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 宝永(ほうえい)三年の夏の盛り――京の洛北(らくほく)比叡山(ひえいざん)へ続く雲母坂(きららざか)の山道の奥に、叢雲寺(そううんじ)はひっそりと佇んでいた。
 苔むした石段を登り切ると、松林に抱かれた古寺が、霧のような静寂の中に現れる。
 ここは、宵(よい)一門(いちもん)が集う場――仏教を“宗”ではなく“縁”として捉えた者たちの祈りの灯籠(とうろう)だった。

 法華(ほっけ)智慧(ちえ)、密教(みっきょう)祈念(きねん)、華厳(けごん)連環(れんかん)、禅(ぜん)静寂(せいじゃく)、浄土(じょうど)(すく)、唯識(ゆいしき)探求(たんきゅう)
 そのいずれにも囚われず、背かず、ただ(ともしび)を捧げることを志した宵叢海(よいのそうかい)導師は、宗派という峻別(しゅんべつ)すら、無明(むみょう)のひとつと見なしていたのかもしれない。

 形式が慈悲を多様な縁に広げる一方で、祈りの灯が名に曇らぬようにと、叢海様は静かに思索を重ねられたに違いない。宗の名が祈りを導くこともあれば、祈りが名を越えて縁に還ることもあるのだろう。
 宵の一門は、その還りの灯を語りとして捧げ続けているのかもしれない。

 夕陽が山の稜線に沈む頃、俺は叢雲寺の縁側からその光景を眺めていた。本堂の屋根に白い月の姿が淡く浮かび上がっている。縁側の木の冷たい感触が足の裏に染み、夕陽の最後の光が揺れて、俺の胸に抑えきれぬざわめきを呼び起こした。幼き日の惨殺の闇は、未だに心の影に潜み、因果の糸のように絡みついていた。
 堂内に足を踏み入れると、香炉から立ち上る白い煙が、薄暮の光に溶け、虚空を優しく満たしてくれるようだった。仏壇の灯明(とうみょう)が小さく揺れ、経机(きょうづくえ)の木目に(かす)かな影を落とす。遠くで蝉の声が響き、夏の匂いが夕風に混じり、過ぎ去った記憶の残香のように俺を包んだ。
 堂の奥、仏像の前に坐する僧が、経典(きょうてん)を静かに(くる)っていた。法衣の裾が灯明に揺れ、経典の頁が西日に透け、黄金の糸のように輝く。その光が虚空を満たす慈悲の源のように感じられ、その清らかな眩しさに触れるたび、俺の祈りの空虚さが深く、重く胸に響くようだった。
 騒めく心を隠すように、ひと呼吸ついて、俺はその僧――良宵(りょうしょう)に、静かに言葉を投げかけた。
「どうした、良宵。霊縛(れいばく)の経典とは穏やかじゃないぞ。退魔(たいま)にでも赴くのか?」
 経机の向こうで、良宵は経典を畳んだ。
 その指先は水面を撫でるように滑らかで、経典の端が陽に光る。法衣の袖が小さく揺れ、清らかな灯火が良宵の内に宿っているかのようだった。
 穏やかに俺を捉えたその瞳が、ふいに伏せられるのを見て、たまらなく憎らしいと感じた。
「その帰りだ、螢雪(けいせつ)。洛外の童霊(どうれい)に呼ばれて、少し足を延ばしてきた」
「また死霊と遊んできたのか?」
 良宵は俺を見つめ、首をわずかに傾げた。その瞳が、月光のように静かに揺れる。そこには、知らず知らずに人の心を刺す慈悲を湛えていた。
 ああ、まただ。
 良宵は何も、誰も責めない。
 その穏やかな瞳は、まるで罪を知らぬ者のように優しいけれど、俺の胸に影を落とし、咎(とが)を背負わせる鏡のようでもあった。
 理由を知らぬ良宵の光は、俺の心を無遠慮に暴く。
 因果の糸が胸に絡まり、静かに締めつけてくる。
 俺はただ、その清らかさから逃れるように、胸の奥で足掻くばかりだった。
「懐かれただけさ、螢雪。いつものように」
 その清らかな声と揺るがぬ眼差しに心を灼かれ、俺は胸の奥で疼く苛立ちを抑えるように顔を背けた。
 良宵の手は祈りを預かるたび清らかさを増し、俺の祈りが虚空を掴むたび、その穢れなさが罪の影を胸に刻むようだった。

