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女の子

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例えばある人が高級なものに囲まれるときれいであるように、ある人が規範の中できれいであるように、僕は目の前の人を笑顔にすると楽しくて、きっときれいだった。
 僕は、僕として生まれたからにはきれいに生きたいと願っている。だが、きれいに生きるのは案外難しかった。なぜなら、話しかけられる方全てと話していると、相手を笑顔にしたくてもできないときが来たからだ。特に、相手と離れたい意思を示すと、相手が笑顔にはならないことが多かった。まず、連絡先を交換してほしいと言われたとき相手が悲しむ顔を見たくなくて交換をした。次に、ご飯やお茶に行きたいと誘われた。段々と全く読んでいない文章が溜まっていった。あるいは人がたまに声をかけてきたときは、僕も興味を持って、相手の好きなものを調べ、円滑に会話するために好かれようとすることもあった。社会に溶け込むための、社会に必要とされるための真っ当な努力を僕はしている。しかも、社会に必要とされるための真っ当な努力が僕には楽しくて仕方がなかった。毎日、僕の周囲の方々が笑顔になってほしいと楽しく行動した結果、時偶は必要とされてしまい、心の支えだと言われてしまった。ついには、周囲の方々を笑顔にすることの快楽を知ってしまった。しかし、快楽の代償として普段僕はいつか人に刺されるのではないかと背中を気にして隠していた。だが、今の僕は、背中を刺されることはないだろう。なぜなら僕は今、彼女のお風呂場から一ヶ月近く出ていないからだ。
 彼女のお風呂場は生きるために不自由なことは何もなかった。しかし、僕は自由に行動することはできなかった。そのために時間だけが有り余る今、僕にできるのは今まで出会ったたくさんの方々を頭の中で整理していくくらいだった。しかしその前に、まずは今自分にできることを整理しようと思いなおした。
 自分にできることは二つほどあった。一つ目はご飯を食べることだった。食事は一日三食、僕が入っているお風呂場のドアを開けて、彼女が持ってきてくれた。美味しくて温かくて待ち望み続ける有り難いご飯だった。
 ドアが開く前、ドアが開くことを待ち望んでいて、外で楽しいことをしようと想像した。青い空、青い海、美しい花々が外にはあり、きっと見に行くこともできた。次こそは出ようと思った。そしてドアが開くときには、いい匂いがした。彼女が好むお香のような香りと彼女が作ってくれた美味しいご飯の匂いがした。そして何もしないまままたドアは閉じ、社会から隔絶された。ドアが閉まると僕はまたドアが開くことを待ち望んでいた。
 自分にできることの二つ目は歯や体、服をきれいにすることだった。今僕がいる部屋は広い脱衣所のようになっていて、奥のガラス扉を開けるとお風呂場があった。お風呂場にはいくつかの洗い場と鏡があり、白く光るジャグジー付きのお風呂があった。他にも脱衣所にはトイレがあって、大きな鏡がついた洗面台もあった。換気扇も彼女がつけてくれているから、換気もできていた。洗濯乾燥機もあって、彼女が使ってもいいと言ってくれたので使うことができた。初日に着ていた服と、彼女の可愛らしくて大きめのゆったりとした服を貸してもらって、交互に着ていた。多少狭いが、正直彼女のお風呂場は僕が暮らすのに申し分がなかった。
 しかし、僕と連絡が取れないことで沢山の方々にご迷惑をおかけしていることは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。けれど、今は彼女と向き合いたい、向き合わなければいけないとも本気で思っていた。
 彼女は所有することが好きだった。知識も、家具も、おそらく人も。僕はどうやら彼女に収集されたらしかった。きれいな彼女にきれいに収拾されるなら、収集品になるのも悪くはないかもしれなかった。
 同時に、彼女が僕を外に出したいと思うのはどのようなときだろうかと考えた。僕は、収集品もたまには人に見せて自慢したいという考えの人間だから、彼女も僕を自慢したくなれば外に出したくなるかもしれなかった。彼女が僕を好きになったのはどのようなところだっただろうか。彼女と僕はアイドルと役者の仕事をしているのだけれど、役者として尊敬しているときが一番彼女の僕を見る目に愛おしさが含まれている気がした。それなら、役者の仕事をしたいから外に出たいというのが一番効果的かもしれなかった。次のお昼の時間に彼女に話そうと、彼女の反応が良かった言葉を反芻して組み合わせて考えた。
 正午一二時に扉が開くまで、集中して彼女に話すことを考えようとしていた。だが、いつの間にか僕は今まで会った方々のことを思い出していた。
 
 僕が仕事を始める前は、街中でよく女性から声をかけられて、話すことがあった。特に、休日の渋谷に行った際には、歯医者から駅に着くまでの間に何人もの知らない方に話しかけられて、話をした。そもそも休日の渋谷は、どこの通りに行こうとも人から逃れることはできなかった。
 ふいに小さな展示室が目に入った。展示室の中では個展を開いているようで、落ち着いたお洒落な空間に惹かれて中に入った。中には白っぽい壁に植物を可愛らしく擬人化した絵が飾ってあった。すぐに一周して見終わり、入口付近に戻ってくると、机の上に可愛らしい絵はがきが置いてあった。近くには、ご自由にお持ちくださいと書いてあった。欲しいと思って、手に取った。本当に可愛らしい絵はがきだった。でもすぐに、自分がものを大切に扱えずに、鞄の中でぐしゃぐしゃになり、捨ててしまう人間であることを思い出した。欲しいけれど誰か別の人が大切に扱うのだろうと思い、また絵はがきが入っていた箱に戻した。もちろん自分が欲しいものを手に入れなかったことは寂しかったが、どこか安心していた。
 展示室を出てなるべく道の端側を歩いていると、ペットショップのガラス窓の中に白いぬいぐるみのような子猫が猫用のベッドの中で丸まっていた。近づいてみると、ぬいぐるみのように毛がもこもこしているだけではなく、細い毛がつんつんと立っていることが分かった。大きな青い虹彩の中に蛇のように縦長の瞳孔が入っていた。その下には薄桃色の逆三角形の鼻があって、存在するかもあやしいほどに小さい口があった。
「ペットショップ見ますか。」
唐突に後ろから声を掛けられた。子猫に見入っていたことに気づいて少し恥ずかしくなりながら振り向いた。何か洒落たことを言おうと混乱し、
「服を買いに行こうと思ったのですが、通りかかったら可愛くて見入ってしまっていて。」
と答えた。冷静に考えて、見知らぬ人に急に話しかけられて真面目に答えなくても良い気もするが、街中で急に刺される事件もあるからあまり無下に対応するのも危険な気がした。
「それなら服を一緒に見ましょう。」
「え?服を一緒に見るということですか?大丈夫ですよ?」
「実は先輩から会う約束を破られてしまって、長崎から上京して来たので東京のこと全然分からなくて。」
「うーん。でも本当に服を買うだけなので大丈夫ですよ。」
「それなら服を見ながら見極めてください。」
断ってもどうしても服を一緒に見ると言った。また、長崎から来た大学生くらいに見える方に渋谷のことを少し教えられるだろうかと思うと少し高揚した。そのままの流れで向かいにあった複合商業ビルに入った。
 黒ばかりの服を見ながら、女性は興味がないだろうなと思った。また、値札を見るにもお金ばかりを気にしているようで見づらいなどと思っていると「このシャツとかどうですか?」と彼女が言いながら服を指さしていた。指の先を見ると、黒地に白の水玉のシャツがあった。正直水玉は集合体じみていて苦手だった。
「水玉、お好きですか?」
「ばれました?どうですか、このシャツ。」
反応に少し困って笑った。
「その反応は好きじゃないですね。」と彼女も笑った。半年前に遠距離恋愛をしていた福岡の彼氏と別れたと話していたから元彼が水玉を好きだったのだろうかなどと思った。
 しばらく店の中を回ってから店を出た。もう一軒見ようかと歩いていくと、人通りの少ない窪みの方に寄っていくようだった。店があるとでも勘違いしてしまったのだろうかと着いていくと、「ご飯とか行きません?絶対楽しませますよ。やっぱり困ります?」と言った。やはり困ったような反応しかできなかった。
「そういえば渋谷ではどこが一番買い物で有名ですかね?」と彼女が言ったので、女性で言えばやはりと道玄坂下交差点に面した鋭角の角地に立つファッションビルを挙げた。
「それ以外であれば僕的には今いるビルですかね。」
「田舎者でこのビルがどこか分かりません。」と言ったので、ここの名前はこれですねと言って、ビル名が記載された看板を指した。渋谷で見知らぬ男性に声をかけておいて、渋谷の通り名を付けたことでも有名なこの施設を知らないなんて本当だろうかと内心疑った。本当はもう少し話してみたいと思ったけれど、渋谷で異性に声をかける方は危ない人だという固定観念に引きずられて解散し、もう会うこともなかった。最後に別れるときの「本当にダメですか?」という悲しげな言葉だけが心に残り続けた。
せっかくなのでもう少し服を見ようかと思い、公園通りのスペインのファッションチェーンのお店あたりを通ると、突然道の端にいた女性がふらりと歩いてきた。IT系で働いていると話す彼女は、お茶をしたいと言うので、できないと伝えると握手をしてほしいと言うので握手をして別れた。
 その後ファストファッションの前あたりを通ると、水色のパーカーを着て鞄を持っていない女性に声をかけられた。女性は少しあやしい呂律で「そっちのコンビニでコンビニデートをしましょう。」と言った。できないと言って去った。
 スクランブル交差点を渡り切ってようやく駅前、ハチ公前広場に着いた。
「おつかれ。」
急に横から女性に声をかけられて思わず笑ってしまった。オーストラリアによくいる動物を模したチョコレート入りのビスケットが入っているのであろう六角柱のお菓子の箱を持っていた。
「あなたの好きなお酒とお菓子がありますよ。ハグをしましょう?ん?帰るの?気を付けてお帰りください。」
知らない方と話すのは少し怖かったが、話さなければ知りもしなかった方が気を付けてと言ってくれたのはありがたいと思った。だが、相手から話しかけたのに、二人での食事を断るととても悲しそうになって僕が罪悪感を抱くのは少し解せない気もした。僕はせっかく一期一会で話せたからには相手を笑顔にして別れたいのに、なかなか相手を笑顔にして別れることは難しかった。
僕は、気づくと芋づる式に一期一会の出会いを思い返し始めていた。
 
