2-5
ー/ー 食堂でアロナに背を向けて街の広場に足を運んだジンは、自身の言葉を振り返った。
自分も分からない。逃げるような選択肢を取ったが、それ以外に答えが分からなかった。正しい答えだとも言えるし、別の見方ですればズルいとも言えてしまう。
広場からホテルに戻ると、モッカイがベッドの上で足を放り出し寝転んでいた。ホテルの支配人が気前よくモッカイの出入りを許しているが、まさか金も払ってない人間が満喫しているとは思ってもみないだろう。
「マクスウェル、魔術」
独り言が宙に浮かぶ。魔術という文化は大昔に失われている。もはや過去の遺物であり、現代で魔術を使える人間はいない。その原理も、何もかもが魔術師の大処刑時代に失われたからである。科学の推進派だった当時の国王達が書物を焼き払ったのだ。
現代で魔術と言えば笑い者にされる。
頭痛を巻き起こすような事態になってしまったが、アロナの特別任務に関わるとした以上は最後まで付き合うのが道理だった。
胸ポケットから自家製の紙巻きタバコを取り出し、火をつけて苦い煙を吐き出す。
「まだ吸ってんのか、それ」
やや右後ろの方からモッカイの声が聞こえてきた。声帯が傷付いたような低い声だった。
「なんの未練もないみたいな顔しやがって、意外とそうでもないんだよな。お前ってやつは」
故郷の香りが脳に伝わり、煙となって吐き出される。この味を胸に入れる時がジンにとって格別なのだ。
人前では滅多に吸えない。この匂いはあまりにも独特で敬遠される方が多い。
大きなあくびを携えて起き上がったモッカイは、寝起きのウォッカを浴びた。膝を一度叩いて起き上がると、そのまま洗面台へ向かう。自分用の寝起きセットを持ってきている用意周到さは、モッカイならでは。
死恐怖症という特性が無ければ彼は参謀に抜擢されただろう。
死恐怖症が無ければ。
あの事件が無ければ。
トレーニングが終わり、汗だくになったアロナは床で干からびていた。ガナルは彼女を励ますようにペットボトルから水を彼女に浴びせた。冷たくて心地よく、口の中に入って来た時は砂漠のオアシスを感じられる。
「ま、軍医ってだけはあるわね」
熱心なシゴキを受けたアロナは喋るのも一苦労だ。足も手も震えてしばらく立ち上がれそうにないのはガナルでもよく理解できた。
時間にすると三十分くらいだ。辛い時間ではあったが、一つの気付きを得た。ジェイクの隣にいた時と同じくらい、脳に刻まれた厄介事を追い払えたのだ。激しく身体を動かしている時は過去も未来もなく、今に一生懸命になるしかない。
「どうして戦場で兵士達が冷酷になれるか、分かるでしょ」
身体を大の字にして横になっていたアロナは、まだ呼吸が安定しておらず「はへ?」という発音に近い言葉で訊き返した。
ペットボトルを地面に置いたガナルは、彼女の隣にあぐらをかいて座った。地面は水浸しだが、慣れていると言わんばかりに気にしている様子はない。
「脈が速くなると、視野が狭くなる。兵士達はその中で、常に生きるか死ぬかの二つの道を強いられる」
生きるには相手を銃で撃つしかない。
「あんたは人を殺したこと、ある?」
呼吸を三秒止めて、深く息を吐いたアロナはこう答えた。
「ないです。それが嫌なので軍医になりました」
「ふうん。あんたって外科医だっけ」
ここ何日も手術をしていないが、簡単な手術とはいえ執刀医を任されるほどの実力者であるのに変わりはない。アロナは自信を含んでそうだと答えた。
「兵士達は戦場で判断力が麻痺しているように思えるけど、そうでもない。すごく合理的な判断を取っているわ」
どうしてガナルがこんな話をするのか。さっきまで視線は合わせなかったアロナは、数十分ぶりに彼女の目を見ることにした。
床を見ていた。そこにはアロナの足と、水の床と吸水タイルの灰色模様しかない。殺風景な視界だ。
「極限状態の人間は、生き残るために合理的な判断を取る。組織や宗教、家族といった固定的な概念を消し去ってその瞬間だけ、野生になる」
「難しい話ですね、あんまり分かってなくてごめんなさい」
床を見ていたガナルが、アロナと目を合わせた。
「あんたを襲った兵士の末路は当然の報いよ」
心臓が飛び跳ねそうになった途端、ガナルの手が動いた。アロナの左手を両手で包んだのだ。
運動した後の暑さとはまったく違う。温もりだ。
「わ、私は。別に。運動もできますしそんなに重いトラウマじゃないです」
「バカじゃないの」
彼女は手を包んだままこう言った。
「小鳥地区に手紙に届けにいくんだって? ジェイクから聞いたわ」
