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第4回

ー/ー



 チャイムが鳴り、ドアの開く音がする。靴を脱ぐ気配。いつものように入ってくる由鷹は部屋の入り口で出迎えた私の着飾った姿を見て驚き、肩越しに覗き見えたテーブルの豪華さに眉を寄せる。
「何かあったの? お祝い事?」
 笑って訊いてくる由鷹を席につかせ、私はつくり笑顔でワインの口をあけた。



 蛇口を全開にして水をためながら、食器をつけこむ。中途半端に残された食事も花も、全部ゴミ袋に入れて口をしばった。
 二度と見ないですむように固く結ぶ。ふうと息をついた一瞬を突いてかすめた由鷹の姿に、直後、手首に熱いものが数滴したたった。

 終わった。本当にこれで、全部終わったのだ。

『結婚が決まったの。あなたの知らない人よ。お医者さん。まだはっきりとした日にちとかは決まっていないけど、たぶん、そう遠くないわ』

 私はちゃんと笑えていただろうか?

『普通に相手を見つけられず、お見合いするような人にはあまりいい人がいないっていうけど、あれって嘘ね。知り合う機会がなかっただけ。とても真面目な人よ。そう、すごくいい人。きっと、幸せになれると思うの』

 由鷹は手を止めて、私を見ていた。無表情も同然の、いつもの仮面の下ではたして何を考えていたのか……驚いているのは分かったから、それでいい。
 驚いて、本当かと見つめてくれた。まだそれくらいには私を想ってくれていたのだ。
 それだけで、私には十分だった。

 結婚するの。
 もう一度繰り返した私に、ひと言も発せず席を立って帰って行く。そのとき、たたきつけるように閉められたドアの音が、今も耳に残っている。
 向けられた背中。
 テーブルクロスに爪を立て、裸足で追いかけ、その背にしがみついて、嘘だと……全部嘘と、言いたい気持ちを必死におしとどめた。

 そんなことをしたならますます嫌われるだけだ。由鷹に迷惑をかけまいと、自分でこの別れ方を選んだくせに。

 あのピアスを引き合いに出して自分の感情を正当化し、由鷹を罵り互いを傷つけあう泥沼のような別れだけは絶対にしたくなかった。
 今さらと言われても、由鷹の口から私への不満を聞きたくなかったのだ。

 向けられた背中……まぶたに濃く焼きついたその姿に、奥歯を噛みしめても殺しきれなかった嗚咽(おえつ)がもれた。
 その場にしゃがみこみ、ひたすら泣き続ける。
 流し台からあふれた水が床を流れてるのが分かっても、立ち上がる気力さえ起きない。

 もういい。もう全部終わった。由鷹と二度と会うことはない。
 そう思うたび、涙は止まらず、引き裂かれそうな胸の痛みもおさまろうとはしなかった。



 翌朝早々に同僚たちの助けを借りて部屋を越した。何もかも由鷹で染まった部屋にこれ以上居続けるのは、自殺行為だからだ。

 家財一式、全部処分して、服も捨ててしまう。全部、全部。由鷹を思い出す物は全部、捨ててしまおう。

 新しい部屋を整えるのに貯金を全部使いきってしまったけれど、そうやって、由鷹と私をつないでいた物すべてを切り捨てて近寄らないようにすることで、私は由鷹への想いを少しでも薄れさせなくてはいけなかった。
 忘れなければ。こんな思いのままでは、生きていけない。

 由鷹と行った店も、由鷹の行きたいと言っていた場所も、簡単には行けないくらい遠くへ越してきた。
 見合いの相手は由鷹とのことを聞き、終わったのならと言ってくれたけれど、由鷹以上に愛することはできないと言う私の言葉で、結末を受け入れてくれた。



 朝がきたら目を覚まし、会社へ行き、仕事を終え、部屋に帰る。待つ者のない、灯の消えた冷たい部屋。
 もとに戻っただけだ。由鷹と出会う前の生活。

 たった半年。その前の10年以上を独りで暮らしてきた。なのにたった半年が、どうしてこんなに恋しいのだろう。3日とすごせないほどに辛い日々を送っていたのだろうか? 以前の私は。

 容赦なく(さいな)んでくる、あまりの孤独感の重さに、ぎゅっとクッションを握りしめた。

 由鷹……由鷹、由鷹、由鷹!

 決して思い出すまいとしたその名を吐き出すごとに、千切れるような息がこぼれる。

 捨てれば忘れられるなんて嘘だ。離れればいつか忘れるなんて、あり得ない。
 そんなものなどなくても思い出せる。あの瞳、あの腕。しなやかな肢体、重なった肌から伝わってきた心地よい体熱。重さ。耳元、甘やかな声でささやかれた私の名前……全部、思い出せる。私を愛しんだ、私の愛しい……!

 由鷹!
 なぜ言ってくれなかったの。あのとき。驚き、信じられないと目を(みは)るくらいなら、なぜ、嘘でもいいから『愛してる』と言ってくれなかった?

