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好きな人

ー/ー




 あ、眠そう。
 春の温かい陽気に誘われて、うつらうつらしたくなるこの季節。
 すこし開いた教室の窓から、桜の花びらが1枚だけ迷い込んだ。
 先生の眠気と一緒に、春が机の上で揺れていた。

 赤ペンを握ったまま寝てしまうと、プリントに変な線が入っちゃうよ。
 勝手に冷や冷やしながら眺めていると、彼は「うわぁ」と小さく声を上げて目を覚ました。
 どうやら、既に線が入ってしまったみたい。
 頭を軽くかきながら、「あちゃー……」とつぶやき、困ったように首を傾げる。
 その仕草が、好きだった。
 いや、好きだったというのは、すこし違うのかもしれない。
 ずっと変わらない。
 いつまでも変わらない。
 数学教師の相沢(あいざわ)先生は、いつまでも天然で、どこか抜けていて。
 そんなところが、愛しかった。



 あ、今日は髪の毛が跳ねている。
 数学の授業の前。3年生の教室で女子たちに囲まれていた相沢先生は、跳ねた髪を触られながら笑っていた。
 触れされるのはどうかと思うけど、そんなこと言えないし。
 満更でもない様子は、相手を誤解させる原因になるから、気を付けた方がいいよ。でもそんな忠告、私がする立場にないし。
 遠くから見ていることしかできない私。
 相沢先生、こんなにも好きなのに。想いはひとつも届けられない。

 放課後の職員室では、出席簿を見ながら頭を抱えていた。
 何かを悩むような素振りに、こちらも心が締め付けられる。
 そのとき、ひとりの生徒が先生の元に歩み寄っていくのが見えた。
 あれは、先生のクラスの女子生徒。
 すこし俯きながら立っている彼女は、何かを思い悩んでいる様子。今にも泣きそうな彼女を連れて職員室を後にし、そのまま相談室に入って行く。
 そういうところも、変わらない。
 あの頃、私が救われたときと同じやり方。先生はいつも、困っている生徒に救いの手を差し伸べていた。
 困っている人を見逃せない、優しい性格は今も変わらない。
 相談室の扉が閉まる音を聞きながら、私は廊下に留まる。
 出てくるまで待とう。
 そう思い、廊下の窓から外を眺めた。



 しばらくして相談室の扉が開き、ふたりが中から出てきた。
 泣き腫らした目の女子生徒の後ろを、相沢先生が立つ。背筋をしっかり伸ばして、姿勢よく立つ姿は、ほんとうに素敵。
 先生は、すこし疲れた顔をしている。でも、どこか安心したような表情にも見えた。
「……ふぅ」
 職員室に戻った先生は、席についてまた出席簿を開く。何か問題のある生徒でもいるのか。頭を抱えながらページをめくり、また溜息をつく。
 何か思い立ったのか、先生は机の左端に置かれた本を手に取り、そっと自身に引き寄せた。
 そのとき、左手の指輪がきらりと光る。
 蛍光灯の光りできらめき、ひときわ存在感を放っていた。

 ──指輪。

 今も身に着けているそれは、いつまでも左手で輝き続けていた。

 初めて見た日のことを思い出す。
 あの日も、今日みたいに桜が舞う日だった。
 なんでもない家までの帰り道。桜の花が風で散り、視界に入るすべてをピンク色に染めていた。
『なんていうか、こういうの、似合うかな?』
 消えそうな声でそうつぶやいた先生は、照れくさそうに、左手を背中に隠した。
『似合うよ。私とおそろいだし』
 そう言うと、先生は耳まで真っ赤にして、不器用に笑った。
 ほんとうは〝指輪に着けられている〟感が拭えなかった。でも、似合っているというのは、けっして嘘ではない。
 懐かしい記憶に想いを馳せながら、開いた本を押さえている左手を見る。

