6. 真っ赤な宝石

ー/ー



 とぼとぼと歩いていると、小さな花屋の前で、ふと足が止まった。

 店先には色とりどりの花々が、鮮やかに並んでいる。向日葵(ひまわり)が太陽を追いかけるように顔を上げ、薔薇(ばら)が朝露を纏って輝き、小さな勿忘草(わすれなぐさ)が可憐に微笑んでいる。

 その花々の中で、シャーロットの視線が一点に釘付けになった。

 真っ赤な宝石のような実がいくつも実っている鉢植え――――。

「こっ、これは……!?」

 震える手で鉢植えに近づく。鼻を近づけると漂う、懐かしい青臭い香り――――。

 朝日を受けて、まるでルビーのように輝くその姿に、シャーロットの心臓が高鳴った。

「プチトマト!?」

 その瞬間、まるで宝物を見つけた子供のように重かったカゴも忘れ、弾むような足取りで店の中に飛び込む。

「こっ、この鉢植え、どこで手に入れたんですか?」

 カウンターで花の手入れをしていた女主人が、シャーロットの勢いに目を丸くする。

「ああ、それ?」

 女主人は苦笑いを浮かべながら、エプロンで手を拭いた。四十代半ばだろうか、日に焼けた頬に笑い皺が刻まれた、人の良さそうな女性だ。

「郊外のガンツじいさんが作ってる……トマトだったかしら? 変わった植物よ。『観賞用にどうだ』って持ってきたけど……」

 女主人は肩をすくめる。

「赤い実が毒々しいって、誰も買わないのよね。正直、私も処分に困ってたところよ」

「でも、これ……食べられるんです! とっても美味しいんです!」

 シャーロットの言葉に、女主人の顔色が変わった。

「食べる!? あんた、この赤い実を? 毒があるんじゃないの?」

「い、いえ、大丈夫です! 本当に美味しいんです! 甘酸っぱくて、瑞々しくて……」

 シャーロットは必死に説明するが、女主人の表情は半信半疑のままだ。でも、その真剣な眼差しに何かを感じたのか、しばらく考え込んだ後、小さくため息をついた。

「まあ、あんたがそこまで言うなら……ガンツじいさんの農場は、ここから東に向かって、丘を一つ越えたところにあるわ」

 女主人は、丁寧に道順を説明してくれる。

「ガンツのじいさんは変わり者だけど、悪い人じゃないわ。ただ、ちょっと……いや、かなり頑固なところがあるから、気をつけてね」

 シャーロットは何度も頭を下げ、震える手で鉢植えを手に取った。

「これ、買わせてください!」

「え? 本当に? でも……まあ、持ってってちょうだい。お代はいらないわ」

「えっ!? でも……」

「捨てようと思ってた物だからね。それに価値を知ってる人に貰われた方がトマトも嬉しいでしょ? はっはっは!」

 女主人は楽しそうに笑った。

「あ、ありがとうございます!」

 ローゼンブルクの人の温かさにシャーロットは泣きそうになった。誰もが笑顔でゆとりがある。計算高くあることが尊ばれる王都ではとても考えられない。

 私もこうありたい――シャーロットは心からそう思った。

 手提げ袋に大切に収めたプチトマトの鉢植え。小さな赤い実が、まるで希望の灯火のように、シャーロットの心に光を灯していた。


       ◇


 翌日早朝、朝露がまだ草木を濡らす時刻。シャーロットは期待と不安を胸に、教えられた道を東へと向かった。

 石畳の道はやがて草の生える土の道となり、町の喧騒は鳥のさえずりと風の音に変わっていく――――。

 丘を登るにつれ、視界が開けてきた。振り返れば、ローゼンブルクの町が朝靄の中に優しく佇んでいる。

 小川にかかる石橋を渡り、大きな樫の木を目印に曲がると、そこに農場があった。

 いや、農場というより――実験場?

 他の農場とは明らかに違う光景が広がっていた。畑は幾何学的に区切られ、見慣れない作物が整然と並んでいる。支柱には几帳面に番号が振られ、まるで研究者の実験圃場のような雰囲気だ。

「おや? 誰だい?」

 しわがれた声に振り向くと、畑の奥から一人の老人が姿を現した。

 日に焼けて(しわ)だらけの顔。真っ白な髭は胸まで伸び、鋭い眼光が訪問者を値踏みしている。手には泥のついた(くわ)を持ち、長年の農作業で鍛えられた身体は、年齢を感じさせない力強さを秘めていた。

「はじめまして、私シャーロットと申します」

 シャーロットは深くお辞儀をする。

「町で新しくカフェを開こうと思っていて……実は、あなたが作っているトマトを分けていただきたくて……」

 その瞬間、ガンツの表情が一変した。

 警戒と驚きが入り混じった顔で、じっとシャーロットを見つめる。まるで、幻聴を聞いたかのような表情だ。

「トマトを知ってるのかい? しかも、欲しいだと?」

 声には信じられないという響きが含まれている。

「はい! トマトは素晴らしい食材なんです! ぜひ見せていただけませんか?」

 ガンツはしばらく黙って立っていたが、やがて大きくため息をついた。



















7. 挑戦状

「……ついて来な」

 案内された先で、シャーロットは息を呑んだ。そこは、まさにトマトの楽園だった。

 背丈近くまで伸びた茎に、大小様々なトマトが実っている。真っ赤に熟したもの、まだ青いもの、そして見たこともない黄色やオレンジ色のトマトまで。プチトマトは房なりに実り、大玉トマトは掌に余るほどの大きさに育っている。

