1. 晴れて追放

ー/ー



 ――やった! ついに追放だわ!

 王立学園の卒業パーティー。天井から降り注ぐシャンデリアの光が、まるで祝福の雨のようにシャーロット・ベルローズを包んでいた。彼女は涙に濡れた頬を震わせながら――もちろん演技だが――内心では喜びのあまり踊り出したい衝動を必死に抑えていた。

「シャーロット・ベルローズ! 貴様はこの三年間、聖女リリアナ様を(おとしい)れようと数々の悪行を重ねてきた!」

 金糸の刺繍が施された純白の礼服に身を包んだエドワード王子が、まるで正義の執行者のように腕を振り上げる。その美しい顔は義憤に歪んでいたが、シャーロットにはそれが滑稽にしか見えなかった。

(ええ、そうね。聖女が私の悪行をでっちあげ続けていたことは知ってたわ)

 彼女は八年前――十歳の誕生日に高熱で倒れた夜――前世の記憶と共に知ったのだ。自分が乙女ゲーム『聖女と五つの恋』の悪役令嬢であり、二十歳で処刑される運命にあることを。

 処刑の真の理由は、疫病による王都の衰退の責任をなすりつけ合う醜い権力闘争。とばっちりで王子に処刑されるのだ。

(だからこそ、私は必死に働いてきたのよ)

 前世で製薬会社の研究員だった記憶。その知識を総動員して、シャーロットは密かに王都を守ってきた。石鹸の普及、上下水道の整備計画、そして――――。

「その上、貴様は得体の知れない薬を王都にばらまき、人々を惑わせた!」

 エドワードの糾弾に、シャーロットの胸が小さく痛んだ。

(得体の知れない薬……そう呼ばれてしまうのね、私の心血を注いだペニシリンが)

 何度も失敗を重ね、カビの胞子で喉を痛め、消毒薬で手を荒らしながら作り上げた抗生物質。それは確かに多くの命を救った。だが、公爵令嬢がなぜそんなものを作れるのか――その疑問に答えることはできない。

「も、申し訳ございません……」

 シャーロットは震え声で謝罪しながら、ゆっくりと膝を折った。ドレスの裾が床に広がり、まるで白い花が咲いたようだった。完璧な敗北の構図。観衆たちの満足げなざわめきが聞こえる。

「もはや言い訳は聞かぬ! シャーロット・ベルローズ、お前に国外追放を言い渡す! 二度とこの国の地を踏むことは許さぬ!」

 その瞬間――――。

(きたきたきたきた! ついに来たわ、私の解放記念日!)

 シャーロットの心の中で、盛大な祝砲が鳴り響いた。これで処刑は無いわ! もう二度と、深夜の地下室で危険な実験をしなくていい。もう二度と、正体を隠してこそこそと働かなくていい。もう二度と、この息苦しい宮廷で演技をしなくていいのだ!

「あ、ありがたき……お慈悲……」

 声を震わせながら立ち上がり、シャーロットはよろよろと退場した。重い扉が閉まった瞬間、彼女は人目もはばからず小さくガッツポーズをした。廊下を歩く足取りは、まるでスキップでもしそうなほど軽やかだった。

 自室に戻り、簡素な旅支度を整える。

 机の上には、一冊のノートと封筒。ノートには、八年間かけて完成させたペニシリンの精製方法が、誰にでも分かるように丁寧に記されている。

「これで、私の役目は終わり」

 シャーロットは優しい手つきでノートを封筒に入れ、表に『聖女リリアナ様へ』と記した。

(きっと、最初は『カビなんて汚い』と言うでしょうね。でも、いずれ理解してくれるはず。ペニシリンの効果も上がり始めているのだから)

 窓の外を見れば、みすぼらしい幌馬車が一台、ぽつんと佇んでいた。追放令嬢に与えられる最低限の移動手段。だが、シャーロットにとっては黄金の馬車にも勝る価値があった。

 最後に一度、部屋を見回す。

 あの片隅で、初めて石鹸を作った日。
 窓辺で、上下水道の設計図を描いた夜。
 月明かりの下で、ペニシリンの完成を一人祝った明け方。

 孤独だったけれど、充実していた。苦しかったけれど、誇らしかった。

「ありがとう。でも、もう十分よ」

 シャーロットは深く一礼して、新しい人生へと歩み出した。

 馬車が王都の門を抜けた瞬間、彼女は両手を高く掲げて大きく伸びをした。

「さあ、これから私のスローライフが始まるのよ! 小さなカフェを開いて、美味しい料理を作って、お客様の笑顔を見て……ああ、考えただけで幸せ!」

 御者が驚いて振り返ったが、シャーロットは構わずに続けた。

「もう誰かのためじゃない、私のための人生! なんて素敵な響きなの、スローライフ!」

 オレンジ色の夕陽が地平線に沈もうとしていた。その光に照らされたシャーロットの瞳は、八年ぶりに――いや、もしかしたら生まれて初めて――純粋な希望に輝いていた。












2. 影の功労者

 辺境(へんきょう)への道のりは長い。揺れる馬車の中で、シャーロットは過去を思い返していた。

 前世の記憶が蘇ったのは八歳の時。高熱にうなされ、生死の境を彷徨った末に思い出したのは、平凡なOLとしての人生と、『聖女と五つの恋』というゲームの内容だった。

(まさか自分が悪役令嬢に転生してるなんて……しかも、最後は処刑される運命だなんて)

 最初は絶望した。だが、シャーロットには武器があった。前世の知識――特に、基本的な衛生観念と科学の知識だ。

 王都の不衛生な環境を見て、彼女は決意した。解決策を知っている以上人々の役に立とうと。

 しかし、シャーロットは決して表に出ないように気を配る。「古い書庫で見つけた文献に書いてあった」と嘘をつき、手柄は全て他人に譲った。

(だって、目立ったら悪役令嬢として目をつけられるもの。地味に、目立たず、でも確実に)

