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3-1

ー/ー



 突発的な銃声が聞こえて、アロナは飛び上がった。さっきまで雲の上に乗って大きなケーキを食べていたはずだ。幸せ溢れる空間だったはずなのに、階下から聞こえてくる音がブラックホールのようにアロナの意識を引き戻した。
 壁掛け時計が指しているのは朝の七時。隣にいるアーリスはまだ眠っているが、不機嫌に顔をしかめていた。
 眠り姫を起こさないように細心の注意を払いながら階段を下ったアロナは、思いもよらぬ現状を目の当たりにした。銃を持った患者らしき男が、精神科医を撃ち殺していたのだ。
「何をしてるんですか!」
 還暦(かんれき)をとうに過ぎただろう白髪(しらが)のナースが彼から銃を奪い取る。男は抵抗せず、銃を彼女に手渡した。
「この医者が、俺に死ねって言ったんだ!」
 心臓を撃ち抜かれ、致命傷を負った医者はまだ若い男の医者だった。音を聞きつけて降りてきた他の医者達が急いで彼を青いストレッチャーに乗せ、大型エレベーターへと走っていった。
 寝間着(ねまき)姿のアロナは、軍医服に着替えなくて正解だったと思っていた。
 また標的になりたくないからだ。
「あの人は真面目な医者ですよ。あなたに暴言を吐くはずがありません!」
「あいつは俺にチルスタインを飲めって言ったんだぞ!」
 薬剤の名前を耳にして、高齢のナースは苦々しい表情をする。眉間(みけん)(しわ)を寄せ、ナースに向けて怒号を()き散らす男に知られないように顔を斜め下に向けた。
「知ってるだろ。チルスタインは治験が済んでいないんだぞ。俺は実験台じゃねえんだよ」
「薬の効果は出ているんです。実際に抑うつ症状や不眠、トラウマから来るパニック発作にも作用があると政府も認可しています」
「じゃあこんな論文は知ってるかバアさん。服用した患者の半数以上が自殺したってさあ!」
 ナースの仕事は論文を読むことではない。
 患者の体調を管理し、健康を維持するのが目的である。更に言えば雑務、手術の簡単な手伝いまでしなければならず論文を読む暇がないというのが実情だ。痛いところを突かれたように、彼女は押し黙ってしまった。
「その論文は、薬とは何の関係もないよ」
 アロナの背後から声が聞こえてきた。振り向かなくても分かる、声の主はジェイクだった。
「なんだてめェ」
 ジェイクはアロナの肩を軽く叩いてから、ゆっくり男に近付いていく。
 男はといえば、興奮して息巻いていた。少し大きめの病衣を着ているから気付かなかったが、彼はかなり(たくま)しい身体付きをしている。生粋(きっすい)の軍人だろうか。
「服薬したから自殺したわけじゃない。論文の対象となったのは重篤(じゅうとく)患者だよ。チルスタインを飲んだから自殺したわけじゃない、チルスタインが作用しなかっただけなんだ」
「んな訳あるかよ! 論文を書いたのはジャヒコール大先生だぞ!」
「その先生の信ぴょう性もどうかな。彼は過去に学歴詐称(がくれきさしょう)追訴(ついそ)されたし、チルスタイン反対派の中でも過激な人だ。意図的に事実を作った、もしくは真っ赤な嘘を交えてる可能性だって否定しきれない」
 相手に反論する余地を与えようとせず、ジェイクは真向からいつもより早い口ぶりで言ってみせた。
 言いくるめられた男は、あまり距離の離れていないジェイクを睨みながらも言い返しはせず、病院の外へと逃げ出していった。外からサイレンの音が聞こえてきた。かなり早い到着だ。
「撃たれた先生が予め通報したのね」
 萎縮(いしゅく)していたナースは、安心したように一息つくとジェイクに向かって感謝の言葉を述べた。
 負けじとジェイクも、いつもありがとうございます、なんて言いながらアロナの方に戻ってきた。
「危なかったよ。チルスタインの話になると僕は弱いからね」
 元々ジェイクの思想もチルスタイン反対に傾いているはずだ。
「でも、見事な論バトでした」
