はっと、老婦人は目を醒ました。
その手には、手垢で黒ずんだ木彫りの鳩が握られている。
「お目覚めですかな」
正面に座っている見目麗しい紳士が、白い歯をこぼした。
「あら? あなた、好い男ね」
老婦人は、ホウっと嘆息を洩らした。
「ご、ご丈母さま?」
老婦人の隣に座す壮年の男が、畳をとんとんと叩いて気づきを促す。まだ春うららかな季節なのに、額には冷や汗が滲んでいた。
庭の梅の枝に止まっている鶯が、澄んだ囀りを響かせる。
「この子のせいかしら。懐かしい人の夢を見ていました」
老婦人が、手にしていた木彫りの鳩を紳士にそっと返した。
「されば、この鳩の元の持ち主であらせられますな。残念ながら、私は面影しか覚えておりません。ご教授いただければ幸いに存じます」
紳士は、宝物かのように鳩を両手へしまった。
「ええ、もちろんですよ。あの方とは、私がいちばん長く過ごしたのですから。今となっては、良きところしか覚えていません。あら、でも良いところなんて、あったかしら。ところで……」
あなたは誰の孫だったかしら?
「ご、ご丈母さま」
汗みどろの壮年の男が、再び老婦人に注意を喚起した。
春の涼やかな風が庭を渡り、山桜の葉がそよいだ。
「この子は、私が五十一の時に産んだ子なの。嫌だわ、誰も信じてくださらないけど、本当なのよ。年寄りの子だから、つい甘やかしてしまって……」
「……うう。ご丈母さま。違います、それは私ではありません」
「母上、この人は私の夫の泯です」
壮年の男の隣に座っていた淑女が顔を向け、諭すように口を挟んだ。
ホウっと、老婦人は嘆息を洩らした。
「ハ、ハ、ハ。息子といえば、私はこの鳩をいただいた時点で、彼女のそれであったと思いたい。すなわち、あなたにとって、私は弟と言えましょう。是非、お姉さまと呼ばせてください」
紳士が涼やかな口調で述べると、老婦人はにっこり微笑んだ。
「まあ、孫みたいなあなたに〈お姉さま〉だなんて言われると、ご丈母さま、嬉しくなっちゃう」
「淵公の兵法、第三条でござる」
「あら、懐かしい言葉ね。そうね『女房衆には、どんなご年配でもお姉さまと呼べ』だったかしらね。あの人ったら、真面目な顔してそんなことを言うのだもの、おかしいったら。あなたにもそんなことを仰っていたの?」
「なんといっても、淵公のご息女ですからな、私は信じておりますぞ」
「お馬鹿さんね。第五条『戦場では誰かの後ろに隠れて、生き残れ』よ。淵公がそんなこと言うわけないじゃないの」
老婦人はカラカラと笑い、義理の息子はまた目を白黒させるしかなかった。
「ちなみに、第一条は何ですの?」
淑女が尋ねると、老婦人と紳士が同時に答えた。
「挨拶は元気よく!」
息ぴったりだな、おい。
貴賓との席に慣れていない泯は、もはや総毛立つ思いであった。
相対している紳士こそ、暁光公儀の宰相にして、伝坊廿三万石藩主・星頌その人である。初代大樹心仁公の武断政治から文治への転換を促し、六合の「二百五十年の平和」の礎を築いた。特筆すべきは藩政において、殉死の禁止、学校の創設、貧民の救済、年金の先駆け等、近代的な社会福祉を実地した点にあろう。
このたび、鼎将方面への視察の折、戈家の嫡流・泯の人家への婿入り祝いを兼ね、縁の深い環媼を訪うたのである。
人家は鼎将旦藩七万石の小藩ながら、開祖より使えし譜代の家柄。環媼は、四十を過ぎてから側室に迎えられ、人家の男子は、全てこの環媼の産である。さらに実娘の婿として、淵公の曾孫である泯を迎え、万感極まっていた。
諸侯としての戈家を滅ぼしたのが、環媼の義父・石伏の裏切りだったからだ。
もはや戈の男系は泯しかおらず、彼の父が、とある事件に連座して島流しの憂き目に遭っていたため、戈家はそのまま歴史の闇に埋もれるところだった。そこを環媼の働きかけで、放免ならびに小藩とはいえ譜代の家の婿として、引きあげることができた。
泯の子孫は、高家として戈家を紡いでゆき、現在も尚織られている。
環媼は、表向きは実家の罪滅ぼしとして、大事をやり遂げた。その反動で気が抜けたのか、ちょっとこの頃、呆け気味なのはご愛敬だ。もはや、齢は九十を迎えんとしている。
本当は、私の親愛なる方への、ご恩返し。
――たま、でかした。
あの時のように、褒めてくださるだろうか。
「……そう、そうだったわ。淵公の兵法、第十条。あれで私は助かったのよ。馬鹿にしたものでもないかしら」
「たとい絶体絶命でも、命乞いでもなんでもして生き延びろ……でしたな」
「母上、そんな危ない目に遭ったことがございますの?」
「どうだったかしらねえ」
環媼は、遠い目でのどかな庭を眺める。
――もう、みんな旅立ってしまったわね。
地面を啄んでいた番の鳩が、くっくるーと鳴いて空へ羽ばたいた。
山桜の蕾も膨らんで、明日には綻ぶかもしれない。
星頌が、春の穏やかさを損ねぬよう、声を落として言った。
「では、お聞かせ願いましょうか。つむぎさま――いえ、胤姫のお話を」
もちろんですとも。では、どこからお話しいたしましょう。
了