旧友に会うために、ジンはマリンダのアリバス駅に来ていた。アロナのいる病院からは二駅ほど離れた場所だ。
電車は空いていた。マリンダは疎開指定域から外れていたから住民の半数以上は兵士で占めている。その兵士達はほとんど病院に詰め込まれているのだから快適なのは自然だろう。
閑散とした駅は天井はなく、広々としたコンクリート造り。天井の至るところには垂れ幕が下がっており、スローガンのようなものが書かれていた。
『罪として戦を拒まず、己の咎として賽を振らず』
スナルデンの哲人が言った言葉だ。真意を深く知る者はいない。だが共通認識としてこう言った解釈がある。
罪の意識を捨て、神さえ殺してみせよ。
「帰還兵かい。お前さん」
垂れ幕を見ていたら、いつの間にか近寄ってきていた老人にジンは声を掛けられた。彼は脱毛をしているらしく顔は小奇麗だったが、深い皺は壮年の時期を通り過ぎたのを明確に表していた。見知らぬ男だったが、彼の服装を見てすぐに気付いた。
「そういう爺さんは、タイタニア出身だな」
タイタニアとは銃や技術発祥の地だ。一大帝国を築きあげたが、内乱による国力の失墜で一強時代が崩壊してから千年は経っている。タイタニアからここまでは飛行機で十時間をかけるだろう。
「この服はおさがりでね。昨日から着始めたばっかりだよ。祖父が、こう言ったんだ。お前が六十を超えたら着なさいって」
「細い襟が緑色なのは、大国だった頃の名残りだったか」
感心したように老人は頷いた。七分袖は薄い生地で、長いスキニー越しでも足の太さが窺える。老人でありながら筋肉はまだ衰えていないようだった。
「この、罪としてなんやらって言葉の意味。兄ちゃんはどう捉えた」
簡単だ、ジンはそう口にしてから共通認識の解釈を伝えた。戦争に罪の意識など必要はない。戦地は無法地帯だから相手をいくら殺しても良い。
駅員が見える。電灯の前で細長いフランスパンを食べているようだ。彼の視線も、ジンと同じところを見ていた。
「俺はね、別の考えを思い浮かんだ」
老人は右手の人差し指を失っていた。
「神はもはや、許しを与えてくれなくなったのだと。人間の降るサイコロは、全て同じ数字なのだとね」
すごろくゲームは、毎度違った出目になるからこそゲームとして成立する。全ての人間が三を出し続けたら奇跡のように見えるが、それは必然なのだ。
人間の運命に介入してきた神が、平等にしてしまった。老人はこう言いたいのだろう、神は既にこの世界を放棄したのだと。
「いつか爺さんの名言も垂れ幕から下がるだろうよ」
「それは困る」
少し笑った後、彼は去り際にこう言った。
「今の言葉が名言になるような世界なんて、俺はごめんだよ」
老人は西側のガラスドアがある出口まで向かった。反対に、ジンの目的は南口の通路を抜けた先にある喫茶店だった。
五年前と比べて大した変化はないが、そこら中にビラが貼られていた。正規軍の募集、障碍者雇用の大きなポスター。アロナの勤めている病院へのチラシも貼ってあった。戦前はといえば、これから向かう喫茶店のイベントがよく宣伝されていたものだ。
駅の通り口を抜け、坂道を下った先に見えたのがまさに「喫茶カナミ」だった。アンティークな風貌は浮世離れしており、現代風ではない。だが外から見てみれば店はそこそこに繁盛しているのが窺える。ジンは表に出されていたメニューを目にする。手書きのチョークで書かれており、可愛らしい猫の絵が描かれている。店主が書いているものだ。
ドアが開き、入店を報せるベルが鳴る。開口一番、出迎えの挨拶をしてくれたのは気の良さそうな二人の青年だった。片方は青い目、青い短髪をしており片方は黒い目、黒い短髪だ。
なぜ店に客が入っているのかはすぐに分かる。敷居を跨いだ途端に、戦時中だというのを忘れさせる雰囲気が流れたからだ。
「店長、おひとり様ご案内です」
黒髪の青年が少し高い声でそう口にすると、すぐ右手側にあるカウンターの向こう側からカーテンをくぐって店主が出てきた。
店主は、ジンの姿を見るなり目を見開いた。
「二人とも、数分店のこと任せられる?」
若い青年二人は困惑したが、それもすぐに小気味いい返事に変わった。
