11. 【OPEN】

ー/ー



 開店初日の朝、シャーロットは一番奥のテーブル席にそっと腰を下ろした。

 朝日がレースのカーテンを透かして店内に降り注ぐ。その光の粒子一つ一つが、まるで祝福の花びらのように感じられる。磨き上げたグラスが虹色に輝き、真新しいテーブルクロスは雪のように白く、黒板に丁寧に書いた文字が希望に躍っていた。

 全てが整っている。

 だが――――。

(誰も来なかったら、どうしよう)

 胸の奥で小さな不安が羽ばたく。王都では、良くも悪くも「公爵令嬢」という看板があった。でも今の私は、ただの無名のカフェ店主。すでにいくつもカフェはあるのだ。そんな中でこの町の人々に受け入れてもらえるだろうか――――。

「大丈夫」

 シャーロットは両手を握りしめ、深呼吸をした。手のひらに、かすかに震えを感じる。

「きっと、大丈夫」

 立ち上がると、エプロンの紐をきゅっと結び直した。これは戦いの準備、戦闘ではなく優しい戦いの――――。

 厨房に立つと、既に仕込んでおいたスープが小さく歌を歌い始めていた。コトコト、コトコト。まるで「頑張って」と励ましてくれているよう。オーブンからは焼きたてパンの香ばしい匂いが立ち上り、店内を幸せの予感で満たしていく。

「よし!」

 シャーロットは勢いよく振り返ると、入口へと向かった。

 扉にかかった木札を手に取る。【CLOSED】の文字が朝日を受けて光っていた。

 これをひっくり返せば、新しい人生が始まる――――。

 期待と不安が入り混じる中、シャーロットは意を決して札を裏返した。

 【OPEN】

 その瞬間、世界が少し明るくなったような気がした。


      ◇


 一時間が過ぎた――――。

 カウンターの向こうで、シャーロットは姿勢を正したまま待ち続ける。ドアベルは沈黙を守り、窓の外を人々が素通りしていく。

 二時間が過ぎた――――。

 スープの歌声だけが店内に響く。焼きたてのパンが少しずつ冷めていく。

(マルタさんたちも急用だって言ってたし……仕方ないわよね)

 自分に言い聞かせながら、シャーロットは笑顔を保とうとした。でも、誰もいない店内で一人待つ時間は、想像以上に心を(むしば)んでいく。

 看板を見上げて立ち止まる人はいる。でも、扉を開ける人はいない。

(やっぱり、夢見すぎだったのかしら)

 肩を落としかけたその時――――。

「ねえ、すっごくいい匂い!」

 子供の声がした。

 シャーロットが顔を上げると、窓の外に小さな影が二つ。

「ダメよ、トム。お金ないでしょ」

 姉らしき少女が弟の手を引こうとしている。でも、トムと呼ばれた男の子は、窓ガラスに顔をぺったりとくっつけて、憧れの眼差しで店内を見つめていた。

 二人とも継ぎはぎだらけの服。でも、その瞳は宝石のように輝いている。

 シャーロットの心に、温かいものが広がった。

(この子たちが、私の最初のお客様だわ)

 扉を開けると、ドアベルが初めて澄んだ音を響かせた。チリンチリン――――。

「いらっしゃいませ、坊や」

 シャーロットが微笑みかけると、姉が真っ青になって弟をかばうように立った。

「す、すみません! 弟が勝手に……お金は持ってなくて……」

「あら、ちょうど良かった」

 シャーロットはニコッと笑った。

「実は今日、開店記念の無料サービスをする予定だったの。でも、誰も来てくれなくて困ってたのよ」

「え?」

「最初のお客様は特別なの。だからーー」

 シャーロットはトムの前にしゃがみ込んで、にっこりと目線を合わせた。

「美味しく食べてくれる? それが一番のお礼になるの」

 トムの顔がぱあっと輝いた。

「うん! いっぱい食べる!」

「ふふっ、じゃあ二名様、ご案内しまーす!」

 シャーロットは大げさに腕を振って、姉弟を店内へと導いた。まるで、王宮の晩餐会に招待するように――――。

 厨房に立つと、不思議と体が軽い。さっきまでの不安はどこかへ消えて、代わりに使命感が胸を満たしていく。

 フライパンが歌い、卵が踊る。チキンライスは黄金色に輝き、とろけるチーズは銀の糸を紡ぐ。

 最後にケチャップでニッコリ笑顔を描き上げた――――。

「お待たせしました!」

 皿を置いた瞬間、姉弟は同時に息を呑んだ。

 ふわふわの黄色いドレスを纏ったオムライス。真っ赤なケチャップの笑顔。立ち上る湯気が、まるで幸せの精霊のよう。

「わあああ!」

 トムが歓声を上げた。姉も初めて見る料理に目を輝かせている。

「いただきます!」

 スプーンが卵に触れると、中からとろとろの黄身が溢れ出した。一口――――。

「すっごく美味しい! お姉ちゃん、これすっごく美味しいよ!」

 トムが全身で喜びを表現する。姉も恐る恐る口に運び――――。

「あ……」

 その瞬間、少女の瞳から一粒の涙がこぼれた。

「美味しい……こんなに美味しいもの、生まれて初めて……」

 シャーロットの胸が熱くなった。

(ああ、これだ)

