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記憶のない私

ー/ー



 目を開けたとき、真っ白な天井がまぶしかった。

「わかりますか? お名前」

 横から声がして、視線を向けると看護師がいた。マスク越しの目が、心配そうに細められている。

「……名、前……?」

 舌が上手く回らない。しばらくして、枕元の棚から看護師が財布を取り出した。

「身分証が入っていました。高橋結衣(たかはしゆい)さん。覚えていなくても大丈夫ですよ。交通事故に遭われたんです。頭を強く打って、しばらく意識が……」

 高橋結衣。口の中でそっと転がしてみる。自分のものらしい音だ。けれど、その名前を名乗って笑う自分の顔は、どこまで思い出そうとしても霧の向こうにあった。

 
 数日後、退院の許可が出た。


 看護師に渡されたのは、鍵と財布とスマホ。それから、アパートの住所が書かれたメモ。タクシーの窓から流れる街は、どこまでも「知っているようで知らない街」だった。懐かしさと他人行儀が、胸の中で薄く混ざっている。


 四階建ての古いアパート。金属の階段を上がり、メモと同じ番号の前で立ち止まる。鍵は、すんなりと回った。

 ワンルームの部屋は整っていた。ベッド、テーブル、本棚。女の一人暮らしにしては少し殺風景だけど、散らかってはいない。

「……ただいま」

 試しに言ってみても、返事はない。まあ、当然だ。

 靴を脱いで部屋に入ろうとして、ふとポストの口が目に入った。内側から見ると、そこから白い封筒の端がのぞいている。

 引き抜くと、宛名も差出人も書かれていない、真っ白な封筒だった。消印だけが、事故の日より前の日付を示している。

 胸の奥がざわつく。

 封を切ると、細いペンで丁寧に書かれた文字が現れた。


『結衣へ。君がこの手紙を読んでいるなら、ちゃんと家に帰り着けたってことだね。まずはそれだけで、ほっとしている。』


 知らないはずの文字なのに、見つめていると不思議なくらい落ち着いた。すぐに続きが目に飛び込んでくる。


『君には家族がいない。僕もいない。だから、二人の時間だけが、世界の全部だった。覚えていなくても、心が覚えてる。また、あの場所で会おう。』


 あの場所、どこだろう。

 読み進めると、そこには、小さなエピソードがいくつも綴られていた。雨の日に一緒にコンビニで肉まんを買ったこと。古い映画を借りてきて、ソファで眠ってしまったこと。知らないはずなのに、断片が胸の奥を掻き回す。

 目の奥が熱くなった。

「……私、誰かを、本当に好きだったんだ」

 その人からの手紙が、こうして届いている。

 私には家族がいない。事故で記憶を失った。けれど、それでも、私には「手紙の彼」がいる。

 そう思った瞬間、部屋の孤独が、ほんの少しだけ和らいだ。


 手紙は、それから毎日届いた。

 一通ごとに、思い出が増えていくようだった。手紙の中で彼は、いつも「僕」と名乗る。名前は書かない。代わりに、私と過ごした時間の温度だけが、丁寧に、丁寧に綴られていた。

『君が笑うと、間の悪い夕立だって祝福してくれているみたいだった』

『君が眠れない夜には、僕も眠らないと決めた。だから、君が眠れている今、僕はちゃんと眠れているのかな』

 読んでいると、胸の奥がきゅうっと締めつけられる。

 誰なのか、会いたい。どうして名前を書かないのか。どうして電話番号も書いていないのか。

 私は警察署に行って、事情を説明した。

「私、記憶をなくしているんです。事故で。だけど、家には手紙を書いてくれていた人がいて」

 若い刑事が、封筒を光に透かして見ながら言った。

「差出人不明の手紙自体は犯罪じゃないけど……消印の局はうちの管内ですね。ここ、ちょっと前に行方不明届が出てるんですよ。男性、三十代。高橋さんと同じ名字で」
「同じ……?」

 胸が跳ねた。刑事は慌てて言い直す。

「あ、いや、偶然かもしれません。ただ、届け出を出したのは、職場の同僚って書いてあります。ご家族がいないんで」

 家族がいない。彼の手紙の言葉と同じだった。


 後日、その同僚だという男に会わせてもらった。刑事さんが連絡してくれた。

 スーツ姿の、気の優しそうな人だった。私を見るなり、目を丸くして……。


「……高橋さん。やっぱり、君が結衣ちゃんだったんだ」
「私の、こと……知っているんですか?」
「いや、君の話は、アイツからよく聞かされてた。『世界一可愛いストーカーがいる』って」
「ストーカー?」
「あっ、いや、多分違うと思うよ。君のことを可愛いって言ってたし、自分にゾッコンで困るってことだと思う」


