表示設定
表示設定
目次 目次




第4章~第10話 ダニング・クルーガー効果③~

ー/ー



 相変わらず高校生とは思えないほど、スラスラと講義を行う上級生の解説を聞き終えた私は、感じたことを素直にたずねてみることにした。

「ようするに、本人の才能よりも努力を褒めるべきだ、ってことですよね? 良いこと言ってるなって、個人的には思いますけど……」

 私の疑問にネコ先輩は、即答する。

「もちろん、ワタシもこうした考え方を持つことが間違っていると言いたい訳ではない。ただ、こうであれば良いという理想的な考え方と、実験の結果を混同してはいけない、ということだ」

「それじゃあ……もしかして、この実験も再現性に疑問が持たれている、と……」

「そのとおりだよ、さすがはネズコくんだ。ワタシが見込んだ一年生だけはある」

「えっ、ちょっと! 再現性が無いって、この実験って、そんな、あやふやなモノだったの?」

 私たちの会話を聞いていた宇佐美先生は、軽くショックを受けたように、ネコ先輩に問いかけた。その疑問に、答えた彼女は、

「はい。この『マインドセットワーク』の再試験を行った複数の心理学者たちは、こう主張しています」

以下の3つの懸念点を示した。

 1.ドゥエック氏の研究結果を再現しようと何年も試みてきたが、毎回失敗に終わり、同僚たちも同様に成功していない。
 2.ドゥエック氏は、他の心理学者たちが適切な実験環境を整えていないと主張し、これらの失敗について説明しているが……こうした実験環境を整えることは、あまりにも繊細な作業だ。しかし、心理学の教授でさえ結果を再現できないのであれば、手に負えない子供たちに囲まれた教師たちには一体何の希望があるというのだろうか?もし、この効果が(厳密に管理された条件下で)しか再現できないほど脆弱であるなら、なぜ教師がそれを再現できると考えるのか?
 3.マインドセットは、単に子供の評価・評価の対象の一つになってしまったのではないか? 知能は根本的に遺伝的でも不変でもないという事実を深く掘り下げるのは素晴らしいことだが……マインドセットの限界はその有用性を上回る。なぜなら、マインドセットは失敗を個人化してしまうからだ。テストをクリアできなかったのは、「自分が考え方を変えることができなかったから失敗したんだ」と……。
  
「じゃあ、マインドセットワークを実際の教育に取り入れるのは……」

「端的に言うと、無批判に取り上げるべきではない、ということでしょうね。実際、2019年7月に、イングランドの教育基金財団が行った、成長マインドセット・トレーニングに関する大規模なランダム化比較試験によると―――。全国101校・5018人の生徒が参加した試験の結果、褒め方の介入を受けた学校の生徒は、対照群の生徒と比較して、読み書き能力と計算能力において特別な進歩は見られなかったことがわかったそうです」

「そ、そうだったんだ……」

 宇佐美先生は、あきらかに打ちひしがれているようすだった。

 そりゃ、無理もないか……大学時代に専門知識として、習得したはずの常識が、教え子の高校生に否定されたんだから―――。

 ただ、これじゃ、主人公が周囲の無知蒙昧なキャラクターを論破していくだけの「なろう系無双展開」になってしまう。そもそも、宇佐美先生は、(ちょっと変な相談も持ち込んでくることもあるけど…)別に論破してギャフンと言わせなければならないような言動をしていた訳でもないし……。

(このまま終わったら、ちょっと後味が悪くない―――?)

