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2-4

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 病院の食堂。昼の十四時になればほとんど空席だった。ジェイクの診察に同行するのはアロナの自由であり、午後の勉強はお休みというのが今日の選択だった。浮かない顔をしながらオレンジジュースをすすっているのは、ほぼ強制的に休ませられたからだろう。
 対面の席に座るジンは玉ねぎスープと豚肉の赤ワインソース煮込みを口に頬張っていた。
「昔じゃ、戦争といえば食糧難(しょくりょうなん)がセットでついてくるのがお決まりだった。時代は変わったな」
 そうなんですね、とアロナは短く返事をした。頬杖をつき、視線はテーブルに落ちているしおれたニンジンに向けられていた。
「そうカッカしなくてもいいだろ。出来心だ」
 肩に手を置いてきたのはジンだった。彼の言い訳をそのまま信じるなら、スナルデン国内であまり声を出したくないのだという。声紋をどこで録られているかが分からない、特に病院ならと弁明した。
 当然、アロナの機嫌を晴らすには言い訳の精度というのが足りなかった。かもしれない、で納得できる世の中ならそれ以上に住みやすい世界はないだろう。
「私のトラウマ、知ってますよね」
 生まれて初めて大きな恐怖を味わった。それも男性、ひいては軍人に対してだ。ジンはその二つの要素を持ち合わせており、少し考えれば刺激になると分かるはずだ。考えれば考えるほどアロナの表情は苛立ちが明瞭(めいりょう)になっていった。
「悪かったって。傍目(はため)から見てりゃ普通に見えたんだ」
 新しい言い訳は声紋がどうこうに比べればまだ分かりやすいものだ。
 食堂に若い軍人が二人入ってきた。片方の兵士は右腕が無くなっている。もう片方の兵士はガシ人だ。黒い肌を覆い隠すように長袖の服を着ているが、指を失っているからこそ分かる。彼も戦地の人だ。食堂に連れ添っているのは右腕の無い彼を介護するためだろう。
「普通に見せてるんです、私は」
 こう言い返すだけでは物足りなくて、アロナは続けた。
「なんで男性は鈍感な人が多いのかなあ。イライラします」
 怒りを誤魔化すようにオレンジジュースの甘さを堪能(たんのう)する。酸味よりも甘さの方が上回っており柑橘系(かんきつけい)を感じさせない美味しさ。鬱憤(うっぷん)という毒素が洗い流されるようだった。
 もはや何も言えずにジンは黙って食事を摂っていた。
 食堂に来たのは驚かせてしまった謝罪の一環(いっかん)だと彼は語っていたが、会いに来た目的については聞いていないのを思い出すのだった。
「なんで私に声をかけたんです」
「気まぐれだ」
 はあ!? と気の抜けたようでいながら大きなオレンジ色の声がアロナから飛び出した。
「何それ、意味分からないんですけど!」
 過呼吸になりかけたのもジンの気まぐれだったならば、彼が早いうちにそう言わなかったのには説明がつく。
 オレンジジュースがなかったら、今度はジンがトラウマを背負う番になっていただろうからだ。
「それと、マクスウェルについて少し分かったことがある」
 今にも立ち上がって小動物のような威嚇(いかく)をしかねないアロナだったが、マクスウェルの名前が出ると打って変わって落ち着きを取り戻した。
「調べてくれたんですか?」
 両手を膝の上に置き、真剣な眼差しに即座に切り替わる。まだ心にモヤモヤは残っているものの、ジンが調べているとは初耳で安心感もあった。
 自分のトラウマを気まぐれで刺激した相手に安心感を覚えるというのはモヤの濃度を深めたとはいえ、自分一人で調べるのは無理がある。帳消しにはならないが、多少の恩は感じるべきだろう。
「マクスウェルはあの兵士の言う通り小鳥地区にいる可能性が極めて高い」
「そりゃそうでしょう。嘘をつく場面ではありませんから」