浮羽さんは華やかで、軽やかだった。もともと、僕と浮羽さんは映画で共演したことがきっかけで出会うことができた。可哀想なことに浮羽さんは多忙で今にも寝そうなときもあったが、寝そうなときでさえ蝶のように重力を感じさせないまま美しく人は惹きつけられた。歴史のある作品の主役も、重い背景を持った主人公も、歴史上の人物も、浮羽さんが演じれば軽やかに馴染んで、当たり前のように画面や街中を飾った。浮羽さんは様々な人間になりすぎて、もはや何者なのか分からなかった。でも、浮羽さんの体自体は熱量も重力もやはり感じさせず、目を細めて顎を引いて笑っていた。
 浮羽さんは体重も軽かった。時々頬がこけている、胸が小さいなどと好き勝手なことを書き込まれていた。
 浮羽さんはあまりにも軽すぎて、空に飛んでいってしまうことを恐れているのか、時々重いものを好んだ。愛とはなにかといった哲学の本を読んで、感銘を受けたと話していた。愛とか、恋とか、失恋の歌とかを好んでいたのは、不変ではないものを或いは愛していたのかもしれなかった。
 ある日、映画関係者での関係構築を目的として、浮羽さんを含めて監督や役者、関係者等大人数で食事に行った。僕がどうしても気になってしまったのだが、周囲に親しい人間がいなかったためか、浮羽さんは緊張しているように見えた。浮羽さんは真顔に近い強張った顔をして、声は小さく、あまり話に入れていないようだった。以前僕と二人で話していたときに自分の分からない話ばかりされて話に入れない時間が苦痛だと言っていたのを思い出した。それなら、僕の目の前にいる間だけでも、浮羽さんが少しでも笑顔になれたらいいと思った。浮羽さんの目を細めた笑顔を見たいと思った。初めは浮羽さんが食べていなさそうな食べ物を勧めたりしていた。偶然僕は、その場の浮羽さん以外の方全員と面識があったから、浮羽さんが話したそうだったら段々と浮羽さんに話を振り、浮羽さんの発言や作品等を褒めて浮羽さんが会話の輪に入りやすくなるようにした。浮羽さん以外の方のことが僕は好きで、皆さんの良いところもたくさん知っていた。だから、僕を介して互いに互いの良いところを知って、今日が浮羽さんを含めた皆さんにとって楽しい出会いになれば良いと思った。加えて、浮羽さんに話をふると間違いなく場が盛り上がった。僕の場合には不満を言ってはいけないという固定観念があって無理にやや偽善的に話してしまうような話でも少し本音のように感じさせながら小さい声で不満を話したりした。可愛くて優しい子が可愛らしい笑顔をこぼして「ひどくないですかー。」なんて不満を言ってくれると大層盛り上がった。
 また僕が、監督に注文を促す流れで苦手な食べ物を再確認する際にも浮羽さんと監督を繋げつつ、浮羽さんの力を借りることで楽しんでいただくことができた。特に、監督の堂島さんの苦手な食べ物を当てるという流れになったときには、浮羽さんは負けず嫌いなのか何としても正解しようとした。
「堂島さん苦手な食べ物少ないですよね。」
「一つしかないね。」
「ちなみに堂島さんの苦手な食べ物、浮羽さん、思い浮かんだりします?」
「えー、難しいです、ヒントをください。」
「頭の回転が早い浮羽さんだとすぐ当てちゃいそうだから、分かりにくいヒントにしますね。ヒントは海のものです。」
「海のもの?わかんない、勘です、わかめ!」
「浮羽さんはわかめが苦手なのですか?他にはない食感ですよね。動きが少ないっていう点では正解に近いです。」
「ふふ。私はわかめが苦手なのですよー。悔しい。そしたら帆立とか?」
「帆立、よりも広く言うと?」
「広く言うと?貝類とか?」
「そうです。堂島さんの苦手な食べ物は貝類です!」
「え?帆立でも正解ですよねー?でもすごくないですかー?私は2回目で当てましたよー!」
「すごいです。海のもので苦手なものがあるっていうところで共通点がありましたね、堂島さん。」
「うん。浮羽さんと同じものが一つでもあって嬉しいなー。」
 ともかく停滞していた会話でも、浮羽さんに話をふると盛り上がり、皆笑顔になった。僕が話をふり、浮羽さんが不満を漏らしたりしてどんどん場に馴染んでいく様子があまりにも気持ちよくて、さらに浮羽さんを褒めたり料理を勧めたりして反応を楽しんでしまった。初めから変わらず最後まで浮羽さんが顔を強張らせたままだったらと思うと本当に浮羽さんの笑顔が見られてよかったと思った。ただ、浮羽さんに助けられたのは僕の方だったから浮羽さんが嫌ではなかったか心配になった。
 盛り上がる中で一つ目のお店を出て、もう一軒行くか迷う流れになった。そろそろ帰って寝たくなったことと、一番盛り上がったままの雰囲気で帰りたかったので僕が帰る意思を伝えた。ふいに、少し離れたところに立つ浮羽さんの方が視界に入ると、浮羽さんがなにか言いたげに僕の方を見ているのを感じた。浮羽さんの視線にしては珍しく、真剣さと熱がこもっているように見えた。浮羽さんの様子があまり軽くないことに驚いて僕は完全に腰が引けてしまった。浮羽さんの言いたいことが何であれ、周囲に会話を聞かれてしまったらあまり良くない気がした。僕は浮羽さんの言いたいことに好奇心をそそられつつも、ありがとうございましたと言って場を去った。
 撮影が終わって一週間ほどたった週末の日、唐突にSNSを通して浮羽さんから二人でお茶に行かないかと連絡が来た。僕は驚いた。同時に、仕事でもないのに二人でどこかに行くなんて正気だろうかと思った。やり取りをしていくうちに二人の相性とか二人の恋愛とかいう言葉が出てきて、どうやら本気で恋人を前提に関係を縮めていきたいという意思が伝わってきた。またしても僕は正気だろうかと思った。そもそも、何を根拠に恋人になりたいと考えたのだろうか。会話をふったことか、食べものを勧めたことか、外見だろうか。いずれにしても、彼女と一緒にいた時間はそこまで長くはなかった。それに対して僕は毎日会っているような相手でないと恋人になりたいとは思えなかった。たとえば恋人になったとして、失うものの多さを彼女は考えていたのだろうか。ともかく、彼女と恋人になるのは彼女のためにも自分のためにも利が薄いだろうと思った。だが、彼女の目的が恋人になることではない可能性もあるいはあったかもしれなかった。もしかしたらどうしても相談したいことがあるのかもしれなかった。もしも困っているのなら全力で力になりたいと思った。
 お茶がしたいということだったのだが、やはり自分の家に来てくれないかということだったので、浮羽さんの家に行くことになった。確かに外で会うにも二人で会うとなると人の目があって危険だった。それにもしかしたら家になにか問題があって相談がしたいのかもしれなかった。正直女優の家に一人で行くのは性犯罪を疑われるとか、写真を撮られて仕事が無くなるとか僕が身を滅ぼす十分な理由になると考えられた。だが、好奇心には勝てなかった。たとえば浮羽さんは僕に好意を向けているのだろうかとか、どんなふうに話を展開するのだろうかとか、浮羽さんの家には何があるのだろうとか予想できる新しい情報の量に興奮せずにはいられなかった。
 浮羽さんの家の入り方を教えてもらって、呼び鈴を鳴らした。浮羽さんは笑顔で出てきて中に入れてくれた。家の中はいい香りがした。家の中に入ったはずなのにあまり生々しい生活感がなく、喫茶店にでもいるような気がした。青い壁の前には足が交叉しているフラワーテーブルがあって、上にはガラスのフラワーベースが置かれていた。中には黄色とオレンジの花が1輪ずつ入っていた。本当に忙しいだろうにきれいにしているのかと考えると尊敬を超えて感動してしまった。
 部屋がきれいなだけではなく、浮羽さんは忙しい中クリームシチューを作ってくれたということだった。クリームシチューはお店で出されるような持ち手がついた小さい鍋のような器に入っていた。味もお店のようでとても美味しかった。料理のお礼を伝えると、僕も料理をするかと聞かれた。僕も料理をすると言うと浮羽さんは嬉しそうにした。正直なことを言えば、料理を作ることはあまり好きではなかった。僕は料理を作るとき、自分ではなくてもできるのではないかと感じてしまった。そして冷淡なことに、かける時間や労力に対して、対価が見合っていないと感じてしまった。でも、料理を作る姿が、浮羽さんの目に一番魅力的に映るのであれば、毎日時間をかけて料理をしたいと思った。
 話も深まってきて、恋人の話になった。彼女は二次会の深い話が好きと言うだけあって楽しそうだった。
「一木さんは彼女とかいつからいないのですか?」
「僕?いや全然いないですよ。浮羽さんは?」
「うーん、前の彼とは仕事とかで会えない日が増えて、返事もできなくて、気づいたら連絡がつかなくなっていました。他の人もサイコパスとか、モラハラとか、二股する人とか、男運ないのですかね?私。」
「そっか。浮羽さんが優しいからつい相手が甘えてしまうのですかね。」
しばらく浮羽さんの元恋人の話を聞き、やはり大変だと感じつつ浮羽さんは忙しい中のどの時間を使って恋人を作って恋愛をしているのだろうと感心した。そもそも、なぜ恋人を作りたいのかどうしても気になったため、恥ずかしながら聞いてしまった。
「恋人って終わりが来るけど、友人ならあまり終わりが来る感じがしないから、友人関係はいいなと僕は思います。ちなみに、浮羽さんはどうして恋人を作ろうと思ったのですか?」
「他にいい人がいないからじゃないですかね?いい人がいたら、行動しなきゃ何も変わらないって思っています。」
「そうですか。仕事だと、女性の恋愛観とか直接聞けることが少ないので新鮮です。」
 浮羽さんにとって恋人は、今現在認識する一番魅力的な相手であるらしかった。つまり、他に魅力的な相手が現れれば恋人は変わると認識していたし、発言していた。それに対して僕は恋人として付き合うのなら、一生の伴侶になりたい人としか付き合おうとは思わなかった。だからこそ、恋人になることには慎重になるし浮羽さんはあまりにも軽く、一生添い遂げる唯一の伴侶として考えると浮羽さんの軽さと華やかさが怖かった。おそらく、年若い男性が現れれば迷いなく年若い男性を魅力的に感じるだろうし、行動するだろう。僕は浮羽さんの軽さが怖くて、浮羽さんと二人ではもう会わないことにしようと決めた。浮羽さんには、「浮羽さんの今後のことを考えると、二人で会うべきではないと思う。」と伝えた。浮羽さんは驚いたようで、何度か話をしたいと誘ってはくださったのだけれど、回数を重ねるほど、恋人に近づいてしまいそうでお断りをした。でも時々、浮羽さんのことを思い出した。あの軽やかさで、僕の一時の彼女に、一時の華に、過ぎ去ってきれいな思い出だけを互いに残す存在になれはしないかと思った。
 
 赤井さんは正しくて、高貴なものの中で輝く女性だった。次に共演した赤井さんとは、正義感の強い女子高生と教師が劇的な出会いをして、互いに成長していくというあらすじの映画がきっかけで出会った。この映画の始まりでは赤井さんが学校でいじめっ子を糾弾したことが原因で報復としていじめを受けた。そこで、赤井さんは担任の教師に相談するが、先生から気に入られていたいじめっ子は処分を受けず、赤井さんが欲しかった学校への推薦枠も手に入れた。悲しいことに、正しさが世界に存在しないと感じて絶望した赤井さんは学校の屋上から飛び降りようとした。しかし、飛び降りる寸前にたまたま休憩に来た僕が赤井さんを羽交い締めにして飛び降りるところを止めた。最後は、大人になった赤井さんが高校の元後輩と結婚をして子どもを作り映画は終わった。