 独特の青臭い香りが、辺りに満ちていた。それは、シャーロットにとっては懐かしく、愛おしい香りだった。

「素晴らしい……」

 思わず感嘆の声が漏れる。キラキラと目を輝かせながら、シャーロットはトマトたちを見て回る。

「これだけあれば、オムライスもトマトソースも作り放題!」

「待ちな」

 ガンツの低い声が、シャーロットの夢想をさえぎった。

 振り返ると、老人は腕を組んで難しい顔をしている。

「確かにわしはトマトを作っとる。二十年以上もな。だが……」

 ガンツの視線が、愛情と諦めの入り混じったものに変わる。

「町に出荷しても『毒々しい』『酸っぱくて青臭い』と誰も買わん。最初は『いつか分かってもらえる』と思っとったが……」

 老人の肩が、わずかに落ちた。

「自分で食うだけのために作るのも馬鹿馬鹿しくてな。そろそろ止めようと思っとったんじゃ。結構育てるの大変なんだわ、これが」

 二十年の苦労と孤独が、その言葉に滲んでいた。

「いやいや、トマトは最高に美味しいんです! たくさん買いますから、ぜひ作り続けてください!」

 シャーロットは身を乗り出した。

 しかし――――。

「じゃが、お嬢ちゃんが買っても、お客が食べなかったらゴミになるだけなんだぞ?」

 ガンツは冷徹な視線を投げかける。

「だっ、大丈夫です! トマトの美味しさを私がみんなに紹介します!」

 シャーロットは両手のこぶしをグッと握りブンと振った。

 その熱意に、ガンツの硬い表情が少しだけ和らぐ。

「ふむ……」

 顎髭を撫でながら、じっとシャーロットを見つめる。やがて、その瞳に挑戦的な光が宿った。

「そこまで言うなら……一つ条件がある」

「な、なんでしょう?」

「わしは今まで、トマトは生で食うか、せいぜい塩をかけるくらいしか知らん」

 ガンツは、にやりと笑った。

「もし、本当に美味い『トマト料理』とやらを食わせてくれたら……、考えてやってもいいが?」

 挑戦状を叩きつけられたシャーロットの目が、炎のように輝く。

「お任せください!」

 いきなり降ってきた試練だが、シャーロットは勝利を確信していた。それだけトマトのポテンシャルを信頼しているのだ。


       ◇


 ガンツの家は、農場の隣にある石造りの質素な建物だった。

 台所は意外にも整然としていて、年季の入った調理器具が丁寧に手入れされて並んでいる。シャーロットはエプロンを身につけると、早速調理に取りかかった。

 まず、ガンツが差し出してくれた真っ赤なトマトを手に取る。

(いいトマトだわ。愛情を込めて育てられたのが分かる)

 鍋に湯を沸かし、トマトのお尻に十字の切り込みを入れた。沸騰した湯にさっとくぐらせ、すぐに冷水へ。

「ほう……」

 ガンツが興味深そうに覗き込む。

 するりと皮が剥けるトマト。それを手際よく刻んでいく。果肉からじゅわりと果汁が溢れ、まな板を赤く染めた。

 フライパンにオリーブオイルを注ぎ、みじん切りにしたニンニクを投入。火にかけると、たちまち香ばしい香りが立ち上る。

「ニンニクの香りが移ったら……」

 刻んだトマトを一気に加える。

 ジュワァァァ!

 勢いよく水分が蒸発し、甘酸っぱい香りが台所中に広がった。木べらで優しくかき混ぜながら、トマトが煮崩れていく様子を見守る。

「なんだなんだ、この美味そうな匂いは……」

 ガンツの声には、期待が混じっていた。

「トマトは加熱すると旨みが出てくるんですよ」

 塩、胡椒で味を調え、スプーンですくって味見をする。

「うん、美味しい! ふふっ」

 その嬉しそうな表情に、ガンツも思わず笑みをこぼす。

 別の鍋では、パスタが踊るように茹で上がっていく。タイミングを見計らって湯切りし、真っ赤なトマトソースと絡める。仕上げに粉チーズをたっぷりと振りかけ、摘んできたバジルの葉を添えた――――。

「さあ、召し上がってください」

 シャーロットは最高の笑顔で、湯気の立つパスタをテーブルに運んだ。

「えぇ……こんな真っ赤なパスタ……大丈夫かよ、おい……」

 ガンツは眉をひそめながら、恐る恐るフォークを手に取る。

 くるくるとパスタを巻き取り、ゆっくりと口に運ぶ。

 その瞬間――――。

「こ、これは……!」

 老人の目が、まるで子供のように見開かれた。

「どうですか? ふふっ」

 シャーロットは期待に胸を膨らませて見守る。

 ところが――――。

 ガンツはズルズルと勢いよくパスタをすすった後、急に腕を組んで黙り込んでしまった。眉間に深い皺を寄せ、何やら考え込んでいる。

「あれ? お気に召しませんでした?」

 不安になったシャーロットが首をかしげた、その時。

 ガタン!

 ガンツが突然立ち上がり、そのまま何も言わずにドアを開けて飛び出していった。












8. 魔王ゼノヴィアスの憂鬱

「……へ?」

 一人残されたシャーロットは、呆然と立ち尽くす。

(失敗した……? でも、あんなに驚いた顔してたのに……)

 鍋に残ったトマトソースを指ですくい、ペロリと味見をする。トマトの旨味は十分に引き出せているはず。味付けも悪くない。

(一体、何が……)

 不安に駆られていると、ドタドタと激しい足音が近づいてきた。

 バタン!