汗が額から横に落ちていく。陽の光に当たり、宝石のように輝いた。
「戦勝国の奴が敗戦国に単独で来たら、もっと酷い目に遭うわよ。あんたはね、常に合理的に判断しないといけないの。必要なら相手を殺してでも、生きなきゃなんないのよ」
「でも人にはみんな過去があって、大事な人がいて」
「それ、目にナイフを突きつけられても言える?」
ガナルは更に続けた。
「大事な人の心臓に鉛玉を叩きこんだ相手の前でも言える?」
手を握る力が、少しだけ強まった。
「あんたの理想論が通用するのは平和が維持されている国だけよ。今のスナルデンじゃ通用しない」
握る力が弱まると、温もりが去った後の寂しげな冷たさが左手に広がった。ガナルは手を離し、備え付けの冷蔵庫に向かった。中から水の入ったペットボトルを取り出して飲むと、次に冷やしていたタオルを取り出して首に巻いた。
「そしてもう一つ言える。有識者は戦争は必要悪だという人達もいるけどね。バカバカしい」
義憤を吐き出すように、彼女はこう言い放った。
「戦争をしなけりゃ滅ぶなら、滅べばいいわ」
起き上がったアロナは、ロッカールームに入っていく彼女を静かに見送った。メガネを外していて視界はボヤけているが、威厳をそのまま持ってきたような大きな背中に感じられた。
運動を終え、着替えたアロナは自室に戻った。
夕方。ディナーにはまだ早いが、運動の余韻はまだ残っていて遠くへ出る気力はない。時間を効率的に使いたいアロナにとって、指針の欠如は落ち着かないものだった。
すると、誰かが部屋に入ってきたではないか。窓の外を見ていたアロナは驚いて扉の方を見ると、そこに立っていたのはアーリスだった。
「あ、あなたはさっきの患者さん。どうかなさいましたか」
驚きながらも、柔らかな声音で語り掛ける。
少し前は物憂げな表情をしていた彼女が、自分の居場所を見つけたような安心感を瞳の奥に宿していた。
「アロナさん、ですよね。その。一緒の病室でしばらく暮らしてもいいですか」
先輩主治医と交代になり、ジェイクは自分の事務室で日報作業に勤しむ時間が訪れた。軍の、いわゆる御上の人々に献上するための書類作成だ。薬の効果、負傷兵士の戦線復帰までの目途を記していく。戦争は終結に向かっているというのに戦線復帰とは無意味だろうが、仕事をこなさなければ転職に支障をきたすのは目に見えている。
しかし、今は別のお願い事に時間を費やしていた。ジンからの頼みだ。
今晩はモッカイに付き合わないといけないから魔術という失われた技術の調査を任されたのだ。精神医学は、いわば理系の分野だ。冷静に病状を分析し、数式のように当てはめて試行錯誤を繰り返していく。それに比べて魔術は理系とも文系とも違う。言うなれば魔系だろうか。
新たな概念をどう扱えばいいか困惑しながらも、ジェイクはパソコンをフル活用して調査に当たっていた。
調べ始めて数十分経ってから、予想していたよりも遅れて事務室の扉が開いた。
「先生、訊きたいことがあるんですが」
ノックもせずに入って来たアロナは、足早にデスク前で立ち止まると腰のあたりで手を組んでこう言った。
「アーリスさんが同室を希望しているんです。どうしたらいいでしょうか」
真相を話せば、一緒に過ごしたらどうかと提案したのはジェイクだった。今にも種明かしをするべきかと考えたが、今はまだ黙っておいたほうが得策に思えた。
「もし君にとって不都合なら断ればいいよ。アロナはどうしたい?」
自分が考える番になった途端、アロナはやんわりと狼狽えた。えーっと、えーっと……と場を繋ぐだけの小動物の鳴声に近い声を出しながら視線を左右に行ったり来たりしている。
誰かと一緒に過ごすにはまだ早かったのだろう。ジェイクは種明かしをしようと、口を開いた。
「一緒に住みます」
先に言葉を発したのはアロナだった。まだ迷いを含んだ声だったが、無理をしているようには見えなかった。
「分かった。けど安心して。君は助手だから医者として一緒にいるというよりも、友人として一緒にいてあげてほしいんだ」
友人として一緒にいる、というのが支えになったのだろう。アロナの肩にあった強張りが無くなるのだった。
――アロナの治療は、ここからが本番だ。
最初の三日間、アロナが見ているだけの期間でアロナと友人になれば効果的な人間をジェイクは求めていた。女性で、似たような経験を持ち、心優しい。一日目で見つかるとは思わなかったが、アーリスとの出会いは彼女を変えてくれるだろう。
ジェイクがジンを変えたように。
そして、ジンがジェイクを変えたように。
