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紅葉、ひとひら旅立つ夜

ー/ー



 ―― 紅葉が藤崎家の庭に舞う頃、和歌の浦は宝永の地震の傷跡を癒しつつあった。
 紀ノ川の濁りは静かに残り、町は復旧の槌音に響くも、市場に笑顔が戻り、春のワスレナソウが町民の庭に根づいた。

 重臣・藤崎頼重は、旧家の名を背負う家老として、娘を父の部屋へ呼び寄せた。

 翠藍は静かに障子を開け、燭台の灯りが揺れる部屋を進む。
 床の間に紅葉の影が映り、父の厳粛な表情と低い視線が静かな威圧を漂わせた。

 香袋を握る指先が震え、胸にそよぐ不安が遠い約束を冷たく囁く。

「紀州徳川家、藩主・徳川吉宗公から縁談の申し出が参った。殿が自ら望まれたものだ。そなたの慈悲が地震の傷を癒し、その名が和歌山城に響いた。そなたの未来、藤崎家の再興を考えても、これ以上の縁はない。吉宗公は我が家の呪いの曰くも全て承知の上で、そなたを妻にと仰り、そなたの心を癒す縁とわしは願う」

 翠藍は目を伏せた。
 指先がわずかに震え、良宵の約束と父の言葉の間で心が揺れていた。

「父上、とても光栄に存じます。ですが、良宵様は仰いました。必ず迎えに来ると。それを信じて待っていたいのです」

 頼重は、馬鹿な、という言葉を飲み込んだ。娘が哀れに思えたからだ。
 淡い想いを抱いているだけだと頼重は思っていたが、どうやら娘は思い違いをしているらしい。
 目を細め、声を抑える。

「翠藍、そなたの心は分かる。父として、そなたの幸せを願わぬ日はなかった。今もそうだ。だが、これ以上の縁談があると思うか? 吉宗公が望まれた縁なのだぞ」
「重々承知しております。ですが……」

 頼重は声を荒げ、翠藍の言葉を遮る。

「高野の山は命をも削る修行の地、地震の傷が山を閉ざし、噂では僧の命も奪われた! 例え無事であろうと、良宵殿は俗世を捨てた修行僧ぞ!」

 翠藍の瞳が揺れる。
 彼女は唇噛んで涙を堪え、頼重の瞳を真っ直ぐ見つめた。

「父上、わたくし、良宵様の無事を確かめたいのです。どうか、高野山の麓……九度山(くどやま)へ……」

 彼女は震える手で指を畳に付き、深く頭を下げた。
 冷たい畳に触れる指が、胸の疼きを深める。

 頼重は娘の震える肩を見て、畳を掴むように手を握りしめた。
 声がわずかに震える。藤崎の名を背負う者として、娘を危険な道に踏み出させるわけにはいかなかった。

「……いや、今、そなたを離すことはできぬ」

 頼重は静かに、だが抑えきれぬ思いを込めて言った。
 翠藍は顔を上げ、父の固い表情を見つめた。

 父は胡坐を掻く膝に手を重ね、その手を握りしめた。
 拳がわずかに震え、畳に影を落とす。

「吉宗公はそなたの微笑みを愛し、呪いの闇すら抱く慈悲深いお方だ。わしは、その慈悲に縋り、そなたを必ず幸せにしたい。父として、そなたの笑顔を守るため、是が非でもだ」

