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細波を眺める一等室

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「いやあ、すみませんね。どうやら『丁重にご案内しろ』の意味を取り違えたようで」  酒で焼いたような声の厳つい男はそう言ってがらがらと笑った。ダミアンよりも少なくとも十年以上は人生を経験しているような風体の男で、四角い顔は肉厚ながらシワも刻まれている。羽振りの良さに伴う恰幅の良さ、というよりは生来の大柄な体躯に見合った運動経験を感じさせる迫力のようなものがあった。  ダミアンを案内した男はそこに立っていて、やや俯いて目を閉じ、固く口を結んでいる。本当はこのダミ声の男に合わせて笑うべきだったのかもしれないが、ダミアンはとてもそんな気になれなかった。  ここは港町ならではの海の様子を眺望できるカジュアルバーである。まだ昼間であるため今の営業スタイルはカフェダイニングとなっている。店舗オーナーはダミ声の男の顔を見るなり、店内の最奥にある一等室に通した。  ガラスの存在を忘れてしまうほどの、見事なオーシャンビュー。穏やかな波間に日の光が輝いており、水平線と空の境界線すら美しいと思えるものだった。聞くところによるとこの港町ベルティナは湾に面しているため、海との付き合いを安定して続けられるのだそうだ。 「改めてご挨拶をさせてください。私はヒバルと申します。よろしく」 「ラムラスです。こちらこそ」  ヒバルに握手を求められ、ダミアンも手を差し出した。ヒバルの手は随分と無骨で分厚く、堅かった。そして手の甲には裂傷の跡。  ヒバルは不動産屋のはずだが、と思いながらもまずはファーストコンタクトとしての握手を終える。そのタイミングを図ったようにオーナーがワゴンを押してやってきた。ヒバルとダミアンに水が出され、そしてサンドイッチの軽食がダミアンの前に置かれる。  ダミアンの頭の中には疑問時ばかりだが、ヒバルは笑みを浮かべてどっしりと構えている。 「ここに来て何も食べていないでしょう。私が話すばかりになるので、食べながら聞いてください。お代は結構です。すでに払って頂いていますので」 「払って頂いている?」 「ええ。それもお話ししますよ」  リョースケ・ヒバル。それが彼のフルネームだ。彼はこの小さな港町で不動産業を営んでおり、強い発言力のある有力者の一人だ。名前の特徴から、ダミアンとは異なるルーツを持っていることが窺える。  そしてベルティナに到着したダミアンを案内した男はヒバルの有能な部下であるシドー。有能であるが故に、外からきたダミアンを警戒していたようだ。悪気があったわけではない。 「お話を頂いた時は、驚きで我が目と耳を疑いましたよ。まさかこんな片田舎に文豪ダミアン・ラムラスが引っ越してこようとはね」 「そんな大したものでは……」  謙遜して言っているのではなく、ダミアンの本心だった。困ったような怒ったような眉を作り、視線は部屋の片隅の方に逃げていった。シドーはそれをつまらなそうに睨み、ヒバルは何も言わず水を口に運び、続けた。 「ラムラスさんは、サンダースさんからどのくらい話を聞いていますか?」  サンダースの名前を聞いた途端、ラムラスの表情は明らかに嫌悪感と恐怖をあらわにした。ただでさえ怯えた眼差しをしたダミアンの様子が変わったことに、ヒバルが気づかないはずもなかった。  シドーの目線がヒバルに向けられる。 「俺は外にいますので」 「ああ、好きなもの飲んで待っててくれ。運転してもらうからアルコール以外でな」  シドーはひらりと手を振って応え、静かにこの一室を出ると音もなく戸を閉めた。  聞こえるはずのない、海のさざなみを聞いた気がした。静寂が満ちている。



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細波を眺める一等室

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「いやあ、すみませんね。どうやら『丁重にご案内しろ』の意味を取り違えたようで」  酒で焼いたような声の厳つい男はそう言ってがらがらと笑った。ダミアンよりも少なくとも十年以上は人生を経験しているような風体の男で、四角い顔は肉厚ながらシワも刻まれている。羽振りの良さに伴う恰幅の良さ、というよりは生来の大柄な体躯に見合った運動経験を感じさせる迫力のようなものがあった。  ダミアンを案内した男はそこに立っていて、やや俯いて目を閉じ、固く口を結んでいる。本当はこのダミ声の男に合わせて笑うべきだったのかもしれないが、ダミアンはとてもそんな気になれなかった。  ここは港町ならではの海の様子を眺望できるカジュアルバーである。まだ昼間であるため今の営業スタイルはカフェダイニングとなっている。店舗オーナーはダミ声の男の顔を見るなり、店内の最奥にある一等室に通した。  ガラスの存在を忘れてしまうほどの、見事なオーシャンビュー。穏やかな波間に日の光が輝いており、水平線と空の境界線すら美しいと思えるものだった。聞くところによるとこの港町ベルティナは湾に面しているため、海との付き合いを安定して続けられるのだそうだ。 「改めてご挨拶をさせてください。私はヒバルと申します。よろしく」 「ラムラスです。こちらこそ」  ヒバルに握手を求められ、ダミアンも手を差し出した。ヒバルの手は随分と無骨で分厚く、堅かった。そして手の甲には裂傷の跡。  ヒバルは不動産屋のはずだが、と思いながらもまずはファーストコンタクトとしての握手を終える。そのタイミングを図ったようにオーナーがワゴンを押してやってきた。ヒバルとダミアンに水が出され、そしてサンドイッチの軽食がダミアンの前に置かれる。  ダミアンの頭の中には疑問時ばかりだが、ヒバルは笑みを浮かべてどっしりと構えている。 「ここに来て何も食べていないでしょう。私が話すばかりになるので、食べながら聞いてください。お代は結構です。すでに払って頂いていますので」 「払って頂いている?」 「ええ。それもお話ししますよ」  リョースケ・ヒバル。それが彼のフルネームだ。彼はこの小さな港町で不動産業を営んでおり、強い発言力のある有力者の一人だ。名前の特徴から、ダミアンとは異なるルーツを持っていることが窺える。  そしてベルティナに到着したダミアンを案内した男はヒバルの有能な部下であるシドー。有能であるが故に、外からきたダミアンを警戒していたようだ。悪気があったわけではない。 「お話を頂いた時は、驚きで我が目と耳を疑いましたよ。まさかこんな片田舎に文豪ダミアン・ラムラスが引っ越してこようとはね」 「そんな大したものでは……」  謙遜して言っているのではなく、ダミアンの本心だった。困ったような怒ったような眉を作り、視線は部屋の片隅の方に逃げていった。シドーはそれをつまらなそうに睨み、ヒバルは何も言わず水を口に運び、続けた。 「ラムラスさんは、サンダースさんからどのくらい話を聞いていますか?」  サンダースの名前を聞いた途端、ラムラスの表情は明らかに嫌悪感と恐怖をあらわにした。ただでさえ怯えた眼差しをしたダミアンの様子が変わったことに、ヒバルが気づかないはずもなかった。  シドーの目線がヒバルに向けられる。 「俺は外にいますので」 「ああ、好きなもの飲んで待っててくれ。運転してもらうからアルコール以外でな」  シドーはひらりと手を振って応え、静かにこの一室を出ると音もなく戸を閉めた。  聞こえるはずのない、海のさざなみを聞いた気がした。静寂が満ちている。



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