 今は、ちゃんと馴染んでいる。
 先生の生活に、時間に、手の形に。

 そういうのを見ると、嬉しくなる。そして、すこしだけ胸の奥があたたかくなる。
 あの日の春が、まだどこかで息をしているみたいで。
 嬉しくて、泣きそうだった。

「──相沢先生、お電話ですよ」
「あっ、え、はい」
 どこからかかかってきた電話の受話器を取り、「はい、相沢です」と静かに言う。
 しばらく無言が続き、見る見る表情が変わっていく。
 それは、焦りにも近いものだった。
「……え、あ、はい。はい……わかりました。すぐ行きます」
 受話器を置いた先生は、焦ったような表情で教頭先生の元に向かい、「すみません、子供が熱を出してしまったので帰らせてください」と言った。
 保育園からの呼び出し。
 あの子、熱を出しちゃったんだ。
 熱だから、明日も保育園は休み。ということは、先生も仕事は休み。
 教頭先生に何度も頭を下げる様子を見て、胸が強く締めつけられた。
 
 あぁ、ごめん。
 ごめんね、ふたりとも。

 気づけば涙が零れていた私は、軽く目元を拭い、また先生に視線を向ける。
 急いでいるのに、椅子を丁寧に戻す癖。
 鞄を肩にかける前に、一度だけ深呼吸する癖。
 全部、知っている。
 何度も見てきた、彼の癖。
 隣に座る同僚に深く頭を下げて、先生は職員室を飛び出していく。
 よほど焦っていたのか、椅子は丁寧に直したのに、机の引き出しがすこし開いたままだった。
 文房具の中に紛れる、色褪せた1枚の写真。
 桜の木の下で微笑む姿と、照れたように笑う相沢先生。
 好きな人と残したかった、大切な記憶。
 新しい物語が始まった、最初の1ページ。
 これからも、素敵な写真が増えていくはずだったのに。
 写真の中の私は、まだ学生服で。
 あの子は、写真の中にはいない。
 どこにも、私とあの子が一緒に写っているものはない。
 叶えたかった未来は、写真にすらならなかった。



『相沢先生、好きでした。って言ったら、どうします?』
『でした……って。なんで過去形なんですか?』
『だって。振られるとわかっていますから。予防線です』
 赤いリボンが印象的な、可愛いセーラー服だった。
 その服を着るのが最後で、寂しくて、クルクル何度も回った。
 桜が舞う木の下で、クルクルと、スカートをふわりとなびかせる。
 相沢先生は微笑んでいた。
 真っ黒な背広から覗く白いネクタイが風になびき、かっこよく整えられた髪の毛は、ふわふわと柔らかそうに揺れる。
『振られると決めつけて告白するのは、いただけません』
『なぜですか?』
『だって僕も、君のことが好きだった……って言ったら、どうしますか?』
 涙がにじむ目で先生を見つめると、優しく微笑んでくれる。
 クルクルと、スカートをなびかせながら先生に近づき、軽く腕と腕を触れさせた。
『君には、幸せになってほしいです。その役目、僕に任せてください』
『えー……なんですかそれ。プロポーズみたいなんですけど』
『ほんとうですね』
 ふたり笑っていると、私の友達が近づいてきた。
 何かを察知した友達は、『ふたり、写真撮るよ!』と言ってくれたのだ。
 そのときの写真が、今も彼の引き出しにある。
 大切な記憶。
 短かった幸せ。

 触れたくても、触れられない。
 呼びたくても、呼べない。
 
「……宏斗(ひろと)さん」

 開いたままの引き出しを閉めようとしても、私には閉められない。
 誰にも聞こえない声と、動いた指先は、ただ虚空に溶けていく。
 
 あの写真の中で笑っている私はきっとこの先、先生の中で〝懐かしい人〟へと薄れていくのだろう。

 それでもいい。
 幸せだったことだけは、変わらないから。

 太陽は、散る桜を強く輝かせていた。
 今年の春も、もうすぐ終わりがやってくる。

 校門に向かって走る先生を見つけて、私はそっと微笑んだ。
 




春が机の上で揺れていた  終


 