 翠藍は父の震える手を見つめ、その指先から溢れる愛情の重さに胸を締め付けられた。

 香袋の感触が疼く。

 父がどれほど彼女を愛し、旧家の呪いと戦ってきたか、痛いほど分かる。
 藤崎の重臣として藩政を支え、病に伏す彼女を案じ続けた父の心を、翠藍は知っている。

 だから、彼女の瞳に涙が滲み、良宵の遠い約束が星屑のように揺れた。

 翠藍は瞼を伏せて静かに頷いた。
 頼重は重く息を吐き、翠藍の肩に手を乗せて部屋を出て行った。
 翠藍は窓から見える空に目線を映した。

 夕暮れの紅さがほんのりと遠くに残り、紅葉の影が揺れる中、冷たい風が障子をそっと揺らし、空が暮れていった。


 ——その夜、翠藍は眠りにつけぬまま、香袋を胸に抱きしめていた。

 父の言葉が重くのしかかり、昼の拒絶が胸に響く。
 良宵の約束が遠い夢のように揺れ、香袋の温もりが心の奥で疼く。

 地震の噂——高野山の堂塔が倒れ、山道が崩れた。
 良宵様は無事なのか、その不安が胸を締める。

 部屋の闇が深まる中、冷たい風が障子をそっと揺らし、彼女の耳に静かな声が響いた。

『―― 九度山へ行くのです』

 翠藍は驚き、布団から体を起こした。

「誰です?」

 声はどこからともなく聞こえ、部屋の隅に黒い靄が揺らめいているように見えた。 
 翠藍は目を凝らしたが、その瞬間、部屋の空気がわずかに重くなった気がした。

「お前は、私の夢見に出て来た女ですね。藤崎家を呪う大蛇ですか?」

 翠藍は不思議と恐怖を感じなかった。
 真っ直ぐ黒い靄に向かって問うと、靄はゆっくりと形を変え始めた。

 闇から長い髪が現れ、まるで水面に浮かぶ墨のように広がった。

 やがて、髪に覆われた顔を持つ女の姿が浮かび上がり、その姿は古い絵巻物から抜け出たように美しかった。
 顔を覆う髪の隙間から、冷たい瞳と影のような笑みが滲む。

『高野山の麓へ行くのです。そして真実を確かめればいい』
「ですが……」

 翠藍は言葉を詰まらせる。
 父の必死な姿が目に焼き付いて離れず、胸が締め付けられるようだった。

『真実を確かめぬまま、徳川の嫁になるおつもりですか? もし、あの方が約束を守って現れた時、そなたの心が後悔で裂けるのを耐えられるのですか?』

 翠藍の眉が微かに動き、胸の奥で小さな疼きが広がった。
 彼女は香袋を握り、唇を噛んだ。

 もし、良宵様が無事で、わたくしのことを想ってあの約束を守って迎えに来てくださった時、わたくしが藤崎家の姫ではなくなっていたら……彼を裏切ることになるのではないかと、心が裂けるように痛んだ。

 黒髪の女は、翠藍の揺れる心を静かに見つめていた。その瞳には、まるで翠藍の魂を覗き込むような冷たい光が宿り、彼女の存在は不思議な重みを放っていた。

 翠藍の胸に秘められた思いが、ついに言葉となって溢れ出す。

「武家の娘として生まれたわたくしに、己の心に生きる自由など許されるのでしょうか……。父上の愛に報いるため、家を背負う覚悟はできております。良宵様の約束の言葉は、遠い星の光のよう…… 届かぬと知りつつ、わたくしは手を伸ばさずにはいられないのです」

 翠藍は思わず息を呑み、香袋をぎゅっと握りしめた。

『そなたの心の奥底に眠る真実は、何を求めているのですか?』

 女の声が響き、翠藍は答えた。

「わたくしは知りたいのです。あの約束が真実であったのかを。たとえ高野山に入れずとも、せめて麓で……あの方の御無事を知りたいのです」

 翠藍の声は純粋な叫びとなり、長い間抑え込んできた感情が解き放たれたようだった。

 黒髪の女は小さく微笑み、その答えを待っていたかのように穏やかに頷いた。

 黒髪の女は、瞳に読めぬ光を湛えながら、ゆっくりと屋敷の外へと指を差し伸べた。
 その仕草は挑戦であり、誘いでもあった。
 翠藍を未知の世界へと踏み出させる、静かな力に満ちていて、彼女に決意を固めさせた。

 翠藍は上着を羽織り、息を潜めて障子を開けた。
 彼女の心臓は高鳴り、夜の静寂が耳に痛いほどだった。
 従者を連れず、深夜の屋敷を静かに抜け出した。

* * *

 夜は静寂に包まれ、ただ彼女の足音だけが響き合った。目指すは九度山。高野山への入り口となるその地へ、翠藍はひたすら走った。
 枯れ葉が道に散り、彼女の足元で小さく音を立てた。

 一歩ごとに、心に刻まれた真実を追い求める強い意志が彼女を突き動かしていた。

 冷たい風が頬を刺し、懐の香袋が微かに温もりを感じさせた。
 月光が細く道を照らし、彼女の影を長く伸ばす。足元の枯れ葉が砕ける音が、静寂の中で不穏に響いた。

 九度山への道は遠く、険しい。漁村を抜けて和歌の浦の波音は遠ざかり、森の縁を縫う道を歩き続けた。

 翠藍の心臓はまだ高鳴り、頭の中では黒髪の女の冷たい光を宿した瞳がちらつく。

 あの仕草が、彼女をここまで突き動かしたのだ。

 良宵の声が聞こえた気がして振り返るが、そこにはただ秋の夜の深い闇があるだけだった。
 しかし、翠藍は歩を進めた。燃えるような決意と、どこか冷えていく予感が交錯する。

 明かりを頼りに進んだが、深い闇に道標は見えず、ついに立ち尽くした。
冷たい秋風が頬を撫で、上着を引き寄せると、不安が胸に広がった。
 その時、後ろから行燈の灯りが揺らめき、木々の間を縫って近づいてきた。

