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黒い靄の声

ー/ー



 翠藍は疲れを押し殺し、麓町を歩き続けた。
 一軒一軒、門を叩き、良宵のことを尋ねて回った。

 しかし、「龍華良宵?」と首を振る者や、「どこかで聞いたような名だが……」と曖昧な答えを返す者ばかりだった。

 良宵の存在がこの町に確かに感じられるのに、確かな手がかりは得られず、焦りと疲れが募る中、翠藍は最後の宿坊の門を叩いた。
 老僧が穏やかに戸を開け、翠藍に笑みを向けた。

「話なら中でお聞きしましょう。どうぞお入りください」

 囲炉裏の火が暖かく迎え入れたが、翠藍の心は冷たく沈んだままだった。
 光治との出会いが一瞬の安らぎを与えたとしても、良宵の行方を確かめるまでは休息など許されないと感じていた。

 老僧が茶を差し出し、翠藍の前に置いた。彼女は頭を下げ、縋るように問いかけた。

「お尋ねします。龍華良宵という修行僧をご存じですか? 十五……今は十七になっている若い僧です。高野山へ修行に来た際、この麓町を通ったはずです」

 老僧は穏やかな笑みを浮かべた。

「もちろん知っておりますよ。京の叢雲寺から来た良宵殿のことでしょう」

 翠藍の心に希望が灯った。

「ご存じなのですね?」
「彼は麓町の人々からも大層好かれておりましてな。だが、名を名乗らず去ることも多かったゆえ、いろんな呼び名で知られておるのですよ」

 良宵らしい、と翠藍は思った。
 人々のために尽くしながら、名を残さず去るその姿に、彼の優しさが重なる。
 香袋をきゅっと握り、すぐそばに良宵の存在を感じて胸が震えた。

「良宵様は今どこに? 最近こちらに来られたのはいつですか?」

 老僧は静かに首を振った。

「いや……良宵殿を見たのは、地震の前だ。山奥にこもっておるのか、地震で命を落としたのか……噂も飛ばぬな。彼なれば人々を救いに来そうなものだが……いや、わしも知らぬよ」

 
 翠藍の笑顔が凍りついた。
 希望の光が一瞬で砕け、視界が暗く覆われた。

 良宵の笑顔が浮かんだが、それはまるで遠い冬の霧に閉ざされたように、冷たく揺らいだ。

 旅の疲れが一気に襲い、翠藍はよろめく体を手で支え、息を呑み、膝から力が抜けるように座り込んだ。
 香袋を握る手に力が入らず、唇が小さく震え、言葉にならない呟きが漏れた。

「一体、何のために……」

 呟きが宿坊の囲炉裏に吸い込まれ、火の揺らめきが彼女の影を長く伸ばした。

 何の為に、わたくしはここまで彼を信じて来たのか。

 夜道を走り
 父の愛を振り切り
 九度山まで来たこの旅は

 ただの儚い夢だったのか。

 心の奥で、運命への不信が小さな棘となって刺さる。

 その瞬間、窓の外で秋風が木々を揺らし、紅葉が静かに舞い落ちた。

 遠くの川の音が、凍てつく霧のように彼女の心を閉ざす。
 どこか遠くで、黒い(もや)の存在が大きくなっていく。

 老僧は翠藍の様子を察し、心配そうに言った。

「どこから来なさったのかは知りませぬが、大層疲れておいででしょう。じきに陽が暮れまするゆえ、今夜はここで休んでおいきなさい」

 老僧は静かに目を伏せ、囲炉裏の火を見つめた。翠藍は言葉を返す気力もなく、ただ小さく頷いた。
 囲炉裏の火が暖かくても、彼女の心は凍てついたままだった。

 翠藍は呆然と座り込み、繰り返し心で呟いた。

「良宵様、どうして……わたくしを置いていかれたのですか……」

 胸の奥で膨らむ痛みが、黒髪の女の囁きと共鳴するようだった。

『そなたの心の奥底に眠る真実は、何を求めているのですか?』

 翠藍は目を閉じた。
 知りたかったのだ——良宵の約束が真実だったのかを。
 あの笑顔と再会できる瞬間がくることを、信じたかった。

 だが、今、希望の灯は消え、彼女は迷子になった。

 その時、宿坊の門を叩く音がした。
 重い足音が複数近づき、扉が開かれると、そこには父、頼重が立っていた。
 従者たちを連れ、秋の冷たい風に吹かれながら、娘を捜し求めていたのだ。