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 あ、眠そう。
 春の温かい陽気に誘われて、うつらうつらしたくなるこの季節。
 すこし開いた教室の窓から、桜の花びらが1枚だけ迷い込んだ。
 先生の眠気と一緒に、春が机の上で揺れていた。
 赤ペンを握ったまま寝てしまうと、プリントに変な線が入っちゃうよ。
 勝手に冷や冷やしながら眺めていると、彼は「うわぁ」と小さく声を上げて目を覚ました。
 どうやら、既に線が入ってしまったみたい。
 頭を軽くかきながら、「あちゃー……」とつぶやき、困ったように首を傾げる。
 その仕草が、好きだった。
 いや、好きだったというのは、すこし違うのかもしれない。
 ずっと変わらない。
 いつまでも変わらない。
 数学教師の|相沢《あいざわ》先生は、いつまでも天然で、どこか抜けていて。
 そんなところが、愛しかった。
 あ、今日は髪の毛が跳ねている。
 数学の授業の前。3年生の教室で女子たちに囲まれていた相沢先生は、跳ねた髪を触られながら笑っていた。
 触れされるのはどうかと思うけど、そんなこと言えないし。
 満更でもない様子は、相手を誤解させる原因になるから、気を付けた方がいいよ。でもそんな忠告、私がする立場にないし。
 遠くから見ていることしかできない私。
 相沢先生、こんなにも好きなのに。想いはひとつも届けられない。
 放課後の職員室では、出席簿を見ながら頭を抱えていた。
 何かを悩むような素振りに、こちらも心が締め付けられる。
 そのとき、ひとりの生徒が先生の元に歩み寄っていくのが見えた。
 あれは、先生のクラスの女子生徒。
 すこし俯きながら立っている彼女は、何かを思い悩んでいる様子。今にも泣きそうな彼女を連れて職員室を後にし、そのまま相談室に入って行く。
 そういうところも、変わらない。
 あの頃、私が救われたときと同じやり方。先生はいつも、困っている生徒に救いの手を差し伸べていた。
 困っている人を見逃せない、優しい性格は今も変わらない。
 相談室の扉が閉まる音を聞きながら、私は廊下に留まる。
 出てくるまで待とう。
 そう思い、廊下の窓から外を眺めた。
 しばらくして相談室の扉が開き、ふたりが中から出てきた。
 泣き腫らした目の女子生徒の後ろを、相沢先生が立つ。背筋をしっかり伸ばして、姿勢よく立つ姿は、ほんとうに素敵。
 先生は、すこし疲れた顔をしている。でも、どこか安心したような表情にも見えた。
「……ふぅ」
 職員室に戻った先生は、席についてまた出席簿を開く。何か問題のある生徒でもいるのか。頭を抱えながらページをめくり、また溜息をつく。
 何か思い立ったのか、先生は机の左端に置かれた本を手に取り、そっと自身に引き寄せた。
 そのとき、左手の指輪がきらりと光る。
 蛍光灯の光りできらめき、ひときわ存在感を放っていた。
 ──指輪。
 今も身に着けているそれは、いつまでも左手で輝き続けていた。
 初めて見た日のことを思い出す。
 あの日も、今日みたいに桜が舞う日だった。
 なんでもない家までの帰り道。桜の花が風で散り、視界に入るすべてをピンク色に染めていた。
『なんていうか、こういうの、似合うかな?』
 消えそうな声でそうつぶやいた先生は、照れくさそうに、左手を背中に隠した。
『似合うよ。私とおそろいだし』
 そう言うと、先生は耳まで真っ赤にして、不器用に笑った。
 ほんとうは〝指輪に着けられている〟感が拭えなかった。でも、似合っているというのは、けっして嘘ではない。
 懐かしい記憶に想いを馳せながら、開いた本を押さえている左手を見る。
 今は、ちゃんと馴染んでいる。
 先生の生活に、時間に、手の形に。
 そういうのを見ると、嬉しくなる。そして、すこしだけ胸の奥があたたかくなる。
 あの日の春が、まだどこかで息をしているみたいで。
 嬉しくて、泣きそうだった。