 シャーロットの最大の功績は、やはり抗生物質の開発だった。

 思い出すだけで、背筋が寒くなる。

 十五歳の冬、王都で猩紅熱(しょうこうねつ)が流行した。子供たちが次々と倒れ、既存の薬では太刀打ちできない。シャーロットは決意した。前世の知識にあったペニシリンを作ると。

 問題は材料だった。青カビ――正確にはペニシリウム属の特定の菌株が必要だが、どれが正しいものか、見た目だけでは判断できない。

 シャーロットは公爵家の地下室を改造し、秘密の実験室を作る。そして、ありとあらゆる青カビを集めては、培養と抽出を繰り返した。

 夜中、皆が寝静まった後。シャーロットは一人、地下室に降りる。蝋燭(ろうそく)の明かりだけを頼りに、危険な実験を続けた。

 何度も失敗した。カビの胞子を吸い込んで倒れそうになったことも、抽出液で手を荒らしたことも数知れない。それでも諦めなかった。

 そして、ついに――――。

「できた……」

 震える手で持ち上げた小瓶の中には、透明な液体が入っていた。動物実験で効果を確認し、ごく少量を自分でも試した。前世の記憶通りの効果だった。

 だが、シャーロットは気づいていた。この薬を公にすれば、必ず疑われる。なぜ公爵令嬢がこんな薬を作れるのか、と。

 だから彼女は、「祖母から教わった民間薬」として、こっそりと流通させた。重篤な患者の家族に、「効くかもしれない」と言って渡す。代金は受け取らない。ただ、「誰から貰ったかは内緒に」とだけ頼む。

 奇跡は起きた。死の淵から生還する子供たち。「天使様の薬」と呼ばれるようになったそれは、口コミで広がっていった。

 だが、製造できるのはシャーロット一人だけ。毎晩毎晩、地下室にこもって薬を作る日々。誰にも頼れない。誰にも打ち明けられない。

(本当に、孤独だった……)

 思えば前世でも研究所で毎晩遅くまで実験に明け暮れ――みじめに過労で死んでいたのだった。転生しても同じとは全く進歩がない。

 でも――――。

 これからは違う。【スローライフ】――そう、ゆったり穏やかに笑顔の中で暮らすのよ。ゆったり穏やかに、笑顔に包まれて――――。

 馬車が大きく揺れ、シャーロットは現実に引き戻された。

 御者が声をかける。

「お嬢様、そろそろ宿場町に着きますよ」

「ありがとう」

 シャーロットは微笑んだ。過去は過去だ。これからは、誰のためでもない、自分のための人生を生きるのだ。

 宿場町の宿で一泊し、翌朝再び馬車に乗る。持参した金貨を数えてみるがかなりの額だ。この日のために無理して溜めて来たお金――小さなカフェを開くには十分すぎる。

「ふふ、何を作ろうかしら。オムライス? ハンバーグ? それともケーキ?」

 前世の記憶にある料理の数々を思い浮かべ、シャーロットは頬を緩める。この世界にはない食べ物でみんなを笑顔にする――なんて幸せなのだろうか。

 もう、誰かのために隠れて働く必要はない。
 もう、危険な実験に身を晒す必要もない。
 もう、孤独に耐える必要もない。

 これからは、太陽の下で、堂々と生きていける。

「ああ、早く着かないかしら、辺境(へんきょう)の町!」

 シャーロットの瞳は、希望で輝いていた。















3. 辺境の町、ローゼンブルクへ

 王都を出て三日目の朝、シャーロットを乗せた馬車は、ついに目的地である辺境(へんきょう)の町、ローゼンブルクに到着した。

 ドウドウドウ!

 御者が叫び、車輪が石畳に触れる音が、次第にゆっくりとなっていく。長い旅の終わりを告げる、その優しい音に、シャーロットは胸の奥で何かが解けていくのを感じた。

「お嬢様、着きましたよ」

 御者の声に、シャーロットは深く息を吸い込んだ。新しい空気。新しい町。新しい人生の始まり。

 期待と不安が入り混じった気持ちを抱えながら、震える手で馬車の扉を開ける。

 そして――――。

 息を呑んだ。

 目の前に広がる光景は、王都の華やかさとは全く違う、けれど心を掴んで離さない美しさに満ちていた。

 石畳の道は朝露に濡れて優しく光っている。道の両側に並ぶ赤煉瓦(あかれんが)の家々は、一つ一つが違う表情を持ち、まるで長い物語を抱えているかのよう。窓辺には色とりどりの花が飾られ、朝の微風に揺れている。

 町の中心にある噴水は、水晶のような水しぶきを上げ、虹を作り出していた。

 そして何より――空が、広い。

 王都では高い建物に遮られていた空が、ここでは端から端まで見渡せる。雲がゆったりと流れ、鳥たちが自由に舞っている。

「なんて素敵な町……」

 思わず呟いた声は、感動に震えていた。これが、自分が選んだ新しい故郷。誰に強制されたわけでもない、自分の意思で選んだ場所。

「ローゼンブルクは良い町ですよ」

 荷物を下ろしながら、御者が温かく笑った。

「人も温かいし、飯も美味い。お嬢様もきっと気に入りますよ」

「ええ、もう気に入ったわ」

 シャーロットは心の底から微笑んだ。この瞬間、確信した。ここが、自分の居場所になると。ここで、新しい物語を紡いでいくのだと。

 御者に心からの礼を言って別れ、シャーロットは期待に胸を膨らませながら町を歩き始める。

 メインストリートは、朝の活気に満ちていた。

 パン屋からは、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂ってくる。肉屋の店先では、主人が威勢よく客を呼び込んでいた。八百屋には、朝採れたばかりの野菜が山と積まれ、露に濡れてきらきらと輝いている。

(いいわ、とてもいいわ。こんな町でカフェを開けるなんて、夢のよう)

