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環(5)

ー/ー



――いけない、つむぎさまを助けなきゃ。
 たまきは震える足へ懸命に力を込め、四つん這いの姿勢から身を起こす。
 男の暴行にむなしく(あらが)う、つむぎの赤い目と視線がぶつかった。
「逃げろ」と強い瞳で命じていた。私が襲われている間に、ここから離れろと。
 たまきは直感で察したが、少女の瑞々(みずみず)しい正義感から、そんなことは絶対に駄目だと思う。しかし、今しがた自分を殺そうとした髭面(ひげづら)の武士はたまらなく恐ろしく、足が(すく)むばかりである。
 十歳のたまきにはもうどうすればいいか分からず、ひっくひっくと(むせ)びつつ、ただ絶望に気圧(けお)されるまま(きびす)を返した――その時。
 不気味な紋様をまとった黄褐色(おうかっしょく)の蛇が、行く手を(さえぎ)るように目の前を横切った。
 まむしだ。
 山猿のたまきにとって、蛇を掴むことすらどうってことないが、まむしだけは駄目だった。
 下の家に住んでいたおじさんは、まむしに噛まれて死んだ。紫色に腫れあがった足は本当、見ていて気の毒だった。その光景が脳裏に蘇り、やだ、無理、怖い。助けて、母さま。
「お前の父は、御屋形様(おやかたさま)の身代わりになって死んだんだ。それが良いことなのか悪いことなのか、私には分からん。だから見習えとは言わないけれど、せめて覚えておいてあげて」
 死んだ母の言葉が耳元でした。
 駆り立てられるようにたまきは、まむしの尻尾を掴んで男へと放り投げた。
「うわ、なんだこりゃ、蛇?」
 男は慌てて払いのけようとし、それがまずかった。
 まむしはこれを敵と認識し、冷静に武具の隙間を見極めると、怒りのまま手根へ噛みついた。
 恐慌をきたした男が、正体をなくす。
「たわけ、毒がまわる。安静に」
 つむぎが、乱れた着物のまま、刀を拾いあげた。そしてしばし(うずくま)った後、自らの(すそ)を割き、毒牙に穿(うが)たれた男の処置をしようとしていた。
「つむぎさま、そんなやつほっといて!」
 たまきがあらん限りに叫ぶも、つむぎは聞き流し、男の噛まれた方の(わき)を切れ端で縛る。
 お人よしにも程があると、痺れを切らしてつむぎの(そば)へ向かった瞬間――理解の拒む光景が目に入った。
 つむぎの右手に、まむしの胴だけが巻き付いていた。頭は、ない。
 蹲った時に捕らえ、刀で首を()っていたのだ。
 たまきは束の間、声を失った。
 つむぎは男への応急処置を終え、さすがにこれ以上の看病は、聖人ぶりが過ぎると自重した。
 念のため刀は確保しつつ、男から離れ、たまきのもとへ駆け寄る。
「たま、でかした。まむしの肉はおいしいんだ。あとで、みんなで食べよう」
 死んでも嫌だと思いながらたまきは、つむぎのぶれない不可思議さに心強さを得て、脱力するようにその体へ(すが)った。
 刹那(せつな)、背後で血しぶきがあがる。
「毒蛇の首を躊躇(ちゅうちょ)なく切り落とすとは。(つね)女子(おなご)にかような真似ができようか。やはり蛇神憑きの……ああ、ご無礼をお許しください」
 男は毒で苦しめられる前に、脇差(わきざし)で自ら命を絶った。
――あくしゅいずくにありぬべき、じょうどすなわちとおからず。※
 ちよぎが、目を伏して独りごつ。
 幸い、たまきはつむぎの胸に顔を埋めておんおん泣き喚いており、気づかなかったようだ。その慟哭(どうこく)は、感謝より、謝罪と懺悔(ざんげ)であった。三人を頼むと言われたのに、逃げ出した。
 しかしつむぎとて、託された四人の子供たちを守り抜くことだけが、生きるよすがだった。ぼろぼろの心の(ほころ)びを、それぞれの名で縫い止めているようなものだった。まして自分も、多くの愛しい人たちを見捨て、今ここにいる。どうして、目の前の少女を責められようか。
 つむぎは、たまきの頭を慈しむように撫でた。