映画ではなく現実の世界でも赤井さんは正しかった。たとえ正論を言うと嫌われると分かっている場合でも言わずにはいられないようだった。また、赤井さんは悪を正す正義の人が好きだった。そのためか、真実や正義を追い求める探偵や刑事の作品を好み、汚職やいじめ等の社会問題に関心を持っていた。特にいじめは嫌いなようで、いじめで人が傷つくことよりも、いじめをする人が裁かれずに良い評価を得ることが許せないようだった。
 少し困ったことには、赤井さんはよく大きな声を出した。「ああっ!」と突然言うので何事かと思って振り向くと、「卵を買わなければ。」と言った。咄嗟に何か怪我でもしたのかと備えた頭が一瞬で解けてつい笑ってしまった。まるで赤井さんは、不安なことを増幅しないではいられないような癖があるようだった。ただ時偶僕の耳元で叫ぶのは、少し僕の耳に良くなかった。
 赤井さんは不安なことを解決するためなのか、良いものを好んでいた。特に、赤井さんは良い卵が好きだった。たとえば、医学部で作った荏胡麻を飼料とした卵や有精卵等の良い卵を良いスーパーで買った。卵以外もおそらくは良い材料を使って、良いガスレンジや良いグリルで美味しい料理を作っていたようだった。
そして赤井さんは、良いものを好むだけではなく、良いものがとても似合っていた。映画の中で、僕が恋人とフランス料理を食べに行き、僕が恋人との予定を優先しないことを理由に別れを告げられたところを偶然赤井さんに見られるという場面を撮影したことがあった。赤井さんはきれいにフォークとナイフを使ってフランス料理を食べた。僕は赤井さんのように綺麗に食べることができなくて、赤井さんのフォークの使い方を見てはいつも綺麗だと思っていた。当たり前のように赤井さんは効率よく、正確に、精密機械のように食事をした。また、特にルビーや真珠等の宝石はよく似合っていた。赤井さんが耳に宝石をつけると別人のように見えた。それでいて、宝石は赤井さんの耳にあるべきものに見えた。たとえ少し古い造りのものをつけても、まるで王室のティアラのように受け継がれてきた歴史あるものに見えた。高価な装飾品や食品等はなぜあるのか、僕にはあまり理解ができなかったが、赤井さんのためにあるのだと理解できた。
 
 八木さんは、優しくて、面白かった。八木さんとはドラマで夫婦役として共演した。映画の中で大学生であった八木さんと高校生の僕の間に子どもができて、家族や子どもに振り回されながらも成長していくという人間ドラマだった。ドラマの中で僕は、高校生で子どもができたことに混乱した。家族やアルバイト先に相談していく中で、子どもがいても学校を卒業することも、就職活動をすることも、できるのではないかと考えた。周囲の協力を得てなんとか新卒として就職をして、社会に出た。そして社会に出てからも、時短勤務をしながらなんとか子育てに関わっていくという話でドラマは続いた。僕は結婚をしたこともないし、子どもができたこともないから、父親を演じる自信が全くなかった。そんなときに八木さんは何度でも相談に乗ってくれたし、経験をしたことのないものを演じる心構えを教えてくれた。それだけではなく、僕は八木さんから優しさの概念を教えてもらった気がする。もともと、仕事をする際に周囲の人を笑顔にしようと考えたのはおそらく八木さんを真似したところから始まった。
 八木さんは、優しくて、しかも面白かった。優しいだけでも十分なのに、しかも面白いなんてずるいと思った。しかし、八木さんが優しいということに気づくまでにはとても時間がかかった。なぜなら、八木さんは優しさを隠すことがとても上手だったからだ。でも、優しさを隠す意味が僕には分からなかった。なぜなら、僕にとっては優しさも、努力も、見せることで他人から応援を得るための手段の一つだったからだ。
 なぜ八木さんが優しさを隠していたのかと考えたが、おそらく八木さんは野生の天使だったからだった。「野生の」とつけてしまうほどに、八木さんの見えるようでいて見えない優しさは野に放っておくにはあまりにも危険に感じられた。
 しかし、八木さんとはドラマの仕事が終わってしまうのと同時に会えなくなってしまった。だから僕は、八木さんをなぞらえて周囲を笑顔にすることで、八木さんの存在を今でも感じている。
 
 後藤さんは、規範そのもので、粘り強かった。後藤さんはトーク番組の先輩だった。そして、後藤さんは僕が失敗をしても僕のことを見捨てなかった。初めに僕が番組に参加するようになったときにはすでに、後藤さんは番組の顔だった。いつでも後藤さんは番組のために一番尽力していて、後藤さんが一言意見を話せば後藤さんの意見が規範になった。
 規範を作りだす後藤さんの前で、僕は何度も失敗した。特に少し年上の相手と話すとき、僕は失敗に失敗を重ねた。たとえ話したいことがいくつも浮かんでも、何を話しても失礼なのではないかと考えてしまい、何も話せなかった。また考えて、何も話せない状況に追い込まれてやっと話せたことは度々見事に相手の地雷を踏み抜いてしまった。
僕が過ちを犯すと、後藤さんは僕に注意をしてくれた。注意をされると僕は話す力を完全に失って、真顔で「はい。」と答えることしかできなくなった。ついには、頑張ったことが認められなくて悔しくなり、態度は生意気になった。もはや頑張っても認められないのなら頑張る意味はないと考えてしまった。ただ、注意されたことは繰り返さないように書き残した。なんとか、言われたことだけは直すという当たり前のことだけが僕にもやっとできる仕事の仕方だった。一度後藤さんには、「言葉にすれば分かるのだね。」と言っていただいたことがあった。そのとき、僕は僕に限らず皆言葉にしなければ分からないだろうと思ってしまった。実際に、後藤さんは僕に小さなことでも言葉で伝えたいことを伝えてくださるようになった。失礼なことに、生意気な態度をしてしまった僕に、言葉で伝えて頂けるなんてありがたいと思った。だから、後藤さんから言葉にしてもらったものをすべて書き残して学んでいこうと思った。
 同じ番組に田中さんという年下の女性がいたのだが、田中さんは相手の突っ込んでほしいところを突っ込み、地雷には絶対に近寄らず、さり気なく相手を褒めて認めた。残念なことに失敗ばかりの僕とは本当に逆だった。田中さんにとっては、僕が言葉で伝えて頂かなければ分からないことが自然と分かっているようにも見えた。それに対して僕は、いつ後藤さんに見損なったと思われるかと怯えながら、後藤さんが僕を見捨てないでくださっていることに本当に感謝して日々勉強をした。
 不思議なことに後藤さんは、僕の動作や口調で品がいいと初めから好ましく感じてくださっていたようだった。僕は、後藤さんに認められたいと思った。だが、後藤さんは僕より先に番組を卒業してしまった。後藤さんが卒業してから徐々に、後藤さんが求めていた規範を周囲は忘れていった。規範がなくても、番組は最初から変わらなかったかのように楽しく進んだ。その中で僕だけが規範にしがみついていて、いつどの程度手放せばいいのか分からなかった。なぜなら、僕の中の後藤さんは僕のことをずっと見ているように感じたからだ。でも実際には後藤さんは後藤さんが働く場所で無我夢中に働いていて、輝いていた。実際には、僕のいる場所には、もう後藤さんはいなくなっていた。だから僕は、無我夢中の働きをする後藤さんに恥じない僕であろうと思った。僕は僕が今働いている場所で、今一緒に働く人と精一杯働こうと思った。
 
 田中さんは、冷静で、落ち着いていた。田中さんとは映画で共演したあと現在もトーク番組を一緒にやっているのだが、田中さんと僕は仕事以外の付き合いが一切なかった。ただ、映画の内容は田中さん演じる女子高生が僕演じる冴えない塾講師に迫ってくるというものだった。
映画の演出上、田中さんと僕は体を近づける場面が多くあったのだが、田中さんと体同士が近づくと、近づくことへの違和感に唾を何度も飲まずにはいられなかった。まるで、僕と田中さんは近づくべきじゃないから脳が離れろと命令をするようだった。作品を見た方々からは初々しく意識しているように見えると書かれることもあった。しかし、僕はむしろ無意識に体が離れようとするのを意識的に近づこうと努力していた。
 トーク番組の仕事をする以上はあまり仲が悪そうに見えても、視聴者に不快感を与えるだろうと考えた。だから僕は、仕事のために田中さんの考え方を知ろうと努めた。そして僕が田中さんと出会ってから数日くらいのある日、田中さんに笑いかけながら話をした。それに対して田中さんは笑っている口の形を作って、体をのけぞらせて笑っていることを表現した。驚いたことに、僕は僕の体温が氷点下まで下がったのを感じた。おそらく田中さんは、楽しくなくても笑っていることを全身で主張して、今まで生きてきたのだと思った。そして、笑っていることを全身で表現しなければいけない相手だと僕のことを認識したのだと思うと悲しくなった。まるで笑うことは田中さんの中の自然の摂理の内には存在しないようで、人と関係を構築するための道具でしかないことを懸念した。失礼なことに、何が楽しくて生きているのだろうかと本気で心配になってしまった。ただ、会ってから日を重ねるごとに次第に自然に笑っているように見えたからとても安心した。おそらく慣れない相手とは特に笑うことが難しいのだろうと勝手に予測をした。もしかすると、笑うことが得意ではないが笑いたいと苦労を重ねた結果笑うことを主張したのかもしれなかった。ただ、正直なことを言えば現在も、内心では何を考えているか分からなかった。
 田中さんと仕事をし始める前、僕は八木さんと仕事をしていた。八木さんと関わる中で、僕は完全に自分への自信を失っていた。なぜなら八木さんは野生の天使だったからだ。野生の天使に比べると僕はどうしようもなく馬鹿で幼くて、配慮が足らなかった。だから、大人になりたいと、人間になりたいと何度も切望した。
 完全に自分への自信を失った僕に、田中さんは何度も仕事の仕方を聞いてくれた。僕は僕にもできることがあるのだと段々自信をつけていった。もちろん田中さんに限らず、年下の方に対しては、僕は何でもしたくなった。いつでも後輩の力になりたくて、願わくは後輩に初めて何かを教えた存在として覚えられたいと思うと体が勝手に動いた。
