それから、柚真人の態度は軟化した。
いや、柚真人の辞書に軟化という言葉があればの話だが。なんというか、諦観して、飛鳥たちのことをきちんと受け入れなおしたとでも言うか。
お前に本当にそのつもりがあって、覚悟があるなら、今度こそちゃんと、きっちり、生涯賭して、勾玉の血脈の継承者たる皇に属する者となってもらう――と言って。
そうして、こうも続けた。そのかわり、こちらもお前たち――この場合、飛鳥と、そして緋月を含んでのことだったろう――の面倒は責任をもって見ることにする。だから今後は二度と軽率な行動に及ぶな。これ以降、お前たちが本気でこちら側の世界に関わるのであれば、すべて皇の人間として振舞うということになる。単なる好奇心や興味本位で気軽に心霊スポットだのオカルト話だのに関わることはもちろん許されない。お前たちはいついかなる時でも、俺の指揮下で、ひいては国の鎮護官の監視と統制下において、勾玉の血脈の継承者として動くこと。かつ、その拘束は、お前たちの生涯にわたる。本当の本当に後戻りはできなくなる。命がかかっても逃げることはできない。秘密や機密も抱えることになる。それで、いいんだな――と。
その一件からしばらくの後、優麻からこっそり聞いたところによると、柚真人は前世の記憶なんてものを憶い出してしまったぶん、よけいに、飛鳥や緋月をこの先の皇のために巻き込みたくはなかったらしい。それで距離を取ろうとはしていたものの、飛鳥が妙なことに軽率に巻き込まれたと知って、ずいぶん焦り、自分を責めたようだ。中途半端に距離を作ってもいいことはない。飛鳥や緋月が自分に向けている心配や憂慮を知っていた。ならば本当は自分がどうすうべきだったのかも。でも、司を守れなかったことで、そのうえ司を取り戻さなければならないとなったことで、飛鳥と緋月を、まず自分と皇の家から切り離そうとした。飛鳥と緋月は、それだけ、今の柚真人が手に入れた柚真人にとってそれなりに大切な存在だったのだ。柚真人にとって、一番大切なものは、揺るがず決まっている。けれど、今の柚真人にとっては、飛鳥や緋月も、それと並べて比べられるものではない。だから、先に、切ろうとした。司にすべてを傾けるために。
その決断を改めて、それより後は、柚真人の方でも覚悟を決めて、両方を、自分の手で守ろうと肚を括った――ということになるのだろう。
その後、飛鳥と緋月は大学を卒業して、正式な神職として皇神社に就職した。それとともに、柚真人と同様、勾玉の血脈の鎮護官の統制下に入った。
そしてそれからさらに長い年月が過ぎ。
柚真人は、飛鳥たちを『家族』と呼んでもくれるようになった――というわけだ。
ただひとつ、柚真人の一番大切な存在、あの日失踪した妹・司の行方はわからない――ままに。
柚真人の妹の司といえば、今から振り返るとさすがにもはやいくらか遠い過去の話になりつつあるが、飛鳥の想い人でもあった。ゆえに、飛鳥とてつらい時期は過ごしたのだった。
そこを抜けても、司の行方が、ここまでわからないままに時間だけがこうも過ぎてしまうことになるとは、飛鳥も思っていなかった。
それでも、柚真人は諦めておらず。
柚真人がそうなのであれば、飛鳥と緋月としては、柚真人の意思を是とするより他にない。友人としても、主としても、肉親としても。
司のことで、飛鳥と緋月に開示されているのは、生きている、ということと、皇の御神体である神刀とともに在るということである。それが具体的にどういう状態を指しているのかがわからないが、勾玉の血脈の未来を霊視するという巫女が下した言葉だというのだから、あるいは今はそれを信じるより他にないのだろう。柚真人はもう少し詳しい情報を得ているようではあった。だが、その詳細は、お前たちの助力が必要になったら説明することになる、と言われている。問題は、それがいったい何時のことになるのかもわからないということだ。
飛鳥や緋月には、人間としての寿命がある。その寿命が柚真人を支えられているうちに、柚真人がひとりここに在ることから解放されればいいと、飛鳥は願う。