「翠藍、帰るぞ」

 頼重の声は静かだが、娘への深い愛情が滲んでいた。

 翠藍は床の一点を見つめ、動けなかった。
 ぼろぼろになった姿に、頼重の胸が締め付けられる。

 彼は静かに歩み寄り、翠藍を強く抱きしめた。
 だらりと力を失った翠藍は、父の腕に身を委ねた。

 頼重は娘を抱きかかえ、老僧に深く頭を下げ、宿坊を後にした。

 ―― 頼重が手綱を引く馬に揺られながら、翠藍は和歌の浦への帰路についた。
強い風が紅葉の葉を空高くに舞わせる。それは、まるで彼女の心の奥に閉じ込めた良宵への想いを、風がそっと掬い上げ、遠くに運んでいくようだった。

 馬の足音が静かに響く中、翠藍は呆然と流れる景色に目を向けていた。風に吹かれて、翠藍の艶のある黒髪が靡く。

 秋の空気は冷たかったが、父の腕の中で、彼女は消えてしまった良宵の想いを集めるように、そっと目を閉じた。
 良宵の笑顔が脳裏に浮かび、想い続けた彼の温もりが心を包み込む。だが、その笑顔が遠ざかるように、胸の奥底から黒い靄が忍び寄り、囁く。

『お前を裏切る……お前を裏切る』

 翠藍の胸が冷たく締まり、まるで心が闇に呑まれるようだった。彼女は小さく息を吐き、父の温もりに身を委ねた。
 体から力が抜けていき、思考を巡らせることすら、酷い疲労を感じる。

 黒い靄が心の奥から静かに広がり、まるで冬の雪のように彼女の心を凍てつかせていくようだった。

* * *

 ―― 雪が静かに降り積もり、縁側の欄干に白く積もる中、翠藍の心もまた、凍てついた雪のように冷え切っていた。

 九度山から戻った翠藍の心は、静かな喪失に支配されていた。

 彼女は力無く香袋を握りしめ、その微かな香りが彼女の心に微かに残る温もりを呼び起こす。

 縁側に腰を下ろして虚ろな目で遠くを眺めるだけの日々。
 心の中で何度も良宵の名を呟くが、その声は空しく響き、かつて己の心に燈っていた希望の灯は、すでに消え失せていた。

 彼女の胸の奥では、良宵への淡い想いで微かに揺らいでいた。

 頼重は翠藍の幸福と未来を願い、紀州徳川家との縁談を進めた。
 雪解けを待つ春に嫁ぐことが決まっている。

 翠藍は父の愛情を誰よりも理解していた。
 父が選んだ相手なら、きっと間違いはないのだろう。

 嫁ぐことで良宵を忘れ、幸せになれるかもしれないと自分に言い聞かせた。良宵への想いを封じ込め、父の望む道を歩めばいいのだと、そう思えばいいと……諦めたはずなのに。彼女の心は静かに軋む。

 翠藍の心は揺れていた。良宵への想いを封じ込めようとしても、その想いが軋み、胸を鉛のように重くした。

 列帖帳が風に揺られ、ぱらぱらとめくられた。いつだったか、春に挟んだ桜の花弁が、色褪せたまま頁から零れ、畳に落ちた。形なき良宵の『約束』を信じたい願いが、目の前に儚く現れる。

 翠藍の瞳から、涙が零れ落ちる。

(——忘れることなど、できるはずがない)

 とめどなく溢れる想いを抑えきれず、翠藍は口を覆った。
 涙が大きな粒となって頬を伝い、むせび泣く声が手のひらから漏れた。だが、心の奥で、別の声が響く

( ——この想いを手放せば、楽になれるかもしれない)

 父の望む道を歩めば、苦しみから解放されるかもしれない。
 けれど、それは自分の心を裏切ることではないのか?