 良宵はこの世ならざる者に慕われ、祈りを自然に預かる。まるで、それが定められた役割と疑いもしない。祈られる者が祈る者になったように、誰よりも穏やかに願いを受け止める。
 対して俺は、母を救えなかった罪を抱え、誰かを救う資格などないと諦めていた。
 だが、良宵を照らす光となり得れば、俺の闇もまた、消え去るのではないかと願ったはずなのに。

 ――俺はいつから、良宵を、月を追うように遠く見つめるようになったのだろうか。

 良宵は夜空を照らす清浄な光だ。その前では、俺の螢の灯など、ただ儚く瞬いて消えてしまうのだろうか。

 良宵と並び、共に祈る者になりたかった。だが、俺は良宵の光に照らされる側にいる。守っていたはずのその光は、いつしか俺を導いていた。兄弟子という名が、
ただ祈られる側に甘んじる虚ろな称号に思えた瞬間だった。

 ――良宵の輝きの強さを最初に思い知ったのは、七つの夏だった。
 比叡山の法華堂(ほっけどう)での勤行(ごんぎょう)を終え、俺は良宵と共に雲母坂を下り、叢雲寺へ急いでいた。薪を背負った肩に夕陽の名残が重く、宵闇に沈む森の静寂が、幼い俺の心に冷たい不安を忍び込ませた。京都の鬼門に佇む雲母坂の木々が、夜の気配をそっと囁くようだった。
 森の奥、朽ちた祠の陰から、怯えた目をした童鬼(どうき)が現れた。苔むした石に小さな手が這い、夏の風に揺れる影が、闇に溶けそうだった。
 俺は良宵の袖を握り、逃げるよう促した。童鬼を前にした恐怖よりも、兄弟子として良宵を守りたいという願いが、幼い胸を焦がしたのだろう。
 懐から角大師(つのだいし)の護符を掴もうと手を伸ばした瞬間、良宵がその手をそっと包み、静かに首を振った。
 良宵は童鬼の前で跪き、数珠を指先に転がした。数珠は夕陽の光を受けて、小さく銀色の弧を描いた。優しい声音が、静かな経文のように闇の中に広がっていく。

「怖がらなくていい。もう、誰も傷つけたりはしないから」

 童鬼の目から涙が一筋、星の光にきらめいて落ちた。
 その小さな体が良宵の言葉に寄り添うように近づき、良宵は、闇を優しい光で包むように、そっと抱きとめた。
 良宵の数珠が宵闇に小さく鳴り、聞き親しんだ経文(きょうもん)が子守歌のように雲母坂の森に響いた。童鬼の影が良宵の光に寄り添うように空へ昇り、天の静寂がその魂を導いた。

 光とは、こんなにも穏やかに、誰かを救ってしまえるものなのか。

 振り返って微笑む良宵に、俺は笑みを還せなかった。
 俺は護符を握り、力で童鬼を抑えようとした。だが、良宵は静かな経文でその魂を天へ還した。俺の護符では届かぬ闇を、良宵の光は、何のためらいもなく越えていった。
 良宵の慈悲を感じるたび、俺の中で何かが静かに崩れる。
 それは嫉妬でも憎しみでもない。
 ただ、良宵が立つ救済の地平に、俺の螢の灯では届かないと知る苦しみだった。
 思えばあの七つの夏から、俺は良宵の光を、月を仰ぐように遠く見つめ続けたのかもしれない。十五に成長した今も、その光は、俺の螢の灯では届かぬ高みに、変わらず在り続けていた。