かつて――今となってはもう思い返すのも懐かしい頃の話になるが、飛鳥は、柚真人から告白されたのだった。実の妹であるはずの司にどうにも叶えようのない想いを寄せている、と。その顛末が、こんなことになるとは予想だにしていなかった。
あの頃も、柚真人はすでに自分が本当にあるべき『皇柚真人』ではないことは知っていたと言った。そして、やがてここには『本物の司の兄』であるはずの『皇柚真人』が戻るのだろうと思っていたと。それでも飛鳥に苦しい告白をし、無意味さをもどこかで自覚しながらの牽制をせざるをえなかった柚真人の、当時の懊悩を思うと飛鳥も苦しい。
あるいは柚真人が当時抱えていた、己の存続の頼りなさこそが、我知らず柚真人にそうさせたのかもしれない。冷淡に『皇柚真人』の守り手を自認しながらその制御を失うほどの想いの重さは、飛鳥にははかりしれない。
たとえ、そこに前世からの因果や仕組まれた罠があったと――しても。
☆
つらつら考えているうちに、大祓詞の奏上が終わった。
そうすると、その日の勤務の開始だ。
その時。
ふと、飛鳥のところへ白衣に緋袴姿の巫女がひとり、やってきた。
「あの、ちょっといいですか」
様子がすこしばかり深刻そうだったので、飛鳥は足を止めた。そうしたら、それを見咎めて、あるいは何かを感じたものか、柚真人もこちらへやってきた。
柚真人はこの神社の宮司でありしかも特級の神職なので、神社の職員は一様に柚真人に対しては少し緊張する。おまけに特級にしては見てくれが若いうえに、一種異様な美貌の持ち主。柚真人もそれはわかっていて、気にするなという感じで、彼女に先を流した。――ちなみに、飛鳥は緋月とともに現在は禰宜で、紫袴を身に着けている。
すると彼女は、飛鳥と柚真人の顔を交互に見返すと、どこか言い出しにくそうに、
「私の、友達からの相談なんですけど……その、友達の友達が、なんか、へんなことを言って、行方不明になっちゃったらしんです。それで――ちょっと、勤め先で話を聞いてみてもらえなかって相談されて」
「へんなこと?」
飛鳥は、尋ね返した。
しかも行方不明とは穏やかでない。
まあ、そういう場合警察に先に相談を、とも言いたくなるのだが――わざわざこちらに尋ねてくる以上、なにか事情があるのだろう。
巫女の娘は小さく頷いて、さらにはこう――続けた。
「北関東の方に、なんか、奇妙な噂のある場所があって、そこへ行く、って言ってたそうなんです。それが、地図に載ってない、消された村だ……とか、なんとか」
「――」
「それで、本当にその日から、友達の友達、家に帰っていないらしくて。それが一週間くらい前のことみたいなんです。もちろん捜索願い? も、警察に出したそうなんですけど。でも、なんか、言っていたことの内容が気になるから……って」
「――」
「その、地図にない村の話って、少し前からネットでも知られてる怪談のひとつなんだそうです。私の友達、そういうのが好きで。時々、そういう場所を探しに行こうっていう人たちがいるっていう話で」
「――……」
「――……」
地図に載っていない、村。
消された、村。
なんだか。
妙に。
聞き覚えのある話だ。
お互いに、即座に、そう思ったのだろう。
飛鳥と柚真人は、思わず顔を――見合わせた。
☆
三日後、深夜。
飛鳥は、柚真人とともに、優麻の運転する車の後部座席にいた。深夜であるのは、三日前、巫女のひとりが相談してきた、彼女の友達が目指したのではないかと思われる場所に向かっているためだ。
結果は保証できないが、探してみることはできる。何があっても後悔はしないか。そう柚真人に問われた彼女は、頷き、友人の捜索を正式に柚真人に依頼した。そこでまず彼女の友人が参照していたというネットの噂に当たってみた。昨今、怪談や心霊スポットに関するネット内のコンテンツ量ときた日には、おびただしいものがある。それでも該当しそうなものを探っていくと、やはり――どうやらあの時と同じ場所がネットの中に、地図から消された村として示されているらしいことが判明した。
――だけど、あの時の犯人は確か、お前と陵さんが一枚噛んで、逮捕されたんじゃなった? 有罪になって、収監されたよね?
