―セクション3―
そこは知らない場所だったが、珍しい場所ではなかった。
日彩が窓の外を見ていると、突然白衣の男がすぐそばを通り、慌てて壁に身を隠す。
「その窓は、外からは見えねぇから、気にしなくても大丈夫だ」
「えっと……マジックミラー的な……?」
「鏡になってるわけじゃないけどな。そんな窓だったら怪し過ぎんだろ」
彼は笑いながら言うと、日彩の頭に手を置き、優しく髪を撫でた。
「スマホは捨ててきたな?」
「うん。両親と友達に最後のメッセージ入れてから、川に。――いつからここで過ごしてたの?」
「卒業式が終わってすぐぐらいからだな」
彼は話しながら、近くのデスクに腰掛ける。
「――松宮君」
日彩が名を呼ぶと、彼は笑う。毎日のように見ている顔ではあったが、笑い方も話し方も全然違うと日彩は思った。
「私はあなたに会いたかった……。あなたは私のこと、ただのクラスメイトとしか思ってなかったと思うけどけど、私は違ったの……」
ナショナルタウンズの屋上で、突如ビルから飛び降りた研矢を、日彩は茫然と眺めた。なにが起きたのか理解できなかったのだ。
だが彼はそもそも日彩の知る研矢ではない。毎日のように昼を過ごす友人であったはずなのに、悲しくはなかった。ただ「死んじゃったのかな」とぼんやり思っただけだ。
花鈴と合流する予定があったが、日彩はどうするべきか悩んだ。別に自分がビルから突き落としたわけではない。けれど自分の言葉が彼の背を押してしまった気はしていた。
そんな葛藤の中、近くで爆発騒ぎがあった。
驚いて辺りを見回していると、誰かが背後から抱き締めてきた。
日彩はすぐに気付いた。顔は見ていなくても、確信があった。
「松宮君――」
「よ、久しぶりだな」
日彩はくすりと笑った。
「毎日会ってるのに? というか今さっきまで一緒にいたのに……?」
「やべ、気を抜いてしゃべっちまったな。――ってかお前、気付いてたんだろ?」
「そうよ……探してた」
「そうか」
背後で研矢の笑う声が聞こえた。
「――お前、俺と来る覚悟はあるか?」
「え……?」
「俺と来る覚悟があるなら、この後、二丁目の交差点のそばに来い。今俺はここに長居するわけにいかないし、お前を連れて歩くことも避けたい」
「松宮君と行く? どこへ?」
「自由な生き方ができる広い世界へだ。ただし日常には帰れねぇぞ。――覚悟がなければ今ここでのことは忘れて家に帰れ」
そうして、日彩は選び、ここにきた。全てを捨てて来たが、悲しくはなかった。むしろ高揚感があるほどだ。
「私、あなたがいない毎日はとてもつまらなかったの」
「悪かったな。俺のあとを追って来てたことは知らなかった。お前には素質があるとはわかってたが、ここまで覚悟があるとは思わなかった」
そう言うと、研矢は日彩の頭に軽く口づけた。
びっくりした日彩が慌てて逃れようとして、窓ガラスに背を預けるのを、研矢は体で封じ込めた。
「あのニセモノに少しぐらい惹かれたか?」
「まさか。それだったら、私、ここにいない……」
日彩は顔を上げると、研矢の頬に手を当てた。
「あなたの世界に私を置いて欲しい」
「――最初から誘ってやれば良かったな」
研矢は楽しそうに言う。
「お前が毎日接していた奴は、俺の細胞から使ったクローンだ。奴とは卒業式の日の朝に入れ替わっていた」
「クローン……でも、あなたの記憶はあったでしょう? ところどころ違和感はあったけど、はっきりと指摘できるほどではなかったわ」
「ああ。記憶の移植をしてあったんだ。脳の処理は電気信号だ。解析し信号化できれば、記憶を移すことができる」
「そんなことが可能なの……?」
「時間をかければ、完全に行うことはさほど難しくない。ただ、俺の場合は、クローンにクローンとして意識させないように、記憶の中から、俺や俺がやっていることに関わる部分を隠す必要があったし、処理に時間がかけられなかったこともあって、かなり無理矢理だった。性格の違いも発生していただろ」
「うん……好みが変わってしまってた」
「そうか。まぁそもそも奴が死ぬまでの短い時間だけ偽装できればと思ってたからな……思考の制御が外れたのは、想定外だった」
「思考の制御って?」
「俺は――人の思考をコントロールできるんだ」
研矢はそう言うと、日彩の額に自分の額を当てた。
「たとえば、お前は俺を好きになる――とかな」
「……」
「はっ、そんな呆れた顔するなよ」
研矢は愉快そうに笑って、離れた。
「でも実際のところ、百人にコントロールを仕掛けても、一人上手くいくかどうかというレベルだ。――だが俺のクローンに関しては、育成時からコントロール下にあったから、容易に動かせるはずだった。何かしら、自我を強めるきっかけがあって、俺の思考制御が外れてしまったんだろうな。おかげで、奴はこれまで生き永らえたってわけだ」
「松宮君――クローンの方だけど――彼は花鈴のことが好きなの。彼女に出会ったから、とかは?」
「女か。ありえるな――だが、お前があいつの自我を揺らしてくれたおかげで、俺のコントロールが効くようになった」
「昨日ビルに居たのは偶然じゃないの?」
「ああ。元々機会があれば奴に接触して行動をけしかけようと思ってたんだ。昨日は、俺のダチが、奴があそこの屋上にいることに気付いて連絡してきたから、急いで現地へ向かったってわけだ。しくじっちまったし、俺の存在はもう多方に知られただろうな。まぁこれからはその前提で動くから、別に構わねえけどな」
研矢はそう言うと、日彩の顔を覗き込んだ。
「俺は松宮研矢を捨てようと思う。お前が新しい名前を決めてくれ」
「え、ええ⁉︎」
日彩は驚いて研矢を見つめた。彼の目は真剣で冗談を言っているようには思えなかった。
(彼に相応しい名前……?)