 しかし段々と、田中さんが知らなくて僕が知っていることはほとんど無くなった。しかも、田中さんは話し方も、年上の方への頼り方も上手で、よく好かれた。たとえば、僕のことを初めに明るい人間として評価したものの、細かい配慮が抜けていたことに気付いて失望する方がいたのに対して、田中さんはどんどん信用を重ねて、多くの方に信頼されていった。すぐに、トーク番組でも僕が年下の田中さんにフォローをしてもらうという役割で笑いを取るという流れが定着した。格好悪いことに、僕は恥ずかしかった。初めから僕が年上で田中さんが年下という関係性でなければ、田中さんの目に僕が映らないことは分かっていた。残念なことに、僕にできることは田中さんの悪いところを見つけて自分を慰め、たまに田中さんの悪口を言ってしまっては自分の印象を悪くするくらいだった。
 田中さんの知人には言わないように心がけている田中さんの欠点を言わせてもらうならば、田中さんは相手がいないところで、悪口を言った。僕が言えたことではないが、思えば田中さんは表面上何も起きないことを重視しすぎているように見えた。また、田中さんは、表面上は相手を嫌いであることが分からないようにしていることがあった。たとえば、今までの方法を全て変えるように命令した相手や、努力して田中さんが考えたものを頭から否定した相手を田中さんは本当に嫌いで早く辞めてほしいと話していた。しかし、田中さんが嫌っていることを話すまでは僕は田中さんが嫌っていることに全く気付かなかった。むしろ僕は嫌なことがあるとすぐに反抗的な顔をしてしまうのに対して、田中さんは笑顔で「やめてくださいよ。」と言っていたから、意地悪なことを言われても上手に対応できていて羨ましいと感じていた。大人気ないが、僕は田中さんを怖いと思った。おそらく僕が田中さんを苦手だと思う以上に田中さんは僕を苦手だと思っていることが予想された。そして田中さんは、たとえ僕のことを嫌いでも笑いかけるのだろうと思うと、頭の芯から冷たさが広がっていくような感覚がした。時々、僕が嫌われて陰口を言われている場面を想像すると、僕はうまく笑えなくなった。さらに、田中さんが嫌いな人に対して笑いかけていたことを思うと、僕は全員が自分のことを嫌いであるように見えて誰にも笑いかけることができなくなった。しかし視点を変えれば、僕も時々苦手な相手に苦手な点を指摘しているにも関わらず、やはり田中さんに笑いかけながらも、一方で田中さんの優秀さに嫉妬して悪口を言ってしまうことがあった。そう考えるとあるいは陰口は、嫌いかどうかに関わらず、単に相手の評価を落とすことを目的とした攻撃であると解釈することもできた。もし陰口が相手の攻撃を目的としているのであれば、僕はうまく笑って徹底抗戦をする自信があった。自己中心的な考え方だが、僕が笑うことを目的とするのであれば陰口を言う人間が何を考えているにしろ、僕に嫉妬した僕への攻撃だと見なすことは有効だった。とはいえ、仮に可愛くて小さくて優しい田中さんが僕の陰口を言ったとすれば、僕はあまりの動揺に何も考えられずに白旗を掲げただろう。
 話は変わるが、田中さんは時偶嘘をついた。たとえば、特に急用ではないのに本当に用事があると言って帰ったりした。田中さんにとっては、現実的に考えて嘘とわかる嘘はむしろ大人として波風を立てないための伝達手段だったのかもしれなかった。だからなのか、現実的に考えて方便と呼べる範囲内の嘘をよくついた。そして僕は田中さんが嘘をついたとき、自分が田中さんに嘘をつかせてしまったことを残念に感じた。同時に、使わなくてもいい方便で、信用を少し失えばいいとさえ感じた。とはいえ僕も、帰らなきゃいけないと理由にならない理由を言い残し、あからさまに走って帰ることがあった。冷静に考えて、田中さんも僕も誤魔化している点では変わらなかった。変わらないけれど、僕は少しでも嘘を本当にしたくなった。田中さんは多分嘘を方便にしたがったのかもしれなかった。
 他に田中さんは向かい合って通り過ぎるときに見なかったふりをすることも、明らかに聞こえていた話を聞こえなかったふりをすることもあった。田中さんは、気づかないふりをするという嘘をついてでも、沈黙を相手に伝えていたのかもしれなかった。もしかすると、沈黙を愛して、守り抜いていたのかもしれなかった。あるいは僕は楽しさを愛していて、田中さんは多分沈黙を愛していた。田中さんにとって沈黙は多分正に金だったのだろう。
 時折田中さんは自分に利益をもたらさない年下の人間が目に入らないのか、挨拶をされても無視をしてしまうことがあった。僕は、田中さんにとって沈黙は大切な伝達の手段であることを知っていたし、悪意を込めて無視をしているのではないことを知っていた。
 ときには、田中さんが怖いから仕事を辞めたいと後輩から相談を受けることもあった。その際には、田中さんも忙しくて心に余裕がないときもあるし、もしかしたら先輩として少し格好をつけているのかもしれないですねなどと冗談めかして伝えて少し笑ってくれないか試してみた。後輩は、「そうですよね、田中さんも忙しいですもんね。」とひとまず辞めずに踏みとどまってくれた。後日田中さんにも、後輩への対応の仕方について聞いてみる機会があった。
「そういえば田中さん、後輩に対してこんなふうに接していきたいなっていう方針とかあったりするの?」
「急にどうしましたか?そんな偉そうなこと考えてないですよ。」
「そうなの?偶に後輩に対して怖く接しているみたいに見えるときもあるから、やっぱり先輩として後輩の気持ちを引き締めたり、発言力を高めたりとか考えているのかなって思って。」
「怖い?私のことが怖いですか?」
「うーん。中には怖い先輩がいて仕事を辞めたくなってしまうっていう子もいるみたいだから、例えば挨拶とか話しかけられたときに一応悪意がないことを示していただけると後輩も安心できると思う。もちろん、田中さんも忙しいことも多いと思うから心に余裕があるときに心に留めておいていただけるとありがたいな。」
「いや私は怖くないと思いますけど。」と言いながらも、その後田中さんの後輩への対応が柔らかくなった気がしますという後輩からの報告を受け、ひとまず安心をした。
 おそらく僕は周囲の温度を上げることが得意で、田中さんは下げることが得意だった。僕だけでは熱を下げる術を持たないまま熱に浮かされ続けてしまった。たとえば好奇心に抗えず、楽しければいいと思ってしまう僕の行動も田中さんが見ていると感じると動けなくなった。また、楽しさを優先させて御座なりになってしまいがちな現場の雰囲気も田中さんがいるとはっきりと引き締めてくださった。僕も時々は田中さんの後輩への冷たい行動に悪意がないことを伝え、田中さんへの誤解が減らせたらありがたいと望んでいた。もちろん、互いが存在していることで消えてしまう僕らの良さもあったのだろう。でも、互いが存在しているからこそ止められる過ちがあり、生まれる奥深さや面白さがあると感じた。
特に田中さんは、誰とでもそつなく関係性を構築できて、信頼されていた。僕は信頼される自信はなかったが、誰とでも親しくなれる自信があった。二人とも関係を構築する術は持ち合わせているはずなのに、それでも田中さんと僕は、驚くほどに考え方が真逆で、話が噛み合わないことがあった。僕はなんでも楽しい方がいいだろうと考えていた。なかでも新しいものをいつも探していて、見つけては興奮していた。できることなら新しいことを一生知り続けたかった。
 しかし、田中さんは新しいことがあまり起こらず、冷静でいられることをおそらくは望んでいた。ただ、田中さんの考えはあまりにも理解ができないので、僕の考えでは推測の域を出ることができない。実は全く違うことを考えているのかもしれない。たとえすべてを理解できたとしても、互いに本気で思っているのか信じられないのだろう。
 そして僕にとって多分田中さんは天敵でもあった。冷静沈着な人が苦手だなんて僕自身も変だと思った。ただどこか、自分だけが悪に気づいているかのような高揚感がまるで映画のようで興奮した。田中さんからすれば、僕が楽しいことを探してはいつも他の人と笑って話しているだけで周囲と親しくなっていることが理解できないようだった。
また、田中さんと話していると、自分の嫌な面が出てしまった。思わず田中さんに嫌な言葉をぶつけてしまった。優しくしようと何度思っても嫌な言葉が出てくるのは最悪だった。田中さんと話していると、田中さんにも周囲の方々にも僕の嫌な面を見せてしまうことになるから、なるべく田中さんと話すのは避けたくなった。
 田中さんと僕は真逆だということばかり僕は感じてしまったが、探せば共通点もあった。時々、番組に遊びに来てくださることがあった八木さんに好かれたことだ。僕は初め真逆の僕たちのどちらも好いてくれる八木さんが理解できなかった。八木さんは田中さんも僕も周囲をよく観察しているところが似ていると言った。周りを観察したうえで、田中さんは周囲の現実を改善した。だが、僕は現実を変えようと努めるのは得意ではなかった。だからせめて僕は周囲の考えを受容して周囲を笑顔にしようとした。ほとんどの人は田中さんの方を信頼していた。田中さんもまた、きちんと専門的に仕事をする人間を信頼していた。それば当たり前のことだった。現実の課題に対して真面目に取り組まない人間を応援も信頼もしたいとはあまり思わなかった。田中さんに比べたら、僕は笑ってばかりで役に立たない寄生虫に思えることもあった。例外として僕のような人が僕のことを好いてくれたときもあったが、僕のような人は田中さんのことが苦手であることが多かった。もしかすると、八木さんにとっては、周りをよく観察していることが重要で、現実を改善しても、笑顔にしても、状況を変えようと奮闘することに魅力を感じてくれたのかもしれなかった。僕と田中さんにとっては価値観が真逆でも、八木さんにとっては同じように評価してもらえることは、僕にとっては救いだった。八木さんはやはり僕を救い、教え導いてくれる天使だった。
それでもやはり、田中さんの価値観は僕の価値観とはあまりにも真逆だったので、田中さんの価値観は俺の価値観を理解するためにとても効果的だと感じた。だから、田中さんと一緒に仕事ができてよかったと思うこともあった。だけど、田中さんと俺が二人で同じ意思を決定することはとても難しかぅた。なぜなら、お互いにお互いの考えが全く理解できなかったからだ。
だから、田中さんとは仕事で繋がりが無くなったら、本当に一生会うことはないのだろうと思った。でもだからこそ、理解ができなくて必死に相手を理解しようとする今が少し愛おしく感じたし、仕事で出会うことができてよかったと感じた。
 以前、六つある円卓のどの位置の座席に自分の知り合いが座ってほしいか想定をする心理テストをやったことがあった。この心理テストの一番の目玉は、自分の左隣に座ってほしいと思う人物が自分の本命の相手であるというものだった。それに対して、自分の向かいに座ってほしいと思ったのは田中さんだった。向かいに座って欲しいのは、恋愛感情はないが、一番信頼している人間だそうだ。一番信頼している方と一緒に仕事をできるなんて、なんて幸せなことだろうと感じた。