 ——己の心に真っ直ぐに生きることは、存外難しいものだ。だが、それでも己を貫く姿は、何よりも美しく尊ばれるものだと俺は思っている。

 光治の言葉が、まるで山間の風が木々を揺らすように、彼女の胸にそっと吹き込み、凍てついた心を溶かそうとした。
 翠藍は香袋を握りしめ、震える足で一瞬立ち上がった。

「わたくしは……良宵様を信じたい」

その声は、誰にも届かぬ叫びだった。
翠藍の瞳に光が宿った。

 彼女は唇を噛みしめ、抑えきれぬ想いが胸の中で渦巻くのを感じた。風が頬を撫で、彼女の髪を揺らす中、翠藍は初めて自分の心に、確かに触れた気がしたのだ。

 良宵への想いと光治の温かく強い言葉が、彼女の心の氷を溶かそうとしていた。
だが、その瞬間、背後で衣擦れの音が微かに響いた。

 黒髪の女が音もなく近づいてきた。
 凍てつく息が首筋に触れ、彼女の声が冷たい風のように耳元で囁く。

『―― そうやって過去に縋るのですか?』

 彼女の声が冷たい風のように耳元で囁き、翠藍の心が溶けるのを阻止する。
 女の目は鋭く光り、心の奥底を見透かすようだった。
 彼女がそこにいるだけで、部屋の空気が冷たく重くなり、翠藍の周りに影が広がった。

 女は唇を翠藍の耳元へ寄せて、囁いた。

『……まだ、希望を夢見るの……? 忘れられぬ苦しみを抱え、その苦に愛だの恋だのと期待を宿し、また自身で苦しむのですか? 愚かな者よ。あの方はそなたを置いて逝ってしまった…… ならば、いっそすべてを焼き尽くしてしまえば、苦しみから解放されるのに……』

 凍てつく息が首筋に触れる。
 翠藍は涙に濡れた顔を上げ、香袋を握りしめた。

 この声を聞いてはいけない。
 翠藍は手で耳を覆うとするが、女の冷たい手がするりと伸びて、翠藍の手に触れた。

『……燃やしてしまえばいいのに。そなたが手に持つ、この執着を』

 翠藍の手には香袋。
 雪の日に良宵から手渡された、彼女の宝。

 この二年間……片時も手放した事は無かった。
 この香袋こそが、良宵の約束を証明する『形』であった。

 これは自分と良宵を繋ぐ、最後の絆だ。
 香袋を手放せば、良宵の面影すらも消え去り、彼との約束も、彼の香りも……本当の幻に変わってしまう。

 彼女は強く首を振ると、香袋を胸に抱き寄せた。これだけは、絶対手放すわけにはいかない。
 翠藍の行動を見て、黒髪の女の目が細まる。

『その香袋を燃やせば終わりにできるのに……そなたの迷いも、儚い夢も、彼への執着も、すべて灰となって消えるのに……そなたは苦しむ為に生まれたわけではないのでしょう? 手放す勇気を持てば、そなたは自由になれるのです。その希望は執着であり、そなたを縛る鎖にすぎないと、気付くのです』

 それまで冷たく思えた黒髪の女の言葉に、深い優しさを感じた気がした。
 女の言葉が、まるで神の教えのように、翠藍の心に深く染み渡った。
 翠藍は女の言葉に耳を傾けてしまった。

『苦しむのはおやめなさい。形あるものは、いずれ灰となるのです。しがみつくのも終わりにしなさい。執着を捨てるのです』

 胸を焦がす様な、この想いは全て執着だというのだろうか。
 流れる四季の中で彼を待ったあの日々も、必死に夜道を走り九度山へ向かったあの行動も、全て……良宵に執着するが故の、醜い行動だったと。