 論理バトルを略して論バト。一昔前に若者言葉として一世を風靡(ふうび)したものだ。今ではネットでしか使われていないが、アロナはなんとなく言葉の雰囲気を気に入っていた。
「そうでもない。ジャヒコール教授について彼がもっと知識があったら危なかったんだ」
 周りに集まって来た患者や他の医者たちは一難が去ると、それぞれの場所へ戻っていった。ジェイクもアロナの部屋まで見送るために、のぼる必要のない階段をのぼりながら続けた。
「学歴詐称について追及されたのは事実だけど、それはメディアが大袈裟(おおげさ)に取り上げたんだ」
「えっ、そうだったんですか」
 その教授についてアロナは何も知らなかった。スナルデンの情報統制は厳格なもので、ミラージにまで届かなかったせいだ。
 教授を知っているように聞いているが、会話のリズムを乱さないための意識というもの。ジェイクもそれを分かって丁寧に話していた。
「彼の通っていた大学は飛び級という制度があってね。本来なら五年必要な資格必須な期間を三年で免除されたんだ。そこをマスコミが突いたわけさ。中退なんじゃないかってね」
「それじゃあ、虚偽報道じゃないですか」
「実際そうだよ。けど飛び級を知らなければ学歴詐称だと誰もが飛びつくだろうね」
 アロナが使っている病室の前まで来たが、すぐに扉を開けるのは拒んでジェイクに向かってこう言った。
「よく教授のこと知ってますね。調べたんですか」
「いや、何も調べてないよ。聞いたんだ、本人から」
 当然のように浮かんできた疑問が声になる前に、ジェイクは先んじてこう言った。
「ジャヒコール教授は、僕の弟だからね」
 あんぐりと口を開けたアロナの顔を見て微笑したジェイクは、肩を何度かまた叩くと階段を下りて自分の部屋に戻っていくのだった。
 衝撃を受けたはいいものの、それを知ったところで何か新たな機会が訪れるわけではない。アロナはまだ眠っているアーリスを起こさずに、朝の身支度を進めるのだった。
 昨晩、アロナはアーリスよりも先に眠っていた。強いトラウマを心に宿したアーリスは、ここに来るまで同様まだ睡眠に関して様々な患いを持っていた。不眠だけでなく、夜中に何度も目が覚めてはパニックが起きるの繰り返し。
 酷い時には夢にまで父親が現れて、発作が起きて目が覚めるという。
 だからこそ、物音には注意が必要だった。人間は眠れる時に眠るのが一番だと悟って日が浅いからである。

 結局、出勤時間になるまでアーリスは目覚めなかった。朝の運動にとジムを訪れたり食堂で朝食をとったりと忙しくしてみたはいいものの、アロナの頭には常にアーリスの存在があり続けた。
 同居といっても変ではない関係だ。同室してからは大した話をしていないが、どうやって接すればいいのか分からない気まずさが常にあったのだ。
 彼女、ひいては彼女たち患者は彩が豊かなのである。安心を求める者もいれば、激励(げきれい)を望む人もいる。患者と医者は信頼関係で結ばれなければ精神的な病状というのは回復が難しいが、アーリスの場合はどちらが的確がまだ判断しきれなかった。
 悩める大人の装いをしたままジェイクの診察室までいくと、彼は真っ先にアロナの悩みを見抜いたのだった。
「部屋を変えてもらうかい」
 お互い隣同士、椅子に腰かけて提案される。一番妥当な選択肢ではあったが、かえってアーリスを傷付けてしまうだろう。
「いえ、今のままで大丈夫です。不思議なんです」
 受付開始までは十分を切っているから、外はがやがやし始めている。窓の外から聞こえてくるのは新聞配達員の掛け声だ。
「何が不思議なんだい」
 パソコンの駆動音を聞きながら、アロナはこう答えた。
「アーリスと私は、多分同じような気持ちを持っているんです。なのにどう接すればいいのか分からないのかが不思議で」
 男性に襲われた、という共通の(きず)を手にした。日常生活を(おびや)かされるほどに強いものだ。同じ物を持っているのになぜ心が落ち着かないのか。
 まさしく、共感できるはずだ。なぜ難しく感じるのだろう?
