洛外から戻った良宵は、首座・法忍信楽様に呼ばれ、堂の奥で静かに語らっていた。
叢雲寺の庭に出た俺は、夏の夜の生ぬるい風に額に汗を滲ませた。蝉の残響が遠くで途切れ、月が低く石畳を青白く濡らしていた。寺の影が長く伸び、闇に溶けていく。
庭の隅の石に腰を下ろし、石畳に落ちる自分の影を、俺はただ見つめていた。
堂内から良宵と信楽様の低く響く声が漏れ聞こえた。
「洛外の童霊に呼ばれまして……すれば……」暫く静まり、信楽様の声が断片的に響く。
「……特定の神社には属さず、各地を遍歴し、祈祷や託宣を行う歩き巫女。梓弓を鳴らし神懸りで生霊や死霊を呼び出す……その神楽は、神と舞い遊ぶ仙人の如し、と……」
「まさにそのような……」
聞き取れない言葉の断片が、夏の風に混ざって耳をかすめた。
信楽様と良宵の話は、俺の理解を遠く超えていた。言葉が繋がらず、意味が霞んでいく。
まるで俺の居場所がここにないように思えた。
そっとその場を離れ、叢雲寺の門の外へと足を向けた。
外の空気はひんやりと冷たく、額に滲んだ汗を静かに冷ますように風がそよぐ。門の影が夜の闇に溶け、葉擦れの音が遠く響いた。胸の奥には収まらない焦燥がざわめいていた。
信楽様は、宵の一門でも第一の霊命力を秘め、教学のみならず法力の指導も担う。
叢海様でさえ、信楽様の霊命力は自分を超えると断言していた。
俺には、済衆行脚のうち、生きる者のために歩み、祈りを語る修行しか許されていない。
だが、良宵は信楽様と共に、陰の修行を歩む。死魂を導き、語られぬ闇に灯をともすその行脚を、俺は知らない。
一度、良宵が陰の行脚へ赴く前に声をかけたことがあった。だが、良宵はただ静かに微笑み、門をくぐって闇に消えた。
良宵はいつも多くを語らない。俺を何かから遠ざけるように、優しい微笑みでそっと拒む。その微笑みは、俺と良宵の間に聳える見えない壁のようだった。あの微笑みが、俺の祈りは届かぬと静かに告げていたのかもしれない。
良宵が向かう闇は、叢海様や信楽様さえ踏み込めぬ、果てなき因果の静寂に思えた。
それでも、俺は良宵の力になりたいと願ってしまう。良宵に何かあれば、一番に駆けつけたい――そんな祈りは、幼いのだろうか。あいつの光に手を伸ばすたび、俺の影は深くなるばかりだ。
――その時だった。
カラカラ、と何かが風に転がる音。枯れた竹が石畳を叩くような、乾いた響き。足音はない。だが、冷たい気配が背を撫で、声が耳元を掠めた。
「今宵の月は、闇さえ清める清浄な輝きを湛える――」
声は低く、夜の底から這い上がるようで、どこか愉しげだった。
得体の知れぬ闇の手触りが空気を震わせ、鼓動が乱れ、息が急かされる。
「されど、その冽々たる光ゆえ、秋の蛍の光は翳り、夜に消えゆくばかりだ。惜しいとは思わぬか、螢雪?」
胸がひとつ跳ねた。
振り返ると、月光の先に影が立っていた。
――般若鬼若。
その名を思い出した瞬間、背筋を凍らせるような古の記憶が脳裏を掠めた。
比叡の峰を焼いた炎、封じを裂いた刃、晴明の呪をも嘲る鬼の笑い――
断片的な伝承が、月光の閃きとともに蘇る。
般若面に似た顔が月を裂き、ゆっくりと笑んだ。
その瞬間、俺は知った――殺される、と。
再び背を向ければ、俺の命は瞬く間に消されるだろう。闇を照らすには心許ない俺自身の祈りに縋りつつ、咄嗟に法衣の内側へ手を差し入れ、数珠を引き出そうとした。
しかし布が手を噛み、紐が裂けた。玉が月光を反射して冷たく光り、石畳にバラバラと落ちる音が夜の静寂を裂いた。俺は落ちた数珠を追うように手を伸ばし、その一粒を掌に握りしめ、鬼若へ差し向けた。
鬼若の瞳が、散った数珠を静かに追い、俺の震える拳に注がれた。その視線は冷たく、されどどこか淡い好奇心を孕んでいるようだった。
「一粒の数珠を手に、麿に抗わんと欲するか?」
「俺には祈りがある。たった一粒であっても、祈ることはできる。それが、宵の一門の教えだ」