 彼の死を受け入れられず、足掻いて苦しみ抜いた果てには…… 一体、何が残るのだろう。

 翠藍の中で、最後の綱が切れた気がした。

 翠藍は黒い(もや)の声に導かれる様に立ち上がり、縁側から囲炉裏へとよろめきながら歩を進めた。

 囲炉裏の火が、静かに揺れている。翠藍は香袋を見つめ、良宵の声を思い出した。

 あの秋の日、彼の約束が遠い波のように心に響き、胸を締め付けた。


 ——必ず、迎えに来ます。

 その言葉が、凍てつく霧の中でかすかに揺らぐ。
 信じたい。まだ信じたい。けれど、九度山の冷たい闇が、彼女の心に虚無を刻み込んでいた。

 わたくしは、もう彼を待つ自分を信じられないのかもしれない。

 翠藍の瞳が、香袋の上で揺れた。
 黒髪の女が耳元で囁く。まるで心の奥底を切り裂く刃のように、冷たく鋭く。


——いいえ、彼はそなたを迎えにきてはくれなかった。


 翠藍は小さく首を振った。
 だが、女の言葉が脳裏に残響し、彼女の意志を飲み込んでいく。
 香袋を持った手が震え、囲炉裏の火にゆっくりと差し出された。

 火が香袋を飲み込み、激しい炎が立ち上がる。
 香りが一瞬、冬の霜を溶かすように部屋に広がり、やがて焦げ臭い煙へと消えた。

 翠藍の体が震え、強い罪悪感に襲われたが、同時に血の気が引くような冷たさが心を凍てつかせていった。

 翠藍は自分自身の心を殺したのかもしれない。

 黒髪の女が背後に立ち、翠藍の耳元で高らかに笑った。
 その笑い声が、凍てつく風のように翠藍の心に冷たく響く。

 だが、彼女の声が、今はなぜだか心地よかった。

『そう、それでいいのです。己を貫くことが美しい? 信念など持つから人は苦しむのです。所詮、藤崎の血は闇を背負う定めなのに……』

 翠藍は黒髪の女の声に耳を傾け、心を預けた。その瞬間、彼女の中で光が砕け散り、闇が完全に包み込んだ。

 燃え尽きた香袋の灰が風に舞い、彼女の周囲を覆う。


 もう、何も見えない。

 何も感じられない。

 でも感じる必要は無かったのだと、翠藍は己の心を納得させた。

 彼女はただ、瞼の裏に広がる深い闇に身を委ねた。

 その闇は、冬の雪のように彼女の心を静かに覆い、すべてを飲み込んでいくようだった。


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 翠藍は疲れを押し殺し、麓町を歩き続けた。
 一軒一軒、門を叩き、良宵のことを尋ねて回った。
 しかし、「龍華良宵?」と首を振る者や、「どこかで聞いたような名だが……」と曖昧な答えを返す者ばかりだった。
 良宵の存在がこの町に確かに感じられるのに、確かな手がかりは得られず、焦りと疲れが募る中、翠藍は最後の宿坊の門を叩いた。
 老僧が穏やかに戸を開け、翠藍に笑みを向けた。
「話なら中でお聞きしましょう。どうぞお入りください」
 囲炉裏の火が暖かく迎え入れたが、翠藍の心は冷たく沈んだままだった。
 光治との出会いが一瞬の安らぎを与えたとしても、良宵の行方を確かめるまでは休息など許されないと感じていた。
 老僧が茶を差し出し、翠藍の前に置いた。彼女は頭を下げ、縋るように問いかけた。
「お尋ねします。龍華良宵という修行僧をご存じですか? 十五……今は十七になっている若い僧です。高野山へ修行に来た際、この麓町を通ったはずです」
 老僧は穏やかな笑みを浮かべた。
「もちろん知っておりますよ。京の叢雲寺から来た良宵殿のことでしょう」
 翠藍の心に希望が灯った。
「ご存じなのですね?」
「彼は麓町の人々からも大層好かれておりましてな。だが、名を名乗らず去ることも多かったゆえ、いろんな呼び名で知られておるのですよ」
 良宵らしい、と翠藍は思った。