 そう感じた私は、この空気を少しでも変えようと、少し本題から離れる話題を先輩に振ってみる。

「どうして、ドゥエックは、こんな結論を導こうとしたんでしょうか?」

「うむ……うがった見方かも知れないが、それは、彼女の生い立ちに関係があるのかも知れないな。博士は、小学生の頃の自分について、こんなことを語っている。彼女が通っていたニューヨーク州ブルックリンの小学校の6年生のクラスでは、生徒たちはIQ順に着席し、黒板を消したり旗を運んだりといった役割はIQの高い生徒に与えられていた。彼女は後に、スペリング大会やフランス語コンテストへの参加を避けることで『クラスで最も頭のいい生徒という評判を落とすことをますます恐れるようになった』と述べている。まさに、彼女が行った実験で、頭が良いと褒められたグループの子どもと行動と同じだな」

「そんな個人的な動機で……ちょっと、人間味があって良いかもですけど―――まるで、半年前に、初めて行った実験で日辻先輩の異性の好みを変えようとした誰かさんみたいですね」

「やめてくれたまえ! ワタシは、実験の結果を牽強附会して、事実を捻じ曲げたりしようとはしていないぞ?」

「あれ、そうですか? その割には、九院さんや桑来さんみたいに、私たちに気兼ねなく接してくれるギャル系の女子が目の前にいるのに、『陰キャに優しいギャルなど存在しない』と頑なに言い張っていたじゃないですか?」

「あれは、ヨウイチが、万が一にもそうしたあり得ない理想を抱いていたら、その幻想をぶち壊してやろう、と考えていただけで……」

 しどろもどろになるネコ先輩のようすを見ていると、私だけでなく、さっきまで気落ちしているように見えた先輩のクラスを受け持つ担任の先生もクスクスと声を上げて微笑む。

 そんな担任教師に、先輩は優しく声をかけた。

「落ち込まないでください、宇佐美先生。こうした再現性の問題は、心理学に限らず科学実験には付き物と言って良いくらいにありふれた事象でもあります。こうしたことを踏まえて、先生が準備するレポートは、『通説にとらわれないことが重要だ』というテーマで書かれてはいかがでしょうか? そのために、生物心理学研究会の活動として、ダニング・クルーガー効果の実証性について疑問を呈する再現実験を行おうと思います」

 そうして、ネコ先輩は、私の目を見据えて宣言する。

「無論、協力してくれるね? ネズコくん、さぁ、実験の時間だよ!」


スタンプを贈って作者を応援しよう!



みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 相変わらず高校生とは思えないほど、スラスラと講義を行う上級生の解説を聞き終えた私は、感じたことを素直にたずねてみることにした。
「ようするに、本人の才能よりも努力を褒めるべきだ、ってことですよね? 良いこと言ってるなって、個人的には思いますけど……」
 私の疑問にネコ先輩は、即答する。
「もちろん、ワタシもこうした考え方を持つことが間違っていると言いたい訳ではない。ただ、こうであれば良いという理想的な考え方と、実験の結果を混同してはいけない、ということだ」
「それじゃあ……もしかして、この実験も再現性に疑問が持たれている、と……」
「そのとおりだよ、さすがはネズコくんだ。ワタシが見込んだ一年生だけはある」
「えっ、ちょっと! 再現性が無いって、この実験って、そんな、あやふやなモノだったの?」
 私たちの会話を聞いていた宇佐美先生は、軽くショックを受けたように、ネコ先輩に問いかけた。その疑問に、答えた彼女は、
「はい。この『マインドセットワーク』の再試験を行った複数の心理学者たちは、こう主張しています」
以下の3つの懸念点を示した。
 1.ドゥエック氏の研究結果を再現しようと何年も試みてきたが、毎回失敗に終わり、同僚たちも同様に成功していない。
 2.ドゥエック氏は、他の心理学者たちが適切な実験環境を整えていないと主張し、これらの失敗について説明しているが……こうした実験環境を整えることは、あまりにも繊細な作業だ。しかし、心理学の教授でさえ結果を再現できないのであれば、手に負えない子供たちに囲まれた教師たちには一体何の希望があるというのだろうか?もし、この効果が(厳密に管理された条件下で)しか再現できないほど脆弱であるなら、なぜ教師がそれを再現できると考えるのか?
 3.マインドセットは、単に子供の評価・評価の対象の一つになってしまったのではないか? 知能は根本的に遺伝的でも不変でもないという事実を深く掘り下げるのは素晴らしいことだが……マインドセットの限界はその有用性を上回る。なぜなら、マインドセットは失敗を個人化してしまうからだ。テストをクリアできなかったのは、「自分が考え方を変えることができなかったから失敗したんだ」と……。
「じゃあ、マインドセットワークを実際の教育に取り入れるのは……」
「端的に言うと、無批判に取り上げるべきではない、ということでしょうね。実際、2019年7月に、イングランドの教育基金財団が行った、成長マインドセット・トレーニングに関する大規模なランダム化比較試験によると―――。全国101校・5018人の生徒が参加した試験の結果、褒め方の介入を受けた学校の生徒は、対照群の生徒と比較して、読み書き能力と計算能力において特別な進歩は見られなかったことがわかったそうです」
「そ、そうだったんだ……」
 宇佐美先生は、あきらかに打ちひしがれているようすだった。
 そりゃ、無理もないか……大学時代に専門知識として、習得したはずの常識が、教え子の高校生に否定されたんだから―――。
 ただ、これじゃ、主人公が周囲の無知蒙昧なキャラクターを論破していくだけの「なろう系無双展開」になってしまう。そもそも、宇佐美先生は、(ちょっと変な相談も持ち込んでくることもあるけど…)別に論破してギャフンと言わせなければならないような言動をしていた訳でもないし……。
(このまま終わったら、ちょっと後味が悪くない―――?)
 そう感じた私は、この空気を少しでも変えようと、少し本題から離れる話題を先輩に振ってみる。
「どうして、ドゥエックは、こんな結論を導こうとしたんでしょうか?」
「うむ……うがった見方かも知れないが、それは、彼女の生い立ちに関係があるのかも知れないな。博士は、小学生の頃の自分について、こんなことを語っている。彼女が通っていたニューヨーク州ブルックリンの小学校の6年生のクラスでは、生徒たちはIQ順に着席し、黒板を消したり旗を運んだりといった役割はIQの高い生徒に与えられていた。彼女は後に、スペリング大会やフランス語コンテストへの参加を避けることで『クラスで最も頭のいい生徒という評判を落とすことをますます恐れるようになった』と述べている。まさに、彼女が行った実験で、頭が良いと褒められたグループの子どもと行動と同じだな」
「そんな個人的な動機で……ちょっと、人間味があって良いかもですけど―――まるで、半年前に、初めて行った実験で日辻先輩の異性の好みを変えようとした誰かさんみたいですね」
「やめてくれたまえ! ワタシは、実験の結果を牽強附会して、事実を捻じ曲げたりしようとはしていないぞ?」
「あれ、そうですか? その割には、九院さんや桑来さんみたいに、私たちに気兼ねなく接してくれるギャル系の女子が目の前にいるのに、『陰キャに優しいギャルなど存在しない』と頑なに言い張っていたじゃないですか?」
「あれは、ヨウイチが、万が一にもそうしたあり得ない理想を抱いていたら、その幻想をぶち壊してやろう、と考えていただけで……」
 しどろもどろになるネコ先輩のようすを見ていると、私だけでなく、さっきまで気落ちしているように見えた先輩のクラスを受け持つ担任の先生もクスクスと声を上げて微笑む。
 そんな担任教師に、先輩は優しく声をかけた。
「落ち込まないでください、宇佐美先生。こうした再現性の問題は、心理学に限らず科学実験には付き物と言って良いくらいにありふれた事象でもあります。こうしたことを踏まえて、先生が準備するレポートは、『通説にとらわれないことが重要だ』というテーマで書かれてはいかがでしょうか? そのために、生物心理学研究会の活動として、ダニング・クルーガー効果の実証性について疑問を呈する再現実験を行おうと思います」
 そうして、ネコ先輩は、私の目を見据えて宣言する。
「無論、協力してくれるね? ネズコくん、さぁ、実験の時間だよ!」