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 |宝永《ほうえい》三年の夏の盛り――京の|洛北《らくほく》、|比叡山《ひえいざん》へ続く|雲母坂《きららざか》の山道の奥に、|叢雲寺《そううんじ》はひっそりと佇んでいた。
 苔むした石段を登り切ると、松林に抱かれた古寺が、霧のような静寂の中に現れる。
 ここは、宵《よい》の一門《いちもん》が集う場――仏教を“宗”ではなく“縁”として捉えた者たちの祈りの灯籠《とうろう》だった。
 法華《ほっけ》の智慧《ちえ》、密教《みっきょう》の祈念《きねん》、華厳《けごん》の連環《れんかん》、禅《ぜん》の静寂《せいじゃく》、浄土《じょうど》の救《すく》い、唯識《ゆいしき》の探求《たんきゅう》。
 そのいずれにも囚われず、背かず、ただ灯《ともしび》を捧げることを志した宵叢海《よいのそうかい》導師は、宗派という峻別《しゅんべつ》すら、無明《むみょう》のひとつと見なしていたのかもしれない。
 形式が慈悲を多様な縁に広げる一方で、祈りの灯が名に曇らぬようにと、叢海様は静かに思索を重ねられたに違いない。宗の名が祈りを導くこともあれば、祈りが名を越えて縁に還ることもあるのだろう。
 宵の一門は、その還りの灯を語りとして捧げ続けているのかもしれない。
 夕陽が山の稜線に沈む頃、俺は叢雲寺の縁側からその光景を眺めていた。本堂の屋根に白い月の姿が淡く浮かび上がっている。縁側の木の冷たい感触が足の裏に染み、夕陽の最後の光が揺れて、俺の胸に抑えきれぬざわめきを呼び起こした。幼き日の惨殺の闇は、未だに心の影に潜み、因果の糸のように絡みついていた。
 堂内に足を踏み入れると、香炉から立ち上る白い煙が、薄暮の光に溶け、虚空を優しく満たしてくれるようだった。仏壇の灯明《とうみょう》が小さく揺れ、経机《きょうづくえ》の木目に幽《かす》かな影を落とす。遠くで蝉の声が響き、夏の匂いが夕風に混じり、過ぎ去った記憶の残香のように俺を包んだ。
 堂の奥、仏像の前に坐する僧が、経典《きょうてん》を静かに繰《くる》っていた。法衣の裾が灯明に揺れ、経典の頁が西日に透け、黄金の糸のように輝く。その光が虚空を満たす慈悲の源のように感じられ、その清らかな眩しさに触れるたび、俺の祈りの空虚さが深く、重く胸に響くようだった。
 騒めく心を隠すように、ひと呼吸ついて、俺はその僧――良宵《りょうしょう》に、静かに言葉を投げかけた。
「どうした、良宵。霊縛《れいばく》の経典とは穏やかじゃないぞ。退魔《たいま》にでも赴くのか?」
 経机の向こうで、良宵は経典を畳んだ。
 その指先は水面を撫でるように滑らかで、経典の端が陽に光る。法衣の袖が小さく揺れ、清らかな灯火が良宵の内に宿っているかのようだった。
 穏やかに俺を捉えたその瞳が、ふいに伏せられるのを見て、たまらなく憎らしいと感じた。
「その帰りだ、螢雪《けいせつ》。洛外の童霊《どうれい》に呼ばれて、少し足を延ばしてきた」
「また死霊と遊んできたのか?」
 良宵は俺を見つめ、首をわずかに傾げた。その瞳が、月光のように静かに揺れる。そこには、知らず知らずに人の心を刺す慈悲を湛えていた。
 ああ、まただ。
 良宵は何も、誰も責めない。
 その穏やかな瞳は、まるで罪を知らぬ者のように優しいけれど、俺の胸に影を落とし、咎《とが》を背負わせる鏡のようでもあった。
 理由を知らぬ良宵の光は、俺の心を無遠慮に暴く。
