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第三十話 根回しと潜入

ー/ー



 ――梔子(くちなし)領 某所。

 普賢多聞(ふげんたもん)は、蘇芳の北西に位置する梔子(くちなし)領を治める領主である。
 この日、多聞(たもん)は愛用している二振りの太刀をお抱えの鍛冶師に手入れさせ、その帰路についていた。

多聞(たもん)様、そろそろ昼です、一度お休みになられては」
「そうじゃのう。もう少し行かば開けた場所があったであろう。そこで休むとしようか」

 従えている兵は傍仕えと歩兵が七人。
 領主は馬に乗っており直ぐにでも逃げられるとはいえ、領主の護衛としては異例の少なさである。

「しかし、御身自らが赴かれずとも、鍛冶師を館まで呼べばよかったのでは……?」
「余計な仕事を頼んでおるのは此方じゃ。まして麻呂の命を預かる太刀を拵える職人ぞ。直接此方から出向くのが礼儀というものじゃ」
「はぁ、そういうものですか」
「ほほほ」

 優雅に笑った多聞(たもん)の出立は、お歯黒に白塗り、麻呂眉という姿で領主というよりは貴族……公家のようであった。
 
 そんな立場の多聞(たもん)がわざわざ出かけてまで武器の整備へ赴いたのは、彼が何よりも職人の腕を信頼しているからであった。
 当然、普段から自分でも自らの武具の維持管理はしているが、領主と言ってもその分野では素人。
 餅は餅屋、といった具合に、多聞(たもん)は定期的にその道の職人に整備を頼んでいるのである。

「して、御館様。蘇芳領主様からの急報にはどのようにお返事をなさるのですか?」
「ん?ああ、義弟(おとうと)殿からの手紙か。それはもう心に決めておるが……」

 多聞(たもん)が言葉を途中で止めたことに、傍仕えの顔に疑問が浮かぶ。
 そんな傍仕えの様子をよそに、多聞(たもん)は馬の足を止めて周囲を見回して、よく通った重みのある声で呼びかけるように告げた。

「出ておじゃれ。隠れていても獣は匂いで分かりまするぞ」
「!!」

 その言葉に、周囲の兵達が一斉に色めき立つ。
 
 多聞(たもん)を守るように周囲を固め、周囲の様子の変化を見逃さないようつぶさに観察を続けた。
 だが多聞(たもん)の言葉は周囲の木陰に吸い込まれるばかりで、周りにこれと言った反応は無い。

「臆したか?それとも女狐殿の弟君の兵は人の言葉が理解できぬか?」

 多聞(たもん)が煽ると、ようやく木陰からぞろぞろと複数の影が姿を現す。
 その数二十。
 鎧は最低限ながら動きやすそうな姿を見るに、この刺客たちは暗殺が目的かと多聞(たもん)は見当をつける。

「ほほほほ。たったこれだけか。麻呂も舐められたものじゃのう」

 多聞(たもん)の言葉に、刺客たちはそれぞれ戦闘態勢をとる。
 なるほど、動きはなかなか洗練されている。
 しかしその程度では、多聞(たもん)にとってみれば退屈しのぎにもならない相手であった。

「お主たちは手を出さず、自分の身を守っておれ」
「はっ」

 ゆるりと太刀の一本を抜いた多聞(たもん)が、馬上から周囲を見渡して言う。
 その声色は決して刺客に囲まれた獲物が出すようものではない。
 
 この程度の人数では、梔子(くちなし)領主の首を取ることなどできない。
 傍仕えの男もそれを分かっているからこそ、多聞(たもん)の言葉に素直に従い、邪魔にならないようにその間合いの外へ逃れる。

「どれ、整備してもろうたばかりで丁度試し斬りをせねばと思っておったところじゃ。遠慮なく来るが良い。三枚に下してやろう」

 悠然としている多聞(たもん)に対し、狼狽したのは刺客たちだった。
 獲物とは思えぬその異質な様に、狩る側が(おのの)いたのだ。
 
 いや、もはやその立場は逆転していた。
 今この場で狩る側に立っているのは、紛れもなく多聞(たもん)だった。

「……っ……!」

 斜客の手に、額に嫌な汗が流れる。
 今この瞬間、刺客の身体は喰われる側として石のように指ひとつ動かなくなって、声ひとつ出せなくなっていた。

「ほほほ、どうした。そちらから来るのでは無いのでおじゃるか?では……」
「……なっ……!?」

 瞬間、多聞(たもん)の姿が馬上からかき消えた。
 それを認識した直後に聞こえたのは悲鳴。
 慌てて刺客が振り向けば自分の後ろで包囲に加わっていた筈の仲間が二人、物言わぬ骸となって転がっていた。

