鳴いて空へ羽ばたいた。
 山桜の|蕾《つぼみ》も膨らんで、明日には|綻《ほころ》ぶかもしれない。
 星頌が、春の穏やかさを損ねぬよう、声を落として言った。
「では、お聞かせ願いましょうか。つむぎさま――いえ、|胤《いん》姫のお話を」
 もちろんですとも。では、どこからお話しいたしましょう。
 了