「簡単だよ。君は少し、物事の単一化をはかってしまうきらいがあるね」
「単一化ですか?」
 子供のような純粋な目をアロナはしていた。
「精神の世界は広く、しかも複雑。それなのに君は単純に考えてしまっているんだ。かなり危険な考えだと言ってもいい」
「でも、物事は単純に考えた方が上手くいくって教わりました」
「うん、そういう時もあるよ。ただ心の傷や病気は別だ」
「環境とかですか。けどそこまで考えたら何も話せなくなってしまうような」
 深く考え過ぎれば話すのすら大変な行為になる。だからといって単純化しすぎても話に奥行きがなくなる。話せなくなるよりはマシだ、とアロナは物事の単純化をしていたのを認める。無意識の内だ。
 人生とは難しい。まるで偉人が考え込む時のような顔をしたアロナに、ジェイクは朗らかな笑みでこう伝えた。
「人とは複雑であると知ってから単一化するのと、何も考えず単純に話すのとでは全然違うよ」
 尊いジェイクからの教えだったが、身体に染み込むには時間がかかりそうだった。分かりやすくアロナは表情に出しながら「なるほど」とだけ呟いた。
 診察が始まり、二日目も隣で見学に勤しむ。
 気のせいかは分からないものの、ジェイクは昨日より簡潔(かんけつ)な口ぶりで患者と対話していた。

 住処(すみか)に戻ると、アーリスが窓から外を見ていた。後ろ姿は凛々(りり)しく、背筋は伸びきっている。その佇まいはお嬢様のようで、病衣よりもワンピースやフリルのついたカットソーの方が釣り合っているように感じられる。
「お疲れ様です、アロナさん」
 そう言って振り向いたアーリスの目には(はかな)げな笑み。
「体調はどうですか」
 適切な距離を保ちながら、彼女と同じベッドに座り込む。隣同士、昨日よりは近い幅。
 極まって不思議な体験をした。アーリスは隣にいるのは間違いない。彼女の声や息遣いは聞こえてくるというのに、彼女がそこに存在していないような感覚も同時に芽生えたのだ。
「良いですよ。ただ、ほんのちょっぴり退屈をしてます」
「ですよね」
 ロウソクの火が揺れる程度のせせら笑い。日常生活を送るにはあとどれくらいかかるか、まったく想像できなかった。
「アーリスさんは、何か失った夢とかありますか」
「ありますよ」
 ためらいもなく頷いた。それは何かと訊ねれば、彼女はこう口を開いた。
「プログラミングです。子供の頃、すごい計画を立ててたことがあって」
「訊いてもいいですか?」
 新聞配達員の声が小さくなった。売れ行きが好調なのだろう。
「人助けをする友達を作ろうとしたんです。データの中の友達です」
 野心を覗いて、なぜ夢を(うしな)ったのかはすぐに分かった。技術的に作れないのではない、戦争が始まって作れなくなったのだ。
 スナルデンもミラージも、軍部が堂々と検閲(けんえつ)すると発表したからだ。そこで人工知能を作っていると知られれば大きな疑念を持たれるのは避けられない。普通の人生を生きるために、彼女は夢を捨てざるを得なかったのだ。


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 突発的な銃声が聞こえて、アロナは飛び上がった。さっきまで雲の上に乗って大きなケーキを食べていたはずだ。幸せ溢れる空間だったはずなのに、階下から聞こえてくる音がブラックホールのようにアロナの意識を引き戻した。
 壁掛け時計が指しているのは朝の七時。隣にいるアーリスはまだ眠っているが、不機嫌に顔をしかめていた。
 眠り姫を起こさないように細心の注意を払いながら階段を下ったアロナは、思いもよらぬ現状を目の当たりにした。銃を持った患者らしき男が、精神科医を撃ち殺していたのだ。
「何をしてるんですか!」
 還暦《かんれき》をとうに過ぎただろう白髪《しらが》のナースが彼から銃を奪い取る。男は抵抗せず、銃を彼女に手渡した。
「この医者が、俺に死ねって言ったんだ!」
 心臓を撃ち抜かれ、致命傷を負った医者はまだ若い男の医者だった。音を聞きつけて降りてきた他の医者達が急いで彼を青いストレッチャーに乗せ、大型エレベーターへと走っていった。
 寝間着《ねまき》姿のアロナは、軍医服に着替えなくて正解だったと思っていた。
 また標的になりたくないからだ。
「あの人は真面目な医者ですよ。あなたに暴言を吐くはずがありません!」
「あいつは俺にチルスタインを飲めって言ったんだぞ!」
 薬剤の名前を耳にして、高齢のナースは苦々しい表情をする。眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、ナースに向けて怒号を撒《ま》き散らす男に知られないように顔を斜め下に向けた。
「知ってるだろ。チルスタインは治験が済んでいないんだぞ。俺は実験台じゃねえんだよ」
「薬の効果は出ているんです。実際に抑うつ症状や不眠、トラウマから来るパニック発作にも作用があると政府も認可しています」
「じゃあこんな論文は知ってるかバアさん。服用した患者の半数以上が自殺したってさあ!」
 ナースの仕事は論文を読むことではない。
 患者の体調を管理し、健康を維持するのが目的である。更に言えば雑務、手術の簡単な手伝いまでしなければならず論文を読む暇がないというのが実情だ。痛いところを突かれたように、彼女は押し黙ってしまった。
「その論文は、薬とは何の関係もないよ」
 アロナの背後から声が聞こえてきた。振り向かなくても分かる、声の主はジェイクだった。