自分も分からない。逃げるような選択肢を取ったが、それ以外に答えが分からなかった。正しい答えだとも言えるし、別の見方ですればズルいとも言えてしまう。
広場からホテルに戻ると、モッカイがベッドの上で足を放り出し寝転んでいた。ホテルの支配人が気前よくモッカイの出入りを許しているが、まさか金も払ってない人間が満喫しているとは思ってもみないだろう。
「マクスウェル、魔術」
独り言が宙に浮かぶ。魔術という文化は大昔に失われている。もはや過去の遺物であり、現代で魔術を使える人間はいない。その原理も、何もかもが魔術師の大処刑時代に失われたからである。科学の推進派だった当時の国王達が書物を焼き払ったのだ。
現代で魔術と言えば笑い者にされる。
頭痛を巻き起こすような事態になってしまったが、アロナの特別任務に関わるとした以上は最後まで付き合うのが道理だった。
胸ポケットから自家製の紙巻きタバコを取り出し、火をつけて苦い煙を吐き出す。
「まだ吸ってんのか、それ」
やや右後ろの方からモッカイの声が聞こえてきた。声帯が傷付いたような低い声だった。
「なんの未練もないみたいな顔しやがって、意外とそうでもないんだよな。お前ってやつは」
故郷の香りが脳に伝わり、煙となって吐き出される。この味を胸に入れる時がジンにとって格別なのだ。
人前では滅多に吸えない。この匂いはあまりにも独特で敬遠される方が多い。
大きなあくびを携えて起き上がったモッカイは、寝起きのウォッカを浴びた。膝を一度叩いて起き上がると、そのまま洗面台へ向かう。自分用の寝起きセットを持ってきている用意周到さは、モッカイならでは。
死恐怖症という特性が無ければ彼は参謀に抜擢されただろう。
死恐怖症が無ければ。
あの事件が無ければ。
トレーニングが終わり、汗だくになったアロナは床で干からびていた。ガナルは彼女を励ますようにペットボトルから水を彼女に浴びせた。冷たくて心地よく、口の中に入って来た時は砂漠のオアシスを感じられる。
「ま、軍医ってだけはあるわね」
熱心なシゴキを受けたアロナは喋るのも一苦労だ。足も手も震えてしばらく立ち上がれそうにないのはガナルでもよく理解できた。
時間にすると三十分くらいだ。辛い時間ではあったが、一つの気付きを得た。ジェイクの隣にいた時と同じくらい、脳に刻まれた厄介事を追い払えたのだ。激しく身体を動かしている時は過去も未来もなく、今に一生懸命になるしかない。
「どうして戦場で兵士達が冷酷になれるか、分かるでしょ」
身体を大の字にして横になっていたアロナは、まだ呼吸が安定しておらず「はへ?」という発音に近い言葉で訊き返した。
ペットボトルを地面に置いたガナルは、彼女の隣にあぐらをかいて座った。地面は水浸しだが、慣れていると言わんばかりに気にしている様子はない。
「脈が速くなると、視野が狭くなる。兵士達はその中で、常に生きるか死ぬかの二つの道を強いられる」
生きるには相手を銃で撃つしかない。
「あんたは人を殺したこと、ある?」
呼吸を三秒止めて、深く息を吐いたアロナはこう答えた。
「ないです。それが嫌なので軍医になりました」
「ふうん。あんたって外科医だっけ」
ここ何日も手術をしていないが、簡単な手術とはいえ執刀医を任されるほどの実力者であるのに変わりはない。アロナは自信を含んでそうだと答えた。
「兵士達は戦場で判断力が麻痺しているように思えるけど、そうでもない。すごく合理的な判断を取っているわ」
どうしてガナルがこんな話をするのか。さっきまで視線は合わせなかったアロナは、数十分ぶりに彼女の目を見ることにした。
床を見ていた。そこにはアロナの足と、水の床と吸水タイルの灰色模様しかない。殺風景な視界だ。
「極限状態の人間は、生き残るために合理的な判断を取る。組織や宗教、家族といった固定的な概念を消し去ってその瞬間だけ、野生になる」
「難しい話ですね、あんまり分かってなくてごめんなさい」
床を見ていたガナルが、アロナと目を合わせた。
「あんたを襲った兵士の末路は当然の報いよ」
心臓が飛び跳ねそうになった途端、ガナルの手が動いた。アロナの左手を両手で包んだのだ。
運動した後の暑さとはまったく違う。温もりだ。
「わ、私は。別に。運動もできますしそんなに重いトラウマじゃないです」
「バカじゃないの」
彼女は手を包んだままこう言った。
「小鳥地区に手紙に届けにいくんだって? ジェイクから聞いたわ」
汗が額から横に落ちていく。陽の光に当たり、宝石のように輝いた。