 十年間、ただ王都で処刑におびえ、必死に活路を追い求めていた日々。でも、これからは違う。自分の店で、自分の料理を、笑顔で待ってくれるお客様に振る舞うのだ。

 と、その時――――。

「あら、見ない顔ね」

 穏やかな声に振り向くと、そこには人の良さそうな初老の女性が立っていた。

 真っ白な髪を綺麗にまとめ、小花模様のエプロンをつけている。顔に刻まれた皺の一つ一つが、優しい笑い皺で、この人が幸せな人生を送ってきたことを物語っていた。

「はじめまして。私、シャーロットです。王都から来まして……」

「まあ、王都から! それはそれは遠いところから……」

 女性の瞳が、驚きと共に温かさを増す。

「私はマルタよ。この先で小さな雑貨屋をやってるの」

 マルタは、シャーロットを慈愛に満ちた目で見つめた。まるで、遠くから来た旅人を心配する母親のように。

「お嬢さん、一人旅? 危なくなかった?」

 その気遣いに、シャーロットは胸が熱くなった。初対面なのに、こんなに心配してくれる。これが、この町の温かさなのだろうか。

「ええ、でも無事に着きました。実は、この町でお店を開きたいと思っているんです」

「えっ!? お店を?」

 マルタの目が、好奇心でキラキラと輝いた。

「ええ、カフェを。美味しい料理と飲み物を出す、小さなお店を……」

「カフェ……ねえ」

 マルタは顎に手を当て、何かを思案するような表情を浮かべた。そして次の瞬間、ぱっと笑顔になった。

「それなら、ちょうどいい物件を知ってるわ。ついてらっしゃい」

「え? でも、お忙しいのでは……?」

「いいのいいの。新しい住人は大歓迎よ。それにーー」

 マルタは悪戯っぽくウインクした。

「この町にカフェができたら、私も嬉しいもの」

 有無を言わさぬ調子で歩き始めたマルタの背中を、シャーロットは慌てて追いかける。でも、その慌ただしさの中にも、温かい幸せが満ちていた。





















4. ひだまりのフライパン

 角を二つ曲がり、メインストリートから少し入った静かな通りで、マルタは立ち止まった。

「ここよ」

 マルタが指差した先で、シャーロットは息を呑んだ。

 二階建てのクリーム色の建物が朝の陽光の中、静かにたたずんでいたのだ。

 正面には可愛いアーチ型の大きな窓が三つ並んでいて、かつては町の人々で賑わっていたであろう温もりが、今も残っているような気がした。

 入口は重厚な(とち)の木の扉で、色ガラスで小さな花模様の小窓があり、二階には白い木製の鎧戸がついた窓が四つ。一番右端の窓の下には小さなバルコニーがあり、そこだけ濃い緑の蔦が優雅に絡まっている。

 しっかりとした灰色の石造りの土台は、何十年もこの町の風雪に耐えてきた風格があった。

「前はパン屋だったんだけどね。店主が年で引退して、もう半年も空き家なの」

 マルタの声には、一抹の寂しさが混じる。

「素敵……」

 シャーロットは、まるで恋に落ちたように建物を見つめた。

 頭の中で、既に夢が形を成し始めている。窓際には、陽だまりのような温かいテーブル席を。入口には、手書きの可愛い看板を。二階の窓からは、ハーブの鉢植えを吊るして……。

「中も見る? 大家は私の古い友人でね、鍵を預かって……」

「ぜひ!」

 かぶせてくるようなシャーロットの即答に、マルタは優しく微笑んだ。

 重い木の扉を開けると、埃の舞う光の筋が現れた。でも、その埃っぽさも、シャーロットには素敵な物語の始まりの予感に思える。

 中は予想以上に広い。床は年季の入った木製で、歩くたびに優しい音を立てる。厨房も、かつてのパン屋の設備がしっかりと残っていて、少し手を加えれば十分使えそうだ。

「裏庭もあるのよ」

 マルタに案内されて裏口から出ると、小さいけれど陽当たりの良い庭が広がっていた。

 シャーロットは、そこに広がる可能性を見た。ローズマリー、タイム、バジル……新鮮なハーブを摘んで、すぐに料理に使える。小さなテーブルを置けば、天気の良い日は外でもお茶を楽しめる。

「どう? 気に入った?」

 マルタの問いに、シャーロットは振り返った。

「はい! ここに決めます!」

 その顔には、十数年ぶりに見せる、心からの笑顔が輝いている。

「あら、即決?」

「ええ。もう、ここしかないって感じがするんです。まるで、この建物が私を待っていてくれたみたいに」

 マルタは一瞬驚いた顔をした後、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。

「そう、それなら良かった。大家のトーマスも喜ぶわ。彼、この建物を大切に使ってくれる人を探してたから」

 その日のうちに、とんとん拍子で話は進んだ。大家のトーマスは、人の良い老紳士で、シャーロットの熱意をいたく喜んでくれた。

「若い人がこの町で夢を叶えようとしてくれるなんて、嬉しい限りじゃなぁ」

 思っていたより遥かに安い家賃に驚くシャーロットに、トーマスは優しく言った。

「町に活気が戻るなら、それが一番の家賃じゃよ」

 宿に戻ったシャーロットは、ベッドに寝転がって天井を見上げる。

 木目の美しい天井。王都の豪華な屋敷とは違う、素朴だけれど温かみのある部屋――――。

「明日から、頑張らなくっちゃ……」

 やることは山ほどある。掃除、修繕、家具の調達、食器に調理器具の準備、メニューの考案……でも、そんな大変なことにワクワクしてしまうのだった。

 十数年間眠っていた何かが、ゆっくりと目覚め始めているような感覚。体の奥から、生きる力が湧き上がってくる。

「お店の名前は何にしようかしら……」

 シャーロットは、子供のようにウキウキしながら考える。

「『金のたまご亭』……いえ、ちょっと大げさね。『幸せの黄色いスプーン』……可愛いけど、長すぎるわ」

 ごろんと寝返りを打ち、窓の外を見る。

 傾いてきた太陽が町を優しいオレンジ色に染めている。まるで、大きな日溜(ひだま)りに包まれているような、温かい光景。

「……そうだわ」

 シャーロットの顔が、ぱっと輝いた。

「この町の温かさ、この光……『ひだまり』……そう、カフェ『ひだまりのフライパン』!」

 声に出してみると、しっくりくる。温かくて、親しみやすくて、ちょっとユーモラスで。まさに、自分が作りたい店のイメージそのもの。

「うん、いい名前だわ!」

 シャーロットは幸せそうに微笑んだ。

 明日から、本当の意味での新しい人生が始まる。誰のためでもない、自分のための人生が。そして、この町の人々に、美味しい料理と温かい時間を提供できる、【ひだまり】のような場所を作るのだ。