「なんだてめェ」
 ジェイクはアロナの肩を軽く叩いてから、ゆっくり男に近付いていく。
 男はといえば、興奮して息巻いていた。少し大きめの病衣を着ているから気付かなかったが、彼はかなり逞《たくま》しい身体付きをしている。生粋《きっすい》の軍人だろうか。
「服薬したから自殺したわけじゃない。論文の対象となったのは重篤《じゅうとく》患者だよ。チルスタインを飲んだから自殺したわけじゃない、チルスタインが作用しなかっただけなんだ」
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 相手に反論する余地を与えようとせず、ジェイクは真向からいつもより早い口ぶりで言ってみせた。
 言いくるめられた男は、あまり距離の離れていないジェイクを睨みながらも言い返しはせず、病院の外へと逃げ出していった。外からサイレンの音が聞こえてきた。かなり早い到着だ。
「撃たれた先生が予め通報したのね」
 萎縮《いしゅく》していたナースは、安心したように一息つくとジェイクに向かって感謝の言葉を述べた。
 負けじとジェイクも、いつもありがとうございます、なんて言いながらアロナの方に戻ってきた。
「危なかったよ。チルスタインの話になると僕は弱いからね」
 元々ジェイクの思想もチルスタイン反対に傾いているはずだ。
「でも、見事な論バトでした」
 論理バトルを略して論バト。一昔前に若者言葉として一世を風靡《ふうび》したものだ。今ではネットでしか使われていないが、アロナはなんとなく言葉の雰囲気を気に入っていた。
「そうでもない。ジャヒコール教授について彼がもっと知識があったら危なかったんだ」
 周りに集まって来た患者や他の医者たちは一難が去ると、それぞれの場所へ戻っていった。ジェイクもアロナの部屋まで見送るために、のぼる必要のない階段をのぼりながら続けた。
「学歴詐称について追及されたのは事実だけど、それはメディアが大袈裟《おおげさ》に取り上げたんだ」
「えっ、そうだったんですか」
 その教授についてアロナは何も知らなかった。スナルデンの情報統制は厳格なもので、ミラージにまで届かなかったせいだ。
 教授を知っているように聞いているが、会話のリズムを乱さないための意識というもの。ジェイクもそれを分かって丁寧に話していた。
「彼の通っていた大学は飛び級という制度があってね。本来なら五年必要な資格必須な期間を三年で免除されたんだ。そこをマスコミが突いたわけさ。中退なんじゃないかってね」
「それじゃあ、虚偽報道じゃないですか」
「実際そうだよ。けど飛び級を知らなければ学歴詐称だと誰もが飛びつくだろうね」
 アロナが使っている病室の前まで来たが、すぐに扉を開けるのは拒んでジェイクに向かってこう言った。
「よく教授のこと知ってますね。調べたんですか」
「いや、何も調べてないよ。聞いたんだ、本人から」
 当然のように浮かんできた疑問が声になる前に、ジェイクは先んじてこう言った。
「ジャヒコール教授は、僕の弟だからね」
 あんぐりと口を開けたアロナの顔を見て微笑したジェイクは、肩を何度かまた叩くと階段を下りて自分の部屋に戻っていくのだった。
 衝撃を受けたはいいものの、それを知ったところで何か新たな機会が訪れるわけではない。アロナはまだ眠っているアーリスを起こさずに、朝の身支度を進めるのだった。
 昨晩、アロナはアーリスよりも先に眠っていた。強いトラウマを心に宿したアーリスは、ここに来るまで同様まだ睡眠に関して様々な患いを持っていた。不眠だけでなく、夜中に何度も目が覚めてはパニックが起きるの繰り返し。
 酷い時には夢にまで父親が現れて、発作が起きて目が覚めるという。
 だからこそ、物音には注意が必要だった。人間は眠れる時に眠るのが一番だと悟って日が浅いからである。
 結局、出勤時間になるまでアーリスは目覚めなかった。朝の運動にとジムを訪れたり食堂で朝食をとったりと忙しくしてみたはいいものの、アロナの頭には常にアーリスの存在があり続けた。
 同居といっても変ではない関係だ。同室してからは大した話をしていないが、どうやって接すればいいのか分からない気まずさが常にあったのだ。
 彼女、ひいては彼女たち患者は彩が豊かなのである。安心を求める者もいれば、激励《げきれい》を望む人もいる。患者と医者は信頼関係で結ばれなければ精神的な病状というのは回復が難しいが、アーリスの場合はどちらが的確がまだ判断しきれなかった。
 悩める大人の装いをしたままジェイクの診察室までいくと、彼は真っ先にアロナの悩みを見抜いたのだった。
「部屋を変えてもらうかい」
 お互い隣同士、椅子に腰かけて提案される。一番妥当な選択肢ではあったが、かえってアーリスを傷付けてしまうだろう。
「いえ、今のままで大丈夫です。不思議なんです」
 受付開始までは十分を切っているから、外はがやがやし始めている。窓の外から聞こえてくるのは新聞配達員の掛け声だ。
「何が不思議なんだい」
 パソコンの駆動音を聞きながら、アロナはこう答えた。
「アーリスと私は、多分同じような気持ちを持っているんです。なのにどう接すればいいのか分からないのかが不思議で」
 男性に襲われた、という共通の瑕《きず》を手にした。日常生活を脅《おびや》かされるほどに強いものだ。同じ物を持っているのになぜ心が落ち着かないのか。
 まさしく、共感できるはずだ。なぜ難しく感じるのだろう?