 これこそが、私が本当に作りたかったもの。心を救う何か。幸せの記憶を作る、魔法の一皿――――。

「ごちそうさまでした!」

 空っぽの皿を前に、姉弟は満面の笑みで頭を下げた。












12. 神様の料理

 扉まで姉弟を見送るシャーロット――――。

 トムが振り返り、その小さな手を大きく振った。

「お姉ちゃん、また来てもいい?」

 期待と不安が入り混じった声。まるで、宝物の場所を慈しむように。

「もちろん! いつでも待ってるわ」

 シャーロットの答えに、トムの顔が朝顔のように咲いた。

「やったー!」

 トムはぴょんと跳ねる。

「ごちそうさまでした! すっごく、すっごく美味しかった!!」

 今度は姉が深々と頭を下げた。その瞳には、まだ感動の余韻が残っている。

「こんなおいしいの、まるで魔法みたいでした!!」

「ふふっ、ありがとう。気を付けて帰ってね」

 シャーロットは優しく手を振る。

 トムは何度も振り返り、その度に「美味しかったぁ!」と叫んでいた。

 最初のお客が彼らでよかった。シャーロットはしみじみと子供たちの出会いに感謝する。

 人込みに溶けていく。姉弟の幸せそうな姿を見守っていると――――。

「あの子たち、天使みたいな顔してたね」
「『魔法みたい』って言ってたよ」

 いつの間にか、店の前に人だかりができていた。まるで、幸せの香りに引き寄せられた蝶のように。

「新しいカフェか。入ってみようか」
「あの匂い、たまらないな」

 扉を開ける音が、まるで楽団の序曲のように次々と響く。

「いらっしゃいませ!」

 シャーロットの声が店内に花開いた。一人、また一人とお客が入ってくる度に、店内の温度が上がっていく。それは気温ではなく、人の温もりによる熱量――――。

 注文が飛び交い、フライパンが歌い、食器が踊る。

「このオムライスはまさに革命だ! 赤い魔法だ!」

 髭面の冒険者が、まるで宝物を発見したかのように叫ぶ。その隣では、仲間たちが我先にとスプーンを動かしている。

「まあ、なんて優雅な味! 王都の宮廷料理より素晴らしいわ」

 絹の扇子を持った婦人が、うっとりと目を細める。

 厨房と客席を行き来するシャーロットの足取りは、まるでワルツを踊るよう。疲れているはずなのに、不思議と体が軽い。

 その後も賑わいに引き寄せられるように次々と来客が続く。気がつけば、窓の外は茜色に染まっていた――――。


         ◇


 一段落がついて最後のお客様を見送り、シャーロットはカウンターにもたれかかった。

 冷めた紅茶が、働いた証のように甘く感じる。

(最高の一日だった……でも)

 両腕が鉛のように重い。明日もこの調子なら、体が持たないかもしれない。

 そんなことを考えていると――――。

 チリンチリン。

 振り返ると、一人の青年が立っていた。昼過ぎに来店した時から、ずっと何か言いたそうにしていた人だ。

「あの……」

 青年は深呼吸を三回した。まるで、人生を変える告白をする前のように。

「僕、ルカといいます」

 そして、真っ直ぐにシャーロットを見つめる。その瞳には誠実な輝きがあった。

「お願いがあって来ました」

「お願い?」

 シャーロットが小首を傾げると、ルカは拳をぎゅっと握りしめる。

「僕を……僕を弟子にしてください!」

 その声は、魂の底から搾り出したような響きを持っていた。

「あのオムライスを食べた時、雷に打たれたんです。いや、違う……もっとすごい何かが、僕の中で爆発したんです!」

 ルカの頬が興奮で赤く染まっている。

「そ、そんな大げさな……」

「大げさじゃありません!」

 ルカは一歩前に出る。その勢いに、シャーロットは思わず後ずさった。

「あの真っ赤なソース! 見たことも、想像したこともなかった! 一口食べた瞬間、世界が変わったんです。まるでーーまるで天使が舞い降りて、僕を祝福してくれたみたいで……」

 あまりの熱弁に、シャーロットは困りつつも自然と笑みが浮かんでくる。

「でも、私もまだまだ未熟で……」

「未熟? とんでもない!」

 ルカは首を激しく横に振った。

「あれは神様の料理です。いや、神様でもあんな料理は作れない!」

 その純粋すぎる賛辞に、シャーロットは思わず吹き出しそうになった。

(誰かに手伝ってもらいたいのは事実だわ。明日も一人は辛いし……しかし……)

「お店の仕事は料理だけじゃないのよ? 掃除も接客も……」

 シャーロットは言い含めるようにルカの顔をのぞきこむ。

「何でもします! 床磨きでも、皿洗いでも、薪割りでも!」

 ルカは深々と頭を下げる。

「だからお願いします! あの赤い魔法を、僕にも教えてください!」

 その必死な姿に、シャーロットの心が温かくなった。

「……分かりました」

 顔を上げたルカの瞳が見開かれる。

「明日から、一緒に頑張りましょう」

「ほ、本当ですか!?」

 ルカの顔が朝日のように輝いた。

「ありがとうございます! 一生懸命頑張ります! 命をかけて皿を洗います!」

「命はかけなくていいから……」

 シャーロットは苦笑しながら、でも心の中では微笑んでいた。

 ルカがたくさんお辞儀をして帰った後、シャーロットは静かになった店内を見回す。

「朝の不安が嘘のようだわ……」

 ここは今、幸せの記憶で満ちている――――。

 シャーロットは冷たくなった紅茶をすすり、大きく息を吸った。











13. 不審者

「ふんっ! 人間界も随分と退屈になったものだ……」

 フード姿の魔王ゼノヴィアスは、ローゼンブルク中心部にある噴水広場のベンチにどさりと身を沈めた。大理石の冷たさが、五百年生きた体には心地よい。

 変装の魔法で角は隠しているが、その威圧感までは消せない。だからこそ、顔を隠すように深くフードを被っている。

(ここも、昔は戦場だったというのに)

 四百年前、この場所で人間の騎士団と激突した時、自らの放った爆裂魔法【終焉の劫火(カタストロフ・エンド)】が大地を焼き、全てを灰にした。あの時の熱気、煙の匂い、断末魔の叫び――――。ゼノヴィアスは目をつぶり、懐かしそうにその情景を思い返す。

 だが、今はどうだ――――。

 子供たちが噴水の周りで遊び、恋人たちが寄り添い、商人たちが笑いながら商談をしている。

「腑抜けどもが……」

 ゼノヴィアスは吐き捨てるように呟いた。だが、その声には怒りよりも、むしろ虚しさが滲んでいた。

(もう一度、全てを焼き尽くしてやろうか……)

 ふんっ!

 全身に一瞬紫の輝きを纏い、ゼノヴィアスは殺気を放った。

 バサバサバサバサ。

 鳥たちが一斉に飛び立った――――が、人間たちはそのいきなりやってきた寒気が何なのかも分からずお互い顔を見合わせるばかり。

(……馬鹿馬鹿しい)

 この町を焼いてどうなるというのか?

