表示設定
表示設定
目次 目次




ー/ー



 妻はほがらかな女だ。
 つつましいふたり暮らしだが、愛子がいるのといないのとでは、家の雰囲気がまったく異なる。明るいか、暗い。その二択しかない。
 昼には食卓に野菜ハンバーグが並んだ。あり合わせの材料をうまく調理して見栄えのする料理に仕立ててしまうのが彼女で、洋司は口にこそしないが、いつも感心している。
 愛子は豆腐サラダを口に運びながら、笑顔で言った。

「ねぇ洋司さん。今度お友達とバスツアーに行って来てもいい?」

「どこに行くんだい?」

「ミステリーツアーなのよ。目的地がどこだか知らされずに出発するんですって。あなたもどう?」

 洋司は乾いた笑い声をあげた。

「俺はいいよ。足手まといになるかもしれないから」

「またそんなこと言って」

「ボランティアはちゃんとでているだろ。山歩きもしているし」

 洋司はもともと出不精な人間で、他人に気を遣わなくてはならない団体旅行などもってのほかだった。食器洗いに専念するふりをして、なにか言いかけた愛子の言葉をさえぎった。
 しかしリビングにいたはずの妻がどこにも見当たらないことに気づくと、無性に不安になった。

「愛子! 愛子、どこにいるんだ?」

 いつもならどこからか「はい、なんですか?」と答えてくれる声が聞こえない。玄関には靴もなかった。洋司はあわててサンダルを引っかけて外に出た。

 愛子はまもなくみつかった。少し歩いた先にある公園で、洋司の知らない初老の男と話をしていた。
 親しげに語る様子は、どう見ても偶然道を聞かれて足を止めたものではない。おそらく携帯電話で連絡を取り、落ち合う約束をしたのだろう。思わず身を隠してしまったが、正解だったのだと洋司は思った。

 家に戻ると、自室にこもり、無線機を外で運用するための準備をはじめた。なにかしていないと、動揺からとんでもない失敗をおかしそうな気がした。持っている知識が本当に使えるものなのかあやふやだったが、一応、支度は整った。
 午前中は肩透かしを食らったが、今度こそ世界の誰かが応じてくれるかもしれない。他愛ない雑談でごまかし、胸に渦巻く黒い嵐を打ち消したい。そうすればこの烈しい嫉妬心をなだめることができるはずだ。いや、そうでなければ困る。
 万が一の事故に備えて、山岡には留守電を入れておいた。愛子には書き置きを残すつもりだったが、紙を前にするとペンを持った手が震え、一文字も書くことができなかった。
 穏やかな夫がどこにもいないと知れば、愛子は迷いなく自分を捨てるかもしれない。洋司は行き場のない煩悶を無理やり抑え込み、山登り用のリュックサックを背負った。


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 妻はほがらかな女だ。
 つつましいふたり暮らしだが、愛子がいるのといないのとでは、家の雰囲気がまったく異なる。明るいか、暗い。その二択しかない。
 昼には食卓に野菜ハンバーグが並んだ。あり合わせの材料をうまく調理して見栄えのする料理に仕立ててしまうのが彼女で、洋司は口にこそしないが、いつも感心している。
 愛子は豆腐サラダを口に運びながら、笑顔で言った。
「ねぇ洋司さん。今度お友達とバスツアーに行って来てもいい?」
「どこに行くんだい?」
「ミステリーツアーなのよ。目的地がどこだか知らされずに出発するんですって。あなたもどう?」
 洋司は乾いた笑い声をあげた。
「俺はいいよ。足手まといになるかもしれないから」
「またそんなこと言って」
「ボランティアはちゃんとでているだろ。山歩きもしているし」
 洋司はもともと出不精な人間で、他人に気を遣わなくてはならない団体旅行などもってのほかだった。食器洗いに専念するふりをして、なにか言いかけた愛子の言葉をさえぎった。
 しかしリビングにいたはずの妻がどこにも見当たらないことに気づくと、無性に不安になった。
「愛子! 愛子、どこにいるんだ?」
 いつもならどこからか「はい、なんですか?」と答えてくれる声が聞こえない。玄関には靴もなかった。洋司はあわててサンダルを引っかけて外に出た。
 愛子はまもなくみつかった。少し歩いた先にある公園で、洋司の知らない初老の男と話をしていた。
 親しげに語る様子は、どう見ても偶然道を聞かれて足を止めたものではない。おそらく携帯電話で連絡を取り、落ち合う約束をしたのだろう。思わず身を隠してしまったが、正解だったのだと洋司は思った。
 家に戻ると、自室にこもり、無線機を外で運用するための準備をはじめた。なにかしていないと、動揺からとんでもない失敗をおかしそうな気がした。持っている知識が本当に使えるものなのかあやふやだったが、一応、支度は整った。
 午前中は肩透かしを食らったが、今度こそ世界の誰かが応じてくれるかもしれない。他愛ない雑談でごまかし、胸に渦巻く黒い嵐を打ち消したい。そうすればこの烈しい嫉妬心をなだめることができるはずだ。いや、そうでなければ困る。
 万が一の事故に備えて、山岡には留守電を入れておいた。愛子には書き置きを残すつもりだったが、紙を前にするとペンを持った手が震え、一文字も書くことができなかった。
 穏やかな夫がどこにもいないと知れば、愛子は迷いなく自分を捨てるかもしれない。洋司は行き場のない煩悶を無理やり抑え込み、山登り用のリュックサックを背負った。