「ふむ。やはりこの格好ではちと動きづらいの」

 調子を図る様に軽く跳んで見せた多聞(たもん)が、あっけからんという。
 その言葉で、ようやく先ほどの現象を刺客は理解する。
 多聞(たもん)は馬の鞍の上から跳躍したのだ。

(こいつは……ヤバい……)

 目の前では、(やぶ)の中に逃げていく仲間たちが次々と斬り殺されていく。
 梔子(くちなし)領の領主は貴族かぶれの愚か者と主から聴いていた。
 それがどうだ。この様は。
 新しく革命を起こすといった主は、多聞(たもん)がこのような実力者であることを知らない。

「せめてこの事態を人寿郎様へ……」

 刺客の言葉と意識はそこで途切れる。
 
 代わりと言わんばかりに重みのある音と共に転がった刺客の首は、時が止まったかのように驚愕と後悔に見開かれていた。
 終わってみれば後に残ったのは刺客達の死体だけ。
 多聞(たもん)はかすり傷ひとつ負わず、返り血すら浴びずに二十人の刺客を全滅させていた。

「やれやれ。刺客というから少しは楽しめると思ったのじゃが。麻呂としたことが二本目を抜く前に終わらせてしもうたわ」

 太刀の血を掃って鞘へ納めた多聞(たもん)は、期待外れとでもいいたげな表情だ。
 そんな多聞(たもん)へ、傍仕えは駆け寄ってきって無事を確認する。
 言うまでもなく無傷なのは分かっていても、主の無事を確かめるのは傍仕えとしての癖のようなものだ。

「お疲れ様です」
「うむ。苦しゅうない。そうじゃそうじゃ、義弟殿からの手紙の話であるが」
「は」
「力を貸すと返事をいたせ。麻呂にとっても瑠璃(るり)領主は義姉上じゃからのう。帰ったら直ぐに出立の準備をするぞえ」
「かしこまりました」
「急ぎ返事を出すのじゃぞ。麻呂の顔に泥を塗らぬようにな。さて」

 刺客は片付けた。
 であれば既に脅威は去り、このまま主として館へ戻るのが常だ。
 
 しかし多聞(たもん)の視線の先には、先ほどの刺客とは別の来訪者が映っていた。
 瑠璃(るり)領に出向いた先であればともかく、この辺りではあまり目にすることのない人物に、多聞(たもん)も心の中で僅かに面食らう。

「これは義兄(あに)上。お久しゅうございまする」

 その心中は表に出さず、あくまで優雅に微笑を湛えて声を掛けたのは、他でもない瑠璃(るり)領当主の伴侶、つまり義兄にあたる男だった。

 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 ――瑠璃(るり)領 矢車城。


「では桃殿、私はこれから工作部隊に合流し、下準備を行いますのでここで失礼いたします。ご武運を」
「ありがとうございました(おと)殿。あなたもお気をつけて」

 桃にとって初めての大戦に備え、恵比寿(えびす)から下された最初の命令は瑠璃(るり)領主の籠る城への潜入と作戦の伝達だった。
 その遂行の為、桃は乙の案内で矢車城が見渡せる小高い山へやってきていた。
 
 すでに辺りは陽が落ちかけ、月と星の灯りが空に灯り始めている。
 潜入と言っても一人でというわけではない。傍らには河童兄弟の弟分、カワベエがいる。
 
 カワベエ達河童兄弟が以前見せた、水脈を作り出して自在に移動する能力。
 
 今回の潜入に当たって、桃が真っ先に思い立ったのがこの能力の利用だった。
 凰姫を(さら)う事に利用していたことからも、人一人を運搬する事は可能だろうとアタリを付けていたのだ。

「それにしても、敵であった俺のことを本当に使うとはな」
「一応勝手なことが出来ないように、首輪をつけてるんだがな」
「犬っころみたいで嫌なんだが、こいつはなんか意味があるのか?」