 ゼノヴィアスは首をふり、深いため息を漏らした。

 破壊衝動は確かにある。闇の生命体としての本能が、時折牙を剥く。だが、四百年もの孤独な時間が、その衝動を押さえ込む術を教えてくれた。

 いや、押さえ込むというより――単に面倒になっただけなのかもしれない。それだけ気力の衰えが深刻ということだろう。

 些細なことで辺り一体を焼け野原にしていた五百年前の自分では考えられないことだった。

「ふぅ……、城に戻るか……」

 立ち上がろうとした、その時だった――――。

 風が、奇妙な香りを運んできた。

「ん……?」

 ゼノヴィアスの鼻腔を、今まで嗅いだことのない芳醇な香りが撫でる。甘く、酸っぱく、そして何より――温かい。

「何だ、これは……?」

 五百年の生涯で、こんな香りは初めてだった。

「おねーちゃん、あのオムライス最高だったね!」

 香りの方向から、姉弟が歩いてくる。その顔は、まるで天国から帰ってきたかのように輝いていた。

「うん! 赤いソースがとろーりで、卵がふわふわで!」

「魔法のお料理だよね!」

「きゃははは! 魔法だって!」

 二人の幸せそうな笑い声が、ゼノヴィアスの胸に小さな棘のように刺さった。

(オムライス……? 魔法……?)

 ゼノヴィアスは無意識のうちに立ち上がっていた。そして、姉弟が来た方向へと足を向ける。魔法の料理が人間界で発明されたとあらば魔王軍としても看過できないではないか。

 路地を曲がると、小さな店があった。

 『ひだまりのフライパン』

 看板の文字が、陽の光を受けて優しく輝いている。

「魔法の……オムライス……?」

 ゼノヴィアスは繁盛している店の中でクルクルと働く美しい少女にくぎ付けとなった。

「あの娘が……?」

 しかしさすがに魔王が人込みのカフェになど入れない。

「ふんっ!」

 魔王はいったん空高く飛んでいった。


        ◇


 そろそろ閉店時間。激動の一日がようやく終わる――――。

 ふと片付けの手を止め、シャーロットは窓の外に目をやった。

 ――視線を感じる。

 街灯の光が作る境界線、明と暗の狭間に、大きな影が佇んでいた。

 フードを深く被ったその人影は、まるで店内を観察するように、じっと見つめている。いや、観察というより何かを確かめているような――――。

(お客様……? でも、何か違う?)

 シャーロットが扉へ向かって一歩踏み出した瞬間、影はさっと身を翻した。闇に溶けていく、その後ろ姿に――――。

「お待ちください!」

 なぜか、声が出ていた。

 理由は分からない。ただ、このまま行かせてはいけない。そんな直感が、シャーロットの胸を衝き動かしていた。

 影が立ち止まる。

「まだ……まだ開いてますから。よろしければ……」

 長い、長い沈黙。

 風が止み、虫の音も消え、まるで世界が息を潜めたような静寂の中で――――。

 ゆっくりと、影が振り返った。

 重い足取り。まるで、見えない鎖を引きずるように、一歩、また一歩と店内へ。ドアベルが鳴るが、その音さえも遠慮がちだ。

 男はカウンターから最も遠い隅の席を選んだ。背を壁に、出口を視界に。まるで、いつでも逃げられる態勢を整えるかのように。






















14. 絡み合う視線

「いらっしゃいませ」

 シャーロットは優しく微笑み、メニューを差し出した。

 マントの奥から、白い手が伸びてくる。

 月光のように白く、彫刻のように美しい手。けれど、その指の動きには、長い年月を生きた者だけが持つ重みがあった。

 指が、静かに一点を指す。

 ――『とろけるチーズの王様オムライス』

「かしこまりました」

 厨房へ向かいながら、シャーロットは不思議な感覚に包まれていた。

(この人のために、特別な一皿を作らなければ)

 なぜそう思ったのかよくわからない。でも、あの孤独な佇まいが、まるで「助けて」と言っているような気がしたのだ。

 卵を割る――いつもより慎重に、愛情を込めて。

 フライパンに流し込み、菜箸で優しく、まるで子守唄を歌うようにかき混ぜる。半熟の瞬間――それは魔法が生まれる瞬間――を見極める。

 その間、男は不思議な行動を見せていた。

 まるで、生まれて初めて「カフェ」という空間に足を踏み入れた人のように――――。

 指先でテーブルクロスの質感を確かめ、壁のタペストリーに描かれたヒマワリを穴が開くほど見つめ、風に揺れるレースのカーテンを、奇跡でも見るような目で追っていた。

(ふふっ、まるで、子供みたい)

 その無邪気な仕草に、シャーロットの心が温かくなった。

「お待たせしました」

 皿を置いた瞬間――――。

 男の全身がびくりと震えた。

 そして始まった、奇妙な儀式。

 まず、真上から観察。次に横から。匂いを確かめ、湯気の立ち方を見つめる。その必死さはまるで時限爆弾の解体をするかのようだった――――。

 やがて、震える手でスプーンを取る。

 最初の一すくい。真紅のケチャップをほんの少し。

 舌先に乗せた瞬間。

 彼の時が、止まった――。

 フードの奥から、かすかに震える吐息が漏れる。

 次に、オムレツにスプーンをスッと差し込み――ゆっくりと持ち上げる。とろけたチーズが、まるで金の糸のように伸びて――――。

「ほお……」

 それは感嘆か、驚愕か、それとも――――。

 一口。

 その瞬間、男の体に雷が走ったかのように見えた。

 刹那、まるで、五百年の飢えを一気に満たすかのように、むさぼり始めた。一口、また一口。砂漠で水を見つけた旅人のように、生まれて初めて「美味しい」を知った子供のように――――。

「うっ!」

 突然、動きが止まる。

 ゴホッ! ゴホッ!

 激しい咳。急いで食べ過ぎたのだ。

「大丈夫ですか!?」

 シャーロットは反射的に駆け寄り、その大きな背中をさすった。

 ――その瞬間。

 男の体が、石のように固まった。

(えっ?)

 戸惑いながらも、シャーロットは優しく背中をさする。掌に伝わるのは、鋼のような筋肉。長い戦いを生き抜いてきたかのような戦士の体。

 しかし、男も戸惑っていた。

 五百年もの間、誰も彼の背中をさすることなどなかった。病の時も、傷ついた時も、ただ一人で耐える。それが魔族の頂点として当たり前だったのだ。

 だから今、優しい手の温もりに、魔王ゼノヴィアスは完全に動揺していた。

 慌てて振り返る。

 フードがずれ、一瞬、顔が露わになった。

 シャーロットは息を呑んだ。

 彫刻のように完璧な顔立ち。けれど、その瞳にはまるで永遠の冬のような、深い孤独が宿っていた。

 二人の視線が絡み合う。

 ブラウンの瞳と、深紅の瞳。

 時間が止まり、世界が消え、ただ二人だけが――――。

 ゴホゴホゴホッ!