 冗談まじりのその言葉が、耳の奥で鈍く反響する。

 ストーカー。

 私は笑うべきか迷って、引きつった笑みを浮かべた。

「彼は、どこにいるんですか……?」

 男は目を伏せた。

「半年くらい前かな。急に会社に来なくなって。携帯も繋がらないんだよ。警察にも相談したんだけど……君の方が知っているんじゃないか?」
「ごめんなさい。私も交通事故に遭って、記憶を失っていて、だけど、彼からの手紙をもらって会いたいって思ったんです」

 刑事が言葉を継いだ。

「最後に確認できた足取りが、郊外の別荘地なんです。ご友人と、一緒に行くって言ってたそうで」
「……なるほど、それが誰かのかってことか、あいつが行くと言っていた別荘地ならわかるので、ご案内できますよ。行ってみますか?」
 
 彼の友人、そして、ここまで付き合ってくれた刑事の申し出に、私は勢いよく頷いていた。

 会わなきゃ。彼に。私のことを、こんなに想ってくれる人に。


 車は街を離れ、やがて山道へと入っていった。

 フロントガラスに緑が近づくたび、胸の奥がざわつく。木々の影、湿った土の匂い、遠くで鳥が鳴く声。その一つひとつが、どこかで嗅いだことのあるもののように思えた。

「ここから先は、ちょっと道が悪いんで」

 刑事が車を停めた。三人で降りる。足元の土が、ひどく柔らかい。

 男が息を切らしながら笑った。

「いやぁ、まさか……ほんとに来る日が来るとはな。アイツ、結衣ちゃんの話するとき、いつも楽しそうでさ。『一緒に山に行くんだ』って」
「山……?」

 頭の奥が、きゅっと痛んだ。こめかみを押さえる。


「この辺は別荘地としても有名ですからね」
「自然の空気が上手い。さて、聞き込みをして見ましょうか?」
「あの!」

 二人の言葉を遮るように、私は山に向かって走り出していた。

 雨の音。泥に足を取られた感覚。誰かの怒鳴り声。手に握られた、冷たく重い何か。

 様々な記憶が私を襲う。

 走り抜けた先、目の前に木々が開けた小さな空き地が現れた。

 真ん中だけ、土の色が少し違っている。盛り上がったような、へこんだような。そこだけ、草がまばらだった。

 息が止まる。

「ここ!」
「どうしたんですか?」
「何かあるのか?」

 言葉が喉で途切れた。代わりに、記憶が溢れ出す。

 彼の顔が、鮮明に浮かんだ。笑っていた顔。泣きそうな顔。怒った顔。

『どうしてだよ、結衣。怖いよ。やめてくれよ』

 彼の声。雨の音。振り上げた腕。鈍い音。崩れた土。

「高橋さん?」

 刑事が心配そうに覗き込む。

 私は、震える声で、ぽつりと言った。

「あっ……私が、殺したんだ」

 空き地に、風が通り抜けた。

 刑事と男が、同時に息を呑む。

「ちょっと待ってください、今なんて?」
「違う、そういう意味じゃ……いや、違わない……」

 頭を抱えた。脳の奥で、砕けた記憶の破片が、正しい位置に戻っていく。彼の部屋に忍び込んだ夜。遠くから眺めていた通り。何度も送った、宛名のない手紙。

 ストーカー、と笑いながら言っていた彼の声。

 優しくしてくれた。だから、全部、欲しくなった。

 他の誰かと笑った写真を見つけたとき。浮気だと思った。怒りで視界が赤く染まったとき。

 土の匂い。

「……掘ったほうがいいな」

 刑事が震える声で言い、スコップを取りに車へ戻ろうとした。その背中に、私はぼんやりと視線を向ける。

 男が横で呟いた。

「でも、結衣ちゃん、記憶がないなら」
「忘れたかったんだと思いますよ」

 自分の口から出たとは思えないほど落ち着いた声だった。

 二人が、同時にこちらを振り向く。

「だって、また……」

 私は足元のスコップの一本を拾い上げた。ひんやりとした鉄の冷たさが、手の平に懐かしく馴染む。

「ちゃんと、忘れられるから」

 振り下ろしたときの感触は、思ったよりも軽かった。