「戦勝国の奴が敗戦国に単独で来たら、もっと酷い目に遭うわよ。あんたはね、常に合理的に判断しないといけないの。必要なら相手を殺してでも、生きなきゃなんないのよ」
「でも人にはみんな過去があって、大事な人がいて」
「それ、目にナイフを突きつけられても言える?」
ガナルは更に続けた。
「大事な人の心臓に鉛玉を叩きこんだ相手の前でも言える?」
手を握る力が、少しだけ強まった。
「あんたの理想論が通用するのは平和が維持されている国だけよ。今のスナルデンじゃ通用しない」
握る力が弱まると、温もりが去った後の寂しげな冷たさが左手に広がった。ガナルは手を離し、備え付けの冷蔵庫に向かった。中から水の入ったペットボトルを取り出して飲むと、次に冷やしていたタオルを取り出して首に巻いた。
「そしてもう一つ言える。有識者は戦争は必要悪だという人達もいるけどね。バカバカしい」
義憤を吐き出すように、彼女はこう言い放った。
「戦争をしなけりゃ滅ぶなら、滅べばいいわ」
起き上がったアロナは、ロッカールームに入っていく彼女を静かに見送った。メガネを外していて視界はボヤけているが、威厳をそのまま持ってきたような大きな背中に感じられた。
運動を終え、着替えたアロナは自室に戻った。
夕方。ディナーにはまだ早いが、運動の余韻はまだ残っていて遠くへ出る気力はない。時間を効率的に使いたいアロナにとって、指針の欠如は落ち着かないものだった。
すると、誰かが部屋に入ってきたではないか。窓の外を見ていたアロナは驚いて扉の方を見ると、そこに立っていたのはアーリスだった。
「あ、あなたはさっきの患者さん。どうかなさいましたか」
驚きながらも、柔らかな声音で語り掛ける。
少し前は物憂げな表情をしていた彼女が、自分の居場所を見つけたような安心感を瞳の奥に宿していた。
「アロナさん、ですよね。その。一緒の病室でしばらく暮らしてもいいですか」
先輩主治医と交代になり、ジェイクは自分の事務室で日報作業に勤しむ時間が訪れた。軍の、いわゆる御上の人々に献上するための書類作成だ。薬の効果、負傷兵士の戦線復帰までの目途を記していく。戦争は終結に向かっているというのに戦線復帰とは無意味だろうが、仕事をこなさなければ転職に支障をきたすのは目に見えている。
しかし、今は別のお願い事に時間を費やしていた。ジンからの頼みだ。
今晩はモッカイに付き合わないといけないから魔術という失われた技術の調査を任されたのだ。精神医学は、いわば理系の分野だ。冷静に病状を分析し、数式のように当てはめて試行錯誤を繰り返していく。それに比べて魔術は理系とも文系とも違う。言うなれば魔系だろうか。
新たな概念をどう扱えばいいか困惑しながらも、ジェイクはパソコンをフル活用して調査に当たっていた。
調べ始めて数十分経ってから、予想していたよりも遅れて事務室の扉が開いた。
「先生、訊きたいことがあるんですが」
ノックもせずに入って来たアロナは、足早にデスク前で立ち止まると腰のあたりで手を組んでこう言った。
「アーリスさんが同室を希望しているんです。どうしたらいいでしょうか」
真相を話せば、一緒に過ごしたらどうかと提案したのはジェイクだった。今にも種明かしをするべきかと考えたが、今はまだ黙っておいたほうが得策に思えた。
「もし君にとって不都合なら断ればいいよ。アロナはどうしたい?」
自分が考える番になった途端、アロナはやんわりと狼狽えた。えーっと、えーっと……と場を繋ぐだけの小動物の鳴声に近い声を出しながら視線を左右に行ったり来たりしている。
誰かと一緒に過ごすにはまだ早かったのだろう。ジェイクは種明かしをしようと、口を開いた。
「一緒に住みます」
先に言葉を発したのはアロナだった。まだ迷いを含んだ声だったが、無理をしているようには見えなかった。
「分かった。けど安心して。君は助手だから医者として一緒にいるというよりも、友人として一緒にいてあげてほしいんだ」
友人として一緒にいる、というのが支えになったのだろう。アロナの肩にあった強張りが無くなるのだった。
――アロナの治療は、ここからが本番だ。
最初の三日間、アロナが見ているだけの期間でアロナと友人になれば効果的な人間をジェイクは求めていた。女性で、似たような経験を持ち、心優しい。一日目で見つかるとは思わなかったが、アーリスとの出会いは彼女を変えてくれるだろう。
ジェイクがジンを変えたように。
そして、ジンがジェイクを変えたように。
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