 激しい咳が、魔法のような瞬間を破った。

「あらあら……」

 シャーロットは我に返り、再び背中をさする。今度は、もっと優しく、もっと温かく。

「大丈夫、大丈夫ですよ」

 まるで、怯えた子供をあやすように。

 男は慌ててフードをかぶり直す。その手が、かすかに震えていることに、シャーロットは気づいていた。

「ひ、久しぶりの……食事だったものでな」

 絞り出すような声。五百年ぶりの動揺を、必死に隠そうとしている。

「久しぶり……?」

 シャーロットの胸が、きゅっと締め付けられた。

(この人は、どれだけ長い間、一人で……)

「お料理は逃げませんから」

 優しく微笑んで、もう一度、そっと背中を撫でた。

「ゆっくり、味わってくださいね」

「……すまぬ」

 その言葉には、食事を急いだことへの謝罪だけでなく、もっと深い何かが込められていたような気がした。

 その後、男は一口一口を、まるで宝物を扱うように大切に。時折目を閉じて、深く味わい、そして――かすかに、本当にかすかに、口元が緩むのをシャーロットは見逃さなかった。

 やがて、皿が空になる。

 男はしばらく、空の皿を見つめていた。まるで、夢が終わってしまうのを惜しむかのように――――。




















15. 温もりを求めて

 ふぅと大きく息をつくと男は立ち上がり、懐から金貨を取り出す。

「悪くなかった……」

 ぶっきらぼうな言葉。でも、シャーロットには分かった。それが、この人なりの最大級の賛辞だということが。

「おそまつ様です……」

 男は無言でうなずき、古びた金貨をテーブルに置いて足早に出口へ向かった。

「へっ!? あの!」

 シャーロットが慌てて呼び止める。

「金貨一枚は……多すぎます」

 金貨であれば百皿分くらいの価値になってしまうのだ。

 男は足を止める――――。

「もらっておけ。それだけの価値は……あった」

 最後の言葉は、まるで自分でも信じられないというような、不思議な響きを持っていた。

「でも……」

 いくら『もらっておけ』と言われても、百倍はもらいすぎなのだ。

「なら……」

 男は少し考えて――――。

「先払いだ」

「先払い?」

「また来る」

 それは宣言だった。そして何より――五百年ぶりに見つけた、温かい場所への帰還の誓いだった。

 カランカランとベルを鳴らしながら男は去っていく――――。

「あ、ちょっと……」

 追いかけて店の外に出たシャーロットだったが――、もう男の姿はなかった。

「あ、あれ……?」

 まるで消えてしまったかのような不可思議な事態を理解できず、シャーロットはその場に立ち尽くす。

(不思議な人……)

 でも、怖くはなかった。

 むしろ、あの一瞬見えた瞳の奥の孤独が、胸に突き刺さって離れない。

(また来る……)

 その言葉を反芻する。

 きっと来る。あの人は必ず。

 なぜなら――――。

(あの人も、温もりを求めているから)

 シャーロットは目を閉じて金貨を胸に抱きしめた――――。


      ◇


 片付けをしながら、シャーロットは今日という日を振り返る。

 朝の不安が嘘のような、充実した一日。

 トムの太陽のような笑顔。
 ルカの真っ直ぐな情熱。
 そして――冬の旅人。

 全てが愛おしく、全てが必然だったような気がする。

「明日も、頑張ろう」

 明日も、きっと素敵な出会いが待っている。


      ◇


 魔王城の巨大な門が、主の帰還を察知して音もなく開いた。

 ゼノヴィアスは足早に玉座の間を通り過ぎ、自室へと向かう。いつもなら下僕たちに威厳ある姿を見せつけるところだが、今夜は違った。

 ――動揺している。

 五百年生きてきて、こんなにも心が乱れたことがあっただろうか。

「陛下、お帰りなさいませ」

 執事長のバフォメットが深々と頭を下げる。だが、ゼノヴィアスはそれに応えることもなく、ただ手を振って下がらせた。

 自室の扉を閉めると、ようやく大きく息をつく。

 フードを脱ぎ捨て、鏡に映る自分の顔を見つめる。

 ――まだ、熱い。

 背中に感じた、あの小さな手のひらの温度が、まだ残っている。

「馬鹿な……」

 ゼノヴィアスは首を振った。

 たかが人間の娘に触れられただけだ。それも、ただ咳き込んだ時に背中をさすられただけ。なのに――――。

(あんなに優しく触れられたのは、いつ以来だろう)

 記憶を辿る。百年、二百年、三百年……いや、もっと前。母がまだ生きていた頃まで遡らなければならないかもしれない。

 ふと、舌の上にまだ残る味を意識した。

 あの赤いソースの甘酸っぱさ。とろけるチーズの濃厚さ。そして、全てを包み込む卵の優しさ――――。

「『王様オムライス』……、か」

 呟いてみる。その響きさえも、どこか温かい。

 コンコン。

 扉を叩く音に、ゼノヴィアスは我に返った。

「陛下、夕餐の準備が整いました」

 そうだ、魔王城には世界最高レベルの豪華な食事がそろっているではないか。人間界の小さなカフェの料理など、比べるまでもないはずだ。

 急いで大広間へ向かうと、そこには目もくらむような御馳走が並んでいた。

 黄金の皿に盛られた極上仔羊の香草焼き。
 深紅のソースがかかった仔牛のステーキ。
 宝石のように輝く果実の盛り合わせ。
 三十年物のワインが注がれた水晶の杯。

 どれも、人間の王でさえ簡単には口にできないという極上の品々。

 ゼノヴィアスは席に着き、銀のフォークを手に取った。

 一口――――。

 確かに美味い。素材も調理も完璧だ。魔界一の料理人たちが腕によりをかけて作った最高級の料理。

 だが――――。

(何かが違う)