 勢いよくドアが開き、ガンツが飛び込んでくる。両腕いっぱいに、様々な種類のトマトを抱えて――――。

「お嬢ちゃん!」

 老人の顔は、まるで少年のように輝いていた。

「これは甘みが強い! こっちは酸味のバランスがいい! あと、これは試験的に作った品種でな……」

 テーブルの上に、次々とトマトを並べていく。

「多分、味の濃いトマトの方がきっともっと美味いはずだ。いくつか持ってきたから、これで試してくれんか? な?」

 瞳をキラキラと輝かせながら、ガンツは身を乗り出した。

「え? じゃあ、譲っていただけるんですね?」

「もっちろんじゃ!」

 ガンツは大きく頷いた。

「トマトが、こんなに……加熱したら甘みが増して、でも酸味も活きて、全体がまとまって……こんなに美味くなるとは!」

 感極まった様子で、老人は続ける。

「嬢ちゃん、わしは二十年以上トマトを作ってきた。でも、こんな食い方があったとは知らんかったぞ!」

「これはほんの一例です」

 シャーロットも興奮気味に答える。

「トマトは煮込み料理にも、スープにも、ソースにも使えます。グラタンに入れても美味しいし、肉と一緒に煮込めば最高のご馳走に……」

 その情熱的な説明に、ガンツは何度も深く頷いた。

「そうじゃろう、そうじゃろう! じゃから、加熱に合いそうなトマトを見繕ってきたぞ。これで試してみぃ!」

「あ、ありがとうございます!!」

 感激のあまり、シャーロットは思わずガンツの手を握った。

 (しわ)だらけで、土の匂いのする、働き者の手。二十年間、理解されなくても、トマトを作り続けてきた手。

「おう! いっぱい育ててやっからな! 任せたぞ!」

 ガンツはニカッと笑って固い握手を交わす。

 こうして、シャーロットは良質なトマトの安定供給先を確保しただけでなく、トマトへの情熱を共有する、かけがえのない仲間を得たのだった。

 この出会いが、ローゼンブルクの町の食文化を大きく変える第一歩となることを、まだ誰も知らない。

 窓の外では、トマトたちが陽光を浴びて、まるで祝福するかのように赤く輝いていた。


       ◇


 その頃、魔の森の最深部――――。

 魔王城の最上階、黒曜石で造られた玉座の間で、魔王ゼノヴィアスは深い憂鬱(ゆううつ)に沈んでいた。

 巨大なアーチ窓から見下ろせるのは、どこまでも続く原生林の海。紫がかった霧が立ち込め、時折、魔獣の遠吠えが響いてくる。

 五百年を超える歳月を生きてきた魔王。しかし、その姿は人間でいえば二十代半ばといったところだろうか。

 艶やかな黒髪は肩まで流れ、切れ長の瞳は深い紫色をしている。高い鼻梁、整った顎のライン――人間界にいれば、間違いなく女性たちが群がるような美貌の持ち主だ。ただ、額から生えた漆黒の角だけが、彼が魔族であることを物語っていた。角は僅かにカールし、まるで王冠のような威厳を放っている。

 コンコン。

 重厚な扉を叩く音が、静寂を破った。

「魔王様、お食事の時間でございます」

 扉の向こうから、恭しい声が響く。

「呼ばずとも良い!」

 ゼノヴィアスは玉座から立ち上がることもなく、苛立たしげに声を荒げた。切れ長の瞳が、一瞬だけ赤く光る。

 しかし、扉はゆっくりと開かれた。

 入ってきたのは、山羊の頭を持つ老執事バフォメット。燕尾服を完璧に着こなし、白い手袋をはめている。三百年以上、この城に仕えてきた忠実な部下だ。

「そうは参りません」

 バフォメットは胸に手を当て、深く一礼する。しかし、その声には毅然とした響きがあった。

「魔王様が食事内容を確認されませんと、厨房の者たちが困ります。『今日の料理は魔王様のお気に召さなかったのではないか』と、皆、不安に駆られるのです」

「ふんっ!」

 ゼノヴィアスは不愉快そうに鼻を鳴らしたが、それ以上反論はしなかった。

 バフォメットが手を叩くと、小悪魔たちがぞろぞろと入ってくる。赤い肌に小さな翼を持つ彼らは、必死に重そうな料理を運んでいた。

 銀の大皿には、香草をまぶした子鹿の丸焼き。琥珀色のソースが艶やかに照り、香ばしい匂いが漂う。

 深い鍋には、魔界でしか採れない紫色の根菜と、魔獣の肉をじっくり煮込んだシチュー。表面には油が浮き、スパイスの刺激的な香りが立ち上る。

 他にも、血のように赤いワイン、黒いパン、得体の知れない果実……どれも、人間界では決して見ることのできない料理ばかりだった。














9. 全てに飽いた魔王

「うむ、確認した。下がって良し!」

 ゼノヴィアスは料理に視線を落とすこともなく、手を振った。

 小悪魔たちは安堵の表情を浮かべ、そそくさと退室していく。バフォメットも一礼して扉を閉めた。

 再び、静寂が訪れる――――。

 ゼノヴィアスは深いため息をついた。

(つまらぬ……)

 魔王は闇から生まれた存在。魔気の濃いこの城にいる限り、食事など必要ない。空腹を感じることもなければ、味覚を楽しむ必要もない。

 それでも部下たちは、毎日三度、律儀に食事を運んでくる。「魔王様も食事をなさるべきです」という、彼らなりの気遣いなのだろう。

 だが、五百年も生きていれば、どんな美食も灰のように味気ない。

(人間との大戦が終わって、もう四百年か……)

 思い返せば、あれは壮絶な戦いだった。

 人間たちは次々と勇者を送り込んできた。聖剣を掲げ、正義を叫び、仲間たちと共に魔王城に攻め込んでくる。とんでもないチートな攻撃を繰り出してくる勇者。しかし、ゼノヴィアスの方が一枚上手だった。その天才的な戦闘センスで勇者を葬っていく――――。

 ところがそれで終わらない。一人倒せば、また新たな勇者が現れる。まるで雑草のように、次から次へと。

 百年に及ぶ戦いの末、両陣営とも疲弊しきった。そして結ばれた停戦協定。

 以来、人間は人間同士で争い、魔族は魔族で静かに暮らしている。

(平和だ。退屈なほどに)

 ゼノヴィアスは立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。

 眼下に広がる魔の森。かつては勇者たちの恐るべきチート攻撃で荒れ野原だったが、今では、ただの森だ。

「少し体でも動かすか……」

 呟いて、ゼノヴィアスは窓を開ける。

 冷たい風が吹き込み、黒髪を乱す。そのまま窓枠に足をかけ、ひらりと身を躍らせた。

 重力に引かれて落下する身体。しかし、魔王の表情は涼しげなままだ。

 地面が近づいた瞬間――――。

 ブワッ!

 紫色の魔法陣が足元に展開される。複雑な紋様が光を放ち、落下の衝撃を完全に吸収する。人間の魔法使いが見れば、腰を抜かすほど高度な術式――――。しかし、ゼノヴィアスにとっては呼吸も同然だった。

 優雅に着地し、中庭を見渡す。

 黒い石で敷き詰められた広場。かつては訓練用の人形が並び、若い魔族たちが汗を流していた場所。今は、誰もいない。

 と、その時だった――――。

「もらったぁぁぁ!」

 殺気が背中を撫でる。

 振り返る間もなく、赤い閃光が視界を切り裂いた。炎を纏った剣が、ゼノヴィアスの首筋めがけて振り下ろされる。

 しかし――――。

 パァン!

 ゼノヴィアスは振り返りもせず、ただ左手を後ろに伸ばしただけだった。その手の甲が、剣の腹を叩く。

 赤い剣は、まるで飴細工のように砕け散った。

「なっ……!?」

 襲撃者は若い魔族だった。赤い肌に、まだ短い角。おそらく百歳にも満たない若造だろう。目を見開き、信じられないという表情で砕けた剣の柄を握りしめている。

「お前、名は?」

 ゼノヴィアスがゆっくりと振り返る。

「ぐっ……」

 若者は答えない。いや、答えられない。魔王の瞳を見た瞬間、全身が金縛りにあったように固まってしまったのだ。

「まあ、いい」

 ゼノヴィアスは軽く腕を振るった。

 刹那、裏拳が若者の頬を捉え、放たれる凝縮した魔力が大爆発を起こす。

 ズン!