 僕にとって田中さんはまさに仕事でしか会わない人だった。そして、仕事で出会えたことがありがたい人だった。




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例えばある人が高級なものに囲まれるときれいであるように、ある人が規範の中できれいであるように、僕は目の前の人を笑顔にすると楽しくて、きっときれいだった。
 僕は、僕として生まれたからにはきれいに生きたいと願っている。だが、きれいに生きるのは案外難しかった。なぜなら、話しかけられる方全てと話していると、相手を笑顔にしたくてもできないときが来たからだ。特に、相手と離れたい意思を示すと、相手が笑顔にはならないことが多かった。まず、連絡先を交換してほしいと言われたとき相手が悲しむ顔を見たくなくて交換をした。次に、ご飯やお茶に行きたいと誘われた。段々と全く読んでいない文章が溜まっていった。あるいは人がたまに声をかけてきたときは、僕も興味を持って、相手の好きなものを調べ、円滑に会話するために好かれようとすることもあった。社会に溶け込むための、社会に必要とされるための真っ当な努力を僕はしている。しかも、社会に必要とされるための真っ当な努力が僕には楽しくて仕方がなかった。毎日、僕の周囲の方々が笑顔になってほしいと楽しく行動した結果、時偶は必要とされてしまい、心の支えだと言われてしまった。ついには、周囲の方々を笑顔にすることの快楽を知ってしまった。しかし、快楽の代償として普段僕はいつか人に刺されるのではないかと背中を気にして隠していた。だが、今の僕は、背中を刺されることはないだろう。なぜなら僕は今、彼女のお風呂場から一ヶ月近く出ていないからだ。
 彼女のお風呂場は生きるために不自由なことは何もなかった。しかし、僕は自由に行動することはできなかった。そのために時間だけが有り余る今、僕にできるのは今まで出会ったたくさんの方々を頭の中で整理していくくらいだった。しかしその前に、まずは今自分にできることを整理しようと思いなおした。
 自分にできることは二つほどあった。一つ目はご飯を食べることだった。食事は一日三食、僕が入っているお風呂場のドアを開けて、彼女が持ってきてくれた。美味しくて温かくて待ち望み続ける有り難いご飯だった。
 ドアが開く前、ドアが開くことを待ち望んでいて、外で楽しいことをしようと想像した。青い空、青い海、美しい花々が外にはあり、きっと見に行くこともできた。次こそは出ようと思った。そしてドアが開くときには、いい匂いがした。彼女が好むお香のような香りと彼女が作ってくれた美味しいご飯の匂いがした。そして何もしないまままたドアは閉じ、社会から隔絶された。ドアが閉まると僕はまたドアが開くことを待ち望んでいた。
 自分にできることの二つ目は歯や体、服をきれいにすることだった。今僕がいる部屋は広い脱衣所のようになっていて、奥のガラス扉を開けるとお風呂場があった。お風呂場にはいくつかの洗い場と鏡があり、白く光るジャグジー付きのお風呂があった。他にも脱衣所にはトイレがあって、大きな鏡がついた洗面台もあった。換気扇も彼女がつけてくれているから、換気もできていた。洗濯乾燥機もあって、彼女が使ってもいいと言ってくれたので使うことができた。初日に着ていた服と、彼女の可愛らしくて大きめのゆったりとした服を貸してもらって、交互に着ていた。多少狭いが、正直彼女のお風呂場は僕が暮らすのに申し分がなかった。
 しかし、僕と連絡が取れないことで沢山の方々にご迷惑をおかけしていることは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。けれど、今は彼女と向き合いたい、向き合わなければいけないとも本気で思っていた。
 彼女は所有することが好きだった。知識も、家具も、おそらく人も。僕はどうやら彼女に収集されたらしかった。きれいな彼女にきれいに収拾されるなら、収集品になるのも悪くはないかもしれなかった。
 同時に、彼女が僕を外に出したいと思うのはどのようなときだろうかと考えた。僕は、収集品もたまには人に見せて自慢したいという考えの人間だから、彼女も僕を自慢したくなれば外に出したくなるかもしれなかった。彼女が僕を好きになったのはどのようなところだっただろうか。彼女と僕はアイドルと役者の仕事をしているのだけれど、役者として尊敬しているときが一番彼女の僕を見る目に愛おしさが含まれている気がした。それなら、役者の仕事をしたいから外に出たいというのが一番効果的かもしれなかった。次のお昼の時間に彼女に話そうと、彼女の反応が良かった言葉を反芻して組み合わせて考えた。
 正午一二時に扉が開くまで、集中して彼女に話すことを考えようとしていた。だが、いつの間にか僕は今まで会った方々のことを思い出していた。
 僕が仕事を始める前は、街中でよく女性から声をかけられて、話すことがあった。特に、休日の渋谷に行った際には、歯医者から駅に着くまでの間に何人もの知らない方に話しかけられて、話をした。そもそも休日の渋谷は、どこの通りに行こうとも人から逃れることはできなかった。
 ふいに小さな展示室が目に入った。展示室の中では個展を開いているようで、落ち着いたお洒落な空間に惹かれて中に入った。中には白っぽい壁に植物を可愛らしく擬人化した絵が飾ってあった。すぐに一周して見終わり、入口付近に戻ってくると、机の上に可愛らしい絵はがきが置いてあった。近くには、ご自由にお持ちくださいと書いてあった。欲しいと思って、手に取った。本当に可愛らしい絵はがきだった。でもすぐに、自分がものを大切に扱えずに、鞄の中でぐしゃぐしゃになり、捨ててしまう人間であることを思い出した。欲しいけれど誰か別の人が大切に扱うのだろうと思い、また絵はがきが入っていた箱に戻した。もちろん自分が欲しいものを手に入れなかったことは寂しかったが、どこか安心していた。
 展示室を出てなるべく道の端側を歩いていると、ペットショップのガラス窓の中に白いぬいぐるみのような子猫が猫用のベッドの中で丸まっていた。近づいてみると、ぬいぐるみのように毛がもこもこしているだけではなく、細い毛がつんつんと立っていることが分かった。大きな青い虹彩の中に蛇のように縦長の瞳孔が入っていた。その下には薄桃色の逆三角形の鼻があって、存在するかもあやしいほどに小さい口があった。
「ペットショップ見ますか。」
唐突に後ろから声を掛けられた。子猫に見入っていたことに気づいて少し恥ずかしくなりながら振り向いた。何か洒落たことを言おうと混乱し、
「服を買いに行こうと思ったのですが、通りかかったら可愛くて見入ってしまっていて。」
と答えた。冷静に考えて、見知らぬ人に急に話しかけられて真面目に答えなくても良い気もするが、街中で急に刺される事件もあるからあまり無下に対応するのも危険な気がした。
「それなら服を一緒に見ましょう。」
「え?服を一緒に見るということですか?大丈夫ですよ?」
「実は先輩から会う約束を破られてしまって、長崎から上京して来たので東京のこと全然分からなくて。」
「うーん。でも本当に服を買うだけなので大丈夫ですよ。」
「それなら服を見ながら見極めてください。」
断ってもどうしても服を一緒に見ると言った。また、長崎から来た大学生くらいに見える方に渋谷のことを少し教えられるだろうかと思うと少し高揚した。そのままの流れで向かいにあった複合商業ビルに入った。
 黒ばかりの服を見ながら、女性は興味がないだろうなと思った。また、値札を見るにもお金ばかりを気にしているようで見づらいなどと思っていると「このシャツとかどうですか?」と彼女が言いながら服を指さしていた。指の先を見ると、黒地に白の水玉のシャツがあった。正直水玉は集合体じみていて苦手だった。
「水玉、お好きですか?」
「ばれました?どうですか、このシャツ。」
反応に少し困って笑った。
「その反応は好きじゃないですね。」と彼女も笑った。半年前に遠距離恋愛をしていた福岡の彼氏と別れたと話していたから元彼が水玉を好きだったのだろうかなどと思った。
 しばらく店の中を回ってから店を出た。もう一軒見ようかと歩いていくと、人通りの少ない窪みの方に寄っていくようだった。店があるとでも勘違いしてしまったのだろうかと着いていくと、「ご飯とか行きません?絶対楽しませますよ。やっぱり困ります?」と言った。やはり困ったような反応しかできなかった。
「そういえば渋谷ではどこが一番買い物で有名ですかね?」と彼女が言ったので、女性で言えばやはりと道玄坂下交差点に面した鋭角の角地に立つファッションビルを挙げた。
「それ以外であれば僕的には今いるビルですかね。」
「田舎者でこのビルがどこか分かりません。」と言ったので、ここの名前はこれですねと言って、ビル名が記載された看板を指した。渋谷で見知らぬ男性に声をかけておいて、渋谷の通り名を付けたことでも有名なこの施設を知らないなんて本当だろうかと内心疑った。本当はもう少し話してみたいと思ったけれど、渋谷で異性に声をかける方は危ない人だという固定観念に引きずられて解散し、もう会うこともなかった。最後に別れるときの「本当にダメですか?」という悲しげな言葉だけが心に残り続けた。
せっかくなのでもう少し服を見ようかと思い、公園通りのスペインのファッションチェーンのお店あたりを通ると、突然道の端にいた女性がふらりと歩いてきた。IT系で働いていると話す彼女は、お茶をしたいと言うので、できないと伝えると握手をしてほしいと言うので握手をして別れた。
 その後ファストファッションの前あたりを通ると、水色のパーカーを着て鞄を持っていない女性に声をかけられた。女性は少しあやしい呂律で「そっちのコンビニでコンビニデートをしましょう。」と言った。できないと言って去った。
 スクランブル交差点を渡り切ってようやく駅前、ハチ公前広場に着いた。
「おつかれ。」
急に横から女性に声をかけられて思わず笑ってしまった。オーストラリアによくいる動物を模したチョコレート入りのビスケットが入っているのであろう六角柱のお菓子の箱を持っていた。
「あなたの好きなお酒とお菓子がありますよ。ハグをしましょう?ん?帰るの?気を付けてお帰りください。」
知らない方と話すのは少し怖かったが、話さなければ知りもしなかった方が気を付けてと言ってくれたのはありがたいと思った。だが、相手から話しかけたのに、二人での食事を断るととても悲しそうになって僕が罪悪感を抱くのは少し解せない気もした。僕はせっかく一期一会で話せたからには相手を笑顔にして別れたいのに、なかなか相手を笑顔にして別れることは難しかった。
僕は、気づくと芋づる式に一期一会の出会いを思い返し始めていた。