ほう、と鬼若が頷き、口元に薄い笑みを浮かべた。
「健気だな、螢雪よ。一粒の数珠に祈りを懸ける姿、愛おしきかな。そなたの灯は、天満月の僧の光を彷彿とさせる。されど、斯くも深い闇を前に、その祈りはなお揺らぐのではないか?」
その言葉に、心に虚無感が押し寄せた。
――俺は、知識にも、祈りにも、信仰にも、守られていないかもしれない。
理も、霊も、虚勢も――すべてが崩れそうだった。
それでも、手は拳を握る。残った数珠の一粒が、掌の中で小さな命のように震えていた。
「俺を喰らうのか? それとも、別の誰かを喰らいに来たのか?」
一瞬、鬼若の目尻が緩み、口元に、まるで古の慈悲を宿したような優しい笑みが浮かんだように見えた。
「怯えるでない、螢雪。麿が誰かの命を奪わんとして、ここに現れたわけではない。叢海と茶を酌み交わす約束があってな、今宵はそれゆえ参ったのだ」
その声は、静寂をそっと撫でた。鬼若の長い銀色の髪が夏の風に靡き、月光に揺れる影が、俺へと穏やかに近づいてきた。
鬼神が僧と茶を酌むなど、聞いたこともない。油断を誘い、俺を喰らう気か――そう疑わずにはいられなかった。
助けを求めるべきか―― 寺にはまだ幼い者もいる。無闇に事を荒立てて、皆を危険に晒すわけにはいかない。俺ひとりで、この場を乗り切らねばならなかった。
ふと、良宵の存在が脳裏を掠めた。陰の済衆行脚を歩んできた良宵ならば――名だたる封印の賢者らに並び、この古の闇を前にしても、その輝きを失うことはないのだろうか。
その疑問は、たちまち確信へと変わった。あの光ならば、闇を祓うに足ると。
「螢雪!」
高い声と共に石畳が鳴り、足音が夜の静けさを割く。月光に照らされて、天の輝きを纏った僧の姿――良宵が息を切らし、鬼若と俺の間に立ち塞がった。
「螢雪、 無事か?」
良宵の声は、僧の厳かさを帯びながら、清らかな水のように穏やかだった。
その目には、慈しみの中に、俺の無事を確かめる焦りが滲んでいた。
黙って頷いた俺の肩を、良宵は安堵の力で掴み、支えた。
「無事でよかった。お前に何かあれば、私の心が砕けてしまう」
良宵の気高い優しさが容赦なく差し込み、胸の奥に静かに突き刺さった。
良宵は俺を庇うように立ち、真正面から鬼若を見据えた。
鬼若が良宵に手を伸ばそうとした、その刹那に、良宵は九字を結び、夜気を裂く光を放った。その一連の動きは、まるで熟練の修行僧のように華麗だった。
鬼若は、九字の光に焼かれた自らの手と隙のない良宵とを、感慨を滲ませるように交互に見遣り、口元を綻ばせて言った。
「誉れ高き天満月の僧殿、厚遇に痛み入る」
「我が一門に何用だ、鬼若」
良宵の声は静かだが、刃のように揺るがなかった。
「約束ゆえに参ったのだ。叢海はおるか?」
鬼若は負傷した手を軽く擦り、薄く笑った。声は夜に溶け込むように低く響く。
「お師匠の命が目的か?」
良宵の問いに、鬼若は刹那、間を置いた。思案をめぐらせるように遠くを見やり、表情を微かに緩ませて良宵を見据えた。
「……ついでに、そなたの命も欲しいと申せば?」
鬼若の目が光り、銀髪が風に揺れる。その瞬間、空気が軋むような殺気が夜気を裂き、俺の肌を刺した。見えぬ刃が飛んできた錯覚に、俺は肩を震わせ、一歩後ずさった。
良宵は一歩も退かない。その瞳に宿った光は、天満月の輝きそのものだった。
「この良宵、鬼の言葉に心を乱すことなければ、そなたの所業、鬼神の闇を、ただ見過ごすつもりもない!」
その言葉は、光の刃となって鬼若の殺気を圧し、闇を切り開いた。
良宵の法衣が風に翻り、夜闇に清らかな輝きを放つ。
鬼若が刹那、目を細めた。その瞳に、慈しみのような揺らめき宿ったのは、俺の見間違えだろう。
鬼若の笑いが夜風に溶け、石畳を静かに震わせた。
俺は、良宵の背をただ見つめ、祈りが空を切るのを感じた。