「──相沢先生、お電話ですよ」
「あっ、え、はい」
 どこからかかかってきた電話の受話器を取り、「はい、相沢です」と静かに言う。
 しばらく無言が続き、見る見る表情が変わっていく。
 それは、焦りにも近いものだった。
「……え、あ、はい。はい……わかりました。すぐ行きます」
 受話器を置いた先生は、焦ったような表情で教頭先生の元に向かい、「すみません、子供が熱を出してしまったので帰らせてください」と言った。
 保育園からの呼び出し。
 あの子、熱を出しちゃったんだ。
 熱だから、明日も保育園は休み。ということは、先生も仕事は休み。
 教頭先生に何度も頭を下げる様子を見て、胸が強く締めつけられた。
 あぁ、ごめん。
 ごめんね、ふたりとも。
 気づけば涙が零れていた私は、軽く目元を拭い、また先生に視線を向ける。
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 鞄を肩にかける前に、一度だけ深呼吸する癖。
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 隣に座る同僚に深く頭を下げて、先生は職員室を飛び出していく。
 よほど焦っていたのか、椅子は丁寧に直したのに、机の引き出しがすこし開いたままだった。
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 桜の木の下で微笑む《《制服姿の私》》と、照れたように笑う相沢先生。
 好きな人と残したかった、大切な記憶。
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 これからも、素敵な写真が増えていくはずだったのに。
 写真の中の私は、まだ学生服で。
 あの子は、写真の中にはいない。
 どこにも、私とあの子が一緒に写っているものはない。
 叶えたかった未来は、写真にすらならなかった。
『相沢先生、好きでした。って言ったら、どうします?』
『でした……って。なんで過去形なんですか?』
『だって。振られるとわかっていますから。予防線です』
 赤いリボンが印象的な、可愛いセーラー服だった。
 その服を着るのが最後で、寂しくて、クルクル何度も回った。
 桜が舞う木の下で、クルクルと、スカートをふわりとなびかせる。
 相沢先生は微笑んでいた。
 真っ黒な背広から覗く白いネクタイが風になびき、かっこよく整えられた髪の毛は、ふわふわと柔らかそうに揺れる。
『振られると決めつけて告白するのは、いただけません』
『なぜですか?』
『だって僕も、君のことが好きだった……って言ったら、どうしますか?』
 涙がにじむ目で先生を見つめると、優しく微笑んでくれる。
 クルクルと、スカートをなびかせながら先生に近づき、軽く腕と腕を触れさせた。
『君には、幸せになってほしいです。その役目、僕に任せてください』
『えー……なんですかそれ。プロポーズみたいなんですけど』
『ほんとうですね』
 ふたり笑っていると、私の友達が近づいてきた。
 何かを察知した友達は、『ふたり、写真撮るよ!』と言ってくれたのだ。
 そのときの写真が、今も彼の引き出しにある。
 大切な記憶。
 短かった幸せ。
 触れたくても、触れられない。
 呼びたくても、呼べない。
「……|宏斗《ひろと》さん」
 開いたままの引き出しを閉めようとしても、私には閉められない。
 誰にも聞こえない声と、動いた指先は、ただ虚空に溶けていく。
 あの写真の中で笑っている私はきっとこの先、先生の中で〝懐かしい人〟へと薄れていくのだろう。
 それでもいい。
 幸せだったことだけは、変わらないから。
 太陽は、散る桜を強く輝かせていた。
 今年の春も、もうすぐ終わりがやってくる。
 校門に向かって走る先生を見つけて、私はそっと微笑んだ。
春が机の上で揺れていた  終