浮羽さんは華やかで、軽やかだった。もともと、僕と浮羽さんは映画で共演したことがきっかけで出会うことができた。可哀想なことに浮羽さんは多忙で今にも寝そうなときもあったが、寝そうなときでさえ蝶のように重力を感じさせないまま美しく人は惹きつけられた。歴史のある作品の主役も、重い背景を持った主人公も、歴史上の人物も、浮羽さんが演じれば軽やかに馴染んで、当たり前のように画面や街中を飾った。浮羽さんは様々な人間になりすぎて、もはや何者なのか分からなかった。でも、浮羽さんの体自体は熱量も重力もやはり感じさせず、目を細めて顎を引いて笑っていた。
 浮羽さんは体重も軽かった。時々頬がこけている、胸が小さいなどと好き勝手なことを書き込まれていた。
 浮羽さんはあまりにも軽すぎて、空に飛んでいってしまうことを恐れているのか、時々重いものを好んだ。愛とはなにかといった哲学の本を読んで、感銘を受けたと話していた。愛とか、恋とか、失恋の歌とかを好んでいたのは、不変ではないものを或いは愛していたのかもしれなかった。
 ある日、映画関係者での関係構築を目的として、浮羽さんを含めて監督や役者、関係者等大人数で食事に行った。僕がどうしても気になってしまったのだが、周囲に親しい人間がいなかったためか、浮羽さんは緊張しているように見えた。浮羽さんは真顔に近い強張った顔をして、声は小さく、あまり話に入れていないようだった。以前僕と二人で話していたときに自分の分からない話ばかりされて話に入れない時間が苦痛だと言っていたのを思い出した。それなら、僕の目の前にいる間だけでも、浮羽さんが少しでも笑顔になれたらいいと思った。浮羽さんの目を細めた笑顔を見たいと思った。初めは浮羽さんが食べていなさそうな食べ物を勧めたりしていた。偶然僕は、その場の浮羽さん以外の方全員と面識があったから、浮羽さんが話したそうだったら段々と浮羽さんに話を振り、浮羽さんの発言や作品等を褒めて浮羽さんが会話の輪に入りやすくなるようにした。浮羽さん以外の方のことが僕は好きで、皆さんの良いところもたくさん知っていた。だから、僕を介して互いに互いの良いところを知って、今日が浮羽さんを含めた皆さんにとって楽しい出会いになれば良いと思った。加えて、浮羽さんに話をふると間違いなく場が盛り上がった。僕の場合には不満を言ってはいけないという固定観念があって無理にやや偽善的に話してしまうような話でも少し本音のように感じさせながら小さい声で不満を話したりした。可愛くて優しい子が可愛らしい笑顔をこぼして「ひどくないですかー。」なんて不満を言ってくれると大層盛り上がった。
 また僕が、監督に注文を促す流れで苦手な食べ物を再確認する際にも浮羽さんと監督を繋げつつ、浮羽さんの力を借りることで楽しんでいただくことができた。特に、監督の堂島さんの苦手な食べ物を当てるという流れになったときには、浮羽さんは負けず嫌いなのか何としても正解しようとした。
「堂島さん苦手な食べ物少ないですよね。」
「一つしかないね。」
「ちなみに堂島さんの苦手な食べ物、浮羽さん、思い浮かんだりします?」
「えー、難しいです、ヒントをください。」
「頭の回転が早い浮羽さんだとすぐ当てちゃいそうだから、分かりにくいヒントにしますね。ヒントは海のものです。」
「海のもの?わかんない、勘です、わかめ!」
「浮羽さんはわかめが苦手なのですか?他にはない食感ですよね。動きが少ないっていう点では正解に近いです。」
「ふふ。私はわかめが苦手なのですよー。悔しい。そしたら帆立とか?」
「帆立、よりも広く言うと?」
「広く言うと?貝類とか?」
「そうです。堂島さんの苦手な食べ物は貝類です!」
「え?帆立でも正解ですよねー?でもすごくないですかー?私は2回目で当てましたよー!」
「すごいです。海のもので苦手なものがあるっていうところで共通点がありましたね、堂島さん。」
「うん。浮羽さんと同じものが一つでもあって嬉しいなー。」
 ともかく停滞していた会話でも、浮羽さんに話をふると盛り上がり、皆笑顔になった。僕が話をふり、浮羽さんが不満を漏らしたりしてどんどん場に馴染んでいく様子があまりにも気持ちよくて、さらに浮羽さんを褒めたり料理を勧めたりして反応を楽しんでしまった。初めから変わらず最後まで浮羽さんが顔を強張らせたままだったらと思うと本当に浮羽さんの笑顔が見られてよかったと思った。ただ、浮羽さんに助けられたのは僕の方だったから浮羽さんが嫌ではなかったか心配になった。
 盛り上がる中で一つ目のお店を出て、もう一軒行くか迷う流れになった。そろそろ帰って寝たくなったことと、一番盛り上がったままの雰囲気で帰りたかったので僕が帰る意思を伝えた。ふいに、少し離れたところに立つ浮羽さんの方が視界に入ると、浮羽さんがなにか言いたげに僕の方を見ているのを感じた。浮羽さんの視線にしては珍しく、真剣さと熱がこもっているように見えた。浮羽さんの様子があまり軽くないことに驚いて僕は完全に腰が引けてしまった。浮羽さんの言いたいことが何であれ、周囲に会話を聞かれてしまったらあまり良くない気がした。僕は浮羽さんの言いたいことに好奇心をそそられつつも、ありがとうございましたと言って場を去った。
 撮影が終わって一週間ほどたった週末の日、唐突にSNSを通して浮羽さんから二人でお茶に行かないかと連絡が来た。僕は驚いた。同時に、仕事でもないのに二人でどこかに行くなんて正気だろうかと思った。やり取りをしていくうちに二人の相性とか二人の恋愛とかいう言葉が出てきて、どうやら本気で恋人を前提に関係を縮めていきたいという意思が伝わってきた。またしても僕は正気だろうかと思った。そもそも、何を根拠に恋人になりたいと考えたのだろうか。会話をふったことか、食べものを勧めたことか、外見だろうか。いずれにしても、彼女と一緒にいた時間はそこまで長くはなかった。それに対して僕は毎日会っているような相手でないと恋人になりたいとは思えなかった。たとえば恋人になったとして、失うものの多さを彼女は考えていたのだろうか。ともかく、彼女と恋人になるのは彼女のためにも自分のためにも利が薄いだろうと思った。だが、彼女の目的が恋人になることではない可能性もあるいはあったかもしれなかった。もしかしたらどうしても相談したいことがあるのかもしれなかった。もしも困っているのなら全力で力になりたいと思った。
 お茶がしたいということだったのだが、やはり自分の家に来てくれないかということだったので、浮羽さんの家に行くことになった。確かに外で会うにも二人で会うとなると人の目があって危険だった。それにもしかしたら家になにか問題があって相談がしたいのかもしれなかった。正直女優の家に一人で行くのは性犯罪を疑われるとか、写真を撮られて仕事が無くなるとか僕が身を滅ぼす十分な理由になると考えられた。だが、好奇心には勝てなかった。たとえば浮羽さんは僕に好意を向けているのだろうかとか、どんなふうに話を展開するのだろうかとか、浮羽さんの家には何があるのだろうとか予想できる新しい情報の量に興奮せずにはいられなかった。
 浮羽さんの家の入り方を教えてもらって、呼び鈴を鳴らした。浮羽さんは笑顔で出てきて中に入れてくれた。家の中はいい香りがした。家の中に入ったはずなのにあまり生々しい生活感がなく、喫茶店にでもいるような気がした。青い壁の前には足が交叉しているフラワーテーブルがあって、上にはガラスのフラワーベースが置かれていた。中には黄色とオレンジの花が1輪ずつ入っていた。本当に忙しいだろうにきれいにしているのかと考えると尊敬を超えて感動してしまった。
 部屋がきれいなだけではなく、浮羽さんは忙しい中クリームシチューを作ってくれたということだった。クリームシチューはお店で出されるような持ち手がついた小さい鍋のような器に入っていた。味もお店のようでとても美味しかった。料理のお礼を伝えると、僕も料理をするかと聞かれた。僕も料理をすると言うと浮羽さんは嬉しそうにした。正直なことを言えば、料理を作ることはあまり好きではなかった。僕は料理を作るとき、自分ではなくてもできるのではないかと感じてしまった。そして冷淡なことに、かける時間や労力に対して、対価が見合っていないと感じてしまった。でも、料理を作る姿が、浮羽さんの目に一番魅力的に映るのであれば、毎日時間をかけて料理をしたいと思った。
 話も深まってきて、恋人の話になった。彼女は二次会の深い話が好きと言うだけあって楽しそうだった。
「一木さんは彼女とかいつからいないのですか?」
「僕?いや全然いないですよ。浮羽さんは?」
「うーん、前の彼とは仕事とかで会えない日が増えて、返事もできなくて、気づいたら連絡がつかなくなっていました。他の人もサイコパスとか、モラハラとか、二股する人とか、男運ないのですかね?私。」
「そっか。浮羽さんが優しいからつい相手が甘えてしまうのですかね。」
しばらく浮羽さんの元恋人の話を聞き、やはり大変だと感じつつ浮羽さんは忙しい中のどの時間を使って恋人を作って恋愛をしているのだろうと感心した。そもそも、なぜ恋人を作りたいのかどうしても気になったため、恥ずかしながら聞いてしまった。
「恋人って終わりが来るけど、友人ならあまり終わりが来る感じがしないから、友人関係はいいなと僕は思います。ちなみに、浮羽さんはどうして恋人を作ろうと思ったのですか?」
「他にいい人がいないからじゃないですかね?いい人がいたら、行動しなきゃ何も変わらないって思っています。」
「そうですか。仕事だと、女性の恋愛観とか直接聞けることが少ないので新鮮です。」
 浮羽さんにとって恋人は、今現在認識する一番魅力的な相手であるらしかった。つまり、他に魅力的な相手が現れれば恋人は変わると認識していたし、発言していた。それに対して僕は恋人として付き合うのなら、一生の伴侶になりたい人としか付き合おうとは思わなかった。だからこそ、恋人になることには慎重になるし浮羽さんはあまりにも軽く、一生添い遂げる唯一の伴侶として考えると浮羽さんの軽さと華やかさが怖かった。おそらく、年若い男性が現れれば迷いなく年若い男性を魅力的に感じるだろうし、行動するだろう。僕は浮羽さんの軽さが怖くて、浮羽さんと二人ではもう会わないことにしようと決めた。浮羽さんには、「浮羽さんの今後のことを考えると、二人で会うべきではないと思う。」と伝えた。浮羽さんは驚いたようで、何度か話をしたいと誘ってはくださったのだけれど、回数を重ねるほど、恋人に近づいてしまいそうでお断りをした。でも時々、浮羽さんのことを思い出した。あの軽やかさで、僕の一時の彼女に、一時の華に、過ぎ去ってきれいな思い出だけを互いに残す存在になれはしないかと思った。
 赤井さんは正しくて、高貴なものの中で輝く女性だった。次に共演した赤井さんとは、正義感の強い女子高生と教師が劇的な出会いをして、互いに成長していくというあらすじの映画がきっかけで出会った。この映画の始まりでは赤井さんが学校でいじめっ子を糾弾したことが原因で報復としていじめを受けた。そこで、赤井さんは担任の教師に相談するが、先生から気に入られていたいじめっ子は処分を受けず、赤井さんが欲しかった学校への推薦枠も手に入れた。悲しいことに、正しさが世界に存在しないと感じて絶望した赤井さんは学校の屋上から飛び降りようとした。しかし、飛び降りる寸前にたまたま休憩に来た僕が赤井さんを羽交い締めにして飛び降りるところを止めた。最後は、大人になった赤井さんが高校の元後輩と結婚をして子どもを作り映画は終わった。