飛鳥が柚真人に尋ねると、柚真人は頷いた。
――だがこのご時世だ。あれだけネットの中で広がれば、誰かがまた道を通る。そういうことなんだろう。
確かに、今回あらためて当たってみたネットの情報の中には、いったい出所がどこで、誰が見つけてきて、どうやって広まったのか、まったく理解しがたいような話も多くあった。好奇心や探求心に駆られた人間の執念とネット時代の集合知というのは恐ろしいものだ。柚真人と陵が協力して捕らえた例の殺人犯を、件の場所を結びつけるような情報も、皇や警察からは洩れてはいないはずである。しかし犯人の裁判時の言動や弁護士、マスコミ経由でなのか、流出して、さらに人心を煽り立てるような怪奇話へと盛られていったようだった。
けれど、だからこそ希望もある。飛鳥の時と違って、単にネットの噂を頼りにあの場所にたどり着こうとした人間が、何かの拍子で迷い込んだだけという話であれば、まだこちら側へ生きて戻れる状態かもしれないからだ。
なので、もう一度そこへ行ってみるか――ということになった。加えて今回三人が乗る車には、柚真人の指示でそれなりにそれなりな装備が積んである。何をするつもりなのかと飛鳥が尋ねると、柚真人は応えた。もう一度あの場所へ行くのであれば、皇の宮司として、しなきゃならないことがある、と。
車内の時計は、午前一時過ぎを示していた。車は飛鳥の記憶にある道路を進んでいる。そのうち、対向車がなくなり、道の両脇が鬱蒼とした感じの木立になり、
「――あ」
道路を渡る、縄を見た。ボロボロの、古びた、気味の悪い綱。今は、これがおそらく結界線か何かを意味しているのだろう、と飛鳥にもわかる。
同時に、飛鳥の脳裏には記憶がよみがえっていた。もう数十年も前の出来事にはなるが、友人の女の子たち二人を、何も知らずに死地に追いやってしまったことは飛鳥にとって重い悔恨だ。そのこともあって、柚真人に覚悟を正されたのちは、本当に真面目に、皇の神職としてその責務の一役を担うべく、勉強もしたし修練にも励んだ。自分の軽率さを深く愧じもしたし、二度とこのような真似をしてはならないと強く思ったのだ。
そして、道祖神像。これが村と外の世界との境界。
それから、ボロボロにさびた道路標識。これが、おそらく――時間の流れの境界線。その証拠に、いまのいままで真っ暗闇の中を車のライトを頼りに走っていたはずなのに、空がうっすら赤い夕焼けのようになってくる。ここまでくると、時間の流れが止まるのだ――飛鳥の理解では。
まったく、同じだ。
そう思うと、飛鳥の胃はすこしの苦しさを訴えた。気味の悪さと異様さに、本能的な吐き気が込み上げる。それをぐっと飲み込みながら、隣に座る柚真人の横顔に目をやると、従兄弟は涼しい顔をしていた。柚真人もまた、あの時からほぼ変わらない。大学生だった頃の、姿のままだ。飛鳥は、もう四十を越える歳になったけれど。
車は、やがて村に着いた。視界がすこしひらけて集落になっていくあたりに車を停めると、三人は車を降りた。
柚真人はそのままあたりを見渡し、
「――この場所でよさそうだな」
と呟く。
「なにが?」
と訊くと、柚真人は車のトランクを開けながら答えた。
「祭壇を置く場所だ。これから、ここにいるすべての死者を祓い送る」
「――」
その言葉で、飛鳥は、柚真人が出発前に積み込んだ荷物の意味を理解した。なるほど、ここにはおおくの死者がいる。それらをここから祓う、と柚真人は言うのだ。皇の巫が祓うというのは、つまり、正しく黄泉へ送る、ということだ。
ここはある種の常世であるが、出口がない。閉じた空間で、ここで死んだ者、ここに遺体のある者は、ここから出られずにいるのである。皇の巫としては、確かに、ここをこのままにしておくわけにはかなかろう。
「お前がここに迷い込んだ時はお前を助けるのに精いっぱいで、俺も何もしなかった。だがもう一度足を向ける機会が与えられたなら、できることはやるべきだろう。まあ、さすがにこいつはタダ働きにはなるけどな」