 人々のために尽くしながら、名を残さず去るその姿に、彼の優しさが重なる。
 香袋をきゅっと握り、すぐそばに良宵の存在を感じて胸が震えた。
「良宵様は今どこに? 最近こちらに来られたのはいつですか?」
 老僧は静かに首を振った。
「いや……良宵殿を見たのは、地震の前だ。山奥にこもっておるのか、地震で命を落としたのか……噂も飛ばぬな。彼なれば人々を救いに来そうなものだが……いや、わしも知らぬよ」
 翠藍の笑顔が凍りついた。
 希望の光が一瞬で砕け、視界が暗く覆われた。
 良宵の笑顔が浮かんだが、それはまるで遠い冬の霧に閉ざされたように、冷たく揺らいだ。
 旅の疲れが一気に襲い、翠藍はよろめく体を手で支え、息を呑み、膝から力が抜けるように座り込んだ。
 香袋を握る手に力が入らず、唇が小さく震え、言葉にならない呟きが漏れた。
「一体、何のために……」
 呟きが宿坊の囲炉裏に吸い込まれ、火の揺らめきが彼女の影を長く伸ばした。
 何の為に、わたくしはここまで彼を信じて来たのか。
 夜道を走り
 父の愛を振り切り
 九度山まで来たこの旅は
 ただの儚い夢だったのか。
 心の奥で、運命への不信が小さな棘となって刺さる。
 その瞬間、窓の外で秋風が木々を揺らし、紅葉が静かに舞い落ちた。
 遠くの川の音が、凍てつく霧のように彼女の心を閉ざす。
 どこか遠くで、黒い靄《もや》の存在が大きくなっていく。
 老僧は翠藍の様子を察し、心配そうに言った。
「どこから来なさったのかは知りませぬが、大層疲れておいででしょう。じきに陽が暮れまするゆえ、今夜はここで休んでおいきなさい」
 老僧は静かに目を伏せ、囲炉裏の火を見つめた。翠藍は言葉を返す気力もなく、ただ小さく頷いた。
 囲炉裏の火が暖かくても、彼女の心は凍てついたままだった。
 翠藍は呆然と座り込み、繰り返し心で呟いた。
「良宵様、どうして……わたくしを置いていかれたのですか……」
 胸の奥で膨らむ痛みが、黒髪の女の囁きと共鳴するようだった。
『そなたの心の奥底に眠る真実は、何を求めているのですか?』
 翠藍は目を閉じた。
 知りたかったのだ——良宵の約束が真実だったのかを。
 あの笑顔と再会できる瞬間がくることを、信じたかった。
 だが、今、希望の灯は消え、彼女は迷子になった。
 その時、宿坊の門を叩く音がした。
 重い足音が複数近づき、扉が開かれると、そこには父、頼重が立っていた。
 従者たちを連れ、秋の冷たい風に吹かれながら、娘を捜し求めていたのだ。
「翠藍、帰るぞ」
 頼重の声は静かだが、娘への深い愛情が滲んでいた。
 翠藍は床の一点を見つめ、動けなかった。
 ぼろぼろになった姿に、頼重の胸が締め付けられる。
 彼は静かに歩み寄り、翠藍を強く抱きしめた。
 だらりと力を失った翠藍は、父の腕に身を委ねた。
 頼重は娘を抱きかかえ、老僧に深く頭を下げ、宿坊を後にした。
 ―― 頼重が手綱を引く馬に揺られながら、翠藍は和歌の浦への帰路についた。
強い風が紅葉の葉を空高くに舞わせる。それは、まるで彼女の心の奥に閉じ込めた良宵への想いを、風がそっと掬い上げ、遠くに運んでいくようだった。
 馬の足音が静かに響く中、翠藍は呆然と流れる景色に目を向けていた。風に吹かれて、翠藍の艶のある黒髪が靡く。
 秋の空気は冷たかったが、父の腕の中で、彼女は消えてしまった良宵の想いを集めるように、そっと目を閉じた。
 良宵の笑顔が脳裏に浮かび、想い続けた彼の温もりが心を包み込む。だが、その笑顔が遠ざかるように、胸の奥底から黒い靄が忍び寄り、囁く。
『お前を裏切る……お前を裏切る』
 翠藍の胸が冷たく締まり、まるで心が闇に呑まれるようだった。彼女は小さく息を吐き、父の温もりに身を委ねた。