「どんなメニューにしようかしら……。ハンバーグ、パスタ? あの可愛いお店に似合うのは……オムライス? オムライスの黄色は『ひだまりのフライパン』っぽいかも!? ふふっ。そしたらインテリアは……」

 アイディアがどんどんあふれ出してきて止まらない。

 窓の外では、ローゼンブルクの穏やかな夜が更けていく。どこかで(ふくろう)の鳴く声が、まるで祝福の歌のように響いている。

「うーん、なんて幸せなのかしら! 明日が待ち遠しいわ!!」

 満天の星々の下、シャーロットは希望に満ちた幸せな気持ちで目を閉じる。

 夢の中でもう、『ひだまりのフライパン』には、たくさんのお客様の笑顔が溢れていた。









5. 赤い盲点

 開店準備も順調に進み、あっという間に一週間が流れていった――――。

 朝の(さわ)やかな光が、磨き上げたガラス窓から店内に降り注ぐ。

 シャーロットは、何度も磨いて艶が出てきた(けやき)のカウンターに、そっと手を置いた。木の温もりが、掌に優しく伝わってくる。

(ここが、私の新しい居場所――――)

 深呼吸をして、改装が進む店内をゆっくりと見渡す。

 一週間前は埃と蜘蛛の巣に覆われていた壁には、今、蚤の市で一目惚れした温かみのあるタペストリーが飾られている。向日葵(ひまわり)の黄金色と小鳥の優しい茶色。一針一針丁寧に刺繍された作品は、まるで永遠の夏を閉じ込めたかのような明るさを店内にもたらしていた。

「さて、このカーテンは合うかしら……」

 シャーロットは脚立に登り、窓際に薄い水色のレースカーテンを取り付ける。朝の微風がさっそく布地を揺らし、まるで湖面の(さざなみ)のような優しい影を床に落とした。

「うん! いい感じ!」

 テーブルの上には、この一週間で少しずつ集めた宝物のような食器たちが、出番を待つように並んでいる。

 クリーム色の地に小さな苺が踊るように描かれた皿は、見ているだけで幸せな気持ちになる。持ち手が小鳥の形をしたティーカップは、まるで手の中で小鳥を包み込むような優しさ。銀のスプーンに彫られた四つ葉のクローバーは、使う人に小さな幸運を運んでくれそうだ。

 どれも、マルタが「あんたの店にぴったりよ」と紹介してくれた、町の陶芸家たちの心のこもった作品だった。

「お客様が、これで紅茶を飲んだら、きっと笑顔になるわ」

 シャーロットは、一番お気に入りの小鳥のカップを手に取り、まるで生きているかのようにそっと撫でる。

 振り返れば、厨房も見違えるようになっていた。

 かつてのパン屋の名残である大きな(かまど)は綺麗に掃除され、新しい命を吹き込まれるのを待っている。磨き上げた銅鍋が、まるで夕日のような輝きを放ちながらフックに掛けられていた。

 窓辺の棚には、ガラスの小瓶がずらりと並ぶ。ローズマリー、タイム、オレガノ、バジル……乾燥ハーブたちが、まるで植物標本のように美しく収まっている。

 新しく設置した黒板には、白いチョークで夢が描かれていた。

 『本日のスープ』、『ふわふわパンケーキ』、『魔法のシチュー』――――。

 そして、一番上に、まるで王冠のように大きく誇らしげに書かれているのが――――。

「やっぱり最初は、みんなを笑顔にする『とろけるチーズの王様オムライス』よね!」

 シャーロットは、両手を腰に当てて、満面の笑みを浮かべた。前世では自分のために工夫を凝らしながら改良していった料理。でも今度は、自分の店で、たくさんの人を幸せにするために作るのだ。