昔と変わらない声。男勝りで威圧感がある。昔のあだ名はシェミー将軍だったか。
紺色のエプロンを脱いで誰もいない客席の上に置いたシェミーは、ジンの腕を掴んで店の外に連れ出すと、路地裏まで引っ張った挙句に臀部を蹴り飛ばした。
お尻をさすりながら立ち上がったジンは、すぐに強烈な衝撃を胸に感じた。
「ウチの店は軍人お断りなんだ。二度と来んな」
シェミーは片目を隠したバイオレット色の髪だ。後ろ髪は綺麗なポニーテールで、金色のネックレスは菱形の宝石が埋め込まれていた。白のオフショルダーシャツと右顎にあるホクロが、いつもと変わらない彼女のシンボルだった。
「謝りにきたんじゃねえ」
店に戻ろうとするシェミーを追いかけるようにジンは言った。
「お前に返しにきたんだよ。借りを」
「アタシは何も貸してねえよ。とっとと帰れ」
ポケットの中に入れておいた紙包みを、ジンは彼女に向かって投げた。
中に入っていたのは香水だった。シェミーが七年前、好きだと言っていた香りだ。
「お前から教わった味だ。俺はコイツのおかげで生き延びられた。それだけを伝えに――」
「じゃあ教えなきゃ良かったかもな」
彼女が振り返った時、表情に見えたのは葛藤だった。
「教えなかったらお前は死んでたんだろ。だったら教えなきゃ良かったよ!」
胸を抑えたまま、ジンは歩き始めた。下を向き、彼女の横を通り過ぎた。
その時、シェミーは確かに感じた。ジンから漂ってくる懐古の香りを。
同時刻、ガナルはマリンダ駅にある軍の仮拠点となっているオフィスビルに足を運んでいた。元は廃墟となっていたビルを建て直したのだ。ガナルの勤める病院は工事の音で忙しなかったため、いつもより静かに感じられた。
クミル書記官が滞在する執務室に足を踏み入れれば、いつもと同じ柑橘系の香りがした。彼が吸っているフレーバー付きの電子タバコは香水の役割も果たしているようだった。
部屋にはメディア管轄のロッテリカも同室している。ガナルに言わせれば二人とも腐ったジジイであるが、彼女はそれを口にしたことはない。バニラ色の軍服には二人ともそれぞれ違ったメダルが付けられており、それに反するとはつまり今着ている白衣を奪われるという顛末になるからだ。
椅子に座っている書記官のクミルは、太くなった鼻を真正面からガナルに向けてこう言った。
「例の薬の件、承認してくれてありがとうガナル軍医」
「本題に入ってもらってもいい?」
会うのは三人でまた面会をするのは数週間ぶりだというのに、ガナルの憂鬱は膨れ上がるばかりだった。
メディア管轄のロッテリカが先にこう口を開いた。
「君の審美眼には常々驚かされるよ」
「なんなの?」
今までにない煙に巻くような言い方が気に障り、ガナルの口調が鋭くなった。ロッテリカは二つの口角を少しだけ持ち上げながら声を潜めて、しかしガナルの耳に着実に届くような硬い声で言った。
「敵国の軍医を、篭絡するとはね」
嫌味な言い方だった。篭絡とは、文字通り解釈するならば相手を手籠めにするという意味になる。広義的に見れば支配だ。
寸分の呼吸を止め、ガナルは腑に落ちたようにため息を吐いた。
「そういうことね」
ミラージの軍医がボランティアの名目で働きに来て、まとめ役がアロナを懐柔。この事実だけを使えば戦後の敗戦国となったスナルデン国民にも希望を与えられる。
違法追撃という戦法違反がある。戦勝確定国が敗戦した国に対して破壊工作をするのは戦法で禁じられており、三十年前まで当然のように行われていたから国民も不安感が募るだろうところを、アロナの存在でかき消すのだ。
「理解が早くて助かるよガナル医長。どれくらい雇うのかね」
クミルの問いかけには嘘をつく理由がなく、一ヶ月だと答えた。すると電子タバコを置いた彼はロッテリカと顔を見合わせ、そのロッテリカがにこやかに頷いたのを見るとクミルもまた綻んだ顔つきになるのだった。
「一ヶ月後、アロナ軍医を処刑する」
まるで銃弾を目に受けたかのように視界がボヤけた。
強気だった顔が突然崩れる、そんな彼女の表情を見てクミルはいやらしい笑みを浮かべるのだった。