 体から力が抜けていき、思考を巡らせることすら、酷い疲労を感じる。
 黒い靄が心の奥から静かに広がり、まるで冬の雪のように彼女の心を凍てつかせていくようだった。
* * *
 ―― 雪が静かに降り積もり、縁側の欄干に白く積もる中、翠藍の心もまた、凍てついた雪のように冷え切っていた。
 九度山から戻った翠藍の心は、静かな喪失に支配されていた。
 彼女は力無く香袋を握りしめ、その微かな香りが彼女の心に微かに残る温もりを呼び起こす。
 縁側に腰を下ろして虚ろな目で遠くを眺めるだけの日々。
 心の中で何度も良宵の名を呟くが、その声は空しく響き、かつて己の心に燈っていた希望の灯は、すでに消え失せていた。
 彼女の胸の奥では、良宵への淡い想いで微かに揺らいでいた。
 頼重は翠藍の幸福と未来を願い、紀州徳川家との縁談を進めた。
 雪解けを待つ春に嫁ぐことが決まっている。
 翠藍は父の愛情を誰よりも理解していた。
 父が選んだ相手なら、きっと間違いはないのだろう。
 嫁ぐことで良宵を忘れ、幸せになれるかもしれないと自分に言い聞かせた。良宵への想いを封じ込め、父の望む道を歩めばいいのだと、そう思えばいいと……諦めたはずなのに。彼女の心は静かに軋む。
 翠藍の心は揺れていた。良宵への想いを封じ込めようとしても、その想いが軋み、胸を鉛のように重くした。
 列帖帳が風に揺られ、ぱらぱらとめくられた。いつだったか、春に挟んだ桜の花弁が、色褪せたまま頁から零れ、畳に落ちた。形なき良宵の『約束』を信じたい願いが、目の前に儚く現れる。
 翠藍の瞳から、涙が零れ落ちる。
(——忘れることなど、できるはずがない)
 とめどなく溢れる想いを抑えきれず、翠藍は口を覆った。
 涙が大きな粒となって頬を伝い、むせび泣く声が手のひらから漏れた。だが、心の奥で、別の声が響く
( ——この想いを手放せば、楽になれるかもしれない)
 父の望む道を歩めば、苦しみから解放されるかもしれない。
 けれど、それは自分の心を裏切ることではないのか?
 ——己の心に真っ直ぐに生きることは、存外難しいものだ。だが、それでも己を貫く姿は、何よりも美しく尊ばれるものだと俺は思っている。
 光治の言葉が、まるで山間の風が木々を揺らすように、彼女の胸にそっと吹き込み、凍てついた心を溶かそうとした。
 翠藍は香袋を握りしめ、震える足で一瞬立ち上がった。
「わたくしは……良宵様を信じたい」
その声は、誰にも届かぬ叫びだった。
翠藍の瞳に光が宿った。
 彼女は唇を噛みしめ、抑えきれぬ想いが胸の中で渦巻くのを感じた。風が頬を撫で、彼女の髪を揺らす中、翠藍は初めて自分の心に、確かに触れた気がしたのだ。
 良宵への想いと光治の温かく強い言葉が、彼女の心の氷を溶かそうとしていた。
だが、その瞬間、背後で衣擦れの音が微かに響いた。
 黒髪の女が音もなく近づいてきた。
 凍てつく息が首筋に触れ、彼女の声が冷たい風のように耳元で囁く。
『―― そうやって過去に縋るのですか?』
 彼女の声が冷たい風のように耳元で囁き、翠藍の心が溶けるのを阻止する。
 女の目は鋭く光り、心の奥底を見透かすようだった。
 彼女がそこにいるだけで、部屋の空気が冷たく重くなり、翠藍の周りに影が広がった。
 女は唇を翠藍の耳元へ寄せて、囁いた。
『……まだ、希望を夢見るの……? 忘れられぬ苦しみを抱え、その苦に愛だの恋だのと期待を宿し、また自身で苦しむのですか? 愚かな者よ。あの方はそなたを置いて逝ってしまった…… ならば、いっそすべてを焼き尽くしてしまえば、苦しみから解放されるのに……』
 凍てつく息が首筋に触れる。
 翠藍は涙に濡れた顔を上げ、香袋を握りしめた。
 この声を聞いてはいけない。