 塩っぽい後味を無くすようにジンは水を飲んだ。
「嘘じゃなくとも、何らかの事情で住む場所が変わるかもしれないだろ」
 戦時中ならなおさらだと彼は付け足す。マクスウェルに限らず、これは誰にとってもあり得る話だった。一般市民が戦争に巻き込まれないために過疎地域(かそちいき)に一時的に引っ越すというのは珍しい話とは言えない。
「なぜ小鳥地区にいる可能性が高いと分かったんですか」
 折よくジンは完食し、紙ナプキンで口を大袈裟に拭いた。
「ある文献(ぶんけん)が見つかった」
「文献ってなんです?」
 セイロ通りにある東棟(ひがしとう)アニビドゥス派図書施設でマクスウェルに関する著述(ちょじゅつ)が見つかったのだという。本の題は「歴史が語れない嘘と、その恣意性(しいせい)における危険思想の植え付け」という少し冗長的なものだ。ジン曰く、それは歴史と冒険譚、哲学が入り混じった読みにくい作品だったという。
「今から一五〇年ほど前の本だが、マクスウェルの名前があった」
 本来において、ジンは町の図書館や施設は巡り巡って、後は古本屋を回りながら情報を集める気でいたが、友人のモッカイが既にこの情報を仕入れていたのである。教える見返りとして合コンに付き合わされるが、ジンは目を瞑って受け入れる他なかった。
「そんな昔だと、もう亡くなっているのではないでしょうか」
「そうとも言い切れねぇ。どうやらマクスウェルは、本物の魔術師らしい」
 本の中に記されていた言葉をジンは暗記していた。簡単な文章だった。
 ――マクスウェル嬢は目の前で土をクッキーに変え、蜘蛛(くも)を蝶へと変えてみせた。しかしこれは、私が見てきた中で小さな奇跡に過ぎない。
 ――魔女・魔術師の大処刑時代、彼女だけが生き延びたのには理由があった。
 ――嬢の魔法は秩序(ちつじょ)(つかさど)る。今は小鳥地区で、私の部下により保護させている。彼女の損失は人類の損失に他ならない。
 三つの引用を聞いたアロナは、当然とも言える疑問を口にせずにはいられなかった。
「その本の著者とマクスウェルはどういった関係なんですか?」
「推測だがいいか」
 本に答えは()っていなかったのだろう。アロナは少し乾いていた喉をジュースで(うるお)した。
「マクスウェル家使用人の子孫(しそん)じゃないかとふんでる」
 著者の名前はガノラド。年齢は出版当時に六十代だ。広いスナルデンを旅しながら本を記していく最中にマクスウェル家というのに触れる。一〇〇ページから五十ページ近くはマクスウェルに対する私見と魔術的アプローチを試みた哲学とも呼べる思想を語られるのだが……と、その辺りまでジンが説明しているとアロナが口を挟んだ。
「あの、ジンさん」
「なんだ」
 少しだけ目を丸くしてジンは口を閉じた。
「マクスウェルは小鳥地区にいるっていうことと、その本を書いた人が使用人だというのが分かれば大丈夫です」
「余計な話だったな。悪い」
 人間の集中力は八秒が限界なのだと、ジンは親から口酸っぱく言われてきたのを思い出す。いつも思い出すのが遅いのだ。
「いえ、それともう一つ気になっていたことがあるんです」
 コップを持ち上げたアロナは、ふと机に残った水の(あと)が気になった。面白い形をしていたからだ。
「なんで、私を軍に差し出さなかったんですか」
 椅子から立ち上がったジンは、ポケットの中から銀色のカードを取り出した。赤外線による支払いが主流になっている現代において、珍しい選択肢だ。
「コップの裏には絵が描いてある。ハンコと同じ原理だ」
「ハンコってなんですか」
 聞いたことのない言葉にアロナは戸惑った。
「アヤキ、という国で使われていた文化の一つ。知らないのか」
 まったく初耳だ、アロナは端末を取り出して調べようとしたがハッと気づくのだ。
 煙に巻かれている。
「なんで私を軍に差し出さなかったのかまだ聞いてません!」
 もう既に背中を見せていたジンは、表情が見えない。だから声で察するしかないと思ったが、ジンは今までと変わらない声音でこう言うだけだった。