「簡単だよ。君は少し、物事の単一化をはかってしまうきらいがあるね」
「単一化ですか?」
 子供のような純粋な目をアロナはしていた。
「精神の世界は広く、しかも複雑。それなのに君は単純に考えてしまっているんだ。かなり危険な考えだと言ってもいい」
「でも、物事は単純に考えた方が上手くいくって教わりました」
「うん、そういう時もあるよ。ただ心の傷や病気は別だ」
「環境とかですか。けどそこまで考えたら何も話せなくなってしまうような」
 深く考え過ぎれば話すのすら大変な行為になる。だからといって単純化しすぎても話に奥行きがなくなる。話せなくなるよりはマシだ、とアロナは物事の単純化をしていたのを認める。無意識の内だ。
 人生とは難しい。まるで偉人が考え込む時のような顔をしたアロナに、ジェイクは朗らかな笑みでこう伝えた。
「人とは複雑であると知ってから単一化するのと、何も考えず単純に話すのとでは全然違うよ」
 尊いジェイクからの教えだったが、身体に染み込むには時間がかかりそうだった。分かりやすくアロナは表情に出しながら「なるほど」とだけ呟いた。
 診察が始まり、二日目も隣で見学に勤しむ。
 気のせいかは分からないものの、ジェイクは昨日より簡潔《かんけつ》な口ぶりで患者と対話していた。
 住処《すみか》に戻ると、アーリスが窓から外を見ていた。後ろ姿は凛々《りり》しく、背筋は伸びきっている。その佇まいはお嬢様のようで、病衣よりもワンピースやフリルのついたカットソーの方が釣り合っているように感じられる。
「お疲れ様です、アロナさん」
 そう言って振り向いたアーリスの目には儚《はかな》げな笑み。
「体調はどうですか」
 適切な距離を保ちながら、彼女と同じベッドに座り込む。隣同士、昨日よりは近い幅。
 極まって不思議な体験をした。アーリスは隣にいるのは間違いない。彼女の声や息遣いは聞こえてくるというのに、彼女がそこに存在していないような感覚も同時に芽生えたのだ。
「良いですよ。ただ、ほんのちょっぴり退屈をしてます」
「ですよね」
 ロウソクの火が揺れる程度のせせら笑い。日常生活を送るにはあとどれくらいかかるか、まったく想像できなかった。
「アーリスさんは、何か失った夢とかありますか」
「ありますよ」
 ためらいもなく頷いた。それは何かと訊ねれば、彼女はこう口を開いた。
「プログラミングです。子供の頃、すごい計画を立ててたことがあって」
「訊いてもいいですか?」
 新聞配達員の声が小さくなった。売れ行きが好調なのだろう。
「人助けをする友達を作ろうとしたんです。データの中の友達です」
 野心を覗いて、なぜ夢を喪《うしな》ったのかはすぐに分かった。技術的に作れないのではない、戦争が始まって作れなくなったのだ。
 スナルデンもミラージも、軍部が堂々と検閲《けんえつ》すると発表したからだ。そこで人工知能を作っていると知られれば大きな疑念を持たれるのは避けられない。普通の人生を生きるために、彼女は夢を捨てざるを得なかったのだ。