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田舎へ移住するということ

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 エミリア・サンダースといえば、流行作家ダミアン・ラムラスを担当した編集者である。彼女の名前は有名人になるようなものではない。しかし、あるスキャンダルが彼女を時の人にした。 「ラムラス氏とは和解交渉していますので」  美しい彼女の唇は、ダミアンによって暴力的に奪われた。たくさんのカメラの前で彼女はそう言って悲しげに泣いた。人前に立つのだからと気丈に振る舞う姿に誰もが心を打たれ、ダミアンを糾弾した。人々の手に渡るあらゆるジャーナルがその進捗を我先にと書き広めていったが、真実など一切なかった。  ダミアンは動けなくなった。まるで生きたまま脳を引き裂かれるようなあの記憶が、ダミアンに呼吸すら忘れさせる。瞬きも。そこだけ時間が止まったかのような錯覚を見る者に与える。もしこれが演技であるなら、ダミアンはある種のアクターとしても活躍できたかもしれない。  残念ながらそんな器用さを備えてはいない。あるならもう少しマシな生き方をしていただろう。 「彼女が出てくる話はよしましょうか」  ヒバルはそう言って言葉を続けた。 「この後、ラムラスさんのお住まいになる洋上賃貸にご案内します。万が一の備えはありますが、大都会のような設備などないのでご容赦ください」  洋上賃貸とは、文字通り海の上に作られた賃貸物件である。その部屋を指定したのもサンダースであり、ダミアンは万が一の備えどころか間取りすら知らない。 「ベルティナには、防衛のための戦闘集団も常駐はしていません。……広域巡回はしていますがね。他の村や町での対応に追われていることが多くて。  なので、ベルティナでは住民が警戒と報告義務を持っています。洋上賃貸の場合は、海での監視をお願いしています」 「海の監視……ですか」  現実の話をするにつれ、ダミアンも過去の忌まわしさから現実に戻りつつある。サンドイッチを一口、二口。考え事をするようにして咀嚼して飲み込んだのちにヒバルに視線を向けた。 「そういえば船上でも何かを気にしているようでしたが」 「もしかして海に何か呼びかけていた客ってのは、ラムラスさんですか?」  む、とダミアンは口を曲げた。 「なぜ?」 「船には私の部下も乗っていたんですよ。船の中で話題になっていたそうですね」  しかもそれがダミアン・ラムラスだ。旧時代の若者たちの青春やその時代を生き抜こうとするあらゆる世代の不器用な恋やミステリを執筆する小説家のスキャンダルはまだ人々の間で語り草になっている。  ダミアンは眉を再びしかめて目を伏せた。 「海に誰か沈んでいるように見えたんですよ。確かに、呼びかけるなんて意味のないことをしてしまったとは思いますが」 「この海域は警戒しているんです。だからすぐさま、あなたを引き戻すことになった」  それを知らなかったのはダミアンだけではなかったが、少なくとも船に乗っていたすべての人が緊張感を持って過ごすことになったのは間違いない。あの海域で軽率なことをしないようにするというのは暗黙の了解となっていたのだ。あまりにも当たり前すぎて誰も言わないだけだった。  海域を警戒する理由は次の二つである。  一つは海賊の出没だ。夜は照明を落として存在感を最小限にとどめる。海賊の取り締まりを継続できるほどのリソースはなかなか確保できていない。  二つめ。これが特に奇怪な話となる。 「あの海域には怪獣が潜んでいる」 「それはおかしい」  ダミアンは即座に否定した。 「現在確認されている怪獣に水棲生物の特徴を持つものはいないでしょう。池や川などでの目撃確認もありません」 「いないことを証明することは難しいことです。ですが、いることを証明することも難しい。私は断言を避けた方がいいと思いますがね」  哺乳類にも水中で暮らす生物がいるように、怪獣とて必ずしも地上でなければならない理由はない。  そう。