 身体が宙を舞い、弧を描いて飛んでいく。そして――――。

 ドゴォン!

 中庭の向こうの石壁に激突し、蜘蛛の巣状にひびが入る。若者はそのまま地面に崩れ落ち、ぴくりとも動かなくなった。

「次やったら処刑な……」

 ゼノヴィアスは若者を指さしたが――――。

「……って、聞こえてないか」

 倒れた若者を一瞥し、ふぅと深いため息をつく。

 こんなことも、日常茶飯事となっていた。

 若い魔族たちは、隙あらば魔王の座を狙ってくる。「俺が魔王になる」「新しい時代を作る」――威勢のいい言葉を吐いて、そして一撃で沈む。

 最初の頃は、まだ面白かった。どんな技を使ってくるか、どんな覚悟で挑んでくるか――――。しかし、何万回と繰り返されれば、もはや日常の一部でしかない。

「いつまでこんなつまらない暮らしが続くんだ?」

 ゼノヴィアスは空を見上げた。

 魔の森の空は、常に曇っている。雲が太陽を隠し、薄暗い光だけが地上に届く。たまにしか青い空は見られないのだ。

「もう、たくさんだ……」

 呟いて、ゼノヴィアスはすっと両手を広げた。

 紫色の魔力が身体を包み込む。風が渦を巻き、髪と衣服をはためかせる。

 ふわり――――。

 重力から解放され、身体が浮き上がる。高度な浮遊魔法。人間の魔法使いなら、一生かけても習得できない技術だ。

 しかし、ゼノヴィアスの表情に喜びはない。

 ただ、どこか遠くを見つめるような、寂しげな瞳があるだけだ。

 そして、魔王は飛び立った。

 黒い影が、ものすごい速度で曇り空に吸い込まれていく。どこへ向かうのか、何を求めるのか。それは、ゼノヴィアス自身にも分からない。

 ただ、この退屈な日常から、少しでも離れたかった。

 五百年の時を生き、全てを手に入れ、そして全てに飽いた魔王。

 彼が求めているものが何なのか、まだ誰も――本人さえも――知らない。



















10. 渾身の一皿

 すっかり開店準備の整った『ひだまりのフライパン』――――。

 連日シャーロットは『とろけるチーズの王様オムライス』の試作に励んでいたが、まだ納得のいく出来に仕上げられずにいた。

 貴重なトマトを両手で包み込むように持ちながら、シャーロットは厨房に立つ。

 真っ赤に熟した果実が、まるで宝石のように朝日を受けて輝いている。その重みは、彼女の夢の重みそのものだった。

「今日で決めないと……」

 エプロンの紐をきゅっと結び、シャーロットは深呼吸をした。前世の記憶にある、あの懐かしい味。それをこの世界で再現するために――――。

 最初の試作は失敗だった。

 卵が固すぎて、まるで分厚い毛布のよう。チーズがいい塩梅に溶けるタイミングと卵液の固まり具合を合わせていくのは簡単ではなかった。

「違う、これじゃない」

 二作目、三作目――――。

 ずっと立ちっぱなしでシャーロットは厨房にこもった。手はしびれだし、エプロンは卵液でところどころ黄色に染まった。

 数え切れないほどの試作で、ようやく卵の焼き加減を掴んだ。外はふんわり、中はとろとろ。でも、まだ何かが足りない。

「もっと……もっと心が温まるような……」

 ふと、シャーロットは手を止めた。

 思い出したのは、前世で風邪を引いた時、母が作ってくれたオムライスの味。それは完璧ではなかったけれど、愛情がたっぷり詰まっていた。

(そうだ、あの時入れていたのは……)

 次の試作で、シャーロットは卵液に隠し味を加えた。愛を込めたマヨネーズをちょっとだけ――――。

「美味しくなぁれ……」

 フライパンに卵を流し込む。菜箸で優しくかき混ぜながら、チーズをたっぷりと加えていく。

「ここよ!」

 半熟の状態を見極めて火を止める。

 そしてチキンライスを包み込むように乗せていく、そっと、まるで大切な人を抱きしめるように――――。

 最後に丹精込めて煮詰めたケチャップソースをかけて出来上がり!