映画ではなく現実の世界でも赤井さんは正しかった。たとえ正論を言うと嫌われると分かっている場合でも言わずにはいられないようだった。また、赤井さんは悪を正す正義の人が好きだった。そのためか、真実や正義を追い求める探偵や刑事の作品を好み、汚職やいじめ等の社会問題に関心を持っていた。特にいじめは嫌いなようで、いじめで人が傷つくことよりも、いじめをする人が裁かれずに良い評価を得ることが許せないようだった。
 少し困ったことには、赤井さんはよく大きな声を出した。「ああっ!」と突然言うので何事かと思って振り向くと、「卵を買わなければ。」と言った。咄嗟に何か怪我でもしたのかと備えた頭が一瞬で解けてつい笑ってしまった。まるで赤井さんは、不安なことを増幅しないではいられないような癖があるようだった。ただ時偶僕の耳元で叫ぶのは、少し僕の耳に良くなかった。
 赤井さんは不安なことを解決するためなのか、良いものを好んでいた。特に、赤井さんは良い卵が好きだった。たとえば、医学部で作った荏胡麻を飼料とした卵や有精卵等の良い卵を良いスーパーで買った。卵以外もおそらくは良い材料を使って、良いガスレンジや良いグリルで美味しい料理を作っていたようだった。
そして赤井さんは、良いものを好むだけではなく、良いものがとても似合っていた。映画の中で、僕が恋人とフランス料理を食べに行き、僕が恋人との予定を優先しないことを理由に別れを告げられたところを偶然赤井さんに見られるという場面を撮影したことがあった。赤井さんはきれいにフォークとナイフを使ってフランス料理を食べた。僕は赤井さんのように綺麗に食べることができなくて、赤井さんのフォークの使い方を見てはいつも綺麗だと思っていた。当たり前のように赤井さんは効率よく、正確に、精密機械のように食事をした。また、特にルビーや真珠等の宝石はよく似合っていた。赤井さんが耳に宝石をつけると別人のように見えた。それでいて、宝石は赤井さんの耳にあるべきものに見えた。たとえ少し古い造りのものをつけても、まるで王室のティアラのように受け継がれてきた歴史あるものに見えた。高価な装飾品や食品等はなぜあるのか、僕にはあまり理解ができなかったが、赤井さんのためにあるのだと理解できた。
 八木さんは、優しくて、面白かった。八木さんとはドラマで夫婦役として共演した。映画の中で大学生であった八木さんと高校生の僕の間に子どもができて、家族や子どもに振り回されながらも成長していくという人間ドラマだった。ドラマの中で僕は、高校生で子どもができたことに混乱した。家族やアルバイト先に相談していく中で、子どもがいても学校を卒業することも、就職活動をすることも、できるのではないかと考えた。周囲の協力を得てなんとか新卒として就職をして、社会に出た。そして社会に出てからも、時短勤務をしながらなんとか子育てに関わっていくという話でドラマは続いた。僕は結婚をしたこともないし、子どもができたこともないから、父親を演じる自信が全くなかった。そんなときに八木さんは何度でも相談に乗ってくれたし、経験をしたことのないものを演じる心構えを教えてくれた。それだけではなく、僕は八木さんから優しさの概念を教えてもらった気がする。もともと、仕事をする際に周囲の人を笑顔にしようと考えたのはおそらく八木さんを真似したところから始まった。
 八木さんは、優しくて、しかも面白かった。優しいだけでも十分なのに、しかも面白いなんてずるいと思った。しかし、八木さんが優しいということに気づくまでにはとても時間がかかった。なぜなら、八木さんは優しさを隠すことがとても上手だったからだ。でも、優しさを隠す意味が僕には分からなかった。なぜなら、僕にとっては優しさも、努力も、見せることで他人から応援を得るための手段の一つだったからだ。
 なぜ八木さんが優しさを隠していたのかと考えたが、おそらく八木さんは野生の天使だったからだった。「野生の」とつけてしまうほどに、八木さんの見えるようでいて見えない優しさは野に放っておくにはあまりにも危険に感じられた。
 しかし、八木さんとはドラマの仕事が終わってしまうのと同時に会えなくなってしまった。だから僕は、八木さんをなぞらえて周囲を笑顔にすることで、八木さんの存在を今でも感じている。
 後藤さんは、規範そのもので、粘り強かった。後藤さんはトーク番組の先輩だった。そして、後藤さんは僕が失敗をしても僕のことを見捨てなかった。初めに僕が番組に参加するようになったときにはすでに、後藤さんは番組の顔だった。いつでも後藤さんは番組のために一番尽力していて、後藤さんが一言意見を話せば後藤さんの意見が規範になった。
 規範を作りだす後藤さんの前で、僕は何度も失敗した。特に少し年上の相手と話すとき、僕は失敗に失敗を重ねた。たとえ話したいことがいくつも浮かんでも、何を話しても失礼なのではないかと考えてしまい、何も話せなかった。また考えて、何も話せない状況に追い込まれてやっと話せたことは度々見事に相手の地雷を踏み抜いてしまった。
僕が過ちを犯すと、後藤さんは僕に注意をしてくれた。注意をされると僕は話す力を完全に失って、真顔で「はい。」と答えることしかできなくなった。ついには、頑張ったことが認められなくて悔しくなり、態度は生意気になった。もはや頑張っても認められないのなら頑張る意味はないと考えてしまった。ただ、注意されたことは繰り返さないように書き残した。なんとか、言われたことだけは直すという当たり前のことだけが僕にもやっとできる仕事の仕方だった。一度後藤さんには、「言葉にすれば分かるのだね。」と言っていただいたことがあった。そのとき、僕は僕に限らず皆言葉にしなければ分からないだろうと思ってしまった。実際に、後藤さんは僕に小さなことでも言葉で伝えたいことを伝えてくださるようになった。失礼なことに、生意気な態度をしてしまった僕に、言葉で伝えて頂けるなんてありがたいと思った。だから、後藤さんから言葉にしてもらったものをすべて書き残して学んでいこうと思った。
 同じ番組に田中さんという年下の女性がいたのだが、田中さんは相手の突っ込んでほしいところを突っ込み、地雷には絶対に近寄らず、さり気なく相手を褒めて認めた。残念なことに失敗ばかりの僕とは本当に逆だった。田中さんにとっては、僕が言葉で伝えて頂かなければ分からないことが自然と分かっているようにも見えた。それに対して僕は、いつ後藤さんに見損なったと思われるかと怯えながら、後藤さんが僕を見捨てないでくださっていることに本当に感謝して日々勉強をした。
 不思議なことに後藤さんは、僕の動作や口調で品がいいと初めから好ましく感じてくださっていたようだった。僕は、後藤さんに認められたいと思った。だが、後藤さんは僕より先に番組を卒業してしまった。後藤さんが卒業してから徐々に、後藤さんが求めていた規範を周囲は忘れていった。規範がなくても、番組は最初から変わらなかったかのように楽しく進んだ。その中で僕だけが規範にしがみついていて、いつどの程度手放せばいいのか分からなかった。なぜなら、僕の中の後藤さんは僕のことをずっと見ているように感じたからだ。でも実際には後藤さんは後藤さんが働く場所で無我夢中に働いていて、輝いていた。実際には、僕のいる場所には、もう後藤さんはいなくなっていた。だから僕は、無我夢中の働きをする後藤さんに恥じない僕であろうと思った。僕は僕が今働いている場所で、今一緒に働く人と精一杯働こうと思った。
 田中さんは、冷静で、落ち着いていた。田中さんとは映画で共演したあと現在もトーク番組を一緒にやっているのだが、田中さんと僕は仕事以外の付き合いが一切なかった。ただ、映画の内容は田中さん演じる女子高生が僕演じる冴えない塾講師に迫ってくるというものだった。
映画の演出上、田中さんと僕は体を近づける場面が多くあったのだが、田中さんと体同士が近づくと、近づくことへの違和感に唾を何度も飲まずにはいられなかった。まるで、僕と田中さんは近づくべきじゃないから脳が離れろと命令をするようだった。作品を見た方々からは初々しく意識しているように見えると書かれることもあった。しかし、僕はむしろ無意識に体が離れようとするのを意識的に近づこうと努力していた。
 トーク番組の仕事をする以上はあまり仲が悪そうに見えても、視聴者に不快感を与えるだろうと考えた。だから僕は、仕事のために田中さんの考え方を知ろうと努めた。そして僕が田中さんと出会ってから数日くらいのある日、田中さんに笑いかけながら話をした。それに対して田中さんは笑っている口の形を作って、体をのけぞらせて笑っていることを表現した。驚いたことに、僕は僕の体温が氷点下まで下がったのを感じた。おそらく田中さんは、楽しくなくても笑っていることを全身で主張して、今まで生きてきたのだと思った。そして、笑っていることを全身で表現しなければいけない相手だと僕のことを認識したのだと思うと悲しくなった。まるで笑うことは田中さんの中の自然の摂理の内には存在しないようで、人と関係を構築するための道具でしかないことを懸念した。失礼なことに、何が楽しくて生きているのだろうかと本気で心配になってしまった。ただ、会ってから日を重ねるごとに次第に自然に笑っているように見えたからとても安心した。おそらく慣れない相手とは特に笑うことが難しいのだろうと勝手に予測をした。もしかすると、笑うことが得意ではないが笑いたいと苦労を重ねた結果笑うことを主張したのかもしれなかった。ただ、正直なことを言えば現在も、内心では何を考えているか分からなかった。
 田中さんと仕事をし始める前、僕は八木さんと仕事をしていた。八木さんと関わる中で、僕は完全に自分への自信を失っていた。なぜなら八木さんは野生の天使だったからだ。野生の天使に比べると僕はどうしようもなく馬鹿で幼くて、配慮が足らなかった。だから、大人になりたいと、人間になりたいと何度も切望した。
 完全に自分への自信を失った僕に、田中さんは何度も仕事の仕方を聞いてくれた。僕は僕にもできることがあるのだと段々自信をつけていった。もちろん田中さんに限らず、年下の方に対しては、僕は何でもしたくなった。いつでも後輩の力になりたくて、願わくは後輩に初めて何かを教えた存在として覚えられたいと思うと体が勝手に動いた。