怪獣である。  怪しい獣。文字通りの存在だ。その生態の多くは未だに謎に包まれているが、日常的に人類は安全を脅かされている。  現在確認されているのは跳躍、滑空、飛行のできるタイプと、四足歩行の高い機動性を持つタイプの二種類。いずれも小型のものは群れで活動し、成長するにつれて群れの個体数が少なくなる。やがて単体で活動できるほどに成長し、極めて攻撃性の高い巨大で脅威的な存在となる。町を捨てる選択を強いられることも珍しいことではない。  記録によると最大で直立二十メートルに及ぶ超大型怪獣だが、なんとか兵器を用いた撃退に成功している。  ただし、それを上回る大きさの怪獣の存在が確認されている。そのうえ狡猾さを備えているらしく簡単には出現しない。目撃報告と存在確認がなされた地域は、人間が安全に暮らせる土地ではないと判断され移住を余儀なくされている。 「関連性があるのかは分かりません。港町ベルティナが海賊に襲われないのは湾に面しているからだけでなく、怪獣の存在があるからではないかと言われてるんですよ」 「そんなバカなことが……私が見たのがそれだというのですか」  船での体験で、ダミアンはよほど不快な体験をしたようだ。先ほどまでは怯えた草食動物のような態度だったのが、今では苛立ちを隠さない神経質な都会人のものになっている。  ヒバルの笑みは意地の悪いものになっていた。 「姿がわからないので、本当のところは分かりません。確認のしようもありません。いたとして、海をどうやって探せばいいやら。そうしている間に、地上側から怪獣が来ているかもしれないのに」  ダミアンの目の前にある皿にはまだサンドイッチが残っている。飲食ができるありがたみは、都会と田舎とではその質が違う。だが今のダミアンにそれを受け入れる寛容さはなかった。  理不尽になど、もう真っ平ごめんだったからだ。 「恐ろしいのは怪獣だけではありません。この町で暮らすということは、守ることと同義です。嫌なら断っていただいても構いません」  サンドイッチはやや乾燥し始めていた。



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 エミリア・サンダースといえば、流行作家ダミアン・ラムラスを担当した編集者である。彼女の名前は有名人になるようなものではない。しかし、あるスキャンダルが彼女を時の人にした。 「ラムラス氏とは和解交渉していますので」  美しい彼女の唇は、ダミアンによって暴力的に奪われた。たくさんのカメラの前で彼女はそう言って悲しげに泣いた。人前に立つのだからと気丈に振る舞う姿に誰もが心を打たれ、ダミアンを糾弾した。人々の手に渡るあらゆるジャーナルがその進捗を我先にと書き広めていったが、真実など一切なかった。  ダミアンは動けなくなった。まるで生きたまま脳を引き裂かれるようなあの記憶が、ダミアンに呼吸すら忘れさせる。瞬きも。そこだけ時間が止まったかのような錯覚を見る者に与える。もしこれが演技であるなら、ダミアンはある種のアクターとしても活躍できたかもしれない。  残念ながらそんな器用さを備えてはいない。あるならもう少しマシな生き方をしていただろう。 「彼女が出てくる話はよしましょうか」  ヒバルはそう言って言葉を続けた。 「この後、ラムラスさんのお住まいになる洋上賃貸にご案内します。万が一の備えはありますが、大都会のような設備などないのでご容赦ください」  洋上賃貸とは、文字通り海の上に作られた賃貸物件である。その部屋を指定したのもサンダースであり、ダミアンは万が一の備えどころか間取りすら知らない。 「ベルティナには、防衛のための戦闘集団も常駐はしていません。……広域巡回はしていますがね。他の村や町での対応に追われていることが多くて。  なので、ベルティナでは住民が警戒と報告義務を持っています。洋上賃貸の場合は、海での監視をお願いしています」 「海の監視……ですか」  現実の話をするにつれ、ダミアンも過去の忌まわしさから現実に戻りつつある。サンドイッチを一口、二口。