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春の晴れた朝

9/40





 静かな海に面した小さな港町に船が入った。七日にも及ぶ長い旅を無事に終えたこの船には、様々な目的を持った人々と貨物が海上の旅を共にした。  港町の名称はベルティナという。片田舎だが、都会から流行りの過ぎ去ったものが運ばれるため、この地域ではそれなりの繁盛を見せている。  ダミアンという青年もまた、都会からベルティナにやってきた者であり物の一つであった。穏やかな潮風を受ける背丈はそこそこあるものの、海で働く男たちに比べたら枯れ枝のように頼りない様相をしている。  目立たず地味ではあるが周囲の者たちと比べても明らかに身なりが整っており、手入れを重ねて使い古したブラウンの旅行鞄と、それに似た色をした革靴を履いていた。彼のお気に入りの帽子が風でふわりと浮いた。それを彼の骨ばった長い指が押さえつける。帽子から覗くダークブラウンの短い頭髪だけが風の流れに応じて揺らいだ。  ダミアン・ラムラス。この時代になっても小説を楽しむ者なら、読んだことはなくともその名前を見たことや聞いたことはあるだろう。彼は活動拠点だった大都会を離れ、港町ベルティナの地に流れ着いたのだ。  彼はやや湿っぽく柔らかくなった地図を広げ、持ちやすく畳んで睨みつけた。次に目印になる何かを探しながら、きょろきょろと辺りを見回しながら歩き出す。やがて彼も港町の喧騒に紛れていく。  船がやってきたことで辺りには活気が満ちている。彼ら、彼女らの忙しさの邪魔をすることは許されない。たとえ旅行者であっても無作法者には容赦ない怒鳴り声と罵声が向けられる。そこにチップを差し出しても受け取る者などいない。この喧騒の中ではダミアンも背景の大衆の一人である。つきりとした孤独を感じながら目的地に急いだ。  携帯デバイスを持つ者は多くない。町の人々の生活はアナログなやり取りをしている。これ見よがしに電子機器を使わないほうが良さそうだ。地図なんて広げたのもほとんど初めてだ。手帳とペンには慣れているが、電子化の行き届かない片田舎に降り立ったという緊張感が新たにダミアンの心中に現れ始めた。  目指す目的地は船着場から少し離れたところにある。バスや馬車が客を乗せるべく待機しているロータリーである。とはいえ、都会的なものではなく、バスも十人程度を乗せるような小型のものだし、人を乗せる馬車は極端に少ない。潮風と車両、重たい貨物に虐められたタイルが敷き詰められた路上は走りにくそうだ。  ダミアンはそんなロータリーに足を踏み入れ、今度は手帳を内ポケットから取り出した。そのときだった。 「おい」  声をかけられた気がしたのでそちらに振り返る。そこには鋭い眼光を見せる男が立っていた。  ダミアンよりも肩の位置は低いが逞しい体つきらしいことは、前を広げたジャケットから覗くシャツの様子から伺える。年齢はそう離れてはいないように思われるが、その目つきは友好的なものではない。肌色はやや褐色、黒い頭髪と同じ色をした双眸に親しみや協調性を覚えるような輝きは見られなかった。 「ダミアンだな」  見た目通りに威圧的な低い声が名前を言い当てた。ダミアンは悪いことをした覚えはないものの、知らぬ土地で失礼を働いたのかもしれないと考えた。慌てて帽子を外して頭を下げる。 「はい、私は……」 「ついてこい」  男性は言葉少なにそう言い、細い路地に入った。拒否権はなさそうだ。ダミアンは鞄を持ち直し、緊張で身を固くしながら男の後ろについて歩いた。



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 静かな海に面した小さな港町に船が入った。七日にも及ぶ長い旅を無事に終えたこの船には、様々な目的を持った人々と貨物が海上の旅を共にした。  港町の名称はベルティナという。片田舎だが、都会から流行りの過ぎ去ったものが運ばれるため、この地域ではそれなりの繁盛を見せている。  ダミアンという青年もまた、都会からベルティナにやってきた者であり物の一つであった。穏やかな潮風を受ける背丈はそこそこあるものの、海で働く男たちに比べたら枯れ枝のように頼りない様相をしている。  目立たず地味ではあるが周囲の者たちと比べても明らかに身なりが整っており、手入れを重ねて使い古したブラウンの旅行鞄と、それに似た色をした革靴を履いていた。彼のお気に入りの帽子が風でふわりと浮いた。それを彼の骨ばった長い指が押さえつける。帽子から覗くダークブラウンの短い頭髪だけが風の流れに応じて揺らいだ。  ダミアン・ラムラス。この時代になっても小説を楽しむ者なら、読んだことはなくともその名前を見たことや聞いたことはあるだろう。彼は活動拠点だった大都会を離れ、港町ベルティナの地に流れ着いたのだ。  彼はやや湿っぽく柔らかくなった地図を広げ、持ちやすく畳んで睨みつけた。次に目印になる何かを探しながら、きょろきょろと辺りを見回しながら歩き出す。やがて彼も港町の喧騒に紛れていく。  船がやってきたことで辺りには活気が満ちている。彼ら、彼女らの忙しさの邪魔をすることは許されない。たとえ旅行者であっても無作法者には容赦ない怒鳴り声と罵声が向けられる。そこにチップを差し出しても受け取る者などいない。この喧騒の中ではダミアンも背景の大衆の一人である。つきりとした孤独を感じながら目的地に急いだ。  携帯デバイスを持つ者は多くない。町の人々の生活はアナログなやり取りをしている。これ見よがしに電子機器を使わないほうが良さそうだ。地図なんて広げたのもほとんど初めてだ。手帳とペンには慣れているが、電子化の行き届かない片田舎に降り立ったという緊張感が新たにダミアンの心中に現れ始めた。  目指す目的地は船着場から少し離れたところにある。バスや馬車が客を乗せるべく待機しているロータリーである。とはいえ、都会的なものではなく、バスも十人程度を乗せるような小型のものだし、人を乗せる馬車は極端に少ない。潮風と車両、重たい貨物に虐められたタイルが敷き詰められた路上は走りにくそうだ。  ダミアンはそんなロータリーに足を踏み入れ、今度は手帳を内ポケットから取り出した。そのときだった。 「おい」  声をかけられた気がしたのでそちらに振り返る。そこには鋭い眼光を見せる男が立っていた。  ダミアンよりも肩の位置は低いが逞しい体つきらしいことは、前を広げたジャケットから覗くシャツの様子から伺える。年齢はそう離れてはいないように思われるが、その目つきは友好的なものではない。肌色はやや褐色、黒い頭髪と同じ色をした双眸に親しみや協調性を覚えるような輝きは見られなかった。 「ダミアンだな」  見た目通りに威圧的な低い声が名前を言い当てた。ダミアンは悪いことをした覚えはないものの、知らぬ土地で失礼を働いたのかもしれないと考えた。慌てて帽子を外して頭を下げる。 「はい、私は……」 「ついてこい」  男性は言葉少なにそう言い、細い路地に入った。拒否権はなさそうだ。ダミアンは鞄を持ち直し、緊張で身を固くしながら男の後ろについて歩いた。



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