       ◇


「まずは試作だわ!」

 朝露がまだ残る石畳を踏みしめながら、シャーロットは意気揚々と市場へ向かった。籐のカゴが腕に心地よい重さを作る。

 市場は既に活気に満ちていた。威勢のいい呼び声、野菜や果物の瑞々しい香り、朝日を受けて輝く新鮮な食材たち。

「おや、カフェのお嬢ちゃんじゃないか!」

 顔なじみになった親父が、人懐っこい笑顔で手を振る。

「今日は何がお目当てだい?」

「新鮮な卵と、上質なチーズ、それから柔らかい鶏肉を……」

 シャーロットは、慣れた手つきで食材を選んでいく。卵は一つ一つ光に透かして確認し、チーズは香りを確かめ、鶏肉は弾力を指で確認する。

 カゴが少しずつ重くなっていく。それは、夢が現実になっていく重さでもあった。

「次は野菜を――」

 ところが――――。

「あの、トマトはありませんか?」

 何気ないその問いかけに、八百屋の親父は眉をひそめた。

「トマト? なんだいそりゃ」

 まるで異国の言葉を聞いたかのような反応に、シャーロットは息を呑む。

「え、あの……赤くて、丸くて、ちょっと酸味があって……」

「赤い野菜なら赤カブがあるが?」

 親父が差し出したのは、確かに赤いが、全く別の野菜だった。

 シャーロットは愕然とした。まさか、この世界にトマトが存在しないなんて――――。

 慌てて他の店も回ってみたが、どこも同じ反応。「トマト? 聞いたことがない」「そんな野菜があるのか?」と、不思議そうな顔をされるばかり。

「噓でしょ……」

 ふと思い返せば、公爵家の食卓に並んだ豪華な料理の中に、トマトを使ったものは一つもなかったのだ。

「オムライスが……私の自慢のオムライスが作れない……」

 カゴを抱えたまま、シャーロットはその場に立ち尽くす。

 トマトがなければ、ケチャップも作れない。パスタのトマトソースも、ミネストローネも、ラタトゥイユも――前世で愛した料理の多くが、作れなくなってしまう。

「くぅぅぅ……盲点だったわ……」

 肩を落として市場を後にする。トマトなしで一体何を作ればいいのだろう? 重いカゴが、今は挫折を象徴するかのように感じられた。



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次のエピソードへ進む 6. 真っ赤な宝石


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 ――やった! ついに追放だわ!
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「その上、貴様は得体の知れない薬を王都にばらまき、人々を惑わせた!」
 エドワードの糾弾に、シャーロットの胸が小さく痛んだ。
(得体の知れない薬……そう呼ばれてしまうのね、私の心血を注いだペニシリンが)
 何度も失敗を重ね、カビの胞子で喉を痛め、消毒薬で手を荒らしながら作り上げた抗生物質。それは確かに多くの命を救った。だが、公爵令嬢がなぜそんなものを作れるのか――その疑問に答えることはできない。
「も、申し訳ございません……」
 シャーロットは震え声で謝罪しながら、ゆっくりと膝を折った。ドレスの裾が床に広がり、まるで白い花が咲いたようだった。完璧な敗北の構図。観衆たちの満足げなざわめきが聞こえる。
「もはや言い訳は聞かぬ! シャーロット・ベルローズ、お前に国外追放を言い渡す! 二度とこの国の地を踏むことは許さぬ!」
 その瞬間――――。
(きたきたきたきた! ついに来たわ、私の解放記念日!)
 シャーロットの心の中で、盛大な祝砲が鳴り響いた。これで処刑は無いわ! もう二度と、深夜の地下室で危険な実験をしなくていい。もう二度と、正体を隠してこそこそと働かなくていい。もう二度と、この息苦しい宮廷で演技をしなくていいのだ!
「あ、ありがたき……お慈悲……」
 声を震わせながら立ち上がり、シャーロットはよろよろと退場した。重い扉が閉まった瞬間、彼女は人目もはばからず小さくガッツポーズをした。廊下を歩く足取りは、まるでスキップでもしそうなほど軽やかだった。
 自室に戻り、簡素な旅支度を整える。
 机の上には、一冊のノートと封筒。ノートには、八年間かけて完成させたペニシリンの精製方法が、誰にでも分かるように丁寧に記されている。
「これで、私の役目は終わり」
 シャーロットは優しい手つきでノートを封筒に入れ、表に『聖女リリアナ様へ』と記した。
(きっと、最初は『カビなんて汚い』と言うでしょうね。でも、いずれ理解してくれるはず。ペニシリンの効果も上がり始めているのだから)
 窓の外を見れば、みすぼらしい幌馬車が一台、ぽつんと佇んでいた。追放令嬢に与えられる最低限の移動手段。だが、シャーロットにとっては黄金の馬車にも勝る価値があった。
 最後に一度、部屋を見回す。
 あの片隅で、初めて石鹸を作った日。
 窓辺で、上下水道の設計図を描いた夜。
 月明かりの下で、ペニシリンの完成を一人祝った明け方。
 孤独だったけれど、充実していた。苦しかったけれど、誇らしかった。
「ありがとう。でも、もう十分よ」
 シャーロットは深く一礼して、新しい人生へと歩み出した。
 馬車が王都の門を抜けた瞬間、彼女は両手を高く掲げて大きく伸びをした。
「さあ、これから私のスローライフが始まるのよ! 小さなカフェを開いて、美味しい料理を作って、お客様の笑顔を見て……ああ、考えただけで幸せ!」
 御者が驚いて振り返ったが、シャーロットは構わずに続けた。
「もう誰かのためじゃない、私のための人生! なんて素敵な響きなの、スローライフ!」
 オレンジ色の夕陽が地平線に沈もうとしていた。その光に照らされたシャーロットの瞳は、八年ぶりに――いや、もしかしたら生まれて初めて――純粋な希望に輝いていた。
2. 影の功労者
 |辺境《へんきょう》への道のりは長い。揺れる馬車の中で、シャーロットは過去を思い返していた。
 前世の記憶が蘇ったのは八歳の時。高熱にうなされ、生死の境を彷徨った末に思い出したのは、平凡なOLとしての人生と、『聖女と五つの恋』というゲームの内容だった。
