『…は数日ぶりにまとまった雨が降るでしょう。今後は少雨傾向の解消が見え、豊かな作物の実りを期待する声が多く上がっております。それでは、農家の方にご意見を…』
バックグラウンドで流していたラジオを切り、部屋の電灯スイッチを押した。目の前に一瞬閃光が走って、部屋の中央の透明なケースが顕になる。俺の体積のニ倍はある、ケースの中で蠢く銀色の彼に、驚く自分はもういない。
変わらない日々は何だかこわい。液体になった中身が自分を留める箱を萎びさせ、俺自身が溶けだしていくようだった。足元から蒸発したあと、残るのはいったい何だろうか。今朝食べた菓子パンだろうか。あんまり、美味くなかった。
〚ぎゃぃァ、ぎイ〛
金属が擦り合って叫んだような音がした。ケースにいる彼から発されたそれに、やっと俺は我に帰った。そうだ、餌をやらないと。例え研究が完遂する兆しは見えなくても、安月給だとしても、貰ってしまっているのだから全うせねばならない。「一つあればよくね?」と血迷い、目を売ろうとしていた昔よりは断然、全くもってマシである。
流動する金属のような彼には、脊髄も無く呼吸器も無く、かと言って背中からマシンガンを出すなども恐らく無い。恐らく、と言ったのは彼を解剖出来た試しが無いからだ。メスを入れようとしても、熱で溶かそうとしても彼の容体は変わらず、"保護観察"の状態が続いている。
とどのつまり、彼の正体についてはほぼ何もわかっていない。そんな八方塞がりの状況で俺のような下っ端研究員に託されたことは、一日三度の餌やりと行動の記録だけだった。
業務用のステンレス棚に置かれた、低炭素鋼くずの詰まった箱に右手を突っ込む。湿気でベタついた肌が急激に冷えるのを感じながら、角ばったくずを掴み取りの要領で手に収めた。
〚ゲぱ、げぅ〛
金属の気泡が唸るような音をたてながら、彼は俺が放ったくずを体内に取り入れていった。ふと、保育園で飼っていたウサギを思い出した。あれの名前は何だっただろうかと、鳥の巣のような頭を掻きながら考える。ミルクだかチョコだかの捻りもないクソみたいな名前だった気がするが、なにせもう三十年以上前の話だしな、と手に絡まった抜け毛を見て思った。
胸ポケットに永住させられているボールペンを取り出し、彼の今日の様子をザッと記入した。山盛りの資料と、もはやオーパーツである32bitパソコンが目の端に映り、巨体の肩はおろかフケにすらならなそうな仕事が頭によぎる。
「げおー…」
腹の奥下にある分銅のように重い怠さが俺を傾かせた。俺だって鳴きたい時もあるぞ、と彼を見たが、何の相槌もせず黙々と金属の摂取を続けているだけだった。
彼が動くたびに反射する蛍光灯の光に反応してか、母親に片手を引かれ早めに登園したあの日を思い出す。薄明るい天気雨の中、泥濘んだ庭の土を飛沫を上げながら走って、縦長でぬるい獣の臭いがする小屋の前で俺は立ち止まった。段々と正気を取り戻してきた太陽が、ウサギの腹を照らしていた。いつも馬鹿みたいにひくついていた鼻が低い天井を向いて静止していた。
〚げ、ぐゥ、ガぁア〛
はっ、と俺はちょっとしたトラウマから掬い上げられる。彼は一生懸命に飲み込んでいた金属を、全て吐き出してしまったようだった。以前にも同種の金属を吐き出したことがある。あまり美味しくないのだろうか。
俺は部屋の隅に寝かし付けられていたフロアブラシとちりとりを持って、彼があと五体は入る容積のケースに足を踏み入れる。まだここに赴任したばかりの時の掃除は、因習村に捧げられる生贄のように怯えながらだったな。ビビって転けてケースをひっくり返し、挙げ句の果て「やばい」しか言わなかった俺がよくここまで慣れたものだ。思えばとても長い時間を、彼と過ごしている。