 カワベエが自らの首に取り付けられた鎖状の首輪を指さして抗議する。
 大きさは緩くも窮屈でもない。首輪と首の間には人の指が一本入る余裕はあるが、当然意味もなくそんなものを付けたりはしない。

「俺の意思できつく締まる特別性だ。どういう理屈かは知らんが」
「逆らうつもりはなかったが、今の聴いて尚の事其の気が失せたぜ」

 首輪を付けさせた目的として、勿論逆らわないように、勝手なことをしないようにという意味合いもある。
 だがそれ以上に警戒しているのは、カワベエが敵の手に渡ることだった。
 
 カワベエを恵比寿(えびす)の元へ連れて行ったときに、恵比寿(えびす)はカワベエにある事を確認したのだ。

「なぜ、お前は狙われなかったのか心当たりはあるか」と。

 その問い掛けに対し、カワベエは恐らく自分にはその価値がないと思われたのだろう、と答えた。
 河童兄弟が使っていた水脈を利用した移動能力は潜入にはうってつけだが、その力をカワベエも扱えることは、兄のキスケの提案で伏せられていたという。
 
 それを聞いて、桃もキスケだけが殺された理由に納得できた。
 
 暗殺が起こった当時、その現場にカワベエがいなかったというのも大きいだろう。
 しかしそれ以上にカワベエは相手にとって、リスクを冒して暗殺を行うほど重要ではなかったのだ。
 
 キスケが暗殺されたのはカワベエよりも詳細に情報を握っていた事に加えて、能力をこちらに利用されることを嫌ったからだ。
 捕虜の救出は暗殺以上に難易度が高い。
 
 それもあって、敵は救出より暗殺を選んだのかもしれない。

「あの城でいいんだな?」
「ああ、あの城の中。領主の吉祥(きっしょう)様は恐らく最上部だろう」

 眼下に見える城は、廃棄が決定して防御機能を多くを失っているという。
 実際、その周囲には堀も無く簡単な土塁が築かれているのみで、あれで防衛線をこなすにはあまりにも頼りない。

 それでも存在感があるのは、この城がそれなりに大きいからだろうか。
 平地に走るいくつかの川を睥睨(へいげい)するように、小高い崖を背負って矢車城は聳え立っていた。

 建物自体は飾り気がなく、機能性を重視したものに見える。
 比較対象が周囲に少ないため目測での印象になるが、恐らく大きさとしては4階建てくらいはあるか。

 申し訳程度に築かれた土塁の壁と門扉を守る様に弓と長槍を携えているのは恐らく守備兵だろう。
 城壁には物見が数名。
 
 彼らの睨むその視線の先、位置関係としては城の南西側の周囲の開けた土地には、別の軍勢がいた。

 砦を威圧するようにひとつ、恐らくは敵方の軍勢だろう。
 敵方であろう軍勢は暫く門扉のあたりで守備兵と競り合っていたが、どちらにも大きな動きは無く、観察している間に攻撃していた兵の方が引き上げていった。

 事前の情報から恐らくはあとふたつ、城の西と東にそれぞれ陣を張っている軍勢がどこかにいるはず。
 数に任せて押しつぶそうとしないのは、やはり瑠璃(るり)領主についているという猛将を警戒しての事だろうか。

(兵糧が尽きればどちらにしろ力尽きる。それを狙って囲んでいるのか……)

 逃げてこの砦に身を隠していた瑠璃(るり)領主様の軍勢は、おそらくは兵糧の備えも十分でない。
 むしろここまでよく耐えたものだと思う。
 どちらにしても、状況が差し迫っているのは確かだった。

「あの時の姫さんみたいに気絶してるわけじゃないんだ。自分でしっかり捕まってろよ」
「息も止めた方がいいか?」
「それは大丈夫だ。俺達の身体に触れてさえいれば、加護で水中でも呼吸ができるようになる。俺達は元々水難から人を助ける魔物だったからな。あと田植えを手伝ったりもした」
「なるほど、だからあの時凰姫様は窒息せずに済んだわけだ」
「そういうこった。じゃあ行くぞ」

 カワベエの足元がぬかるみ始めて、固かった地面が徐々に液状化していく。
 カワベエの背の甲羅に捕まって息を止め、軽く蹴って合図をすると、カワベエはそのまま水に潜る様に地面の中へと飛び込んだ。