(まさか自分が悪役令嬢に転生してるなんて……しかも、最後は処刑される運命だなんて)
 最初は絶望した。だが、シャーロットには武器があった。前世の知識――特に、基本的な衛生観念と科学の知識だ。
 王都の不衛生な環境を見て、彼女は決意した。解決策を知っている以上人々の役に立とうと。
 しかし、シャーロットは決して表に出ないように気を配る。「古い書庫で見つけた文献に書いてあった」と嘘をつき、手柄は全て他人に譲った。
(だって、目立ったら悪役令嬢として目をつけられるもの。地味に、目立たず、でも確実に)
 シャーロットの最大の功績は、やはり抗生物質の開発だった。
 思い出すだけで、背筋が寒くなる。
 十五歳の冬、王都で|猩紅熱《しょうこうねつ》が流行した。子供たちが次々と倒れ、既存の薬では太刀打ちできない。シャーロットは決意した。前世の知識にあったペニシリンを作ると。
 問題は材料だった。青カビ――正確にはペニシリウム属の特定の菌株が必要だが、どれが正しいものか、見た目だけでは判断できない。
 シャーロットは公爵家の地下室を改造し、秘密の実験室を作る。そして、ありとあらゆる青カビを集めては、培養と抽出を繰り返した。
 夜中、皆が寝静まった後。シャーロットは一人、地下室に降りる。|蝋燭《ろうそく》の明かりだけを頼りに、危険な実験を続けた。
 何度も失敗した。カビの胞子を吸い込んで倒れそうになったことも、抽出液で手を荒らしたことも数知れない。それでも諦めなかった。
 そして、ついに――――。
「できた……」
 震える手で持ち上げた小瓶の中には、透明な液体が入っていた。動物実験で効果を確認し、ごく少量を自分でも試した。前世の記憶通りの効果だった。
 だが、シャーロットは気づいていた。この薬を公にすれば、必ず疑われる。なぜ公爵令嬢がこんな薬を作れるのか、と。
 だから彼女は、「祖母から教わった民間薬」として、こっそりと流通させた。重篤な患者の家族に、「効くかもしれない」と言って渡す。代金は受け取らない。ただ、「誰から貰ったかは内緒に」とだけ頼む。
 奇跡は起きた。死の淵から生還する子供たち。「天使様の薬」と呼ばれるようになったそれは、口コミで広がっていった。
 だが、製造できるのはシャーロット一人だけ。毎晩毎晩、地下室にこもって薬を作る日々。誰にも頼れない。誰にも打ち明けられない。
(本当に、孤独だった……)
 思えば前世でも研究所で毎晩遅くまで実験に明け暮れ――みじめに過労で死んでいたのだった。転生しても同じとは全く進歩がない。
 でも――――。
 これからは違う。【スローライフ】――そう、ゆったり穏やかに笑顔の中で暮らすのよ。ゆったり穏やかに、笑顔に包まれて――――。
 馬車が大きく揺れ、シャーロットは現実に引き戻された。
 御者が声をかける。
「お嬢様、そろそろ宿場町に着きますよ」
「ありがとう」
 シャーロットは微笑んだ。過去は過去だ。これからは、誰のためでもない、自分のための人生を生きるのだ。
 宿場町の宿で一泊し、翌朝再び馬車に乗る。持参した金貨を数えてみるがかなりの額だ。この日のために無理して溜めて来たお金――小さなカフェを開くには十分すぎる。
「ふふ、何を作ろうかしら。オムライス? ハンバーグ? それともケーキ?」
 前世の記憶にある料理の数々を思い浮かべ、シャーロットは頬を緩める。この世界にはない食べ物でみんなを笑顔にする――なんて幸せなのだろうか。
 もう、誰かのために隠れて働く必要はない。
 もう、危険な実験に身を晒す必要もない。
 もう、孤独に耐える必要もない。
 これからは、太陽の下で、堂々と生きていける。
「ああ、早く着かないかしら、|辺境《へんきょう》の町!」
 シャーロットの瞳は、希望で輝いていた。
3. 辺境の町、ローゼンブルクへ
 王都を出て三日目の朝、シャーロットを乗せた馬車は、ついに目的地である|辺境《へんきょう》の町、ローゼンブルクに到着した。
 ドウドウドウ!
 御者が叫び、車輪が石畳に触れる音が、次第にゆっくりとなっていく。長い旅の終わりを告げる、その優しい音に、シャーロットは胸の奥で何かが解けていくのを感じた。
「お嬢様、着きましたよ」
 御者の声に、シャーロットは深く息を吸い込んだ。新しい空気。新しい町。新しい人生の始まり。
 期待と不安が入り混じった気持ちを抱えながら、震える手で馬車の扉を開ける。
 そして――――。
 息を呑んだ。
 目の前に広がる光景は、王都の華やかさとは全く違う、けれど心を掴んで離さない美しさに満ちていた。
 石畳の道は朝露に濡れて優しく光っている。道の両側に並ぶ|赤煉瓦《あかれんが》の家々は、一つ一つが違う表情を持ち、まるで長い物語を抱えているかのよう。窓辺には色とりどりの花が飾られ、朝の微風に揺れている。
 町の中心にある噴水は、水晶のような水しぶきを上げ、虹を作り出していた。
 そして何より――空が、広い。
 王都では高い建物に遮られていた空が、ここでは端から端まで見渡せる。雲がゆったりと流れ、鳥たちが自由に舞っている。
「なんて素敵な町……」
 思わず呟いた声は、感動に震えていた。これが、自分が選んだ新しい故郷。誰に強制されたわけでもない、自分の意思で選んだ場所。
「ローゼンブルクは良い町ですよ」
 荷物を下ろしながら、御者が温かく笑った。
「人も温かいし、飯も美味い。お嬢様もきっと気に入りますよ」
「ええ、もう気に入ったわ」
 シャーロットは心の底から微笑んだ。この瞬間、確信した。ここが、自分の居場所になると。ここで、新しい物語を紡いでいくのだと。
 御者に心からの礼を言って別れ、シャーロットは期待に胸を膨らませながら町を歩き始める。
 メインストリートは、朝の活気に満ちていた。
 パン屋からは、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂ってくる。肉屋の店先では、主人が威勢よく客を呼び込んでいた。八百屋には、朝採れたばかりの野菜が山と積まれ、露に濡れてきらきらと輝いている。