なんだか少し哀愁に駆られて、俺は彼に応答を期待するでもなく話しかけた。
「…俺、ここ辞めるかも」
ブラシの持ち手の先端に顎をのせて、ふーっと息を抜きながら彼を横目に見る。中指の付け根の関節とグリップの丸みが顎のツボを刺激した。
「勘違いしないで欲しいんだけど、昇進でも、お前に愛想つかしたんでもないからな。
実家手伝うんだ。俺の家はさ、地元じゃ幅利かせてる農家なんだぜ。夏は三時にすらトマト食わされてたし、勝手に採った山芋で手が痒くなって怒られもしたっけな」
言葉を発すごとに口の動きが手に伝わる。彼は変わらず縮こまっていた。
「でもここよりは悪くない。カスみたいな上司も女だけ無料のコンパも無いんだ。それだけじゃないぜ、空だ、空が見えるんだぞ。気孔が閉じそうな暗い地下とはおさらばだ、お前には悪いがな。」
一気に捲し立てて息の上がった俺を、彼は冷たく見上げていた。相も変わらず頷きもない。
俺は何だか恥ずかしくなってきて、適当に鋼を片付けたあと、彼と距離を取るように部屋の奥の換気扇の側に早足で向かった。引っ張るタイプのスイッチを付けて、無数の星があしらわれた箱を取り出す。ボールペンと同居させられているライターを用いて1本吸うと、喉を押し込められるような辛味と申し訳程度の甘みを感じた。まずい醤油ラーメンの味がする。
人工的な風特有の甲高いうめき声が耳から体内に侵入して、気付きたくなかった何かを体から引き摺り出して心に落とす。俺は別に田舎の広い空が好きだとか、澄んだ空気に生きたいとか思っているわけじゃない。小さい頃に見た天望に、勝手に屋根を付けて空が見えないと泣いている。そんな自己憐憫に酔うだけの、つまらない自分が嫌いだ。俺は空を見たいんじゃない。靴を履く勇気が欲しかったんだ。
振り向いて壁に寄りかかり、ケースの隅から中央に移動した彼を見る。彼にとっての空はこの地下室の天井だ。簡素な白い蛍光灯と剥き出しの配管に、星を観ることがあるのだろうか。とても幸せだろうな、と皮肉ではなく心の底から思った。
換気扇の真横にある申し訳程度の大きさの洗面台に灰殻を捨てて流した。鏡を見るといつも通りの、緑色の肌に乗る赤い三つの小汚い瞳が映っていた。ちらりと突起した背骨が橙に灯っているのも見え、先延ばしにしているメンテナンスが脳裏に浮かぶ。使いもしない発砲機能に金がかかるなんて馬鹿らしい。
俺は少し投げやりな気持ちになって、棚の一番上、亜鉛屑の箱を取り出す。かなりの重さがあり腕と腰に効いたが、四つの足でそれを支えて事なきを得る。
「…っ豊作だぞ!」
俺はそれを勇んで彼に放った。プラスチックのケースと屑が久々の遭逢に喜ぶようにゴトゴトと鳴った。彼はというと興奮して動き回るでもなく、いつも通りに目の前にある屑を一心に摂取するだけであった。
途端、ぐらりと彼が視界の端に移動した。
違う、俺が倒れたんだ。
そう気付いて痛む頭を起こそうとするが、地面と天井が入れ替わり続け、俺の中までぐちゃぐちゃに歪められる。これは無理だ、と変に冷静になった瞬間、側頭部に衝撃が走って目の前が白くなった。こめかみに流れる温かい液体を感じながら、走馬灯が駆け巡るでもなく、俺は彼のことを思った。彼は、彼は大丈夫だろうか。
重くなった瞼の間隙を縫って、俺が最後に見たのは宙に浮いた上下反対の彼だった。ああ、ごめん、上下反対なのは、俺だったな。
「あ、やべ」