 刑事の頭蓋が割れる鈍い音と、男の悲鳴が、森の中に短く弾ける。もう一度、もう一度。

 土は三人分でも、そんなに重くなかった。


 穴を埋め終えるころには、夕方になっていた。

 汗と土と、少しの血の匂い。空き地には、最初と同じように風が吹き抜ける。

 私は膝をついたまま、ポケットから、折り畳んだ紙を取り出した。

 この山に来る前、机の上に用意しておいた最後の一通。自分で書いた文字が、少し滲んでいる。

『結衣へ。君がこの手紙を読む頃、僕はきっと死んでいる。それでも僕は幸せだ。君に愛されたまま消えていけるのなら。』

 読み上げると、涙が頬を伝った。

「ねぇ……こんなふうに、言ってくれてたんだね」

 紙を胸に押し当てる。土の下の彼の骨と、すぐ横に並べた二つ分の新しい土。

「心配しないで。私、ちゃんと忘れるから。また、最初からやり直せるようにするから」

 どうやって忘れたのか、私は知っている。

 頭を強く打てばいい。病院で目を覚ませばいい。ポストには、私が準備しておいた手紙が届く。彼からの、優しい言葉として。

 立ち上がって、一歩、二歩と下がる。背後には、苔むした岩場があった。

 大きく息を吸う。

「また、会おうね。あの場所で」

 自分にそう言い聞かせてから、私は振り向きざま、全力で岩に頭を叩きつけた。





 目を開けたとき、真っ白な天井がまぶしかった。

「わかりますか? お名前」

 横から声がする。看護師の目が、心配そうに細められていた。

 頭がずきずきと痛む。何も思い出せない。

 枕元の棚には、財布と鍵とスマホ。それから、小さく折り畳まれたメモ。

 退院の日、私はタクシーでアパートに帰るだろう。ポストには、真っ白な封筒が一通、待っている。

 宛名のない、彼からの、最初の手紙が。


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 目を開けたとき、真っ白な天井がまぶしかった。
「わかりますか? お名前」
 横から声がして、視線を向けると看護師がいた。マスク越しの目が、心配そうに細められている。
「……名、前……?」
 舌が上手く回らない。しばらくして、枕元の棚から看護師が財布を取り出した。
「身分証が入っていました。高橋結衣《たかはしゆい》さん。覚えていなくても大丈夫ですよ。交通事故に遭われたんです。頭を強く打って、しばらく意識が……」
 高橋結衣。口の中でそっと転がしてみる。自分のものらしい音だ。けれど、その名前を名乗って笑う自分の顔は、どこまで思い出そうとしても霧の向こうにあった。
 数日後、退院の許可が出た。
 看護師に渡されたのは、鍵と財布とスマホ。それから、アパートの住所が書かれたメモ。タクシーの窓から流れる街は、どこまでも「知っているようで知らない街」だった。懐かしさと他人行儀が、胸の中で薄く混ざっている。
 四階建ての古いアパート。金属の階段を上がり、メモと同じ番号の前で立ち止まる。鍵は、すんなりと回った。
 ワンルームの部屋は整っていた。ベッド、テーブル、本棚。女の一人暮らしにしては少し殺風景だけど、散らかってはいない。
「……ただいま」
 試しに言ってみても、返事はない。まあ、当然だ。
 靴を脱いで部屋に入ろうとして、ふとポストの口が目に入った。内側から見ると、そこから白い封筒の端がのぞいている。
 引き抜くと、宛名も差出人も書かれていない、真っ白な封筒だった。消印だけが、事故の日より前の日付を示している。
 胸の奥がざわつく。
 封を切ると、細いペンで丁寧に書かれた文字が現れた。
『結衣へ。君がこの手紙を読んでいるなら、ちゃんと家に帰り着けたってことだね。まずはそれだけで、ほっとしている。』
 知らないはずの文字なのに、見つめていると不思議なくらい落ち着いた。すぐに続きが目に飛び込んでくる。
『君には家族がいない。僕もいない。だから、二人の時間だけが、世界の全部だった。覚えていなくても、心が覚えてる。また、あの場所で会おう。』