 立ち上る湯気。
 光沢のある真紅のソース。
 黄金色に輝く卵のドレス。

「……できた」

 シャーロットは震える声で呟いた。涙が一粒、頬を伝った。

 それは、ただの料理ではない。新たな人生を照らす希望だった。

「マルタさん!」

 シャーロットは勢いよく店のドアを開けた。ちょうど前を通りかかったマルタが、驚いて振り返る。

「まあ、シャーロット。どうしたの?」

「ぜひ、ぜひ試食をお願いします! 渾身の一皿ができたんです!」

 有無を言わさぬ勢いで店内に引き込まれたマルタは席に座らされた。

 シャーロットが大切そうに運んできた皿を見て、マルタは小さく息を呑んだ。

「まあ……なんて美しいの……」

 つやつやと輝く黄金の卵。その上に芸術的にかけられた真紅のソース。立ち上る湯気が、まるで幸せの予感のよう。

「これは……玉子(たまご)料理? でも、この赤いソースは……」

 マルタは恐る恐るスプーンを手に取った。年老いた手が、少し震えている。

 スプーンが卵に触れた瞬間、ぷるん、とオムレツが震えた――――。

 そっと押し込んでいくと、中から半熟の黄身がとろりと流れ出す。

 ぐっと持ち上げるととろけたチーズが銀色の糸を引いた。

「あら……!」

 マルタの瞳が輝いた。まるで、宝箱を開けた子供のように。

 そして、一口――――。

 時間が止まった。

 マルタの表情が、驚きから感動へ、そして至福へと変わっていく。

「お、おほぉ……!」

 震える声。目に涙が滲んでいる。

「す、すごいわ、シャーロット! これは……これは……!」

 言葉が続かない。マルタは次々とスプーンを口に運ぶ。まるで、一口一口が奇跡であるかのように。

「この赤いソースの酸味と甘みが絶妙で……そして、この卵の優しさ! 中のご飯も、なんて味わい深いの!」

 気がつけば、皿は空になっていた。マルタは、最後の一粒まで丁寧にすくい上げて食べ終え――恍惚の表情で宙を見上げていた――――。

「シャーロット!」

 マルタはいきなり立ち上がると真剣な表情でシャーロットの手を取った。

「これは革命よ。こんな料理、この町……いいえ、この国のどこにもないわ」

「マルタさん……」

「『とろけるチーズの王様オムライス』……素敵な名前ね」

 黒板を見上げてマルタが呟いた名前に、シャーロットは頷いた。そう、これこそが『ひだまりのフライパン』の命運をかけた看板メニュー。

 二人は見つめ合い、そして同時に微笑んだ。

 この瞬間、シャーロットは確信した。

 この料理が、きっと多くの人を幸せにする。前世で母がしてくれたように、温かい記憶を作ってくれる。

 窓の外では、夕焼けが町を黄金色に染めていた。

 明日、この料理がどんな奇跡を起こすのか――――。

 シャーロットは期待と少しの不安を胸に、でも何より大きな希望を抱いて、茜色に輝く空を見上げた。

 新しい物語が、今、始まろうとしていた。



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 とぼとぼと歩いていると、小さな花屋の前で、ふと足が止まった。
 店先には色とりどりの花々が、鮮やかに並んでいる。|向日葵《ひまわり》が太陽を追いかけるように顔を上げ、|薔薇《ばら》が朝露を纏って輝き、小さな|勿忘草《わすれなぐさ》が可憐に微笑んでいる。
 その花々の中で、シャーロットの視線が一点に釘付けになった。
 真っ赤な宝石のような実がいくつも実っている鉢植え――――。
「こっ、これは……!?」
 震える手で鉢植えに近づく。鼻を近づけると漂う、懐かしい青臭い香り――――。
 朝日を受けて、まるでルビーのように輝くその姿に、シャーロットの心臓が高鳴った。
「プチトマト!?」
 その瞬間、まるで宝物を見つけた子供のように重かったカゴも忘れ、弾むような足取りで店の中に飛び込む。
「こっ、この鉢植え、どこで手に入れたんですか?」
 カウンターで花の手入れをしていた女主人が、シャーロットの勢いに目を丸くする。
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「い、いえ、大丈夫です! 本当に美味しいんです! 甘酸っぱくて、瑞々しくて……」
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「まあ、あんたがそこまで言うなら……ガンツじいさんの農場は、ここから東に向かって、丘を一つ越えたところにあるわ」
 女主人は、丁寧に道順を説明してくれる。
「ガンツのじいさんは変わり者だけど、悪い人じゃないわ。ただ、ちょっと……いや、かなり頑固なところがあるから、気をつけてね」
 シャーロットは何度も頭を下げ、震える手で鉢植えを手に取った。
「これ、買わせてください!」
「え? 本当に? でも……まあ、持ってってちょうだい。お代はいらないわ」
「えっ!? でも……」
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 手提げ袋に大切に収めたプチトマトの鉢植え。小さな赤い実が、まるで希望の灯火のように、シャーロットの心に光を灯していた。
       ◇
 翌日早朝、朝露がまだ草木を濡らす時刻。シャーロットは期待と不安を胸に、教えられた道を東へと向かった。
 石畳の道はやがて草の生える土の道となり、町の喧騒は鳥のさえずりと風の音に変わっていく――――。
 丘を登るにつれ、視界が開けてきた。振り返れば、ローゼンブルクの町が朝靄の中に優しく佇んでいる。
 小川にかかる石橋を渡り、大きな樫の木を目印に曲がると、そこに農場があった。
 いや、農場というより――実験場?
 他の農場とは明らかに違う光景が広がっていた。畑は幾何学的に区切られ、見慣れない作物が整然と並んでいる。支柱には几帳面に番号が振られ、まるで研究者の実験圃場のような雰囲気だ。
「おや? 誰だい?」
 しわがれた声に振り向くと、畑の奥から一人の老人が姿を現した。
 日に焼けて|皺《しわ》だらけの顔。真っ白な髭は胸まで伸び、鋭い眼光が訪問者を値踏みしている。手には泥のついた|鍬《くわ》を持ち、長年の農作業で鍛えられた身体は、年齢を感じさせない力強さを秘めていた。
「はじめまして、私シャーロットと申します」
 シャーロットは深くお辞儀をする。
「町で新しくカフェを開こうと思っていて……実は、あなたが作っているトマトを分けていただきたくて……」
 その瞬間、ガンツの表情が一変した。
 警戒と驚きが入り混じった顔で、じっとシャーロットを見つめる。まるで、幻聴を聞いたかのような表情だ。
「トマトを知ってるのかい? しかも、欲しいだと?」