 翠藍は手で耳を覆うとするが、女の冷たい手がするりと伸びて、翠藍の手に触れた。
『……燃やしてしまえばいいのに。そなたが手に持つ、この執着を』
 翠藍の手には香袋。
 雪の日に良宵から手渡された、彼女の宝。
 この二年間……片時も手放した事は無かった。
 この香袋こそが、良宵の約束を証明する『形』であった。
 これは自分と良宵を繋ぐ、最後の絆だ。
 香袋を手放せば、良宵の面影すらも消え去り、彼との約束も、彼の香りも……本当の幻に変わってしまう。
 彼女は強く首を振ると、香袋を胸に抱き寄せた。これだけは、絶対手放すわけにはいかない。
 翠藍の行動を見て、黒髪の女の目が細まる。
『その香袋を燃やせば終わりにできるのに……そなたの迷いも、儚い夢も、彼への執着も、すべて灰となって消えるのに……そなたは苦しむ為に生まれたわけではないのでしょう? 手放す勇気を持てば、そなたは自由になれるのです。その希望は執着であり、そなたを縛る鎖にすぎないと、気付くのです』
 それまで冷たく思えた黒髪の女の言葉に、深い優しさを感じた気がした。
 女の言葉が、まるで神の教えのように、翠藍の心に深く染み渡った。
 翠藍は女の言葉に耳を傾けてしまった。
『苦しむのはおやめなさい。形あるものは、いずれ灰となるのです。しがみつくのも終わりにしなさい。執着を捨てるのです』
 胸を焦がす様な、この想いは全て執着だというのだろうか。
 流れる四季の中で彼を待ったあの日々も、必死に夜道を走り九度山へ向かったあの行動も、全て……良宵に執着するが故の、醜い行動だったと。
 彼の死を受け入れられず、足掻いて苦しみ抜いた果てには…… 一体、何が残るのだろう。
 翠藍の中で、最後の綱が切れた気がした。
 翠藍は黒い靄《もや》の声に導かれる様に立ち上がり、縁側から囲炉裏へとよろめきながら歩を進めた。
 囲炉裏の火が、静かに揺れている。翠藍は香袋を見つめ、良宵の声を思い出した。
 あの秋の日、彼の約束が遠い波のように心に響き、胸を締め付けた。
 ——必ず、迎えに来ます。
 その言葉が、凍てつく霧の中でかすかに揺らぐ。
 信じたい。まだ信じたい。けれど、九度山の冷たい闇が、彼女の心に虚無を刻み込んでいた。
 わたくしは、もう彼を待つ自分を信じられないのかもしれない。
 翠藍の瞳が、香袋の上で揺れた。
 黒髪の女が耳元で囁く。まるで心の奥底を切り裂く刃のように、冷たく鋭く。
——いいえ、彼はそなたを迎えにきてはくれなかった。
 翠藍は小さく首を振った。
 だが、女の言葉が脳裏に残響し、彼女の意志を飲み込んでいく。
 香袋を持った手が震え、囲炉裏の火にゆっくりと差し出された。
 火が香袋を飲み込み、激しい炎が立ち上がる。
 香りが一瞬、冬の霜を溶かすように部屋に広がり、やがて焦げ臭い煙へと消えた。
 翠藍の体が震え、強い罪悪感に襲われたが、同時に血の気が引くような冷たさが心を凍てつかせていった。
 翠藍は自分自身の心を殺したのかもしれない。
 黒髪の女が背後に立ち、翠藍の耳元で高らかに笑った。
 その笑い声が、凍てつく風のように翠藍の心に冷たく響く。
 だが、彼女の声が、今はなぜだか心地よかった。
『そう、それでいいのです。己を貫くことが美しい? 信念など持つから人は苦しむのです。所詮、藤崎の血は闇を背負う定めなのに……』
 翠藍は黒髪の女の声に耳を傾け、心を預けた。その瞬間、彼女の中で光が砕け散り、闇が完全に包み込んだ。
 燃え尽きた香袋の灰が風に舞い、彼女の周囲を覆う。
 もう、何も見えない。
 何も感じられない。
 でも感じる必要は無かったのだと、翠藍は己の心を納得させた。
 彼女はただ、瞼の裏に広がる深い闇に身を委ねた。
 その闇は、冬の雪のように彼女の心を静かに覆い、すべてを飲み込んでいくようだった。