「さてな」
 気まぐれなはずがない。国家に対する裏切り、その処遇は極めて独裁的で感情任せだ。数年前から独立戦争を起こして様々な国から非難(ひなん)を受けているミラージは、毒を食らわば皿までかみ(くだ)く。
「答えになってません」
「俺も分かんねぇんだよ。そう怒んな」
 なんだか気が抜けてしまい、アロナは去っていく背中の後を追いかける気力もなかった。
 彼はこれから先どうするつもりだろう。今ならまだ、アロナを探しにスナルデンに潜入していたが見つけられなかったと言い訳の余地は残されている。
 現に、彼はスパイ行為はしていないはずだ。アロナもまた逃亡はしたものの利敵(りてき)な行いは慎んでいる。救っているのはあくまでも一般市民と戦場に戻れないほど心に傷を背負った兵士達だ。
 机の上に残った、ハンコ原理の模様を見た。それは花であり、スズランだった。
 やることが無くなってしまったが、まだ時計の針は十五時をさしている。病院には確かジムがあったはずだ。暇をつぶすにはちょうど良いものに違いなく、アロナは食堂を出てジムへと向かった。
 職員はまだ仕事中。患者も使える施設ではあるが、肉体的にも精神的にも疲弊(ひへい)した人達が使うとは到底思えない。半ば貸し切り状態になっているだろうと予想してジムの片扉を開けた。
 まさか、ジムにいって心にグッと重量が乗る日が来るとは思わなかった。ランニングマシンで、ガナル医長が走っているところが見えたのだ。白衣は脱いでスポーツウェアを着ており、汗だくだ。長い時間ここにいるのだろう。
 気付かれていないことを祈りながら泥棒のように退散しよう、アロナは音を立てず(きびす)を返す。
「待ちなさいよ」
 さっきに聞いた、プライドの高さを感じさせながらも幼さを含んだ声が聞こえてきた。
「あんたの身体、少し綺麗過ぎるわ。心も含めてね。私が変えてあげる」
 驚く暇もなくランニングマシンから降りてきたガナル医長は、気付けば目の前にいた。呼吸が早く、肩と胸まで上下に動かしながら息をしていた。
「あ、あの。私そういうのは苦手で」
 咄嗟(とっさ)に出てきた言葉がそれだった。最初ははてな顔を浮かべていた医長は、意味が分かるとなおさら呼吸を早めながらこう言った。
「ばっか! 違う! あんたは弱っちいから強くしてやるって言ってんの。変な解釈(かいしゃく)すんじゃないわよ」
 彼女の呼吸につられて、アロナまで鼓動が早くなってくるようだった。
 そして、強烈な経験が脳に(よみがえ)る。これ以上鼓動が早くなるのは避けるべきだと、アロナは意識を外に回した。
「ガナル医長、可愛いですね!」
 自分でもなぜこの言葉が飛び出してきたのか彼女は分かっていない、ただ一つ現実を直視するならば。
 医長は(うつむ)きながらアロナの腕を掴んで引っ張り、二の腕に噛みつくのだった。あんまり力は感じず、甘噛みくらいに抑えられてはいるがアロナの俯瞰(ふかん)した人格がこう言っている。
 お互い、冷静ではないと。
 一番偉い人に対して子供扱いしたアロナ、その人物に対してなぜか甘噛みしてきたガナル。誰もこの状況を見て明確な説明ができる人間はいないだろう。
「あんたさ、今私が噛みついたこと絶対他の人に言わないでよ」
 ようやく腕を解放されたアロナが二度も三度も首を縦に振った。
「ついでに、運動していきなさいよ。やり方、教えてあげるから」
 神経症の患者達は、病気の深度が深いほどに気力が失われていく。睡眠に悩まされ、体力は極端に落ちる。運動をしたいとも思わないだろう。それなのに自分はできてしまっていると、俯瞰の人格は分析する。
 軽症なのだろうか。だが、その結論は早急(そうきゅう)過ぎるようであってそして、違うように感じられた。
「あんた着やせするタイプなのね」
 ロッカールームでレンタルウェアに着替えている時、何気ない医長の言葉にまた鼓動が早まった。ネガティブな早さではなかったのは必然か、医長の潜在的な力なのか。