 因果の糸が胸に絡まり、静かに締めつけてくる。
 俺はただ、その清らかさから逃れるように、胸の奥で足掻くばかりだった。
「懐かれただけさ、螢雪。いつものように」
 その清らかな声と揺るがぬ眼差しに心を灼かれ、俺は胸の奥で疼く苛立ちを抑えるように顔を背けた。
 良宵の手は祈りを預かるたび清らかさを増し、俺の祈りが虚空を掴むたび、その穢れなさが罪の影を胸に刻むようだった。
 良宵はこの世ならざる者に慕われ、祈りを自然に預かる。まるで、それが定められた役割と疑いもしない。祈られる者が祈る者になったように、誰よりも穏やかに願いを受け止める。
 対して俺は、母を救えなかった罪を抱え、誰かを救う資格などないと諦めていた。
 だが、良宵を照らす光となり得れば、俺の闇もまた、消え去るのではないかと願ったはずなのに。
 ――俺はいつから、良宵を、月を追うように遠く見つめるようになったのだろうか。
 良宵は夜空を照らす清浄な光だ。その前では、俺の螢の灯など、ただ儚く瞬いて消えてしまうのだろうか。
 良宵と並び、共に祈る者になりたかった。だが、俺は良宵の光に照らされる側にいる。守っていたはずのその光は、いつしか俺を導いていた。兄弟子という名が、
ただ祈られる側に甘んじる虚ろな称号に思えた瞬間だった。
 ――良宵の輝きの強さを最初に思い知ったのは、七つの夏だった。
 比叡山の法華堂《ほっけどう》での勤行《ごんぎょう》を終え、俺は良宵と共に雲母坂を下り、叢雲寺へ急いでいた。薪を背負った肩に夕陽の名残が重く、宵闇に沈む森の静寂が、幼い俺の心に冷たい不安を忍び込ませた。京都の鬼門に佇む雲母坂の木々が、夜の気配をそっと囁くようだった。
 森の奥、朽ちた祠の陰から、怯えた目をした童鬼《どうき》が現れた。苔むした石に小さな手が這い、夏の風に揺れる影が、闇に溶けそうだった。
 俺は良宵の袖を握り、逃げるよう促した。童鬼を前にした恐怖よりも、兄弟子として良宵を守りたいという願いが、幼い胸を焦がしたのだろう。
 懐から角大師《つのだいし》の護符を掴もうと手を伸ばした瞬間、良宵がその手をそっと包み、静かに首を振った。
 良宵は童鬼の前で跪き、数珠を指先に転がした。数珠は夕陽の光を受けて、小さく銀色の弧を描いた。優しい声音が、静かな経文のように闇の中に広がっていく。
「怖がらなくていい。もう、誰も傷つけたりはしないから」
 童鬼の目から涙が一筋、星の光にきらめいて落ちた。
 その小さな体が良宵の言葉に寄り添うように近づき、良宵は、闇を優しい光で包むように、そっと抱きとめた。
 良宵の数珠が宵闇に小さく鳴り、聞き親しんだ経文《きょうもん》が子守歌のように雲母坂の森に響いた。童鬼の影が良宵の光に寄り添うように空へ昇り、天の静寂がその魂を導いた。
 光とは、こんなにも穏やかに、誰かを救ってしまえるものなのか。
 振り返って微笑む良宵に、俺は笑みを還せなかった。
 俺は護符を握り、力で童鬼を抑えようとした。だが、良宵は静かな経文でその魂を天へ還した。俺の護符では届かぬ闇を、良宵の光は、何のためらいもなく越えていった。
 良宵の慈悲を感じるたび、俺の中で何かが静かに崩れる。
 それは嫉妬でも憎しみでもない。
 ただ、良宵が立つ救済の地平に、俺の螢の灯では届かないと知る苦しみだった。
 思えばあの七つの夏から、俺は良宵の光を、月を仰ぐように遠く見つめ続けたのかもしれない。十五に成長した今も、その光は、俺の螢の灯では届かぬ高みに、変わらず在り続けていた。