 それから二人は寄り添いながら、奥の院へと向かった。
 鳥居の前には、三人の幼児が静かに待っていた。
 たまきは「ごめんね」と繰り返しながら、一人ずつ抱きしめる。
 拝殿の前庭(まえにわ)には、二人の武士が焚き火越しに向かい合う形で、泡を吹いて倒れていた。焚火の跡からはまだ煙が(くすぶ)っており、鍋代わりの陣笠には山菜の味噌汁が残っていた。香りは(かぐわ)しいが、ここで何があったか、想像するに難くない。
 ちよぎは瞑目し、手を合わせた。
 咎人(とがびと)(おぼ)しき(みを)は、小さな体を忙しなく動かしながら、巣作りするように荷をまとめ、出立の準備を急いでいる。
 つむぎも急ぎ旅装を整え、自ら編んだ草鞋(わらじ)を帯へ次々結わえていった。
 城を落ち延びる高貴な女性たちは、えてして裸足での行軍を強いられ、道は血の足跡で埋め尽くされたそうだ。
 その点、つむぎにぬかりはなかった。
 あなたたちのぶんもあると、澪にも草鞋を幾つか渡す。
 こんな絶望的な状況下、皆の足元を憂えて徹夜で編むその発想は、そもそもどこで技術を習得したのか、まるで馬鹿と紙一重だが、澪は、だからこそ運命を共にするつもりでいた。
「さ、ここは我々に任せ、お急ぎください」
「ありがとう。向こうの(ふもと)で落ち合おう」
 ちよぎはあやねを背負い、落ち着きを戻した()()()にはもえぎをおぶわせる。六歳のよなげは、男の子だからと、自分の足で歩くことを選んだ。一行は、東方に聳える大薩埵(だいさった)峠を目指し、山祇(やまつみ)(ほこら)から続く林道の先へ踏み出した。
 花開いた山桜が、西へ傾いた()に染まりながら、森の奥へと続いていた。