縁に免じてだ、と柚真人は続けた。
「俺は儀式の準備をする。お前は、優麻と、あの子――うちの巫女の友達とやらを探してみてくれ。ここと外の世界では時間の流れが違う。いなくなってから十日ばかり過ぎているが、生きている可能性はある」
飛鳥は頷いた。
優麻はそれまで黙って柚真人の荷下ろしを手伝っていたが、柚真人の言葉を聞くと手を止め、飛鳥の方へやってきた。
「――頼める、優麻さん」
「ええ。柚真人さんの御命令とあれば」
優麻は答えたが、これは強力な助力であった。優麻は『鬼』で――今は飛鳥もそれを知っている。もちろん柚真人と優麻が同族であることも――『鬼』はヒトを餌と見る。であれば、たとえば狩猟動物がそうであるように、生きた人間の匂いや気配を、強く感じて追うことができるのだ。
人の気配のまったくしない木造家屋や納屋、屯所や厩舎だったものだろうかというような建物があちこちに点在している。そこここで道を覆い隠すほとに草が生い茂り、建築物などは半分以上は朽ちている。
この村への道が閉じ、時間の流れが止まってしまったのは、村がこのような姿になってしまった時からなのだろうと思われた。
この村で何があってそんなことになったのか、ということもネットの中や怪談界隈ではかまびすしく考察されていたが、本当のところはよく――わかっていない。
その中を、優麻は軽い足取りで歩いた。
優麻の後を、飛鳥がついていく。
その間中、飛鳥にできたことは、頼むから生きていて欲しい、と思い願うことくらいだった。
やがて優麻は一軒の家屋の前で足を止めた。周りに比べると、比較的破損が少なく、大きくしっかりした構えの家だ。
優麻は飛鳥に家の中を示し、
「おそらく、生きていますよ。この中から、人の気配がします。死体ではありませんね」
「!」
ほんとに、と思い、飛鳥は勢い飛び出した。といっても、その家も丈の高い雑草に囲まれていたので、それをかきわけながら玄関までたどり着く必要があったのだが。
玄関は大きな格子の引き戸だった。がたがたとそれを叩いて、中に声を掛けてみる。
「おーい、誰か、いる!?」
何度か繰り返しても返事が無いので飛鳥は引き戸を開けてみた。中はなんというか、農家だな、という雰囲気だ。土間がひろく、そのまま大きな広間がある。中は薄暗いが、飛鳥の後ろからついてきた優麻を振り返ると優麻がある方向を示したので飛鳥はそちらに進んだ。広間を横切り、建物の奥へ入る。そうするとさらに暗くなって目を凝らす必要があったが、廊下のような通路があるのがわかった。廊下は五メートルくらいか。優麻にそのまま進めと示され、暗い中を歩いていくと、つきあたりに扉があった。扉は少し緩んだように隙間があいていて、押して開けると。
納屋、のようなものだろうか。そこには窓があって、外から赤い光が差し込んでおり、中が見えた。板張りの床に筵のようなものが敷かれ、そこにふたり、女性が倒れている。あたりには、今のそれよりは古い時代のものと思われる木製の農機具のようなものが散乱していた。ひょっとすると、彼女たちは、ここに隠れたつもりだったのかもしれない。
駆け寄って、脈を確かめてみる。優麻が言ったように、生きてはいるのが確認できた。しかし、少し揺すっても、目を開ける様子はない。
「――どうしよう?」
小さく、飛鳥が優麻にうかがうと、
「私が車まで運びましょう」
と、優麻が軽く言った。事実、優麻にとってはなんということはない作業だろう。意識のない人間の身体は存外に重いものだが、優麻にはそれだけの力もあるのだ。
その後で、飛鳥は女性ふたりの身体の近くにある、色々な機材と思しきものに気がついた。
それらは、ひと目でもともとここにあったものとは違うとわかる。おそらくスマホ用のコンパクトな撮影機材だ。それに、ライトやバッテリー。
巫女の子は、友達は怪談や心霊スポット、それにまつわる話が好きで、ネットの情報にも熱中していると言っていた。なるほど、その友達は、さらにそちらの界隈の友達と連れ立って、心霊系動画の撮影でもしに来たのだろう。