 声には信じられないという響きが含まれている。
「はい! トマトは素晴らしい食材なんです! ぜひ見せていただけませんか?」
 ガンツはしばらく黙って立っていたが、やがて大きくため息をついた。
7. 挑戦状
「……ついて来な」
 案内された先で、シャーロットは息を呑んだ。そこは、まさにトマトの楽園だった。
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 独特の青臭い香りが、辺りに満ちていた。それは、シャーロットにとっては懐かしく、愛おしい香りだった。
「素晴らしい……」
 思わず感嘆の声が漏れる。キラキラと目を輝かせながら、シャーロットはトマトたちを見て回る。
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「待ちな」
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 振り返ると、老人は腕を組んで難しい顔をしている。
「確かにわしはトマトを作っとる。二十年以上もな。だが……」
 ガンツの視線が、愛情と諦めの入り混じったものに変わる。
「町に出荷しても『毒々しい』『酸っぱくて青臭い』と誰も買わん。最初は『いつか分かってもらえる』と思っとったが……」
 老人の肩が、わずかに落ちた。
「自分で食うだけのために作るのも馬鹿馬鹿しくてな。そろそろ止めようと思っとったんじゃ。結構育てるの大変なんだわ、これが」
 二十年の苦労と孤独が、その言葉に滲んでいた。
「いやいや、トマトは最高に美味しいんです! たくさん買いますから、ぜひ作り続けてください!」
 シャーロットは身を乗り出した。
 しかし――――。
「じゃが、お嬢ちゃんが買っても、お客が食べなかったらゴミになるだけなんだぞ?」
 ガンツは冷徹な視線を投げかける。
「だっ、大丈夫です! トマトの美味しさを私がみんなに紹介します!」
 シャーロットは両手のこぶしをグッと握りブンと振った。
 その熱意に、ガンツの硬い表情が少しだけ和らぐ。
「ふむ……」
 顎髭を撫でながら、じっとシャーロットを見つめる。やがて、その瞳に挑戦的な光が宿った。
「そこまで言うなら……一つ条件がある」
「な、なんでしょう?」
「わしは今まで、トマトは生で食うか、せいぜい塩をかけるくらいしか知らん」
 ガンツは、にやりと笑った。
「もし、本当に美味い『トマト料理』とやらを食わせてくれたら……、考えてやってもいいが?」
 挑戦状を叩きつけられたシャーロットの目が、炎のように輝く。
「お任せください!」
 いきなり降ってきた試練だが、シャーロットは勝利を確信していた。それだけトマトのポテンシャルを信頼しているのだ。
       ◇
 ガンツの家は、農場の隣にある石造りの質素な建物だった。
 台所は意外にも整然としていて、年季の入った調理器具が丁寧に手入れされて並んでいる。シャーロットはエプロンを身につけると、早速調理に取りかかった。
 まず、ガンツが差し出してくれた真っ赤なトマトを手に取る。
(いいトマトだわ。愛情を込めて育てられたのが分かる)
 鍋に湯を沸かし、トマトのお尻に十字の切り込みを入れた。沸騰した湯にさっとくぐらせ、すぐに冷水へ。
「ほう……」
 ガンツが興味深そうに覗き込む。
 するりと皮が剥けるトマト。それを手際よく刻んでいく。果肉からじゅわりと果汁が溢れ、まな板を赤く染めた。
 フライパンにオリーブオイルを注ぎ、みじん切りにしたニンニクを投入。火にかけると、たちまち香ばしい香りが立ち上る。
「ニンニクの香りが移ったら……」
 刻んだトマトを一気に加える。
 ジュワァァァ!
 勢いよく水分が蒸発し、甘酸っぱい香りが台所中に広がった。木べらで優しくかき混ぜながら、トマトが煮崩れていく様子を見守る。
「なんだなんだ、この美味そうな匂いは……」
 ガンツの声には、期待が混じっていた。
「トマトは加熱すると旨みが出てくるんですよ」
 塩、胡椒で味を調え、スプーンですくって味見をする。
「うん、美味しい! ふふっ」
 その嬉しそうな表情に、ガンツも思わず笑みをこぼす。
 別の鍋では、パスタが踊るように茹で上がっていく。タイミングを見計らって湯切りし、真っ赤なトマトソースと絡める。仕上げに粉チーズをたっぷりと振りかけ、摘んできたバジルの葉を添えた――――。
「さあ、召し上がってください」
 シャーロットは最高の笑顔で、湯気の立つパスタをテーブルに運んだ。
「えぇ……こんな真っ赤なパスタ……大丈夫かよ、おい……」
 ガンツは眉をひそめながら、恐る恐るフォークを手に取る。
 くるくるとパスタを巻き取り、ゆっくりと口に運ぶ。
 その瞬間――――。
「こ、これは……!」
 老人の目が、まるで子供のように見開かれた。
「どうですか? ふふっ」
 シャーロットは期待に胸を膨らませて見守る。
 ところが――――。
 ガンツはズルズルと勢いよくパスタをすすった後、急に腕を組んで黙り込んでしまった。眉間に深い皺を寄せ、何やら考え込んでいる。
「あれ? お気に召しませんでした?」
 不安になったシャーロットが首をかしげた、その時。
 ガタン!
 ガンツが突然立ち上がり、そのまま何も言わずにドアを開けて飛び出していった。
8. 魔王ゼノヴィアスの憂鬱
「……へ?」
 一人残されたシャーロットは、呆然と立ち尽くす。
(失敗した……? でも、あんなに驚いた顔してたのに……)
 鍋に残ったトマトソースを指ですくい、ペロリと味見をする。トマトの旨味は十分に引き出せているはず。味付けも悪くない。
(一体、何が……)
 不安に駆られていると、ドタドタと激しい足音が近づいてきた。
 バタン!
 勢いよくドアが開き、ガンツが飛び込んでくる。両腕いっぱいに、様々な種類のトマトを抱えて――――。
「お嬢ちゃん!」
 老人の顔は、まるで少年のように輝いていた。
「これは甘みが強い! こっちは酸味のバランスがいい! あと、これは試験的に作った品種でな……」
 テーブルの上に、次々とトマトを並べていく。
「多分、味の濃いトマトの方がきっともっと美味いはずだ。いくつか持ってきたから、これで試してくれんか? な?」
 瞳をキラキラと輝かせながら、ガンツは身を乗り出した。
「え? じゃあ、譲っていただけるんですね?」
「もっちろんじゃ!」
 ガンツは大きく頷いた。
「トマトが、こんなに……加熱したら甘みが増して、でも酸味も活きて、全体がまとまって……こんなに美味くなるとは!」
 感極まった様子で、老人は続ける。
「嬢ちゃん、わしは二十年以上トマトを作ってきた。でも、こんな食い方があったとは知らんかったぞ!」
「これはほんの一例です」