 もう一口。やはり違う。

 美味いのだ。間違いなく美味い。しかし――、心に響いてこない。

 あのオムライスを食べた時のような、全身に電気が走るような感動がない。魂が震えるような喜びがない。

「どうかされましたか、陛下」

 バフォメットが心配そうに尋ねる。

「……いや、何でもない」

 ゼノヴィアスは席を立った。

「今夜はもうよい」

「しかし、まだほとんどお召し上がりになって……」

「よいと言っている」

 低い声に、バフォメットは慌てて頭を下げた。















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次のエピソードへ進む 16. 眠れぬ夜


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 開店初日の朝、シャーロットは一番奥のテーブル席にそっと腰を下ろした。
 朝日がレースのカーテンを透かして店内に降り注ぐ。その光の粒子一つ一つが、まるで祝福の花びらのように感じられる。磨き上げたグラスが虹色に輝き、真新しいテーブルクロスは雪のように白く、黒板に丁寧に書いた文字が希望に躍っていた。
 全てが整っている。
 だが――――。
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「大丈夫」
 シャーロットは両手を握りしめ、深呼吸をした。手のひらに、かすかに震えを感じる。
「きっと、大丈夫」
 立ち上がると、エプロンの紐をきゅっと結び直した。これは戦いの準備、戦闘ではなく優しい戦いの――――。
 厨房に立つと、既に仕込んでおいたスープが小さく歌を歌い始めていた。コトコト、コトコト。まるで「頑張って」と励ましてくれているよう。オーブンからは焼きたてパンの香ばしい匂いが立ち上り、店内を幸せの予感で満たしていく。
「よし!」
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 【OPEN】
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      ◇
 一時間が過ぎた――――。
 カウンターの向こうで、シャーロットは姿勢を正したまま待ち続ける。ドアベルは沈黙を守り、窓の外を人々が素通りしていく。
 二時間が過ぎた――――。
 スープの歌声だけが店内に響く。焼きたてのパンが少しずつ冷めていく。
(マルタさんたちも急用だって言ってたし……仕方ないわよね)
 自分に言い聞かせながら、シャーロットは笑顔を保とうとした。でも、誰もいない店内で一人待つ時間は、想像以上に心を|蝕《むしば》んでいく。
 看板を見上げて立ち止まる人はいる。でも、扉を開ける人はいない。
(やっぱり、夢見すぎだったのかしら)
 肩を落としかけたその時――――。
「ねえ、すっごくいい匂い!」
 子供の声がした。
 シャーロットが顔を上げると、窓の外に小さな影が二つ。
「ダメよ、トム。お金ないでしょ」
 姉らしき少女が弟の手を引こうとしている。でも、トムと呼ばれた男の子は、窓ガラスに顔をぺったりとくっつけて、憧れの眼差しで店内を見つめていた。
 二人とも継ぎはぎだらけの服。でも、その瞳は宝石のように輝いている。
 シャーロットの心に、温かいものが広がった。
(この子たちが、私の最初のお客様だわ)
 扉を開けると、ドアベルが初めて澄んだ音を響かせた。チリンチリン――――。
「いらっしゃいませ、坊や」
 シャーロットが微笑みかけると、姉が真っ青になって弟をかばうように立った。
「す、すみません! 弟が勝手に……お金は持ってなくて……」
「あら、ちょうど良かった」
 シャーロットはニコッと笑った。
「実は今日、開店記念の無料サービスをする予定だったの。でも、誰も来てくれなくて困ってたのよ」
「え?」
「最初のお客様は特別なの。だからーー」
 シャーロットはトムの前にしゃがみ込んで、にっこりと目線を合わせた。
「美味しく食べてくれる? それが一番のお礼になるの」
 トムの顔がぱあっと輝いた。
「うん! いっぱい食べる!」
「ふふっ、じゃあ二名様、ご案内しまーす!」
 シャーロットは大げさに腕を振って、姉弟を店内へと導いた。まるで、王宮の晩餐会に招待するように――――。
 厨房に立つと、不思議と体が軽い。さっきまでの不安はどこかへ消えて、代わりに使命感が胸を満たしていく。
 フライパンが歌い、卵が踊る。チキンライスは黄金色に輝き、とろけるチーズは銀の糸を紡ぐ。
 最後にケチャップでニッコリ笑顔を描き上げた――――。
「お待たせしました!」
 皿を置いた瞬間、姉弟は同時に息を呑んだ。
 ふわふわの黄色いドレスを纏ったオムライス。真っ赤なケチャップの笑顔。立ち上る湯気が、まるで幸せの精霊のよう。
「わあああ!」
 トムが歓声を上げた。姉も初めて見る料理に目を輝かせている。
「いただきます!」
 スプーンが卵に触れると、中からとろとろの黄身が溢れ出した。一口――――。
「すっごく美味しい! お姉ちゃん、これすっごく美味しいよ!」
 トムが全身で喜びを表現する。姉も恐る恐る口に運び――――。
「あ……」
 その瞬間、少女の瞳から一粒の涙がこぼれた。
「美味しい……こんなに美味しいもの、生まれて初めて……」
 シャーロットの胸が熱くなった。
(ああ、これだ)
 これこそが、私が本当に作りたかったもの。心を救う何か。幸せの記憶を作る、魔法の一皿――――。
「ごちそうさまでした!」
 空っぽの皿を前に、姉弟は満面の笑みで頭を下げた。
12. 神様の料理
 扉まで姉弟を見送るシャーロット――――。
 トムが振り返り、その小さな手を大きく振った。
「お姉ちゃん、また来てもいい?」
 期待と不安が入り混じった声。まるで、宝物の場所を慈しむように。
「もちろん! いつでも待ってるわ」
 シャーロットの答えに、トムの顔が朝顔のように咲いた。
「やったー!」
 トムはぴょんと跳ねる。
「ごちそうさまでした! すっごく、すっごく美味しかった!!」
 今度は姉が深々と頭を下げた。その瞳には、まだ感動の余韻が残っている。