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 ――|梔子《くちなし》領 某所。
 |普賢多聞《ふげんたもん》は、蘇芳の北西に位置する|梔子《くちなし》領を治める領主である。
 この日、|多聞《たもん》は愛用している二振りの太刀をお抱えの鍛冶師に手入れさせ、その帰路についていた。
「|多聞《たもん》様、そろそろ昼です、一度お休みになられては」
「そうじゃのう。もう少し行かば開けた場所があったであろう。そこで休むとしようか」
 従えている兵は傍仕えと歩兵が七人。
 領主は馬に乗っており直ぐにでも逃げられるとはいえ、領主の護衛としては異例の少なさである。
「しかし、御身自らが赴かれずとも、鍛冶師を館まで呼べばよかったのでは……?」
「余計な仕事を頼んでおるのは此方じゃ。まして麻呂の命を預かる太刀を拵える職人ぞ。直接此方から出向くのが礼儀というものじゃ」
「はぁ、そういうものですか」
「ほほほ」
 優雅に笑った|多聞《たもん》の出立は、お歯黒に白塗り、麻呂眉という姿で領主というよりは貴族……公家のようであった。
 そんな立場の|多聞《たもん》がわざわざ出かけてまで武器の整備へ赴いたのは、彼が何よりも職人の腕を信頼しているからであった。
 当然、普段から自分でも自らの武具の維持管理はしているが、領主と言ってもその分野では素人。
 餅は餅屋、といった具合に、|多聞《たもん》は定期的にその道の職人に整備を頼んでいるのである。
「して、御館様。蘇芳領主様からの急報にはどのようにお返事をなさるのですか?」
「ん?ああ、|義弟《おとうと》殿からの手紙か。それはもう心に決めておるが……」
 |多聞《たもん》が言葉を途中で止めたことに、傍仕えの顔に疑問が浮かぶ。
 そんな傍仕えの様子をよそに、|多聞《たもん》は馬の足を止めて周囲を見回して、よく通った重みのある声で呼びかけるように告げた。
「出ておじゃれ。隠れていても獣は匂いで分かりまするぞ」
「!!」
 その言葉に、周囲の兵達が一斉に色めき立つ。
 |多聞《たもん》を守るように周囲を固め、周囲の様子の変化を見逃さないようつぶさに観察を続けた。
 だが|多聞《たもん》の言葉は周囲の木陰に吸い込まれるばかりで、周りにこれと言った反応は無い。
「臆したか?それとも女狐殿の弟君の兵は人の言葉が理解できぬか?」
 |多聞《たもん》が煽ると、ようやく木陰からぞろぞろと複数の影が姿を現す。
 その数二十。
 鎧は最低限ながら動きやすそうな姿を見るに、この刺客たちは暗殺が目的かと|多聞《たもん》は見当をつける。
「ほほほほ。たったこれだけか。麻呂も舐められたものじゃのう」
 |多聞《たもん》の言葉に、刺客たちはそれぞれ戦闘態勢をとる。
 なるほど、動きはなかなか洗練されている。
 しかしその程度では、|多聞《たもん》にとってみれば退屈しのぎにもならない相手であった。
「お主たちは手を出さず、自分の身を守っておれ」
「はっ」
 ゆるりと太刀の一本を抜いた|多聞《たもん》が、馬上から周囲を見渡して言う。
 その声色は決して刺客に囲まれた獲物が出すようものではない。
 この程度の人数では、|梔子《くちなし》領主の首を取ることなどできない。
 傍仕えの男もそれを分かっているからこそ、|多聞《たもん》の言葉に素直に従い、邪魔にならないようにその間合いの外へ逃れる。
「どれ、整備してもろうたばかりで丁度試し斬りをせねばと思っておったところじゃ。遠慮なく来るが良い。三枚に下してやろう」
 悠然としている|多聞《たもん》に対し、狼狽したのは刺客たちだった。
 獲物とは思えぬその異質な様に、狩る側が|慄《おのの》いたのだ。
 いや、もはやその立場は逆転していた。
 今この場で狩る側に立っているのは、紛れもなく|多聞《たもん》だった。
「……っ……!」
 斜客の手に、額に嫌な汗が流れる。
 今この瞬間、刺客の身体は喰われる側として石のように指ひとつ動かなくなって、声ひとつ出せなくなっていた。