そして、本当に、この場所に迷い込み、出られなくなってしまったのだ――。
優麻が女性たちを車まで運んでも、彼女たちは目を覚まさなかった。人間にしては長くこの場所にいて、身体が、何某かの機能不全を起こしているのだろうと思われた。ありていに言うと、感受性の強い人間が、心霊スポットなどにいるとよくなる現象の強いやつだ。
今は処置のしようがない、と柚真人が言うので、そのまま二人は車の後部座席に座らせるかっこうで寝かせておくことにした。
柚真人は車から少し離れた場所に、祭壇を整え、大麻や供物を並べ終えると、死者祓の儀式を開始する。空の禍々しく赤い色をうつす真っ白な神職服で奉書紙をひろげ、唱えるのは、皇の宮司に伝わる黄泉送りのための祝詞――祓詞。皇の祭神である速佐須良比売を含む、祓戸大神――祓戸四神へ向けて奏上する、言霊だ。
ただ、この場所のこともあわせて考えると、柚真人の負担は大きかろう、と飛鳥は推し量った。皇の宮司は、この祝詞をもって、現世から黄泉、根の国へと道をつくる。だがここは、現世とは少し異なる、閉じた異界だ。そこから道をこじ開ける。柚真人がするのはそういうことで、祝詞を詠唱するにも相当の力が居るだろう。さらに、ここから送り出さなければならない死者の数も多く、その死にざまも悲惨なものだ。それらを一度、柚真人が受け止め、祝詞に載せて、祓戸大神に伝える。祝詞はそういう役目を果たす。死者の怨嗟や苦痛は、すべて、柚真人の中に落ちてくる。――そういうふうに、柚真人は言う。そして――自分にはそれを受け止められるが、かつて、司はそれを恐れたのだ、と。
祝詞を奏上する柚真人の声は、その稀有なる容姿にも増して美しい。いつも聞き入る、と飛鳥は思う。とてもその言霊を朗々と張り上げながら、黄泉路を迷う死者の念を受け止めているとは思えない。
その間、なにか派手な現象が起こるというわけではないのだ。祝詞の奏上は、ごく普通に神社の本殿で行われるものと同じだ。
ただ、あたりの気配が次第に変わり、禍々しさや濁りが消え、清浄になっていくのが飛鳥にもわかる。
柚真人が唱える祝詞に導かれて、あの時、ここに置いていってしまった自分の女友達たちも逝けただろうかと――飛鳥は思った。
そうやって、どれぐらい祝詞の奏上が続いたろうか。これだけ大掛かりな黄泉送りとなると、奏上にあたって何度も繰り返される句がある。その度に、この場所に長く長く溜まりに溜まって淀んでいたものが、薙ぎ祓われるように澄んでいくのと比例して、柚真人が消耗していくのも飛鳥には見て取れていた。
やがて、かしこみかしこみもうす、という言葉で祝詞はしめくくられ、最後に柏手がふたつ、打ち鳴らされる。
音は透明度を取り戻した水のようになった空気の中を波紋を描いて響いていき、祓いの儀式は――終わる。そのまま、ひょっとするとさすがに柚真人でも倒れるんじゃないかなと飛鳥は従兄弟を慮った。飛鳥のすぐ隣で一緒に柚真人を見守っていた優麻も、おそらく同じことを考えていたのだろう、柚真人が柏手を打つと飛鳥より先にひとつ前へ出るようなそぶりを見せた。
だが、柚真人はひとつ大きく深呼吸し、今一度、背を正したように見えた。
そして、その後で、言ったのだ。
「――このまま、この常世を閉じる」
飛鳥は、ぎょっとして柚真人の背中に声を発した。
「――――え?」
しかし、柚真人は振り向かずに続けた。
「お前たちは、あの子たちを連れて先にこの村を出ろ。俺は、この場所を潰してから外に出る」
「――――は?」
「せっかく綺麗に祓ってのけたのに、またここに物好きな連中に迷い込まれちゃかなわないだろ」
柚真人は少し冗談めかしつつのようにも言うが――この場所を、潰す? 常世を、閉じる?
ひっかかったのは、今の柚真人にそんな余力があるのかということと、そんなことが柚真人に可能なのか、ということだ。
飛鳥の口からは、その疑問が声になって、出かかった。
「だけど、そんなこと――」
できるのか?