(いいわ、とてもいいわ。こんな町でカフェを開けるなんて、夢のよう)
 十年間、ただ王都で処刑におびえ、必死に活路を追い求めていた日々。でも、これからは違う。自分の店で、自分の料理を、笑顔で待ってくれるお客様に振る舞うのだ。
 と、その時――――。
「あら、見ない顔ね」
 穏やかな声に振り向くと、そこには人の良さそうな初老の女性が立っていた。
 真っ白な髪を綺麗にまとめ、小花模様のエプロンをつけている。顔に刻まれた皺の一つ一つが、優しい笑い皺で、この人が幸せな人生を送ってきたことを物語っていた。
「はじめまして。私、シャーロットです。王都から来まして……」
「まあ、王都から! それはそれは遠いところから……」
 女性の瞳が、驚きと共に温かさを増す。
「私はマルタよ。この先で小さな雑貨屋をやってるの」
 マルタは、シャーロットを慈愛に満ちた目で見つめた。まるで、遠くから来た旅人を心配する母親のように。
「お嬢さん、一人旅? 危なくなかった?」
 その気遣いに、シャーロットは胸が熱くなった。初対面なのに、こんなに心配してくれる。これが、この町の温かさなのだろうか。
「ええ、でも無事に着きました。実は、この町でお店を開きたいと思っているんです」
「えっ!? お店を?」
 マルタの目が、好奇心でキラキラと輝いた。
「ええ、カフェを。美味しい料理と飲み物を出す、小さなお店を……」
「カフェ……ねえ」
 マルタは顎に手を当て、何かを思案するような表情を浮かべた。そして次の瞬間、ぱっと笑顔になった。
「それなら、ちょうどいい物件を知ってるわ。ついてらっしゃい」
「え? でも、お忙しいのでは……?」
「いいのいいの。新しい住人は大歓迎よ。それにーー」
 マルタは悪戯っぽくウインクした。
「この町にカフェができたら、私も嬉しいもの」
 有無を言わさぬ調子で歩き始めたマルタの背中を、シャーロットは慌てて追いかける。でも、その慌ただしさの中にも、温かい幸せが満ちていた。
4. ひだまりのフライパン
 角を二つ曲がり、メインストリートから少し入った静かな通りで、マルタは立ち止まった。
「ここよ」
 マルタが指差した先で、シャーロットは息を呑んだ。
 二階建てのクリーム色の建物が朝の陽光の中、静かにたたずんでいたのだ。
 正面には可愛いアーチ型の大きな窓が三つ並んでいて、かつては町の人々で賑わっていたであろう温もりが、今も残っているような気がした。
 入口は重厚な|橡《とち》の木の扉で、色ガラスで小さな花模様の小窓があり、二階には白い木製の鎧戸がついた窓が四つ。一番右端の窓の下には小さなバルコニーがあり、そこだけ濃い緑の蔦が優雅に絡まっている。
 しっかりとした灰色の石造りの土台は、何十年もこの町の風雪に耐えてきた風格があった。
「前はパン屋だったんだけどね。店主が年で引退して、もう半年も空き家なの」
 マルタの声には、一抹の寂しさが混じる。
「素敵……」
 シャーロットは、まるで恋に落ちたように建物を見つめた。
 頭の中で、既に夢が形を成し始めている。窓際には、陽だまりのような温かいテーブル席を。入口には、手書きの可愛い看板を。二階の窓からは、ハーブの鉢植えを吊るして……。
「中も見る? 大家は私の古い友人でね、鍵を預かって……」
「ぜひ!」
 かぶせてくるようなシャーロットの即答に、マルタは優しく微笑んだ。
 重い木の扉を開けると、埃の舞う光の筋が現れた。でも、その埃っぽさも、シャーロットには素敵な物語の始まりの予感に思える。
 中は予想以上に広い。床は年季の入った木製で、歩くたびに優しい音を立てる。厨房も、かつてのパン屋の設備がしっかりと残っていて、少し手を加えれば十分使えそうだ。
「裏庭もあるのよ」
 マルタに案内されて裏口から出ると、小さいけれど陽当たりの良い庭が広がっていた。
 シャーロットは、そこに広がる可能性を見た。ローズマリー、タイム、バジル……新鮮なハーブを摘んで、すぐに料理に使える。小さなテーブルを置けば、天気の良い日は外でもお茶を楽しめる。
「どう? 気に入った?」
 マルタの問いに、シャーロットは振り返った。
「はい! ここに決めます!」
 その顔には、十数年ぶりに見せる、心からの笑顔が輝いている。
「あら、即決?」
「ええ。もう、ここしかないって感じがするんです。まるで、この建物が私を待っていてくれたみたいに」
 マルタは一瞬驚いた顔をした後、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「そう、それなら良かった。大家のトーマスも喜ぶわ。彼、この建物を大切に使ってくれる人を探してたから」
 その日のうちに、とんとん拍子で話は進んだ。大家のトーマスは、人の良い老紳士で、シャーロットの熱意をいたく喜んでくれた。
「若い人がこの町で夢を叶えようとしてくれるなんて、嬉しい限りじゃなぁ」
 思っていたより遥かに安い家賃に驚くシャーロットに、トーマスは優しく言った。
「町に活気が戻るなら、それが一番の家賃じゃよ」
 宿に戻ったシャーロットは、ベッドに寝転がって天井を見上げる。
 木目の美しい天井。王都の豪華な屋敷とは違う、素朴だけれど温かみのある部屋――――。
「明日から、頑張らなくっちゃ……」
 やることは山ほどある。掃除、修繕、家具の調達、食器に調理器具の準備、メニューの考案……でも、そんな大変なことにワクワクしてしまうのだった。
 十数年間眠っていた何かが、ゆっくりと目覚め始めているような感覚。体の奥から、生きる力が湧き上がってくる。
「お店の名前は何にしようかしら……」
 シャーロットは、子供のようにウキウキしながら考える。
「『金のたまご亭』……いえ、ちょっと大げさね。『幸せの黄色いスプーン』……可愛いけど、長すぎるわ」
 ごろんと寝返りを打ち、窓の外を見る。
 傾いてきた太陽が町を優しいオレンジ色に染めている。まるで、大きな|日溜《ひだま》りに包まれているような、温かい光景。
「……そうだわ」
 シャーロットの顔が、ぱっと輝いた。