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 病院の食堂。昼の十四時になればほとんど空席だった。ジェイクの診察に同行するのはアロナの自由であり、午後の勉強はお休みというのが今日の選択だった。浮かない顔をしながらオレンジジュースをすすっているのは、ほぼ強制的に休ませられたからだろう。
 対面の席に座るジンは玉ねぎスープと豚肉の赤ワインソース煮込みを口に頬張っていた。
「昔じゃ、戦争といえば食糧難《しょくりょうなん》がセットでついてくるのがお決まりだった。時代は変わったな」
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 肩に手を置いてきたのはジンだった。彼の言い訳をそのまま信じるなら、スナルデン国内であまり声を出したくないのだという。声紋をどこで録られているかが分からない、特に病院ならと弁明した。
 当然、アロナの機嫌を晴らすには言い訳の精度というのが足りなかった。かもしれない、で納得できる世の中ならそれ以上に住みやすい世界はないだろう。
「私のトラウマ、知ってますよね」
 生まれて初めて大きな恐怖を味わった。それも男性、ひいては軍人に対してだ。ジンはその二つの要素を持ち合わせており、少し考えれば刺激になると分かるはずだ。考えれば考えるほどアロナの表情は苛立ちが明瞭《めいりょう》になっていった。
「悪かったって。傍目《はため》から見てりゃ普通に見えたんだ」
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 食堂に若い軍人が二人入ってきた。片方の兵士は右腕が無くなっている。もう片方の兵士はガシ人だ。黒い肌を覆い隠すように長袖の服を着ているが、指を失っているからこそ分かる。彼も戦地の人だ。食堂に連れ添っているのは右腕の無い彼を介護するためだろう。
「普通に見せてるんです、私は」
 こう言い返すだけでは物足りなくて、アロナは続けた。
「なんで男性は鈍感な人が多いのかなあ。イライラします」
 怒りを誤魔化すようにオレンジジュースの甘さを堪能《たんのう》する。酸味よりも甘さの方が上回っており柑橘系《かんきつけい》を感じさせない美味しさ。鬱憤《うっぷん》という毒素が洗い流されるようだった。
 もはや何も言えずにジンは黙って食事を摂っていた。
 食堂に来たのは驚かせてしまった謝罪の一環《いっかん》だと彼は語っていたが、会いに来た目的については聞いていないのを思い出すのだった。
「なんで私に声をかけたんです」
「気まぐれだ」
 はあ!? と気の抜けたようでいながら大きなオレンジ色の声がアロナから飛び出した。
「何それ、意味分からないんですけど!」
 過呼吸になりかけたのもジンの気まぐれだったならば、彼が早いうちにそう言わなかったのには説明がつく。
 オレンジジュースがなかったら、今度はジンがトラウマを背負う番になっていただろうからだ。
「それと、マクスウェルについて少し分かったことがある」
 今にも立ち上がって小動物のような威嚇《いかく》をしかねないアロナだったが、マクスウェルの名前が出ると打って変わって落ち着きを取り戻した。
「調べてくれたんですか?」
 両手を膝の上に置き、真剣な眼差しに即座に切り替わる。まだ心にモヤモヤは残っているものの、ジンが調べているとは初耳で安心感もあった。
 自分のトラウマを気まぐれで刺激した相手に安心感を覚えるというのはモヤの濃度を深めたとはいえ、自分一人で調べるのは無理がある。帳消しにはならないが、多少の恩は感じるべきだろう。
「マクスウェルはあの兵士の言う通り小鳥地区にいる可能性が極めて高い」
「そりゃそうでしょう。嘘をつく場面ではありませんから」
 塩っぽい後味を無くすようにジンは水を飲んだ。