柚真人は柚真人で、察してだったろう。そこで飛鳥と優麻を振り向き、どこか不遜に唇を歪めて見せる。――ああ、その表情。柚真人がやや危険なことをしようとしている顔だ、と飛鳥も察した。その答えを、柚真人の口が紡ぎ出す。
「――ここは常世であり、異界だ。そうであれば、現世の理は『俺』を縛らない」
つまり。
皇の宮司としてではなく。
異界の理に属するものとして、その力を使う、と。
柚真人は言っているのである。
飛鳥の理解では、それは、現在の皇柚真人に対して固く禁じられている行為であるはずだった。現在の皇柚真人は、人ではない。それでもなお、皇の巫であり続けることを許されるために、人としての範疇を越える力を行使することは禁じられているはずなのだ。
だから、そんなことをして大丈夫なのか、と思ってしまったのだが、『ここは異界だ』と柚真人は言った。それが、柚真人の答えなのだろう。
あるいは――別の考え方をすれば。柚真人がすべてを祓いのけたこの場所は、ある意味、柚真人の支配下に落ちたともいえる。となれば、人ではない柚真人が、密かに狩り場として利用することもできてしまう。そのように考える人間は、残念だが、味方であるはずの他の勾玉の血脈の継承者たちや統率機関の中にもいるだろう。その疑念を消すためにも、この場所を二度と現世と繋がれないようにしてかたをつける必要も、柚真人にはあったのかもしれない。
今の柚真人は、『人』ではなく。『鬼』、なのだ。
柚真人には――鬼としての前世があった。それが人として生まれ変わった『皇柚真人』から引き剥がされて、今の皇柚真人が生じた。それだけでなく、柚真人は自身で前世を覚醒したのち、なおひとつの躰の中に在り目覚めぬままでいた、自分を――喰った。
前世に人として生まれ変わることを望み、長い時を越えてようやく人としての生を得たというのに、ひとつの躰の中で分かたれた前世の自分が、現世の自分を喰うことで鬼に戻ることを――選んだのだ。
けれども、柚真人がそのような選択をして人から鬼に還ったのは、司のためでこそあったともいえた。
司については、未来視の巫女が、生きていると断言していた。そして司は皇の神刀とともにある、とも。なのに皇の神刀は行方不明で、柚真人や未来視の巫女がどれほど探してもみつからない。他になんの手がかりもなく神刀を探し続けて、そこにひとつの仮説が立ったのだ。皇の神刀は、ともすると、時空を跳んだのではないか――と。ゆえに、今、この時という時間軸上には存在すらしていないのではいか。これはべつだん荒唐無稽なことではなかった。司は、失踪時、神刀とともに、この世のものではないものたちと退魔の巫たちとの、すさまじい乱闘に巻き込まれている。そこではありとあらゆる異界から現世にむかって孔が空き、退魔のために複数の術式が動いた。強力な術は、理を曲げる。例えば宇宙空間で小さな恒星がひとつ生まれたり消えたりするような力が、行使されるのだ。それが入り乱れたような状態のなかに、神刀があったのなら。あるいは。
問題は、では、神刀はどこへ飛んだのか。どれほどの時空がねじれて、いつ、どこに神刀は現れるのか、ということになる。未来、であることは確実だった。なぜなら神刀は常にただひとつしかこの世に存在しないからだ。時間は不可逆を示している。しかし、その時点がわからない。これはおそらく、以前にも皇の神刀が行方不明になった時と同じ現象なのだろうとも思われた。
柚真人が、自分が人として存在することを棄てる、と判断したのはそのためだ。未来視の巫女にもまだ判別がつかない、何時、に自分が応えるため。
人の生や能力には人としての限界値がある。しかし柚真人には、それを越えることを可能とする手段があった。鬼であれば、その身は人のように老いることがない。ゆえに人よりはずっと長くこの世に在れるし、まして柚真人は神族にも匹敵する力を前世に内包している。
たったひとりになったとしても。そのまま、この世で、どこまでも生きてでも、司を待ち続けるために。
柚真人は人であることを棄てた。
ただ、柚真人にしてみれば、それは司の本当の『兄』である『柚真人』を己が喰い殺したということにもなる。人である自分と、鬼である自分を選ぶにあたって、柚真人にとってそのことは多少気がかりになったようではあった。