日彩は、自身は名前負けしているといつも思っていた。地味で華やかさもないに、日彩だなんて。
けれども、自分の名前に思い入れができたら、愛着が湧くかもしれないと考えた。彼と対になるような名前なら、どうだろうか、と。
(月? でも月は日よりも小さいし、彼は誰からでも見えるような、そんなありきたりな存在じゃない。そう、だ――)
「星」
彼は星だと不意に思った。
(自分にとって輝いていて、同じ物を指し示しても、見つけられない人には見つけられない。小さくか弱い光に見えて、その実地球を燃やし尽くす程に強烈な輝きを持つ恒星――)
理由を考えれば考えるほど、ぴったりな気がしてくる。
「星か?」
「あ、うん……あなたは私の星だから――星という字を入れて欲しい……」
「ふぅん、そうか」
日彩の考えを全て察したわけではなかったが、研矢は悪くないと呟き、ニヤリと笑った。
「なら、星矢にしとくか。秦星矢な」
「秦⁉︎」
「なんか問題が?」
「う、ううん……」
日彩は真っ赤になって下を向く。
「いいものをやる」
研矢は首に下げていたネックレストップを外した。それはティアラのようなデザインのリングだった。
「残念ながら、薬指にはサイズが合わねぇな」
そう言って、日彩の人差し指にそれを通す。
「これはリンクだ。これの使い方は必要な時が来たら教える」
「リングじゃなくて?」
「ああ。リンクって名前のアイテムだ。三種類あって、これはクィーン。お前が持つのにぴったりだな」
「他には?」
「ブレスレット型の――」
「ナイト」
横から声が割り込み、びっくりして日彩が声を上げる。
見ると、入り口に若い男が立ち、腕のブレスレットを振って見せていた。
「僕がナイトね」
年齢は若いのかそこそこ言っているのかわからないが、いわゆる童顔といった顔立ちで、人懐っこい犬をイメージさせる男だった。
「俺のクィーンを驚かすな」
「ああ、ごめんね。――そして最後の一つがジャックだよ。今ここにはないけどね」
彼は言うと、騎士が女王に礼をするように、手を大きく振りながら深く礼をしてみせた。
「僕は、ナイトのエイト。エイトは名前ね。よろしくね。えっと確か――ひいろちゃん」
「エイト、ジロジロ見てんじゃねぇぞ。――ってか、お前、八巻に撒かれたぞ。ちゃんと見てろって言ってあっただろうが」
「ちゃんと見張ってたよ? ヤツ、きっと起動させたんだよ。ケンちゃんに負けず劣らずヤツもいい性格してるからねー」
ちっと舌打ちして、研矢はエイトに向き直った。
「俺は今から秦星矢と名乗る。ケンちゃんじゃねぇぞ」
「なら、セイちゃん――彼女と楽しそうなところ悪いんだけどさー。ちょっと非常事態なんだよねー」
「なんだ?」
「あの女、例の病室に警察が来たってことでテンパって、悪手を犯しちゃったよ」
「……なに?」
「僕の情報網だと、逮捕状が出るのが時間の問題。MatsuQ本社ビルに役員たちが呼ばれて集まり始めてるし、大掛かりな捕物が始まるかなぁって」
「仕方ない。――表で動くか」
「ケン――セイちゃんが表で動くと、久々にハデな騒ぎになりそー」
エイトが笑いながら言ったとき、刑事らしき男と制服警官が向かってくるのが窓の向こうに見え、彼はすっと笑みを消した。
「セイちゃん」
「あいつが見つかったか。この場所も調べられるだろう。拠点を移すか」
「ねぇ、僕の大切な『目』だよ。取り返してくれる?」
「当然だ。重要な道具だからな」
言うと、星矢は日彩を見つめた。
「日彩、早速だが手伝ってくれるか?」
「うん……私にできること?」
「ああ、お前なら、間違いない。――エイト、お前は逃走経路の確保だ」
「りょうかい」
「日彩、もう一度だけ聞くが、日常に戻れないぞ。いいんだな?」
「……お揃いの名前を付けたのに、まだそんなことを聞くの?」
日彩は困ったように言う。
「……だな。野暮な質問だった。忘れろよ」
星矢は日彩にキスをして髪を撫でる。
日彩は真っ赤になって星矢を突き放した。
「意外。セイちゃん、初心な子が好みなんだな」
「るせぇな。俺は静かな女が好みなんだよ」