「嘘じゃなくとも、何らかの事情で住む場所が変わるかもしれないだろ」
 戦時中ならなおさらだと彼は付け足す。マクスウェルに限らず、これは誰にとってもあり得る話だった。一般市民が戦争に巻き込まれないために過疎地域《かそちいき》に一時的に引っ越すというのは珍しい話とは言えない。
「なぜ小鳥地区にいる可能性が高いと分かったんですか」
 折よくジンは完食し、紙ナプキンで口を大袈裟に拭いた。
「ある文献《ぶんけん》が見つかった」
「文献ってなんです?」
 セイロ通りにある東棟《ひがしとう》アニビドゥス派図書施設でマクスウェルに関する著述《ちょじゅつ》が見つかったのだという。本の題は「歴史が語れない嘘と、その恣意性《しいせい》における危険思想の植え付け」という少し冗長的なものだ。ジン曰く、それは歴史と冒険譚、哲学が入り混じった読みにくい作品だったという。
「今から一五〇年ほど前の本だが、マクスウェルの名前があった」
 本来において、ジンは町の図書館や施設は巡り巡って、後は古本屋を回りながら情報を集める気でいたが、友人のモッカイが既にこの情報を仕入れていたのである。教える見返りとして合コンに付き合わされるが、ジンは目を瞑って受け入れる他なかった。
「そんな昔だと、もう亡くなっているのではないでしょうか」
「そうとも言い切れねぇ。どうやらマクスウェルは、本物の魔術師らしい」
 本の中に記されていた言葉をジンは暗記していた。簡単な文章だった。
 ――マクスウェル嬢は目の前で土をクッキーに変え、蜘蛛《くも》を蝶へと変えてみせた。しかしこれは、私が見てきた中で小さな奇跡に過ぎない。
 ――魔女・魔術師の大処刑時代、彼女だけが生き延びたのには理由があった。
 ――嬢の魔法は秩序《ちつじょ》を司《つかさど》る。今は小鳥地区で、私の部下により保護させている。彼女の損失は人類の損失に他ならない。
 三つの引用を聞いたアロナは、当然とも言える疑問を口にせずにはいられなかった。
「その本の著者とマクスウェルはどういった関係なんですか?」
「推測だがいいか」
 本に答えは載《の》っていなかったのだろう。アロナは少し乾いていた喉をジュースで潤《うるお》した。
「マクスウェル家使用人の子孫《しそん》じゃないかとふんでる」
 著者の名前はガノラド。年齢は出版当時に六十代だ。広いスナルデンを旅しながら本を記していく最中にマクスウェル家というのに触れる。一〇〇ページから五十ページ近くはマクスウェルに対する私見と魔術的アプローチを試みた哲学とも呼べる思想を語られるのだが……と、その辺りまでジンが説明しているとアロナが口を挟んだ。
「あの、ジンさん」
「なんだ」
 少しだけ目を丸くしてジンは口を閉じた。
「マクスウェルは小鳥地区にいるっていうことと、その本を書いた人が使用人だというのが分かれば大丈夫です」
「余計な話だったな。悪い」
 人間の集中力は八秒が限界なのだと、ジンは親から口酸っぱく言われてきたのを思い出す。いつも思い出すのが遅いのだ。
「いえ、それともう一つ気になっていたことがあるんです」
 コップを持ち上げたアロナは、ふと机に残った水の跡《あと》が気になった。面白い形をしていたからだ。
「なんで、私を軍に差し出さなかったんですか」
 椅子から立ち上がったジンは、ポケットの中から銀色のカードを取り出した。赤外線による支払いが主流になっている現代において、珍しい選択肢だ。
「コップの裏には絵が描いてある。ハンコと同じ原理だ」
「ハンコってなんですか」
 聞いたことのない言葉にアロナは戸惑った。
「アヤキ、という国で使われていた文化の一つ。知らないのか」
 まったく初耳だ、アロナは端末を取り出して調べようとしたがハッと気づくのだ。
 煙に巻かれている。
「なんで私を軍に差し出さなかったのかまだ聞いてません!」
 もう既に背中を見せていたジンは、表情が見えない。だから声で察するしかないと思ったが、ジンは今までと変わらない声音でこう言うだけだった。