それほどの想いを見せつけられては、飛鳥としては、もはや太刀打ちなどできるものではないと引き下がるよりほかはない。柚真人が鬼としての自分を選び取ったことで、勾玉の血脈の継承問題をめぐる騒ぎもあった。その時には飛鳥も柚真人の傍にいたので、柚真人が神社本庁や宮内庁、他の血脈の継承者や鎮護官たちからどのような弾劾を受けたのかも知っている。それでも柚真人は揺るがなかった。その決断の固さ、重さ、苦しさ、難しさ、強さを思うと。
どうかその手が、彼の全てを賭けてもまだ足りない――血を吐くほどの激しく切ない想いの先にある大切な彼女に届きますように、と。
祈るような気持ちで彼を見守るのが、飛鳥にできるせいぜいだ。
むしろ、今は。
自分にそれが出来ている間に、柚真人の想いが報われるのを見届けたい。
飛鳥はそう願う。
だから今も、柚真人の身を、案ずるのだ。それくらいしか、飛鳥に出来ることはない。
「――早く行け」
と、柚真人は言った。
「俺のことなら心配はしなくていい」
「――でも」
「――」
「――大丈夫だ。俺を誰だと思ってる。あと――そうだな、この村に入ってくる時に、三つの徴があっただろう。その外側まで出て、待っていてくれ。そこが、境界線だ」
飛鳥と優麻は顔を見合わせた。
柚真人が大丈夫だというのであれば、大丈夫だ。
今はそれを信じるよりほかにない。また、柚真人がそう言った時、その言動を違えたことは一度もない。
飛鳥は頷くと、優麻とともに車に乗り込んだ。意識のない女性二人は、後部座席にシートベルトで固定する。そうして自分は助手席に座り、ドアを閉める前に、もう一度柚真人へ向けて、
「――必ず戻れよ! 絶対だぞ! 待ってるから!」
飛鳥は、赤い空の下で、柚真人が応えて軽く手を上げながら頷く後ろ姿を見た。
言われた通りに村を出て、言われた通りのところで車を停めた。
車のエンジンはかけっぱなしで、フロントライトがいま来た方向に向けられ、道路とその両脇に林立する鬱蒼とした樹木が少し先まで見えている。
飛鳥は車を降りて、空を仰いだ。ここまでくると、空も夜の闇色だった。
それでも、少し夜明けが近いのだろうか。フロントライトが照らす路面から顔を上げて空を仰げば、その一隅が、青みをおびていた。音はない。
飛鳥に遅れて、優麻も車を降りてきた。二人は、しんと静かな空気の中で、フロントライトが照らす先を見つめてしまう。
それからほどなくして、
「……あれ」
飛鳥がそう洩らしたのは、あたりに霧が立ち込めてきたように感じたからだ。
「……霧……?」
霧は濃くなり、次第にあたりを覆っていく。
車を停めたのは、柚真人のいうところの境界線、ライトを頼りにした視線の先に、まだうっすらと道の上に垂れているロープが見えているくらいのところだった。しかし、そのロープが、気づけば霧に遮られて見えなくなっている。
そのまま視界がなくなってしまいそうになり、飛鳥はなんとなく車のボディに手をやった。ひんやりとした感触。その向こうにある優麻の姿は、なんとなく見えている。
それでもやや確かめるように、
「……優麻さん? ……いる、よね?」
と呼びかけてしまうと、
「ええ」
そう、優麻が応える声がした。
飛鳥と優麻は車の両脇に立ち尽くすかっこうで、そのまま、霧に包まれた。
もどかしい時間が過ぎていく。
やがて、空の青っぽい明るさが増してきたな――と飛鳥は思った。そうすると、あたりもうっすら青みをおびて明るくなっていく。
ああ。朝が、来るんだ。
ふと、そんなふうに覚えた心地は、思いのほか飛鳥をほっと安堵させるものだった。
あいかわらず自分も車も優麻もあたりも霧に包まれてはいる。それでも、まわりの空気や景色がいちようにきちんと夜明けの明るさを孕んで夜が退いていく気配が感じられることが、人の心になんと安心感をもたらすものか。
その時だ。
ばさ、がさ、と。それまでまったくの無音といってもいいくらいだった世界に、急に音がして、飛鳥はびくっと驚き、音のした方を見た。
「……え。鳥……?」
急に。本当に急に、だ。草むらから、鳥が飛び立ったようだった。
途端――そう認識したせいだろうか。鳥の、さえずる声もするし、そういえば虫の声もする。季節はまだ秋なのだ。
音が、――『戻った』――?