「こんなおいしいの、まるで魔法みたいでした!!」
「ふふっ、ありがとう。気を付けて帰ってね」
 シャーロットは優しく手を振る。
 トムは何度も振り返り、その度に「美味しかったぁ!」と叫んでいた。
 最初のお客が彼らでよかった。シャーロットはしみじみと子供たちの出会いに感謝する。
 人込みに溶けていく。姉弟の幸せそうな姿を見守っていると――――。
「あの子たち、天使みたいな顔してたね」
「『魔法みたい』って言ってたよ」
 いつの間にか、店の前に人だかりができていた。まるで、幸せの香りに引き寄せられた蝶のように。
「新しいカフェか。入ってみようか」
「あの匂い、たまらないな」
 扉を開ける音が、まるで楽団の序曲のように次々と響く。
「いらっしゃいませ!」
 シャーロットの声が店内に花開いた。一人、また一人とお客が入ってくる度に、店内の温度が上がっていく。それは気温ではなく、人の温もりによる熱量――――。
 注文が飛び交い、フライパンが歌い、食器が踊る。
「このオムライスはまさに革命だ! 赤い魔法だ!」
 髭面の冒険者が、まるで宝物を発見したかのように叫ぶ。その隣では、仲間たちが我先にとスプーンを動かしている。
「まあ、なんて優雅な味! 王都の宮廷料理より素晴らしいわ」
 絹の扇子を持った婦人が、うっとりと目を細める。
 厨房と客席を行き来するシャーロットの足取りは、まるでワルツを踊るよう。疲れているはずなのに、不思議と体が軽い。
 その後も賑わいに引き寄せられるように次々と来客が続く。気がつけば、窓の外は茜色に染まっていた――――。
         ◇
 一段落がついて最後のお客様を見送り、シャーロットはカウンターにもたれかかった。
 冷めた紅茶が、働いた証のように甘く感じる。
(最高の一日だった……でも)
 両腕が鉛のように重い。明日もこの調子なら、体が持たないかもしれない。
 そんなことを考えていると――――。
 チリンチリン。
 振り返ると、一人の青年が立っていた。昼過ぎに来店した時から、ずっと何か言いたそうにしていた人だ。
「あの……」
 青年は深呼吸を三回した。まるで、人生を変える告白をする前のように。
「僕、ルカといいます」
 そして、真っ直ぐにシャーロットを見つめる。その瞳には誠実な輝きがあった。
「お願いがあって来ました」
「お願い?」
 シャーロットが小首を傾げると、ルカは拳をぎゅっと握りしめる。
「僕を……僕を弟子にしてください!」
 その声は、魂の底から搾り出したような響きを持っていた。
「あのオムライスを食べた時、雷に打たれたんです。いや、違う……もっとすごい何かが、僕の中で爆発したんです!」
 ルカの頬が興奮で赤く染まっている。
「そ、そんな大げさな……」
「大げさじゃありません!」
 ルカは一歩前に出る。その勢いに、シャーロットは思わず後ずさった。
「あの真っ赤なソース! 見たことも、想像したこともなかった! 一口食べた瞬間、世界が変わったんです。まるでーーまるで天使が舞い降りて、僕を祝福してくれたみたいで……」
 あまりの熱弁に、シャーロットは困りつつも自然と笑みが浮かんでくる。
「でも、私もまだまだ未熟で……」
「未熟? とんでもない!」
 ルカは首を激しく横に振った。
「あれは神様の料理です。いや、神様でもあんな料理は作れない!」
 その純粋すぎる賛辞に、シャーロットは思わず吹き出しそうになった。
(誰かに手伝ってもらいたいのは事実だわ。明日も一人は辛いし……しかし……)
「お店の仕事は料理だけじゃないのよ? 掃除も接客も……」
 シャーロットは言い含めるようにルカの顔をのぞきこむ。
「何でもします! 床磨きでも、皿洗いでも、薪割りでも!」
 ルカは深々と頭を下げる。
「だからお願いします! あの赤い魔法を、僕にも教えてください!」
 その必死な姿に、シャーロットの心が温かくなった。
「……分かりました」
 顔を上げたルカの瞳が見開かれる。
「明日から、一緒に頑張りましょう」
「ほ、本当ですか!?」
 ルカの顔が朝日のように輝いた。
「ありがとうございます! 一生懸命頑張ります! 命をかけて皿を洗います!」
「命はかけなくていいから……」
 シャーロットは苦笑しながら、でも心の中では微笑んでいた。
 ルカがたくさんお辞儀をして帰った後、シャーロットは静かになった店内を見回す。
「朝の不安が嘘のようだわ……」
 ここは今、幸せの記憶で満ちている――――。
 シャーロットは冷たくなった紅茶をすすり、大きく息を吸った。
13. 不審者
「ふんっ! 人間界も随分と退屈になったものだ……」
 フード姿の魔王ゼノヴィアスは、ローゼンブルク中心部にある噴水広場のベンチにどさりと身を沈めた。大理石の冷たさが、五百年生きた体には心地よい。
 変装の魔法で角は隠しているが、その威圧感までは消せない。だからこそ、顔を隠すように深くフードを被っている。
(ここも、昔は戦場だったというのに)
 四百年前、この場所で人間の騎士団と激突した時、自らの放った爆裂魔法【|終焉の劫火《カタストロフ・エンド》】が大地を焼き、全てを灰にした。あの時の熱気、煙の匂い、断末魔の叫び――――。ゼノヴィアスは目をつぶり、懐かしそうにその情景を思い返す。
 だが、今はどうだ――――。
 子供たちが噴水の周りで遊び、恋人たちが寄り添い、商人たちが笑いながら商談をしている。
「腑抜けどもが……」
 ゼノヴィアスは吐き捨てるように呟いた。だが、その声には怒りよりも、むしろ虚しさが滲んでいた。
(もう一度、全てを焼き尽くしてやろうか……)
 ふんっ!
 全身に一瞬紫の輝きを纏い、ゼノヴィアスは殺気を放った。
 バサバサバサバサ。
 鳥たちが一斉に飛び立った――――が、人間たちはそのいきなりやってきた寒気が何なのかも分からずお互い顔を見合わせるばかり。
(……馬鹿馬鹿しい)
 この町を焼いてどうなるというのか?
 ゼノヴィアスは首をふり、深いため息を漏らした。
 破壊衝動は確かにある。闇の生命体としての本能が、時折牙を剥く。だが、四百年もの孤独な時間が、その衝動を押さえ込む術を教えてくれた。
 いや、押さえ込むというより――単に面倒になっただけなのかもしれない。それだけ気力の衰えが深刻ということだろう。