 しかし段々と、田中さんが知らなくて僕が知っていることはほとんど無くなった。しかも、田中さんは話し方も、年上の方への頼り方も上手で、よく好かれた。たとえば、僕のことを初めに明るい人間として評価したものの、細かい配慮が抜けていたことに気付いて失望する方がいたのに対して、田中さんはどんどん信用を重ねて、多くの方に信頼されていった。すぐに、トーク番組でも僕が年下の田中さんにフォローをしてもらうという役割で笑いを取るという流れが定着した。格好悪いことに、僕は恥ずかしかった。初めから僕が年上で田中さんが年下という関係性でなければ、田中さんの目に僕が映らないことは分かっていた。残念なことに、僕にできることは田中さんの悪いところを見つけて自分を慰め、たまに田中さんの悪口を言ってしまっては自分の印象を悪くするくらいだった。
 田中さんの知人には言わないように心がけている田中さんの欠点を言わせてもらうならば、田中さんは相手がいないところで、悪口を言った。僕が言えたことではないが、思えば田中さんは表面上何も起きないことを重視しすぎているように見えた。また、田中さんは、表面上は相手を嫌いであることが分からないようにしていることがあった。たとえば、今までの方法を全て変えるように命令した相手や、努力して田中さんが考えたものを頭から否定した相手を田中さんは本当に嫌いで早く辞めてほしいと話していた。しかし、田中さんが嫌っていることを話すまでは僕は田中さんが嫌っていることに全く気付かなかった。むしろ僕は嫌なことがあるとすぐに反抗的な顔をしてしまうのに対して、田中さんは笑顔で「やめてくださいよ。」と言っていたから、意地悪なことを言われても上手に対応できていて羨ましいと感じていた。大人気ないが、僕は田中さんを怖いと思った。おそらく僕が田中さんを苦手だと思う以上に田中さんは僕を苦手だと思っていることが予想された。そして田中さんは、たとえ僕のことを嫌いでも笑いかけるのだろうと思うと、頭の芯から冷たさが広がっていくような感覚がした。時々、僕が嫌われて陰口を言われている場面を想像すると、僕はうまく笑えなくなった。さらに、田中さんが嫌いな人に対して笑いかけていたことを思うと、僕は全員が自分のことを嫌いであるように見えて誰にも笑いかけることができなくなった。しかし視点を変えれば、僕も時々苦手な相手に苦手な点を指摘しているにも関わらず、やはり田中さんに笑いかけながらも、一方で田中さんの優秀さに嫉妬して悪口を言ってしまうことがあった。そう考えるとあるいは陰口は、嫌いかどうかに関わらず、単に相手の評価を落とすことを目的とした攻撃であると解釈することもできた。もし陰口が相手の攻撃を目的としているのであれば、僕はうまく笑って徹底抗戦をする自信があった。自己中心的な考え方だが、僕が笑うことを目的とするのであれば陰口を言う人間が何を考えているにしろ、僕に嫉妬した僕への攻撃だと見なすことは有効だった。とはいえ、仮に可愛くて小さくて優しい田中さんが僕の陰口を言ったとすれば、僕はあまりの動揺に何も考えられずに白旗を掲げただろう。
 話は変わるが、田中さんは時偶嘘をついた。たとえば、特に急用ではないのに本当に用事があると言って帰ったりした。田中さんにとっては、現実的に考えて嘘とわかる嘘はむしろ大人として波風を立てないための伝達手段だったのかもしれなかった。だからなのか、現実的に考えて方便と呼べる範囲内の嘘をよくついた。そして僕は田中さんが嘘をついたとき、自分が田中さんに嘘をつかせてしまったことを残念に感じた。同時に、使わなくてもいい方便で、信用を少し失えばいいとさえ感じた。とはいえ僕も、帰らなきゃいけないと理由にならない理由を言い残し、あからさまに走って帰ることがあった。冷静に考えて、田中さんも僕も誤魔化している点では変わらなかった。変わらないけれど、僕は少しでも嘘を本当にしたくなった。田中さんは多分嘘を方便にしたがったのかもしれなかった。
 他に田中さんは向かい合って通り過ぎるときに見なかったふりをすることも、明らかに聞こえていた話を聞こえなかったふりをすることもあった。田中さんは、気づかないふりをするという嘘をついてでも、沈黙を相手に伝えていたのかもしれなかった。もしかすると、沈黙を愛して、守り抜いていたのかもしれなかった。あるいは僕は楽しさを愛していて、田中さんは多分沈黙を愛していた。田中さんにとって沈黙は多分正に金だったのだろう。
 時折田中さんは自分に利益をもたらさない年下の人間が目に入らないのか、挨拶をされても無視をしてしまうことがあった。僕は、田中さんにとって沈黙は大切な伝達の手段であることを知っていたし、悪意を込めて無視をしているのではないことを知っていた。
 ときには、田中さんが怖いから仕事を辞めたいと後輩から相談を受けることもあった。その際には、田中さんも忙しくて心に余裕がないときもあるし、もしかしたら先輩として少し格好をつけているのかもしれないですねなどと冗談めかして伝えて少し笑ってくれないか試してみた。後輩は、「そうですよね、田中さんも忙しいですもんね。」とひとまず辞めずに踏みとどまってくれた。後日田中さんにも、後輩への対応の仕方について聞いてみる機会があった。
「そういえば田中さん、後輩に対してこんなふうに接していきたいなっていう方針とかあったりするの?」
「急にどうしましたか?そんな偉そうなこと考えてないですよ。」
「そうなの?偶に後輩に対して怖く接しているみたいに見えるときもあるから、やっぱり先輩として後輩の気持ちを引き締めたり、発言力を高めたりとか考えているのかなって思って。」
「怖い?私のことが怖いですか?」
「うーん。中には怖い先輩がいて仕事を辞めたくなってしまうっていう子もいるみたいだから、例えば挨拶とか話しかけられたときに一応悪意がないことを示していただけると後輩も安心できると思う。もちろん、田中さんも忙しいことも多いと思うから心に余裕があるときに心に留めておいていただけるとありがたいな。」
「いや私は怖くないと思いますけど。」と言いながらも、その後田中さんの後輩への対応が柔らかくなった気がしますという後輩からの報告を受け、ひとまず安心をした。
 おそらく僕は周囲の温度を上げることが得意で、田中さんは下げることが得意だった。僕だけでは熱を下げる術を持たないまま熱に浮かされ続けてしまった。たとえば好奇心に抗えず、楽しければいいと思ってしまう僕の行動も田中さんが見ていると感じると動けなくなった。また、楽しさを優先させて御座なりになってしまいがちな現場の雰囲気も田中さんがいるとはっきりと引き締めてくださった。僕も時々は田中さんの後輩への冷たい行動に悪意がないことを伝え、田中さんへの誤解が減らせたらありがたいと望んでいた。もちろん、互いが存在していることで消えてしまう僕らの良さもあったのだろう。でも、互いが存在しているからこそ止められる過ちがあり、生まれる奥深さや面白さがあると感じた。
特に田中さんは、誰とでもそつなく関係性を構築できて、信頼されていた。僕は信頼される自信はなかったが、誰とでも親しくなれる自信があった。二人とも関係を構築する術は持ち合わせているはずなのに、それでも田中さんと僕は、驚くほどに考え方が真逆で、話が噛み合わないことがあった。僕はなんでも楽しい方がいいだろうと考えていた。なかでも新しいものをいつも探していて、見つけては興奮していた。できることなら新しいことを一生知り続けたかった。
 しかし、田中さんは新しいことがあまり起こらず、冷静でいられることをおそらくは望んでいた。ただ、田中さんの考えはあまりにも理解ができないので、僕の考えでは推測の域を出ることができない。実は全く違うことを考えているのかもしれない。たとえすべてを理解できたとしても、互いに本気で思っているのか信じられないのだろう。
 そして僕にとって多分田中さんは天敵でもあった。冷静沈着な人が苦手だなんて僕自身も変だと思った。ただどこか、自分だけが悪に気づいているかのような高揚感がまるで映画のようで興奮した。田中さんからすれば、僕が楽しいことを探してはいつも他の人と笑って話しているだけで周囲と親しくなっていることが理解できないようだった。
また、田中さんと話していると、自分の嫌な面が出てしまった。思わず田中さんに嫌な言葉をぶつけてしまった。優しくしようと何度思っても嫌な言葉が出てくるのは最悪だった。田中さんと話していると、田中さんにも周囲の方々にも僕の嫌な面を見せてしまうことになるから、なるべく田中さんと話すのは避けたくなった。
 田中さんと僕は真逆だということばかり僕は感じてしまったが、探せば共通点もあった。時々、番組に遊びに来てくださることがあった八木さんに好かれたことだ。僕は初め真逆の僕たちのどちらも好いてくれる八木さんが理解できなかった。八木さんは田中さんも僕も周囲をよく観察しているところが似ていると言った。周りを観察したうえで、田中さんは周囲の現実を改善した。だが、僕は現実を変えようと努めるのは得意ではなかった。だからせめて僕は周囲の考えを受容して周囲を笑顔にしようとした。ほとんどの人は田中さんの方を信頼していた。田中さんもまた、きちんと専門的に仕事をする人間を信頼していた。それば当たり前のことだった。現実の課題に対して真面目に取り組まない人間を応援も信頼もしたいとはあまり思わなかった。田中さんに比べたら、僕は笑ってばかりで役に立たない寄生虫に思えることもあった。例外として僕のような人が僕のことを好いてくれたときもあったが、僕のような人は田中さんのことが苦手であることが多かった。もしかすると、八木さんにとっては、周りをよく観察していることが重要で、現実を改善しても、笑顔にしても、状況を変えようと奮闘することに魅力を感じてくれたのかもしれなかった。僕と田中さんにとっては価値観が真逆でも、八木さんにとっては同じように評価してもらえることは、僕にとっては救いだった。八木さんはやはり僕を救い、教え導いてくれる天使だった。
それでもやはり、田中さんの価値観は僕の価値観とはあまりにも真逆だったので、田中さんの価値観は俺の価値観を理解するためにとても効果的だと感じた。だから、田中さんと一緒に仕事ができてよかったと思うこともあった。だけど、田中さんと俺が二人で同じ意思を決定することはとても難しかぅた。なぜなら、お互いにお互いの考えが全く理解できなかったからだ。
だから、田中さんとは仕事で繋がりが無くなったら、本当に一生会うことはないのだろうと思った。でもだからこそ、理解ができなくて必死に相手を理解しようとする今が少し愛おしく感じたし、仕事で出会うことができてよかったと感じた。
 以前、六つある円卓のどの位置の座席に自分の知り合いが座ってほしいか想定をする心理テストをやったことがあった。この心理テストの一番の目玉は、自分の左隣に座ってほしいと思う人物が自分の本命の相手であるというものだった。それに対して、自分の向かいに座ってほしいと思ったのは田中さんだった。向かいに座って欲しいのは、恋愛感情はないが、一番信頼している人間だそうだ。一番信頼している方と一緒に仕事をできるなんて、なんて幸せなことだろうと感じた。
 僕にとって田中さんはまさに仕事でしか会わない人だった。そして、仕事で出会えたことがありがたい人だった。