「ほほほ、どうした。そちらから来るのでは無いのでおじゃるか?では……」
「……なっ……!?」
 瞬間、|多聞《たもん》の姿が馬上からかき消えた。
 それを認識した直後に聞こえたのは悲鳴。
 慌てて刺客が振り向けば自分の後ろで包囲に加わっていた筈の仲間が二人、物言わぬ骸となって転がっていた。
「ふむ。やはりこの格好ではちと動きづらいの」
 調子を図る様に軽く跳んで見せた|多聞《たもん》が、あっけからんという。
 その言葉で、ようやく先ほどの現象を刺客は理解する。
 |多聞《たもん》は馬の鞍の上から跳躍したのだ。
(こいつは……ヤバい……)
 目の前では、|藪《やぶ》の中に逃げていく仲間たちが次々と斬り殺されていく。
 |梔子《くちなし》領の領主は貴族かぶれの愚か者と主から聴いていた。
 それがどうだ。この様は。
 新しく革命を起こすといった主は、|多聞《たもん》がこのような実力者であることを知らない。
「せめてこの事態を人寿郎様へ……」
 刺客の言葉と意識はそこで途切れる。
 代わりと言わんばかりに重みのある音と共に転がった刺客の首は、時が止まったかのように驚愕と後悔に見開かれていた。
 終わってみれば後に残ったのは刺客達の死体だけ。
 |多聞《たもん》はかすり傷ひとつ負わず、返り血すら浴びずに二十人の刺客を全滅させていた。
「やれやれ。刺客というから少しは楽しめると思ったのじゃが。麻呂としたことが二本目を抜く前に終わらせてしもうたわ」
 太刀の血を掃って鞘へ納めた|多聞《たもん》は、期待外れとでもいいたげな表情だ。
 そんな|多聞《たもん》へ、傍仕えは駆け寄ってきって無事を確認する。
 言うまでもなく無傷なのは分かっていても、主の無事を確かめるのは傍仕えとしての癖のようなものだ。
「お疲れ様です」
「うむ。苦しゅうない。そうじゃそうじゃ、義弟殿からの手紙の話であるが」
「は」
「力を貸すと返事をいたせ。麻呂にとっても|瑠璃《るり》領主は義姉上じゃからのう。帰ったら直ぐに出立の準備をするぞえ」
「かしこまりました」
「急ぎ返事を出すのじゃぞ。麻呂の顔に泥を塗らぬようにな。さて」
 刺客は片付けた。
 であれば既に脅威は去り、このまま主として館へ戻るのが常だ。
 しかし|多聞《たもん》の視線の先には、先ほどの刺客とは別の来訪者が映っていた。
 |瑠璃《るり》領に出向いた先であればともかく、この辺りではあまり目にすることのない人物に、|多聞《たもん》も心の中で僅かに面食らう。
「これは|義兄《あに》上。お久しゅうございまする」
 その心中は表に出さず、あくまで優雅に微笑を湛えて声を掛けたのは、他でもない|瑠璃《るり》領当主の伴侶、つまり義兄にあたる男だった。
 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 ――|瑠璃《るり》領 矢車城。
「では桃殿、私はこれから工作部隊に合流し、下準備を行いますのでここで失礼いたします。ご武運を」
「ありがとうございました|乙《おと》殿。あなたもお気をつけて」
 桃にとって初めての大戦に備え、|恵比寿《えびす》から下された最初の命令は|瑠璃《るり》領主の籠る城への潜入と作戦の伝達だった。
 その遂行の為、桃は乙の案内で矢車城が見渡せる小高い山へやってきていた。
 すでに辺りは陽が落ちかけ、月と星の灯りが空に灯り始めている。
 潜入と言っても一人でというわけではない。傍らには河童兄弟の弟分、カワベエがいる。
 カワベエ達河童兄弟が以前見せた、水脈を作り出して自在に移動する能力。
 今回の潜入に当たって、桃が真っ先に思い立ったのがこの能力の利用だった。
 凰姫を|攫《さら》う事に利用していたことからも、人一人を運搬する事は可能だろうとアタリを付けていたのだ。
「それにしても、敵であった俺のことを本当に使うとはな」
「一応勝手なことが出来ないように、首輪をつけてるんだがな」
「犬っころみたいで嫌なんだが、こいつはなんか意味があるのか?」
