――いけない、つむぎさまを助けなきゃ。
たまきは震える足へ懸命に力を込め、四つん這いの姿勢から身を起こす。
男の暴行にむなしく抗う、つむぎの赤い目と視線がぶつかった。
「逃げろ」と強い瞳で命じていた。私が襲われている間に、ここから離れろと。
たまきは直感で察したが、少女の瑞々しい正義感から、そんなことは絶対に駄目だと思う。しかし、今しがた自分を殺そうとした髭面の武士はたまらなく恐ろしく、足が竦むばかりである。
十歳のたまきにはもうどうすればいいか分からず、ひっくひっくと咽びつつ、ただ絶望に気圧されるまま踵を返した――その時。
不気味な紋様をまとった黄褐色の蛇が、行く手を遮るように目の前を横切った。
まむしだ。
山猿のたまきにとって、蛇を掴むことすらどうってことないが、まむしだけは駄目だった。
下の家に住んでいたおじさんは、まむしに噛まれて死んだ。紫色に腫れあがった足は本当、見ていて気の毒だった。その光景が脳裏に蘇り、やだ、無理、怖い。助けて、母さま。
「お前の父は、御屋形様の身代わりになって死んだんだ。それが良いことなのか悪いことなのか、私には分からん。だから見習えとは言わないけれど、せめて覚えておいてあげて」
死んだ母の言葉が耳元でした。
駆り立てられるようにたまきは、まむしの尻尾を掴んで男へと放り投げた。
「うわ、なんだこりゃ、蛇?」
男は慌てて払いのけようとし、それがまずかった。
まむしはこれを敵と認識し、冷静に武具の隙間を見極めると、怒りのまま手根へ噛みついた。
恐慌をきたした男が、正体をなくす。
「たわけ、毒がまわる。安静に」
つむぎが、乱れた着物のまま、刀を拾いあげた。そしてしばし蹲った後、自らの裾を割き、毒牙に穿たれた男の処置をしようとしていた。
「つむぎさま、そんなやつほっといて!」
たまきがあらん限りに叫ぶも、つむぎは聞き流し、男の噛まれた方の腋を切れ端で縛る。
お人よしにも程があると、痺れを切らしてつむぎの傍へ向かった瞬間――理解の拒む光景が目に入った。
つむぎの右手に、まむしの胴だけが巻き付いていた。頭は、ない。
蹲った時に捕らえ、刀で首を断っていたのだ。
たまきは束の間、声を失った。
つむぎは男への応急処置を終え、さすがにこれ以上の看病は、聖人ぶりが過ぎると自重した。
念のため刀は確保しつつ、男から離れ、たまきのもとへ駆け寄る。
「たま、でかした。まむしの肉はおいしいんだ。あとで、みんなで食べよう」
死んでも嫌だと思いながらたまきは、つむぎのぶれない不可思議さに心強さを得て、脱力するようにその体へ縋った。
刹那、背後で血しぶきがあがる。
「毒蛇の首を躊躇なく切り落とすとは。常の女子にかような真似ができようか。やはり蛇神憑きの……ああ、ご無礼をお許しください」
男は毒で苦しめられる前に、脇差で自ら命を絶った。
――あくしゅいずくにありぬべき、じょうどすなわちとおからず。※
ちよぎが、目を伏して独りごつ。
幸い、たまきはつむぎの胸に顔を埋めておんおん泣き喚いており、気づかなかったようだ。その慟哭は、感謝より、謝罪と懺悔であった。三人を頼むと言われたのに、逃げ出した。
しかしつむぎとて、託された四人の子供たちを守り抜くことだけが、生きるよすがだった。ぼろぼろの心の綻びを、それぞれの名で縫い止めているようなものだった。まして自分も、多くの愛しい人たちを見捨て、今ここにいる。どうして、目の前の少女を責められようか。
つむぎは、たまきの頭を慈しむように撫でた。
それから二人は寄り添いながら、奥の院へと向かった。
鳥居の前には、三人の幼児が静かに待っていた。
たまきは「ごめんね」と繰り返しながら、一人ずつ抱きしめる。
拝殿の前庭には、二人の武士が焚き火越しに向かい合う形で、泡を吹いて倒れていた。焚火の跡からはまだ煙が燻っており、鍋代わりの陣笠には山菜の味噌汁が残っていた。香りは芳しいが、ここで何があったか、想像するに難くない。
ちよぎは瞑目し、手を合わせた。
咎人と思しき澪は、小さな体を忙しなく動かしながら、巣作りするように荷をまとめ、出立の準備を急いでいる。
つむぎも急ぎ旅装を整え、自ら編んだ草鞋を帯へ次々結わえていった。
城を落ち延びる高貴な女性たちは、えてして裸足での行軍を強いられ、道は血の足跡で埋め尽くされたそうだ。
その点、つむぎにぬかりはなかった。
あなたたちのぶんもあると、澪にも草鞋を幾つか渡す。
こんな絶望的な状況下、皆の足元を憂えて徹夜で編むその発想は、そもそもどこで技術を習得したのか、まるで馬鹿と紙一重だが、澪は、だからこそ運命を共にするつもりでいた。
「さ、ここは我々に任せ、お急ぎください」
「ありがとう。向こうの麓で落ち合おう」
ちよぎはあやねを背負い、落ち着きを戻したたまきにはもえぎをおぶわせる。六歳のよなげは、男の子だからと、自分の足で歩くことを選んだ。一行は、東方に聳える大薩埵峠を目指し、山祇の祠から続く林道の先へ踏み出した。
花開いた山桜が、西へ傾いた陽に染まりながら、森の奥へと続いていた。
※白隠禅師「坐禅和讃」より抜粋。