※白隠禅師「坐禅和讃」より抜粋。


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――いけない、つむぎさまを助けなきゃ。
 たまきは震える足へ懸命に力を込め、四つん這いの姿勢から身を起こす。
 男の暴行にむなしく|抗《あらが》う、つむぎの赤い目と視線がぶつかった。
「逃げろ」と強い瞳で命じていた。私が襲われている間に、ここから離れろと。
 たまきは直感で察したが、少女の|瑞々《みずみず》しい正義感から、そんなことは絶対に駄目だと思う。しかし、今しがた自分を殺そうとした|髭面《ひげづら》の武士はたまらなく恐ろしく、足が|竦《すく》むばかりである。
 十歳のたまきにはもうどうすればいいか分からず、ひっくひっくと|咽《むせ》びつつ、ただ絶望に|気圧《けお》されるまま|踵《きびす》を返した――その時。
 不気味な紋様をまとった|黄褐色《おうかっしょく》の蛇が、行く手を|遮《さえぎ》るように目の前を横切った。
 まむしだ。
 山猿のたまきにとって、蛇を掴むことすらどうってことないが、まむしだけは駄目だった。
 下の家に住んでいたおじさんは、まむしに噛まれて死んだ。紫色に腫れあがった足は本当、見ていて気の毒だった。その光景が脳裏に蘇り、やだ、無理、怖い。助けて、母さま。
「お前の父は、|御屋形様《おやかたさま》の身代わりになって死んだんだ。それが良いことなのか悪いことなのか、私には分からん。だから見習えとは言わないけれど、せめて覚えておいてあげて」
 死んだ母の言葉が耳元でした。
 駆り立てられるようにたまきは、まむしの尻尾を掴んで男へと放り投げた。
「うわ、なんだこりゃ、蛇?」
 男は慌てて払いのけようとし、それがまずかった。
 まむしはこれを敵と認識し、冷静に武具の隙間を見極めると、怒りのまま手根へ噛みついた。
 恐慌をきたした男が、正体をなくす。
「たわけ、毒がまわる。安静に」
 つむぎが、乱れた着物のまま、刀を拾いあげた。そしてしばし|蹲《うずくま》った後、自らの|裾《すそ》を割き、毒牙に|穿《うが》たれた男の処置をしようとしていた。
「つむぎさま、そんなやつほっといて!」
 たまきがあらん限りに叫ぶも、つむぎは聞き流し、男の噛まれた方の|腋《わき》を切れ端で縛る。
 お人よしにも程があると、痺れを切らしてつむぎの|傍《そば》へ向かった瞬間――理解の拒む光景が目に入った。
 つむぎの右手に、まむしの胴だけが巻き付いていた。頭は、ない。
 蹲った時に捕らえ、刀で首を|断《た》っていたのだ。
 たまきは束の間、声を失った。
 つむぎは男への応急処置を終え、さすがにこれ以上の看病は、聖人ぶりが過ぎると自重した。
 念のため刀は確保しつつ、男から離れ、たまきのもとへ駆け寄る。
「たま、でかした。まむしの肉はおいしいんだ。あとで、みんなで食べよう」
 死んでも嫌だと思いながらたまきは、つむぎのぶれない不可思議さに心強さを得て、脱力するようにその体へ|縋《すが》った。
 |刹那《せつな》、背後で血しぶきがあがる。
「毒蛇の首を|躊躇《ちゅうちょ》なく切り落とすとは。|常《つね》の|女子《おなご》にかような真似ができようか。やはり蛇神憑きの……ああ、ご無礼をお許しください」
 男は毒で苦しめられる前に、|脇差《わきざし》で自ら命を絶った。
――あくしゅいずくにありぬべき、じょうどすなわちとおからず。※
 ちよぎが、目を伏して独りごつ。
 幸い、たまきはつむぎの胸に顔を埋めておんおん泣き喚いており、気づかなかったようだ。その|慟哭《どうこく》は、感謝より、謝罪と|懺悔《ざんげ》であった。三人を頼むと言われたのに、逃げ出した。
 しかしつむぎとて、託された四人の子供たちを守り抜くことだけが、生きるよすがだった。ぼろぼろの心の|綻《ほころ》びを、それぞれの名で縫い止めているようなものだった。まして自分も、多くの愛しい人たちを見捨て、今ここにいる。どうして、目の前の少女を責められようか。
 つむぎは、たまきの頭を慈しむように撫でた。
 それから二人は寄り添いながら、奥の院へと向かった。
 鳥居の前には、三人の幼児が静かに待っていた。
 たまきは「ごめんね」と繰り返しながら、一人ずつ抱きしめる。
 拝殿の|前庭《まえにわ》には、二人の武士が焚き火越しに向かい合う形で、泡を吹いて倒れていた。焚火の跡からはまだ煙が|燻《くすぶ》っており、鍋代わりの陣笠には山菜の味噌汁が残っていた。香りは|芳《かぐわ》しいが、ここで何があったか、想像するに難くない。
 ちよぎは瞑目し、手を合わせた。
 |咎人《とがびと》と|思《おぼ》しき|澪《みを》は、小さな体を忙しなく動かしながら、巣作りするように荷をまとめ、出立の準備を急いでいる。
 つむぎも急ぎ旅装を整え、自ら編んだ|草鞋《わらじ》を帯へ次々結わえていった。
 城を落ち延びる高貴な女性たちは、えてして裸足での行軍を強いられ、道は血の足跡で埋め尽くされたそうだ。
 その点、つむぎにぬかりはなかった。
 あなたたちのぶんもあると、澪にも草鞋を幾つか渡す。
 こんな絶望的な状況下、皆の足元を憂えて徹夜で編むその発想は、そもそもどこで技術を習得したのか、まるで馬鹿と紙一重だが、澪は、だからこそ運命を共にするつもりでいた。
「さ、ここは我々に任せ、お急ぎください」
「ありがとう。向こうの|麓《ふもと》で落ち合おう」
 ちよぎはあやねを背負い、落ち着きを戻した|た《・》|ま《・》|き《・》にはもえぎをおぶわせる。六歳のよなげは、男の子だからと、自分の足で歩くことを選んだ。一行は、東方に聳える|大薩埵《だいさった》峠を目指し、|山祇《やまつみ》の|祠《ほこら》から続く林道の先へ踏み出した。
 花開いた山桜が、西へ傾いた|陽《ひ》に染まりながら、森の奥へと続いていた。
※白隠禅師「坐禅和讃」より抜粋。