 カワベエが自らの首に取り付けられた鎖状の首輪を指さして抗議する。
 大きさは緩くも窮屈でもない。首輪と首の間には人の指が一本入る余裕はあるが、当然意味もなくそんなものを付けたりはしない。
「俺の意思できつく締まる特別性だ。どういう理屈かは知らんが」
「逆らうつもりはなかったが、今の聴いて尚の事其の気が失せたぜ」
 首輪を付けさせた目的として、勿論逆らわないように、勝手なことをしないようにという意味合いもある。
 だがそれ以上に警戒しているのは、カワベエが敵の手に渡ることだった。
 カワベエを|恵比寿《えびす》の元へ連れて行ったときに、|恵比寿《えびす》はカワベエにある事を確認したのだ。
「なぜ、お前は狙われなかったのか心当たりはあるか」と。
 その問い掛けに対し、カワベエは恐らく自分にはその価値がないと思われたのだろう、と答えた。
 河童兄弟が使っていた水脈を利用した移動能力は潜入にはうってつけだが、その力をカワベエも扱えることは、兄のキスケの提案で伏せられていたという。
 それを聞いて、桃もキスケだけが殺された理由に納得できた。
 暗殺が起こった当時、その現場にカワベエがいなかったというのも大きいだろう。
 しかしそれ以上にカワベエは相手にとって、リスクを冒して暗殺を行うほど重要ではなかったのだ。
 キスケが暗殺されたのはカワベエよりも詳細に情報を握っていた事に加えて、能力をこちらに利用されることを嫌ったからだ。
 捕虜の救出は暗殺以上に難易度が高い。
 それもあって、敵は救出より暗殺を選んだのかもしれない。
「あの城でいいんだな?」
「ああ、あの城の中。領主の|吉祥《きっしょう》様は恐らく最上部だろう」
 眼下に見える城は、廃棄が決定して防御機能を多くを失っているという。
 実際、その周囲には堀も無く簡単な土塁が築かれているのみで、あれで防衛線をこなすにはあまりにも頼りない。
 それでも存在感があるのは、この城がそれなりに大きいからだろうか。
 平地に走るいくつかの川を|睥睨《へいげい》するように、小高い崖を背負って矢車城は聳え立っていた。
 建物自体は飾り気がなく、機能性を重視したものに見える。
 比較対象が周囲に少ないため目測での印象になるが、恐らく大きさとしては4階建てくらいはあるか。
 申し訳程度に築かれた土塁の壁と門扉を守る様に弓と長槍を携えているのは恐らく守備兵だろう。
 城壁には物見が数名。
 彼らの睨むその視線の先、位置関係としては城の南西側の周囲の開けた土地には、別の軍勢がいた。
 砦を威圧するようにひとつ、恐らくは敵方の軍勢だろう。
 敵方であろう軍勢は暫く門扉のあたりで守備兵と競り合っていたが、どちらにも大きな動きは無く、観察している間に攻撃していた兵の方が引き上げていった。
 事前の情報から恐らくはあとふたつ、城の西と東にそれぞれ陣を張っている軍勢がどこかにいるはず。
 数に任せて押しつぶそうとしないのは、やはり|瑠璃《るり》領主についているという猛将を警戒しての事だろうか。
(兵糧が尽きればどちらにしろ力尽きる。それを狙って囲んでいるのか……)
 逃げてこの砦に身を隠していた|瑠璃《るり》領主様の軍勢は、おそらくは兵糧の備えも十分でない。
 むしろここまでよく耐えたものだと思う。
 どちらにしても、状況が差し迫っているのは確かだった。
「あの時の姫さんみたいに気絶してるわけじゃないんだ。自分でしっかり捕まってろよ」
「息も止めた方がいいか?」
「それは大丈夫だ。俺達の身体に触れてさえいれば、加護で水中でも呼吸ができるようになる。俺達は元々水難から人を助ける魔物だったからな。あと田植えを手伝ったりもした」
「なるほど、だからあの時凰姫様は窒息せずに済んだわけだ」
「そういうこった。じゃあ行くぞ」
 カワベエの足元がぬかるみ始めて、固かった地面が徐々に液状化していく。
 カワベエの背の甲羅に捕まって息を止め、軽く蹴って合図をすると、カワベエはそのまま水に潜る様に地面の中へと飛び込んだ。