『それ』にとって初めての出来事が起こった。声をかけられたのだ。
何かしら攻撃的らしい声を向けられたことはあるが、こちらの存在を見つけて呼びかける者などいなかった。『それ』はまだ「気遣い」がなんなのかを知らないが、温もりのある友好的な声色に思わず反応してしまったのだった。
『それ』にとってその声は深海に差し込む網目の光よりも輝かしいものだった。静寂が好きだと思っていたはずなのに、すぐにその呼びかけに応えたくなった。
だが声の主は何者かに呼び止められ、直ちにどこかへ連れて行かれてしまった。
呼びかけはそれきり二度と来なかった。慌てたところでもう遅い。『それ』はその後ろ姿を静かに見守ることしかできなかった。日を跨いでも呼びかけては来なかったが、『それ』は見守り続けた。
変わり映えのしない日々の終わりを感じた。停滞していた時間が動き出した。
初めての好奇心だった。『それ』は声の主が辿り着いたであろう土地まで見守ると、静かに海中に沈んだ。
どうすれば声の主に近づくことができるだろうか。深い深い海の中、故郷にも似た重たい静寂のさらに深いところまで沈み込む。