考え事をするようにして咀嚼して飲み込んだのちにヒバルに視線を向けた。 「そういえば船上でも何かを気にしているようでしたが」 「もしかして海に何か呼びかけていた客ってのは、ラムラスさんですか?」  む、とダミアンは口を曲げた。 「なぜ?」 「船には私の部下も乗っていたんですよ。船の中で話題になっていたそうですね」  しかもそれがダミアン・ラムラスだ。旧時代の若者たちの青春やその時代を生き抜こうとするあらゆる世代の不器用な恋やミステリを執筆する小説家のスキャンダルはまだ人々の間で語り草になっている。  ダミアンは眉を再びしかめて目を伏せた。 「海に誰か沈んでいるように見えたんですよ。確かに、呼びかけるなんて意味のないことをしてしまったとは思いますが」 「この海域は警戒しているんです。だからすぐさま、あなたを引き戻すことになった」  それを知らなかったのはダミアンだけではなかったが、少なくとも船に乗っていたすべての人が緊張感を持って過ごすことになったのは間違いない。あの海域で軽率なことをしないようにするというのは暗黙の了解となっていたのだ。あまりにも当たり前すぎて誰も言わないだけだった。  海域を警戒する理由は次の二つである。  一つは海賊の出没だ。夜は照明を落として存在感を最小限にとどめる。海賊の取り締まりを継続できるほどのリソースはなかなか確保できていない。  二つめ。これが特に奇怪な話となる。 「あの海域には怪獣が潜んでいる」 「それはおかしい」  ダミアンは即座に否定した。 「現在確認されている怪獣に水棲生物の特徴を持つものはいないでしょう。池や川などでの目撃確認もありません」 「いないことを証明することは難しいことです。ですが、いることを証明することも難しい。私は断言を避けた方がいいと思いますがね」  哺乳類にも水中で暮らす生物がいるように、怪獣とて必ずしも地上でなければならない理由はない。  そう。怪獣である。  怪しい獣。文字通りの存在だ。その生態の多くは未だに謎に包まれているが、日常的に人類は安全を脅かされている。  現在確認されているのは跳躍、滑空、飛行のできるタイプと、四足歩行の高い機動性を持つタイプの二種類。いずれも小型のものは群れで活動し、成長するにつれて群れの個体数が少なくなる。やがて単体で活動できるほどに成長し、極めて攻撃性の高い巨大で脅威的な存在となる。町を捨てる選択を強いられることも珍しいことではない。  記録によると最大で直立二十メートルに及ぶ超大型怪獣だが、なんとか兵器を用いた撃退に成功している。  ただし、それを上回る大きさの怪獣の存在が確認されている。そのうえ狡猾さを備えているらしく簡単には出現しない。目撃報告と存在確認がなされた地域は、人間が安全に暮らせる土地ではないと判断され移住を余儀なくされている。 「関連性があるのかは分かりません。港町ベルティナが海賊に襲われないのは湾に面しているからだけでなく、怪獣の存在があるからではないかと言われてるんですよ」 「そんなバカなことが……私が見たのがそれだというのですか」  船での体験で、ダミアンはよほど不快な体験をしたようだ。先ほどまでは怯えた草食動物のような態度だったのが、今では苛立ちを隠さない神経質な都会人のものになっている。  ヒバルの笑みは意地の悪いものになっていた。 「姿がわからないので、本当のところは分かりません。確認のしようもありません。いたとして、海をどうやって探せばいいやら。そうしている間に、地上側から怪獣が来ているかもしれないのに」  ダミアンの目の前にある皿にはまだサンドイッチが残っている。飲食ができるありがたみは、都会と田舎とではその質が違う。だが今のダミアンにそれを受け入れる寛容さはなかった。  理不尽になど、もう真っ平ごめんだったからだ。 「恐ろしいのは怪獣だけではありません。この町で暮らすということは、守ることと同義です。嫌なら断っていただいても構いません」  サンドイッチはやや乾燥し始めていた。



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