 些細なことで辺り一体を焼け野原にしていた五百年前の自分では考えられないことだった。
「ふぅ……、城に戻るか……」
 立ち上がろうとした、その時だった――――。
 風が、奇妙な香りを運んできた。
「ん……?」
 ゼノヴィアスの鼻腔を、今まで嗅いだことのない芳醇な香りが撫でる。甘く、酸っぱく、そして何より――温かい。
「何だ、これは……?」
 五百年の生涯で、こんな香りは初めてだった。
「おねーちゃん、あのオムライス最高だったね!」
 香りの方向から、姉弟が歩いてくる。その顔は、まるで天国から帰ってきたかのように輝いていた。
「うん! 赤いソースがとろーりで、卵がふわふわで!」
「魔法のお料理だよね!」
「きゃははは! 魔法だって!」
 二人の幸せそうな笑い声が、ゼノヴィアスの胸に小さな棘のように刺さった。
(オムライス……? 魔法……?)
 ゼノヴィアスは無意識のうちに立ち上がっていた。そして、姉弟が来た方向へと足を向ける。魔法の料理が人間界で発明されたとあらば魔王軍としても看過できないではないか。
 路地を曲がると、小さな店があった。
 『ひだまりのフライパン』
 看板の文字が、陽の光を受けて優しく輝いている。
「魔法の……オムライス……?」
 ゼノヴィアスは繁盛している店の中でクルクルと働く美しい少女にくぎ付けとなった。
「あの娘が……?」
 しかしさすがに魔王が人込みのカフェになど入れない。
「ふんっ!」
 魔王はいったん空高く飛んでいった。
        ◇
 そろそろ閉店時間。激動の一日がようやく終わる――――。
 ふと片付けの手を止め、シャーロットは窓の外に目をやった。
 ――視線を感じる。
 街灯の光が作る境界線、明と暗の狭間に、大きな影が佇んでいた。
 フードを深く被ったその人影は、まるで店内を観察するように、じっと見つめている。いや、観察というより何かを確かめているような――――。
(お客様……? でも、何か違う?)
 シャーロットが扉へ向かって一歩踏み出した瞬間、影はさっと身を翻した。闇に溶けていく、その後ろ姿に――――。
「お待ちください!」
 なぜか、声が出ていた。
 理由は分からない。ただ、このまま行かせてはいけない。そんな直感が、シャーロットの胸を衝き動かしていた。
 影が立ち止まる。
「まだ……まだ開いてますから。よろしければ……」
 長い、長い沈黙。
 風が止み、虫の音も消え、まるで世界が息を潜めたような静寂の中で――――。
 ゆっくりと、影が振り返った。
 重い足取り。まるで、見えない鎖を引きずるように、一歩、また一歩と店内へ。ドアベルが鳴るが、その音さえも遠慮がちだ。
 男はカウンターから最も遠い隅の席を選んだ。背を壁に、出口を視界に。まるで、いつでも逃げられる態勢を整えるかのように。
14. 絡み合う視線
「いらっしゃいませ」
 シャーロットは優しく微笑み、メニューを差し出した。
 マントの奥から、白い手が伸びてくる。
 月光のように白く、彫刻のように美しい手。けれど、その指の動きには、長い年月を生きた者だけが持つ重みがあった。
 指が、静かに一点を指す。
 ――『とろけるチーズの王様オムライス』
「かしこまりました」
 厨房へ向かいながら、シャーロットは不思議な感覚に包まれていた。
(この人のために、特別な一皿を作らなければ)
 なぜそう思ったのかよくわからない。でも、あの孤独な佇まいが、まるで「助けて」と言っているような気がしたのだ。
 卵を割る――いつもより慎重に、愛情を込めて。
 フライパンに流し込み、菜箸で優しく、まるで子守唄を歌うようにかき混ぜる。半熟の瞬間――それは魔法が生まれる瞬間――を見極める。
 その間、男は不思議な行動を見せていた。
 まるで、生まれて初めて「カフェ」という空間に足を踏み入れた人のように――――。
 指先でテーブルクロスの質感を確かめ、壁のタペストリーに描かれたヒマワリを穴が開くほど見つめ、風に揺れるレースのカーテンを、奇跡でも見るような目で追っていた。
(ふふっ、まるで、子供みたい)
 その無邪気な仕草に、シャーロットの心が温かくなった。
「お待たせしました」
 皿を置いた瞬間――――。
 男の全身がびくりと震えた。
 そして始まった、奇妙な儀式。
 まず、真上から観察。次に横から。匂いを確かめ、湯気の立ち方を見つめる。その必死さはまるで時限爆弾の解体をするかのようだった――――。
 やがて、震える手でスプーンを取る。
 最初の一すくい。真紅のケチャップをほんの少し。
 舌先に乗せた瞬間。
 彼の時が、止まった――。
 フードの奥から、かすかに震える吐息が漏れる。
 次に、オムレツにスプーンをスッと差し込み――ゆっくりと持ち上げる。とろけたチーズが、まるで金の糸のように伸びて――――。
「ほお……」
 それは感嘆か、驚愕か、それとも――――。
 一口。
 その瞬間、男の体に雷が走ったかのように見えた。
 刹那、まるで、五百年の飢えを一気に満たすかのように、むさぼり始めた。一口、また一口。砂漠で水を見つけた旅人のように、生まれて初めて「美味しい」を知った子供のように――――。
「うっ!」
 突然、動きが止まる。
 ゴホッ! ゴホッ!
 激しい咳。急いで食べ過ぎたのだ。
「大丈夫ですか!?」
 シャーロットは反射的に駆け寄り、その大きな背中をさすった。
 ――その瞬間。
 男の体が、石のように固まった。
(えっ?)
 戸惑いながらも、シャーロットは優しく背中をさする。掌に伝わるのは、鋼のような筋肉。長い戦いを生き抜いてきたかのような戦士の体。
 しかし、男も戸惑っていた。
 五百年もの間、誰も彼の背中をさすることなどなかった。病の時も、傷ついた時も、ただ一人で耐える。それが魔族の頂点として当たり前だったのだ。
 だから今、優しい手の温もりに、魔王ゼノヴィアスは完全に動揺していた。
 慌てて振り返る。
 フードがずれ、一瞬、顔が露わになった。
 シャーロットは息を呑んだ。
 彫刻のように完璧な顔立ち。けれど、その瞳にはまるで永遠の冬のような、深い孤独が宿っていた。
 二人の視線が絡み合う。
 ブラウンの瞳と、深紅の瞳。