そんなふうに、感じた。
そして、それはおそらく正しかった。
「……ああ。飛鳥くん、ほら」
優麻が言い、その声に飛鳥が優麻に視線を戻した時には、夜明け前に霧に包まれた時よりも、優麻の姿がはっきり見えた。
優麻はまだ点灯していた車のライトが照らす方向を見ており、飛鳥もまたそちらに目を――向けると。
「……」
青い、夜と朝の狭間を満たしながら漂っている霧の向こうに、鮮やかに翻る白い色と、人影が見えた。
それは、もちろん。
「……ゆ」
柚真人と、飛鳥が呼びかける前に。人影はこちらへ向かって歩いてきながら、片手を上げる。
その右手には、宮司の祓えの具である大麻だけが携えられていた。
ああ。
ちゃんと。
皇の、宮司として。
戻ってきたんだな。
飛鳥には、そんなふうに思えた。
その時の飛鳥の表情が、柚真人にはどう見えていたものか。さらさらという大麻の紙垂の束が奏でる音が耳に届くくらいのところまでやってきた柚真人は、
「――なんて顔してやがる。俺は大丈夫だと言ったろう」
そう言って、まるでこどもをなだめるみたいな面持ちで――笑った。
その背後で、霧も晴れていく。
流れて消える煙のように急速に晴れようとしている霧の向こう、道の奥。あたりが夜だった時には見えていたあの垂れ下がったロープがなくなっていることに、飛鳥は少し遅れて気がついた。
☆
宮司の帰還と朝の気配にともなうように、車の後部座席に乗せた女性たちが目を覚ました。
事情を尋ねると、やはり興味本位でやってきて迷い込んだということだったようだ。友人からの頼みで探しに来た神職だというと、彼女たちは余程怖い思いをしたためか素直な反省を示した。
そのまま彼女たちを東京まで一緒に連れ帰った後、彼女たちは家族や警察にも事情を説明しなければならないだろうが、それはまた別の話となる。
三人が、その後、朝もすっかり明けた頃になって神社に帰りつくと、暁緋月が神社を預かりながら待っていた。そして優麻は、柚真人と飛鳥を神社で降ろすと、自分の仕事に戻っていく。これも――皇神社の日常だ。
「は――――……さっすっが、に! ねむい」
帰社してそのままの出勤となる飛鳥が、柚真人と肩を並べて神社の参道に向かいながら呟くと、
「ああ――そうか。少しくらいなら寝ててもいいぞ」
と、柚真人が苦笑いを含ませたような声で言った。
柚真人のその反応に、飛鳥は欠伸を噛み殺しながら思う。
そうか、と柚真人が言うのは、今の柚真人には飛鳥と同じような睡眠は必要がないからだ。とはいえ、深夜から朝にかけての出来事を思えば柚真人にも相当の消耗はあるはずだし疲労も感じているだろう。それでも、飛鳥ほどには疲弊も消耗も感じない。
数十年前、同じ場所で、飛鳥を助けた。その時から、ほとんど変化のない姿。それを見つめて、飛鳥は言葉にならない嘆息のようなものを飲み込んだ。
その姿はもとより、生き様こそが、美しい。彼の姿の美しさは、そこに苛烈にして孤高不屈の魂を宿すための器であるからこそなんだろう、と思う。
自分の、かつての恋敵――たりうると自分が一方的に思っていただけでとても叶うような相手ではなかったと後になって思い知らされてしまったが――であり、従兄弟であり、友人であり、上司であり、主であり、憧憬もを抱かせる者。そんな縁が彼との間にあることを、今は――愛しくすら、思う。
だからこそ。
願うだけしかできることがなくとも、飛鳥も諦めずにいたい。
「そうさせてもらおうかなあ――俺もたいがいおじさんにもなってきちゃったもんでねえ」
欠伸のかわりに返す言葉に、飛鳥は、これまでの来し方を思って込める。
ああ、柚真人。
どうか、どうか。
お前の、縁が。
この先、必ず。
彼女に繋がって――いますように。