「さてな」
 気まぐれなはずがない。国家に対する裏切り、その処遇は極めて独裁的で感情任せだ。数年前から独立戦争を起こして様々な国から非難《ひなん》を受けているミラージは、毒を食らわば皿までかみ砕《くだ》く。
「答えになってません」
「俺も分かんねぇんだよ。そう怒んな」
 なんだか気が抜けてしまい、アロナは去っていく背中の後を追いかける気力もなかった。
 彼はこれから先どうするつもりだろう。今ならまだ、アロナを探しにスナルデンに潜入していたが見つけられなかったと言い訳の余地は残されている。
 現に、彼はスパイ行為はしていないはずだ。アロナもまた逃亡はしたものの利敵《りてき》な行いは慎んでいる。救っているのはあくまでも一般市民と戦場に戻れないほど心に傷を背負った兵士達だ。
 机の上に残った、ハンコ原理の模様を見た。それは花であり、スズランだった。
 やることが無くなってしまったが、まだ時計の針は十五時をさしている。病院には確かジムがあったはずだ。暇をつぶすにはちょうど良いものに違いなく、アロナは食堂を出てジムへと向かった。
 職員はまだ仕事中。患者も使える施設ではあるが、肉体的にも精神的にも疲弊《ひへい》した人達が使うとは到底思えない。半ば貸し切り状態になっているだろうと予想してジムの片扉を開けた。
 まさか、ジムにいって心にグッと重量が乗る日が来るとは思わなかった。ランニングマシンで、ガナル医長が走っているところが見えたのだ。白衣は脱いでスポーツウェアを着ており、汗だくだ。長い時間ここにいるのだろう。
 気付かれていないことを祈りながら泥棒のように退散しよう、アロナは音を立てず踵《きびす》を返す。
「待ちなさいよ」
 さっきに聞いた、プライドの高さを感じさせながらも幼さを含んだ声が聞こえてきた。
「あんたの身体、少し綺麗過ぎるわ。心も含めてね。私が変えてあげる」
 驚く暇もなくランニングマシンから降りてきたガナル医長は、気付けば目の前にいた。呼吸が早く、肩と胸まで上下に動かしながら息をしていた。
「あ、あの。私そういうのは苦手で」
 咄嗟《とっさ》に出てきた言葉がそれだった。最初ははてな顔を浮かべていた医長は、意味が分かるとなおさら呼吸を早めながらこう言った。
「ばっか! 違う! あんたは弱っちいから強くしてやるって言ってんの。変な解釈《かいしゃく》すんじゃないわよ」
 彼女の呼吸につられて、アロナまで鼓動が早くなってくるようだった。
 そして、強烈な経験が脳に蘇《よみがえ》る。これ以上鼓動が早くなるのは避けるべきだと、アロナは意識を外に回した。
「ガナル医長、可愛いですね!」
 自分でもなぜこの言葉が飛び出してきたのか彼女は分かっていない、ただ一つ現実を直視するならば。
 医長は俯《うつむ》きながらアロナの腕を掴んで引っ張り、二の腕に噛みつくのだった。あんまり力は感じず、甘噛みくらいに抑えられてはいるがアロナの俯瞰《ふかん》した人格がこう言っている。
 お互い、冷静ではないと。
 一番偉い人に対して子供扱いしたアロナ、その人物に対してなぜか甘噛みしてきたガナル。誰もこの状況を見て明確な説明ができる人間はいないだろう。
「あんたさ、今私が噛みついたこと絶対他の人に言わないでよ」
 ようやく腕を解放されたアロナが二度も三度も首を縦に振った。
「ついでに、運動していきなさいよ。やり方、教えてあげるから」
 神経症の患者達は、病気の深度が深いほどに気力が失われていく。睡眠に悩まされ、体力は極端に落ちる。運動をしたいとも思わないだろう。それなのに自分はできてしまっていると、俯瞰の人格は分析する。
 軽症なのだろうか。だが、その結論は早急《そうきゅう》過ぎるようであってそして、違うように感じられた。
「あんた着やせするタイプなのね」
 ロッカールームでレンタルウェアに着替えている時、何気ない医長の言葉にまた鼓動が早まった。ネガティブな早さではなかったのは必然か、医長の潜在的な力なのか。