 シャーロットも興奮気味に答える。
「トマトは煮込み料理にも、スープにも、ソースにも使えます。グラタンに入れても美味しいし、肉と一緒に煮込めば最高のご馳走に……」
 その情熱的な説明に、ガンツは何度も深く頷いた。
「そうじゃろう、そうじゃろう! じゃから、加熱に合いそうなトマトを見繕ってきたぞ。これで試してみぃ!」
「あ、ありがとうございます!!」
 感激のあまり、シャーロットは思わずガンツの手を握った。
 |皺《しわ》だらけで、土の匂いのする、働き者の手。二十年間、理解されなくても、トマトを作り続けてきた手。
「おう! いっぱい育ててやっからな! 任せたぞ!」
 ガンツはニカッと笑って固い握手を交わす。
 こうして、シャーロットは良質なトマトの安定供給先を確保しただけでなく、トマトへの情熱を共有する、かけがえのない仲間を得たのだった。
 この出会いが、ローゼンブルクの町の食文化を大きく変える第一歩となることを、まだ誰も知らない。
 窓の外では、トマトたちが陽光を浴びて、まるで祝福するかのように赤く輝いていた。
       ◇
 その頃、魔の森の最深部――――。
 魔王城の最上階、黒曜石で造られた玉座の間で、魔王ゼノヴィアスは深い|憂鬱《ゆううつ》に沈んでいた。
 巨大なアーチ窓から見下ろせるのは、どこまでも続く原生林の海。紫がかった霧が立ち込め、時折、魔獣の遠吠えが響いてくる。
 五百年を超える歳月を生きてきた魔王。しかし、その姿は人間でいえば二十代半ばといったところだろうか。
 艶やかな黒髪は肩まで流れ、切れ長の瞳は深い紫色をしている。高い鼻梁、整った顎のライン――人間界にいれば、間違いなく女性たちが群がるような美貌の持ち主だ。ただ、額から生えた漆黒の角だけが、彼が魔族であることを物語っていた。角は僅かにカールし、まるで王冠のような威厳を放っている。
 コンコン。
 重厚な扉を叩く音が、静寂を破った。
「魔王様、お食事の時間でございます」
 扉の向こうから、恭しい声が響く。
「呼ばずとも良い!」
 ゼノヴィアスは玉座から立ち上がることもなく、苛立たしげに声を荒げた。切れ長の瞳が、一瞬だけ赤く光る。
 しかし、扉はゆっくりと開かれた。
 入ってきたのは、山羊の頭を持つ老執事バフォメット。燕尾服を完璧に着こなし、白い手袋をはめている。三百年以上、この城に仕えてきた忠実な部下だ。
「そうは参りません」
 バフォメットは胸に手を当て、深く一礼する。しかし、その声には毅然とした響きがあった。
「魔王様が食事内容を確認されませんと、厨房の者たちが困ります。『今日の料理は魔王様のお気に召さなかったのではないか』と、皆、不安に駆られるのです」
「ふんっ!」
 ゼノヴィアスは不愉快そうに鼻を鳴らしたが、それ以上反論はしなかった。
 バフォメットが手を叩くと、小悪魔たちがぞろぞろと入ってくる。赤い肌に小さな翼を持つ彼らは、必死に重そうな料理を運んでいた。
 銀の大皿には、香草をまぶした子鹿の丸焼き。琥珀色のソースが艶やかに照り、香ばしい匂いが漂う。
 深い鍋には、魔界でしか採れない紫色の根菜と、魔獣の肉をじっくり煮込んだシチュー。表面には油が浮き、スパイスの刺激的な香りが立ち上る。
 他にも、血のように赤いワイン、黒いパン、得体の知れない果実……どれも、人間界では決して見ることのできない料理ばかりだった。
9. 全てに飽いた魔王
「うむ、確認した。下がって良し!」
 ゼノヴィアスは料理に視線を落とすこともなく、手を振った。
 小悪魔たちは安堵の表情を浮かべ、そそくさと退室していく。バフォメットも一礼して扉を閉めた。
 再び、静寂が訪れる――――。
 ゼノヴィアスは深いため息をついた。
(つまらぬ……)
 魔王は闇から生まれた存在。魔気の濃いこの城にいる限り、食事など必要ない。空腹を感じることもなければ、味覚を楽しむ必要もない。
 それでも部下たちは、毎日三度、律儀に食事を運んでくる。「魔王様も食事をなさるべきです」という、彼らなりの気遣いなのだろう。
 だが、五百年も生きていれば、どんな美食も灰のように味気ない。
(人間との大戦が終わって、もう四百年か……)
 思い返せば、あれは壮絶な戦いだった。
 人間たちは次々と勇者を送り込んできた。聖剣を掲げ、正義を叫び、仲間たちと共に魔王城に攻め込んでくる。とんでもないチートな攻撃を繰り出してくる勇者。しかし、ゼノヴィアスの方が一枚上手だった。その天才的な戦闘センスで勇者を葬っていく――――。
 ところがそれで終わらない。一人倒せば、また新たな勇者が現れる。まるで雑草のように、次から次へと。
 百年に及ぶ戦いの末、両陣営とも疲弊しきった。そして結ばれた停戦協定。
 以来、人間は人間同士で争い、魔族は魔族で静かに暮らしている。
(平和だ。退屈なほどに)
 ゼノヴィアスは立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
 眼下に広がる魔の森。かつては勇者たちの恐るべきチート攻撃で荒れ野原だったが、今では、ただの森だ。
「少し体でも動かすか……」
 呟いて、ゼノヴィアスは窓を開ける。
 冷たい風が吹き込み、黒髪を乱す。そのまま窓枠に足をかけ、ひらりと身を躍らせた。
 重力に引かれて落下する身体。しかし、魔王の表情は涼しげなままだ。
 地面が近づいた瞬間――――。
 ブワッ!
 紫色の魔法陣が足元に展開される。複雑な紋様が光を放ち、落下の衝撃を完全に吸収する。人間の魔法使いが見れば、腰を抜かすほど高度な術式――――。しかし、ゼノヴィアスにとっては呼吸も同然だった。
 優雅に着地し、中庭を見渡す。
 黒い石で敷き詰められた広場。かつては訓練用の人形が並び、若い魔族たちが汗を流していた場所。今は、誰もいない。
 と、その時だった――――。
「もらったぁぁぁ!」
 殺気が背中を撫でる。
 振り返る間もなく、赤い閃光が視界を切り裂いた。炎を纏った剣が、ゼノヴィアスの首筋めがけて振り下ろされる。
 しかし――――。
 パァン!
 ゼノヴィアスは振り返りもせず、ただ左手を後ろに伸ばしただけだった。その手の甲が、剣の腹を叩く。
 赤い剣は、まるで飴細工のように砕け散った。
「なっ……!?」
 襲撃者は若い魔族だった。赤い肌に、まだ短い角。おそらく百歳にも満たない若造だろう。目を見開き、信じられないという表情で砕けた剣の柄を握りしめている。
「お前、名は?」
 ゼノヴィアスがゆっくりと振り返る。
「ぐっ……」
 若者は答えない。いや、答えられない。魔王の瞳を見た瞬間、全身が金縛りにあったように固まってしまったのだ。
「まあ、いい」
 ゼノヴィアスは軽く腕を振るった。
 刹那、裏拳が若者の頬を捉え、放たれる凝縮した魔力が大爆発を起こす。