「この町の温かさ、この光……『ひだまり』……そう、カフェ『ひだまりのフライパン』!」
 声に出してみると、しっくりくる。温かくて、親しみやすくて、ちょっとユーモラスで。まさに、自分が作りたい店のイメージそのもの。
「うん、いい名前だわ!」
 シャーロットは幸せそうに微笑んだ。
 明日から、本当の意味での新しい人生が始まる。誰のためでもない、自分のための人生が。そして、この町の人々に、美味しい料理と温かい時間を提供できる、【ひだまり】のような場所を作るのだ。
「どんなメニューにしようかしら……。ハンバーグ、パスタ? あの可愛いお店に似合うのは……オムライス? オムライスの黄色は『ひだまりのフライパン』っぽいかも!? ふふっ。そしたらインテリアは……」
 アイディアがどんどんあふれ出してきて止まらない。
 窓の外では、ローゼンブルクの穏やかな夜が更けていく。どこかで|梟《ふくろう》の鳴く声が、まるで祝福の歌のように響いている。
「うーん、なんて幸せなのかしら! 明日が待ち遠しいわ!!」
 満天の星々の下、シャーロットは希望に満ちた幸せな気持ちで目を閉じる。
 夢の中でもう、『ひだまりのフライパン』には、たくさんのお客様の笑顔が溢れていた。
5. 赤い盲点
 開店準備も順調に進み、あっという間に一週間が流れていった――――。
 朝の|爽《さわ》やかな光が、磨き上げたガラス窓から店内に降り注ぐ。
 シャーロットは、何度も磨いて艶が出てきた|欅《けやき》のカウンターに、そっと手を置いた。木の温もりが、掌に優しく伝わってくる。
(ここが、私の新しい居場所――――)
 深呼吸をして、改装が進む店内をゆっくりと見渡す。
 一週間前は埃と蜘蛛の巣に覆われていた壁には、今、蚤の市で一目惚れした温かみのあるタペストリーが飾られている。|向日葵《ひまわり》の黄金色と小鳥の優しい茶色。一針一針丁寧に刺繍された作品は、まるで永遠の夏を閉じ込めたかのような明るさを店内にもたらしていた。
「さて、このカーテンは合うかしら……」
 シャーロットは脚立に登り、窓際に薄い水色のレースカーテンを取り付ける。朝の微風がさっそく布地を揺らし、まるで湖面の|漣《さざなみ》のような優しい影を床に落とした。
「うん! いい感じ!」
 テーブルの上には、この一週間で少しずつ集めた宝物のような食器たちが、出番を待つように並んでいる。
 クリーム色の地に小さな苺が踊るように描かれた皿は、見ているだけで幸せな気持ちになる。持ち手が小鳥の形をしたティーカップは、まるで手の中で小鳥を包み込むような優しさ。銀のスプーンに彫られた四つ葉のクローバーは、使う人に小さな幸運を運んでくれそうだ。
 どれも、マルタが「あんたの店にぴったりよ」と紹介してくれた、町の陶芸家たちの心のこもった作品だった。
「お客様が、これで紅茶を飲んだら、きっと笑顔になるわ」
 シャーロットは、一番お気に入りの小鳥のカップを手に取り、まるで生きているかのようにそっと撫でる。
 振り返れば、厨房も見違えるようになっていた。
 かつてのパン屋の名残である大きな|竈《かまど》は綺麗に掃除され、新しい命を吹き込まれるのを待っている。磨き上げた銅鍋が、まるで夕日のような輝きを放ちながらフックに掛けられていた。
 窓辺の棚には、ガラスの小瓶がずらりと並ぶ。ローズマリー、タイム、オレガノ、バジル……乾燥ハーブたちが、まるで植物標本のように美しく収まっている。
 新しく設置した黒板には、白いチョークで夢が描かれていた。
 『本日のスープ』、『ふわふわパンケーキ』、『魔法のシチュー』――――。
 そして、一番上に、まるで王冠のように大きく誇らしげに書かれているのが――――。
「やっぱり最初は、みんなを笑顔にする『とろけるチーズの王様オムライス』よね!」
 シャーロットは、両手を腰に当てて、満面の笑みを浮かべた。前世では自分のために工夫を凝らしながら改良していった料理。でも今度は、自分の店で、たくさんの人を幸せにするために作るのだ。
       ◇
「まずは試作だわ!」
 朝露がまだ残る石畳を踏みしめながら、シャーロットは意気揚々と市場へ向かった。籐のカゴが腕に心地よい重さを作る。
 市場は既に活気に満ちていた。威勢のいい呼び声、野菜や果物の瑞々しい香り、朝日を受けて輝く新鮮な食材たち。
「おや、カフェのお嬢ちゃんじゃないか!」
 顔なじみになった親父が、人懐っこい笑顔で手を振る。
「今日は何がお目当てだい?」
「新鮮な卵と、上質なチーズ、それから柔らかい鶏肉を……」
 シャーロットは、慣れた手つきで食材を選んでいく。卵は一つ一つ光に透かして確認し、チーズは香りを確かめ、鶏肉は弾力を指で確認する。
 カゴが少しずつ重くなっていく。それは、夢が現実になっていく重さでもあった。
「次は野菜を――」
 ところが――――。
「あの、トマトはありませんか?」
 何気ないその問いかけに、八百屋の親父は眉をひそめた。
「トマト? なんだいそりゃ」
 まるで異国の言葉を聞いたかのような反応に、シャーロットは息を呑む。
「え、あの……赤くて、丸くて、ちょっと酸味があって……」
「赤い野菜なら赤カブがあるが?」
 親父が差し出したのは、確かに赤いが、全く別の野菜だった。
 シャーロットは愕然とした。まさか、この世界にトマトが存在しないなんて――――。
 慌てて他の店も回ってみたが、どこも同じ反応。「トマト? 聞いたことがない」「そんな野菜があるのか?」と、不思議そうな顔をされるばかり。
「噓でしょ……」
 ふと思い返せば、公爵家の食卓に並んだ豪華な料理の中に、トマトを使ったものは一つもなかったのだ。
「オムライスが……私の自慢のオムライスが作れない……」
 カゴを抱えたまま、シャーロットはその場に立ち尽くす。
 トマトがなければ、ケチャップも作れない。パスタのトマトソースも、ミネストローネも、ラタトゥイユも――前世で愛した料理の多くが、作れなくなってしまう。
「くぅぅぅ……盲点だったわ……」
 肩を落として市場を後にする。トマトなしで一体何を作ればいいのだろう? 重いカゴが、今は挫折を象徴するかのように感じられた。