 あの場所、どこだろう。
 読み進めると、そこには、小さなエピソードがいくつも綴られていた。雨の日に一緒にコンビニで肉まんを買ったこと。古い映画を借りてきて、ソファで眠ってしまったこと。知らないはずなのに、断片が胸の奥を掻き回す。
 目の奥が熱くなった。
「……私、誰かを、本当に好きだったんだ」
 その人からの手紙が、こうして届いている。
 私には家族がいない。事故で記憶を失った。けれど、それでも、私には「手紙の彼」がいる。
 そう思った瞬間、部屋の孤独が、ほんの少しだけ和らいだ。
 手紙は、それから毎日届いた。
 一通ごとに、思い出が増えていくようだった。手紙の中で彼は、いつも「僕」と名乗る。名前は書かない。代わりに、私と過ごした時間の温度だけが、丁寧に、丁寧に綴られていた。
『君が笑うと、間の悪い夕立だって祝福してくれているみたいだった』
『君が眠れない夜には、僕も眠らないと決めた。だから、君が眠れている今、僕はちゃんと眠れているのかな』
 読んでいると、胸の奥がきゅうっと締めつけられる。
 誰なのか、会いたい。どうして名前を書かないのか。どうして電話番号も書いていないのか。
 私は警察署に行って、事情を説明した。
「私、記憶をなくしているんです。事故で。だけど、家には手紙を書いてくれていた人がいて」
 若い刑事が、封筒を光に透かして見ながら言った。
「差出人不明の手紙自体は犯罪じゃないけど……消印の局はうちの管内ですね。ここ、ちょっと前に行方不明届が出てるんですよ。男性、三十代。高橋さんと同じ名字で」
「同じ……?」
 胸が跳ねた。刑事は慌てて言い直す。
「あ、いや、偶然かもしれません。ただ、届け出を出したのは、職場の同僚って書いてあります。ご家族がいないんで」
 家族がいない。彼の手紙の言葉と同じだった。
 後日、その同僚だという男に会わせてもらった。刑事さんが連絡してくれた。
 スーツ姿の、気の優しそうな人だった。私を見るなり、目を丸くして……。
「……高橋さん。やっぱり、君が結衣ちゃんだったんだ」
「私の、こと……知っているんですか?」
「いや、君の話は、アイツからよく聞かされてた。『世界一可愛いストーカーがいる』って」
「ストーカー?」
「あっ、いや、多分違うと思うよ。君のことを可愛いって言ってたし、自分にゾッコンで困るってことだと思う」
 冗談まじりのその言葉が、耳の奥で鈍く反響する。
 ストーカー。
 私は笑うべきか迷って、引きつった笑みを浮かべた。
「彼は、どこにいるんですか……?」
 男は目を伏せた。
「半年くらい前かな。急に会社に来なくなって。携帯も繋がらないんだよ。警察にも相談したんだけど……君の方が知っているんじゃないか?」
「ごめんなさい。私も交通事故に遭って、記憶を失っていて、だけど、彼からの手紙をもらって会いたいって思ったんです」
 刑事が言葉を継いだ。
「最後に確認できた足取りが、郊外の別荘地なんです。ご友人と、一緒に行くって言ってたそうで」
「……なるほど、それが誰かのかってことか、あいつが行くと言っていた別荘地ならわかるので、ご案内できますよ。行ってみますか?」
 彼の友人、そして、ここまで付き合ってくれた刑事の申し出に、私は勢いよく頷いていた。
 会わなきゃ。彼に。私のことを、こんなに想ってくれる人に。
 車は街を離れ、やがて山道へと入っていった。
 フロントガラスに緑が近づくたび、胸の奥がざわつく。木々の影、湿った土の匂い、遠くで鳥が鳴く声。その一つひとつが、どこかで嗅いだことのあるもののように思えた。
「ここから先は、ちょっと道が悪いんで」
 刑事が車を停めた。三人で降りる。足元の土が、ひどく柔らかい。
 男が息を切らしながら笑った。
「いやぁ、まさか……ほんとに来る日が来るとはな。アイツ、結衣ちゃんの話するとき、いつも楽しそうでさ。『一緒に山に行くんだ』って」
「山……?」
 頭の奥が、きゅっと痛んだ。こめかみを押さえる。