 ズン!
 身体が宙を舞い、弧を描いて飛んでいく。そして――――。
 ドゴォン!
 中庭の向こうの石壁に激突し、蜘蛛の巣状にひびが入る。若者はそのまま地面に崩れ落ち、ぴくりとも動かなくなった。
「次やったら処刑な……」
 ゼノヴィアスは若者を指さしたが――――。
「……って、聞こえてないか」
 倒れた若者を一瞥し、ふぅと深いため息をつく。
 こんなことも、日常茶飯事となっていた。
 若い魔族たちは、隙あらば魔王の座を狙ってくる。「俺が魔王になる」「新しい時代を作る」――威勢のいい言葉を吐いて、そして一撃で沈む。
 最初の頃は、まだ面白かった。どんな技を使ってくるか、どんな覚悟で挑んでくるか――――。しかし、何万回と繰り返されれば、もはや日常の一部でしかない。
「いつまでこんなつまらない暮らしが続くんだ?」
 ゼノヴィアスは空を見上げた。
 魔の森の空は、常に曇っている。雲が太陽を隠し、薄暗い光だけが地上に届く。たまにしか青い空は見られないのだ。
「もう、たくさんだ……」
 呟いて、ゼノヴィアスはすっと両手を広げた。
 紫色の魔力が身体を包み込む。風が渦を巻き、髪と衣服をはためかせる。
 ふわり――――。
 重力から解放され、身体が浮き上がる。高度な浮遊魔法。人間の魔法使いなら、一生かけても習得できない技術だ。
 しかし、ゼノヴィアスの表情に喜びはない。
 ただ、どこか遠くを見つめるような、寂しげな瞳があるだけだ。
 そして、魔王は飛び立った。
 黒い影が、ものすごい速度で曇り空に吸い込まれていく。どこへ向かうのか、何を求めるのか。それは、ゼノヴィアス自身にも分からない。
 ただ、この退屈な日常から、少しでも離れたかった。
 五百年の時を生き、全てを手に入れ、そして全てに飽いた魔王。
 彼が求めているものが何なのか、まだ誰も――本人さえも――知らない。
10. 渾身の一皿
 すっかり開店準備の整った『ひだまりのフライパン』――――。
 連日シャーロットは『とろけるチーズの王様オムライス』の試作に励んでいたが、まだ納得のいく出来に仕上げられずにいた。
 貴重なトマトを両手で包み込むように持ちながら、シャーロットは厨房に立つ。
 真っ赤に熟した果実が、まるで宝石のように朝日を受けて輝いている。その重みは、彼女の夢の重みそのものだった。
「今日で決めないと……」
 エプロンの紐をきゅっと結び、シャーロットは深呼吸をした。前世の記憶にある、あの懐かしい味。それをこの世界で再現するために――――。
 最初の試作は失敗だった。
 卵が固すぎて、まるで分厚い毛布のよう。チーズがいい塩梅に溶けるタイミングと卵液の固まり具合を合わせていくのは簡単ではなかった。
「違う、これじゃない」
 二作目、三作目――――。
 ずっと立ちっぱなしでシャーロットは厨房にこもった。手はしびれだし、エプロンは卵液でところどころ黄色に染まった。
 数え切れないほどの試作で、ようやく卵の焼き加減を掴んだ。外はふんわり、中はとろとろ。でも、まだ何かが足りない。
「もっと……もっと心が温まるような……」
 ふと、シャーロットは手を止めた。
 思い出したのは、前世で風邪を引いた時、母が作ってくれたオムライスの味。それは完璧ではなかったけれど、愛情がたっぷり詰まっていた。
(そうだ、あの時入れていたのは……)
 次の試作で、シャーロットは卵液に隠し味を加えた。愛を込めたマヨネーズをちょっとだけ――――。
「美味しくなぁれ……」
 フライパンに卵を流し込む。菜箸で優しくかき混ぜながら、チーズをたっぷりと加えていく。
「ここよ!」
 半熟の状態を見極めて火を止める。
 そしてチキンライスを包み込むように乗せていく、そっと、まるで大切な人を抱きしめるように――――。
 最後に丹精込めて煮詰めたケチャップソースをかけて出来上がり!
 立ち上る湯気。
 光沢のある真紅のソース。
 黄金色に輝く卵のドレス。
「……できた」
 シャーロットは震える声で呟いた。涙が一粒、頬を伝った。
 それは、ただの料理ではない。新たな人生を照らす希望だった。
「マルタさん!」
 シャーロットは勢いよく店のドアを開けた。ちょうど前を通りかかったマルタが、驚いて振り返る。
「まあ、シャーロット。どうしたの?」
「ぜひ、ぜひ試食をお願いします! 渾身の一皿ができたんです!」
 有無を言わさぬ勢いで店内に引き込まれたマルタは席に座らされた。
 シャーロットが大切そうに運んできた皿を見て、マルタは小さく息を呑んだ。
「まあ……なんて美しいの……」
 つやつやと輝く黄金の卵。その上に芸術的にかけられた真紅のソース。立ち上る湯気が、まるで幸せの予感のよう。
「これは……|玉子《たまご》料理? でも、この赤いソースは……」
 マルタは恐る恐るスプーンを手に取った。年老いた手が、少し震えている。
 スプーンが卵に触れた瞬間、ぷるん、とオムレツが震えた――――。
 そっと押し込んでいくと、中から半熟の黄身がとろりと流れ出す。
 ぐっと持ち上げるととろけたチーズが銀色の糸を引いた。
「あら……!」
 マルタの瞳が輝いた。まるで、宝箱を開けた子供のように。
 そして、一口――――。
 時間が止まった。
 マルタの表情が、驚きから感動へ、そして至福へと変わっていく。
「お、おほぉ……!」
 震える声。目に涙が滲んでいる。
「す、すごいわ、シャーロット! これは……これは……!」
 言葉が続かない。マルタは次々とスプーンを口に運ぶ。まるで、一口一口が奇跡であるかのように。
「この赤いソースの酸味と甘みが絶妙で……そして、この卵の優しさ! 中のご飯も、なんて味わい深いの!」
 気がつけば、皿は空になっていた。マルタは、最後の一粒まで丁寧にすくい上げて食べ終え――恍惚の表情で宙を見上げていた――――。
「シャーロット!」
 マルタはいきなり立ち上がると真剣な表情でシャーロットの手を取った。
「これは革命よ。こんな料理、この町……いいえ、この国のどこにもないわ」
「マルタさん……」
「『とろけるチーズの王様オムライス』……素敵な名前ね」
 黒板を見上げてマルタが呟いた名前に、シャーロットは頷いた。そう、これこそが『ひだまりのフライパン』の命運をかけた看板メニュー。
 二人は見つめ合い、そして同時に微笑んだ。
 この瞬間、シャーロットは確信した。
 この料理が、きっと多くの人を幸せにする。前世で母がしてくれたように、温かい記憶を作ってくれる。
 窓の外では、夕焼けが町を黄金色に染めていた。
 明日、この料理がどんな奇跡を起こすのか――――。
 シャーロットは期待と少しの不安を胸に、でも何より大きな希望を抱いて、茜色に輝く空を見上げた。
 新しい物語が、今、始まろうとしていた。