 時間が止まり、世界が消え、ただ二人だけが――――。
 ゴホゴホゴホッ!
 激しい咳が、魔法のような瞬間を破った。
「あらあら……」
 シャーロットは我に返り、再び背中をさする。今度は、もっと優しく、もっと温かく。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
 まるで、怯えた子供をあやすように。
 男は慌ててフードをかぶり直す。その手が、かすかに震えていることに、シャーロットは気づいていた。
「ひ、久しぶりの……食事だったものでな」
 絞り出すような声。五百年ぶりの動揺を、必死に隠そうとしている。
「久しぶり……?」
 シャーロットの胸が、きゅっと締め付けられた。
(この人は、どれだけ長い間、一人で……)
「お料理は逃げませんから」
 優しく微笑んで、もう一度、そっと背中を撫でた。
「ゆっくり、味わってくださいね」
「……すまぬ」
 その言葉には、食事を急いだことへの謝罪だけでなく、もっと深い何かが込められていたような気がした。
 その後、男は一口一口を、まるで宝物を扱うように大切に。時折目を閉じて、深く味わい、そして――かすかに、本当にかすかに、口元が緩むのをシャーロットは見逃さなかった。
 やがて、皿が空になる。
 男はしばらく、空の皿を見つめていた。まるで、夢が終わってしまうのを惜しむかのように――――。
15. 温もりを求めて
 ふぅと大きく息をつくと男は立ち上がり、懐から金貨を取り出す。
「悪くなかった……」
 ぶっきらぼうな言葉。でも、シャーロットには分かった。それが、この人なりの最大級の賛辞だということが。
「おそまつ様です……」
 男は無言でうなずき、古びた金貨をテーブルに置いて足早に出口へ向かった。
「へっ!? あの!」
 シャーロットが慌てて呼び止める。
「金貨一枚は……多すぎます」
 金貨であれば百皿分くらいの価値になってしまうのだ。
 男は足を止める――――。
「もらっておけ。それだけの価値は……あった」
 最後の言葉は、まるで自分でも信じられないというような、不思議な響きを持っていた。
「でも……」
 いくら『もらっておけ』と言われても、百倍はもらいすぎなのだ。
「なら……」
 男は少し考えて――――。
「先払いだ」
「先払い?」
「また来る」
 それは宣言だった。そして何より――五百年ぶりに見つけた、温かい場所への帰還の誓いだった。
 カランカランとベルを鳴らしながら男は去っていく――――。
「あ、ちょっと……」
 追いかけて店の外に出たシャーロットだったが――、もう男の姿はなかった。
「あ、あれ……?」
 まるで消えてしまったかのような不可思議な事態を理解できず、シャーロットはその場に立ち尽くす。
(不思議な人……)
 でも、怖くはなかった。
 むしろ、あの一瞬見えた瞳の奥の孤独が、胸に突き刺さって離れない。
(また来る……)
 その言葉を反芻する。
 きっと来る。あの人は必ず。
 なぜなら――――。
(あの人も、温もりを求めているから)
 シャーロットは目を閉じて金貨を胸に抱きしめた――――。
      ◇
 片付けをしながら、シャーロットは今日という日を振り返る。
 朝の不安が嘘のような、充実した一日。
 トムの太陽のような笑顔。
 ルカの真っ直ぐな情熱。
 そして――冬の旅人。
 全てが愛おしく、全てが必然だったような気がする。
「明日も、頑張ろう」
 明日も、きっと素敵な出会いが待っている。
      ◇
 魔王城の巨大な門が、主の帰還を察知して音もなく開いた。
 ゼノヴィアスは足早に玉座の間を通り過ぎ、自室へと向かう。いつもなら下僕たちに威厳ある姿を見せつけるところだが、今夜は違った。
 ――動揺している。
 五百年生きてきて、こんなにも心が乱れたことがあっただろうか。
「陛下、お帰りなさいませ」
 執事長のバフォメットが深々と頭を下げる。だが、ゼノヴィアスはそれに応えることもなく、ただ手を振って下がらせた。
 自室の扉を閉めると、ようやく大きく息をつく。
 フードを脱ぎ捨て、鏡に映る自分の顔を見つめる。
 ――まだ、熱い。
 背中に感じた、あの小さな手のひらの温度が、まだ残っている。
「馬鹿な……」
 ゼノヴィアスは首を振った。
 たかが人間の娘に触れられただけだ。それも、ただ咳き込んだ時に背中をさすられただけ。なのに――――。
(あんなに優しく触れられたのは、いつ以来だろう)
 記憶を辿る。百年、二百年、三百年……いや、もっと前。母がまだ生きていた頃まで遡らなければならないかもしれない。
 ふと、舌の上にまだ残る味を意識した。
 あの赤いソースの甘酸っぱさ。とろけるチーズの濃厚さ。そして、全てを包み込む卵の優しさ――――。
「『王様オムライス』……、か」
 呟いてみる。その響きさえも、どこか温かい。
 コンコン。
 扉を叩く音に、ゼノヴィアスは我に返った。
「陛下、夕餐の準備が整いました」
 そうだ、魔王城には世界最高レベルの豪華な食事がそろっているではないか。人間界の小さなカフェの料理など、比べるまでもないはずだ。
 急いで大広間へ向かうと、そこには目もくらむような御馳走が並んでいた。
 黄金の皿に盛られた極上仔羊の香草焼き。
 深紅のソースがかかった仔牛のステーキ。
 宝石のように輝く果実の盛り合わせ。
 三十年物のワインが注がれた水晶の杯。
 どれも、人間の王でさえ簡単には口にできないという極上の品々。
 ゼノヴィアスは席に着き、銀のフォークを手に取った。
 一口――――。
 確かに美味い。素材も調理も完璧だ。魔界一の料理人たちが腕によりをかけて作った最高級の料理。
 だが――――。
(何かが違う)
 もう一口。やはり違う。
 美味いのだ。間違いなく美味い。しかし――、心に響いてこない。
 あのオムライスを食べた時のような、全身に電気が走るような感動がない。魂が震えるような喜びがない。
「どうかされましたか、陛下」
 バフォメットが心配そうに尋ねる。
「……いや、何でもない」
 ゼノヴィアスは席を立った。
「今夜はもうよい」
「しかし、まだほとんどお召し上がりになって……」
「よいと言っている」
 低い声に、バフォメットは慌てて頭を下げた。