 そのひと言を聞けたなら、永遠にだまされていてもよかった。たとえ私以外の女を愛していようと、そばにいてくれさえすればいい、私の元へ戻ってきてくれるならいい、全然会えないよりずっとましだと、私は、あのピアスを窓から投げ捨てたのに。

 ……違う。あれは私が望んだ別れだ。この苦しみは由鷹のせいじゃない。私は由鷹を試したわけじゃない。

 すべて、自分の自尊心(プライド)のせい。

 「……………………あ、いたい……」

 ぽつり、とても自分のものとは思えない、枯れた声が出た。


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 チャイムが鳴り、ドアの開く音がする。靴を脱ぐ気配。いつものように入ってくる由鷹は部屋の入り口で出迎えた私の着飾った姿を見て驚き、肩越しに覗き見えたテーブルの豪華さに眉を寄せる。
「何かあったの? お祝い事?」
 笑って訊いてくる由鷹を席につかせ、私はつくり笑顔でワインの口をあけた。
 蛇口を全開にして水をためながら、食器をつけこむ。中途半端に残された食事も花も、全部ゴミ袋に入れて口をしばった。
 二度と見ないですむように固く結ぶ。ふうと息をついた一瞬を突いてかすめた由鷹の姿に、直後、手首に熱いものが数滴したたった。
 終わった。本当にこれで、全部終わったのだ。
『結婚が決まったの。あなたの知らない人よ。お医者さん。まだはっきりとした日にちとかは決まっていないけど、たぶん、そう遠くないわ』
 私はちゃんと笑えていただろうか?
『普通に相手を見つけられず、お見合いするような人にはあまりいい人がいないっていうけど、あれって嘘ね。知り合う機会がなかっただけ。とても真面目な人よ。そう、すごくいい人。きっと、幸せになれると思うの』
 由鷹は手を止めて、私を見ていた。無表情も同然の、いつもの仮面の下ではたして何を考えていたのか……驚いているのは分かったから、それでいい。
 驚いて、本当かと見つめてくれた。まだそれくらいには私を想ってくれていたのだ。
 それだけで、私には十分だった。
 結婚するの。
 もう一度繰り返した私に、ひと言も発せず席を立って帰って行く。そのとき、たたきつけるように閉められたドアの音が、今も耳に残っている。
 向けられた背中。
 テーブルクロスに爪を立て、裸足で追いかけ、その背にしがみついて、嘘だと……全部嘘と、言いたい気持ちを必死におしとどめた。
 そんなことをしたならますます嫌われるだけだ。由鷹に迷惑をかけまいと、自分でこの別れ方を選んだくせに。
 あのピアスを引き合いに出して自分の感情を正当化し、由鷹を罵り互いを傷つけあう泥沼のような別れだけは絶対にしたくなかった。
 今さらと言われても、由鷹の口から私への不満を聞きたくなかったのだ。
 向けられた背中……まぶたに濃く焼きついたその姿に、奥歯を噛みしめても殺しきれなかった|嗚咽《おえつ》がもれた。
 その場にしゃがみこみ、ひたすら泣き続ける。
 流し台からあふれた水が床を流れてるのが分かっても、立ち上がる気力さえ起きない。
 もういい。もう全部終わった。由鷹と二度と会うことはない。
 そう思うたび、涙は止まらず、引き裂かれそうな胸の痛みもおさまろうとはしなかった。
 翌朝早々に同僚たちの助けを借りて部屋を越した。何もかも由鷹で染まった部屋にこれ以上居続けるのは、自殺行為だからだ。
 家財一式、全部処分して、服も捨ててしまう。全部、全部。由鷹を思い出す物は全部、捨ててしまおう。
 新しい部屋を整えるのに貯金を全部使いきってしまったけれど、そうやって、由鷹と私をつないでいた物すべてを切り捨てて近寄らないようにすることで、私は由鷹への想いを少しでも薄れさせなくてはいけなかった。
 忘れなければ。こんな思いのままでは、生きていけない。
 由鷹と行った店も、由鷹の行きたいと言っていた場所も、簡単には行けないくらい遠くへ越してきた。
 見合いの相手は由鷹とのことを聞き、終わったのならと言ってくれたけれど、由鷹以上に愛することはできないと言う私の言葉で、結末を受け入れてくれた。
 朝がきたら目を覚まし、会社へ行き、仕事を終え、部屋に帰る。待つ者のない、灯の消えた冷たい部屋。
 もとに戻っただけだ。由鷹と出会う前の生活。
 たった半年。その前の10年以上を独りで暮らしてきた。なのにたった半年が、どうしてこんなに恋しいのだろう。3日とすごせないほどに辛い日々を送っていたのだろうか? 以前の私は。
 容赦なく|苛《さいな》んでくる、あまりの孤独感の重さに、ぎゅっとクッションを握りしめた。
 由鷹……由鷹、由鷹、由鷹!
 決して思い出すまいとしたその名を吐き出すごとに、千切れるような息がこぼれる。
 捨てれば忘れられるなんて嘘だ。離れればいつか忘れるなんて、あり得ない。
 そんなものなどなくても思い出せる。あの瞳、あの腕。しなやかな肢体、重なった肌から伝わってきた心地よい体熱。重さ。耳元、甘やかな声でささやかれた私の名前……全部、思い出せる。私を愛しんだ、私の愛しい……!
 由鷹!
 なぜ言ってくれなかったの。あのとき。驚き、信じられないと目を|瞠《みは》るくらいなら、なぜ、嘘でもいいから『愛してる』と言ってくれなかった?
 そのひと言を聞けたなら、永遠にだまされていてもよかった。たとえ私以外の女を愛していようと、そばにいてくれさえすればいい、私の元へ戻ってきてくれるならいい、全然会えないよりずっとましだと、私は、あのピアスを窓から投げ捨てたのに。
 ……違う。あれは私が望んだ別れだ。この苦しみは由鷹のせいじゃない。私は由鷹を試したわけじゃない。
 すべて、自分の|自尊心《プライド》のせい。
 「……………………あ、いたい……」
 ぽつり、とても自分のものとは思えない、枯れた声が出た。