「この辺は別荘地としても有名ですからね」
「自然の空気が上手い。さて、聞き込みをして見ましょうか?」
「あの!」
 二人の言葉を遮るように、私は山に向かって走り出していた。
 雨の音。泥に足を取られた感覚。誰かの怒鳴り声。手に握られた、冷たく重い何か。
 様々な記憶が私を襲う。
 走り抜けた先、目の前に木々が開けた小さな空き地が現れた。
 真ん中だけ、土の色が少し違っている。盛り上がったような、へこんだような。そこだけ、草がまばらだった。
 息が止まる。
「ここ!」
「どうしたんですか?」
「何かあるのか?」
 言葉が喉で途切れた。代わりに、記憶が溢れ出す。
 彼の顔が、鮮明に浮かんだ。笑っていた顔。泣きそうな顔。怒った顔。
『どうしてだよ、結衣。怖いよ。やめてくれよ』
 彼の声。雨の音。振り上げた腕。鈍い音。崩れた土。
「高橋さん?」
 刑事が心配そうに覗き込む。
 私は、震える声で、ぽつりと言った。
「あっ……私が、殺したんだ」
 空き地に、風が通り抜けた。
 刑事と男が、同時に息を呑む。
「ちょっと待ってください、今なんて?」
「違う、そういう意味じゃ……いや、違わない……」
 頭を抱えた。脳の奥で、砕けた記憶の破片が、正しい位置に戻っていく。彼の部屋に忍び込んだ夜。遠くから眺めていた通り。何度も送った、宛名のない手紙。
 ストーカー、と笑いながら言っていた彼の声。
 優しくしてくれた。だから、全部、欲しくなった。
 他の誰かと笑った写真を見つけたとき。浮気だと思った。怒りで視界が赤く染まったとき。
 土の匂い。
「……掘ったほうがいいな」
 刑事が震える声で言い、スコップを取りに車へ戻ろうとした。その背中に、私はぼんやりと視線を向ける。
 男が横で呟いた。
「でも、結衣ちゃん、記憶がないなら」
「忘れたかったんだと思いますよ」
 自分の口から出たとは思えないほど落ち着いた声だった。
 二人が、同時にこちらを振り向く。
「だって、また……」
 私は足元のスコップの一本を拾い上げた。ひんやりとした鉄の冷たさが、手の平に懐かしく馴染む。
「ちゃんと、忘れられるから」
 振り下ろしたときの感触は、思ったよりも軽かった。
 刑事の頭蓋が割れる鈍い音と、男の悲鳴が、森の中に短く弾ける。もう一度、もう一度。
 土は三人分でも、そんなに重くなかった。
 穴を埋め終えるころには、夕方になっていた。
 汗と土と、少しの血の匂い。空き地には、最初と同じように風が吹き抜ける。
 私は膝をついたまま、ポケットから、折り畳んだ紙を取り出した。
 この山に来る前、机の上に用意しておいた最後の一通。自分で書いた文字が、少し滲んでいる。
『結衣へ。君がこの手紙を読む頃、僕はきっと死んでいる。それでも僕は幸せだ。君に愛されたまま消えていけるのなら。』
 読み上げると、涙が頬を伝った。
「ねぇ……こんなふうに、言ってくれてたんだね」
 紙を胸に押し当てる。土の下の彼の骨と、すぐ横に並べた二つ分の新しい土。
「心配しないで。私、ちゃんと忘れるから。また、最初からやり直せるようにするから」
 どうやって忘れたのか、私は知っている。
 頭を強く打てばいい。病院で目を覚ませばいい。ポストには、私が準備しておいた手紙が届く。彼からの、優しい言葉として。
 立ち上がって、一歩、二歩と下がる。背後には、苔むした岩場があった。
 大きく息を吸う。
「また、会おうね。あの場所で」
 自分にそう言い聞かせてから、私は振り向きざま、全力で岩に頭を叩きつけた。
 目を開けたとき、真っ白な天井がまぶしかった。
「わかりますか? お名前」
 横から声がする。看護師の目が、心配そうに細められていた。
 頭がずきずきと痛む。何も思い出せない。
 枕元の棚には、財布と鍵とスマホ。それから、小さく折り畳まれたメモ。
 退院の日、私はタクシーでアパートに帰るだろう。ポストには、真っ白な封筒が一通、待っている。
 宛名のない、彼からの、最初の手紙が。