「ネコ先輩、さっき、私たちの高校の生徒は、どこかの名門校と同様の自己認識を持っている、とか言ってましたよね? それが、両方のグラフの形が似ていることと関係あるんですか?」
私の疑問に、ネコ先輩は、ゆったりとうなずいた。
「そのとおりだよ。成績上位者という自己認識を持っている学生の意識は、洋の東西を問わないらしい。ダニングとクルーガーが最初に行なったテストは、コーネル大学の学生40名程度を対象にしたものなのだが……この事実に潜む問題点がわかるかい?」
謎掛けのような先輩の問いかけに、私たちは揃って頭をひねる。
「先生は、さっきサンプル数が少ないってことを言ってましたよね……?」
「それに、コーネル大学と言えば、全米きっての名門大学よ。世界の大学ランキングで言えば、日本の最高学府よりも、さらに上位に入ってるはずだし……」
「じゃあ、そこの学生は、東大生や京大生以上のエリート揃いってことですか?」
私たち三人の会話を聞いていたネコ先輩は、フッと笑みを浮かべて語る。
「そのとおりだよ。このテストのそもそもの問題点は、まさに、いまキミたちが言ったことにまとめられている。ダニング・クルーガー効果について指摘されるのは、サンプルの少なさと偏りの問題だ。『超エリート大学生40人に聞きました』というアンケートの回答が、どこまで一般化できるものなのか? まずは、その点に疑問を持ってもらいたい」
「そのエリートさんたちは、もともと、自分は頭が良い、と自分に自信を持っている人達だった可能性がある、ってことですね?」
佳衣子がたずねると、先輩は、「あぁ、そうだね」とうなずいて、私たちの行なった実験について、なぜ学業の成績上位者に集まってもらったかを簡単に説明し、そのあとに、彼女自身の見解を述べる。
「今回のワタシたちの実験も、なるべく、コーネル大学での実験と同じように、自分が成績上位だという意識を持っている生徒に集まってもらうことにした。結果は、思った以上の成果だったがね。特に、一見、ハズレ値とも思える回答をしてくれた生徒もいるしね」
そう言って、ネコ先輩は、私に視線を送ってきた。
「それって、ケンタのことですか?」
私の問いかけに、彼女はクスリと笑った。
「あぁ、戌井くんだけは、全体10位の成績ながら、自己評価を15番目として回答している。自己採点のアンケートが20問中15問正解と、実際の正答数とピッタリ同じだったにも関わらず、だ……」
「ケンタは、成績が上がり始めたばかりだから……きっと、周りの生徒は、みんな自分より頭が良いと思い込んでいるだろうな、と思います」
「ふむ……ネズコくんは、戌井くんの感情を理解する際の解像度が高いようだ」
「ちょっと、ネコ先輩! 変なこと言わないで下さい!」
反論する私の声に、佳衣子と宇佐美先生がクスクスと笑う。
「まあ、ネズコくんの個人的な感情は、いったん脇に置くとしても、戌井くんの回答は興味深い。実に奥ゆかしい内容だとは思わないかい?」
佳衣子は、ネコ先輩の言葉に賛同して手を挙げる。
「あっ! あたしも、ちょっとだけ自己評価の方が高かったから、そう思います!」
「うむ……実は、ダニング・クルーガー効果のテストを我が国を含めた東アジアの国で実践すると、また違った結果が出る、とされている。欧米に比べて、アジア諸国の人々は、個々人の自己評価が高くない傾向にあるからね。成績下位の者が、軒並み自分自身を高く評価する、という傾向があるわけではないのだ。これだけでも、ダニング・クルーガー効果を全世界を対象にして、一般化して語るのは難しいと言える」
ここまで語った先輩の言葉に対して、「う〜ん……」と、唸った宇佐美先生は、納得したようにつぶやく。
「朱令陣さん、あなたの言うように、このダニング・クルーガー効果の成長曲線をレポートに利用するのは避けておいた方が良さそうなことがわかったわ」
「そうですね、ダニング・クルーガー効果の通説については、論理の飛躍そのものと言って良いでしょう。今回の論理的思考のテスト問題には、公園に若者が増えたこととゴミが増えたことを短絡的に結びつけてしまうことに対する懸念が示す問がありましたが……現在、多くのインターネットサイトや雑学系動画などで広まっている通説は、まさにその典型例だと言えるでしょう」
ネコ先輩が返答すると、ふたたび、佳衣子が手を挙げる。
「はいはい! 最初に見た成長曲線の図だと、簡単に『わかった!』と思っているうちは、知ったかぶりに過ぎない、ってことみたいですけど……このダニング・クルーガー効果をドヤ顔で紹介している動画の配信者やブログの書き手の方が『バカの壁』にぶち当たってません」
「まったく、そのとおりだよ。論文の原典にも当たらずに、やれ、『バカの壁』だとか『絶望の谷』だとか語っているサイトのなんと多いことか……ネットメディアのインフルエンサーの発信を鵜呑みにすることが、どれだけバカバカしいことか、多くの人に気づいてもらいたいものだ。そもそも、この研究が世に広まったのは、西暦2000年のイグ・ノーベル賞で心理学賞を受賞したことが切っ掛けなのだが――――――」
「イグ・ノーベル賞って、人々を笑わせてくれるユーモラスな研究を表彰するものですよね?」
「そうだよ。ちなみに、ダニング・クルーガー効果と同じ年のイグ・ノーベル賞の生物学賞を受賞したのは、研究者の直接体験による報告書『コスタリカの乾季オタマジャクシの味の良さの比較』についてだ。ダニング・クルーガー効果もまた、肩肘を張って、企業の研修資料に引用したりするものでは無いと思うのだがね……」
ネコ先輩の言葉に、私たち三人は揃って、「うんうん」とうなずく。
ただ、宇佐美先生だけは、少し複雑な表情で、ポツリとつぶやいた。
「この研究を研修用のテキストにまとめるのは避けようと思うけど……でも、他にどんな内容をまとめれば良いのかな?」
先生の不安そうな声に、ネコ先輩は落ち着いた声で応える。
「いえ、今回のワタシたちの研究からも読み取れることはあります。これは、通説のダニング・クルーガー効果の真逆の内容になるのですが……自分の能力や成果を過小評価してしまう『インポスター効果』について、説明させてもらいましょう」