 翠藍の心臓が早鐘を打ち、恐怖に足がすくんだ。野盗か、獣か——息を潜めると、静かな足音が聞こえた。

「失礼、拙者は旅の者で、名は光治(みつじ)と申す。この様な夜更けにどこへ行かれるのだろうか?」

 落ち着いた声が闇を切り裂いた。目を凝らすと、行燈を手にした青年が立っていた。質素な旅装に身を包み、腰に差した刀と背筋を伸ばした立ち姿には武士の風格が漂う。

 月明かりと行燈の灯りが彼の顔を照らし、穏やかな目元に温かさが宿っていた。
 翠藍は一瞬警戒したが、その声と姿に敵意がないことを感じ、少し肩の力を抜いた。

「九度山へ向かう旅の者で、名は……(あい)と申します……」

 翠藍が慎重に答えた。
 屋敷は今頃、彼女の不在で騒ぎになっているかもしれない。
 素性を明かさなかったのは、連れ戻されるのを怖れたからだ。

「なるほど、道に迷っていたか」

 光治は納得したように微笑み、穏やかに続けた。

「拙者も所用でそちらへ参る。女性が一人で夜道は危うい。九度山まで送ろう」
「道を教えていただければ、自分で進みます」
「ならば分かれ道まで案内しよう。野盗や獣に襲われては困る」

 翠藍が頷くと、光治は行燈を手に歩き始めた。
 灯りが揺れ、二人の影を長く伸ばし、風に踊った。
 
 一刻、二刻歩き、夜明けが近づく中、翠藍の足は重く、息が上がっていた。
 彼女は時折、疲れた足を休めようと立ち止まり、空を見上げた。秋の星が瞬き、朝焼けの気配が微かに漂い始めていた。

 光治は翠藍に歩調を合わせた。
 行燈を傾け、「そこ、段差だ」と告げる気遣いに、武士の態度の奥に温かさが滲む。翠藍は光治の優しさに心が温かくなるのを感じた。

「九度山は高野山の門前町だ。女人禁制の高野山に入れない女性たちが、そこで祈りを捧げる場所でもある。そなたが一人で向かう理由は何か。無粋だが気になる」

 その言葉に、翠藍は一瞬警戒の目を向けた。
 だが、光治の声音には押しつけがましさはなく、純粋な好奇心と――どこか深い優しさが滲んでいる。
 まるで彼女の孤独を見透かしたかのような温かさが、そこにあった。

 翠藍は小さく息を吐き、目を伏せた。心のどこかで、ずっと閉ざしていた扉が軋む音がした。

 これまで生涯で、翠藍が心を許したのは良宵ただ一人だった。
 良宵の深い優しさと真っ直ぐな眼差しは、彼女の凍てついた胸を溶かした唯一の存在だった。
 そして、この青年の言葉に、なぜか同じような温もりを感じている。警戒していたはずの心が、知らず知らずのうちに緩んでいた。

「修行僧様を探しております。良宵(りょうしょう)という方で、かつて私の病を癒し、約束を交わしてくださった方です。九度山へ行けば手がかりが掴めるかと」

「ほう」と光治は頷き、柔らかく笑った。

「実は俺も、高野山に世間を騒がせている謎の僧の噂を聞き、少し気になっている所だ。一度会 ってみたいのだが、藩の政務や家臣に追われてなかなか機会がない。今も寝る間を惜しんで夜の散策に勤しんでいる」

 その真面目な口調と、どこか滑稽な理由に、翠藍は思わず小さく笑ってしまった。

「ふふっ……変わったお武家様ですね」

 青年は目を細めて、優しく笑顔を返した。

「君も武家の娘だろう? 着物の家紋、紀州藩の重臣、藤崎家のものと見たが」

 翠藍は一瞬驚いた。
 己の素性を見抜かれていた為だ。
 でも、不思議と笑みが零れた。

「武家に生まれた娘として、どう生きるべきか迷っておりましたが、己の心のまま飛び出してみたのです。しかし、今度は道に迷ってしまいました」

 光治は「ははは」と明るく笑い声を上げたが、すぐに穏やかな声で言った。

「己の心に真っ直ぐに生きることは、存外難しいものだ。だが、それでも己を貫く姿は、何よりも美しく尊ばれるものだと俺は思っている」

 そう言って、少し息を吐いた後、「だが、道に迷うのは困るな」と柔らかな声で付け加えた。

 翠藍は光治の言葉と笑顔に、良宵の深い優しさを重ね合わせ、胸の奥がじんわりと温かくなる。
 旅の疲れも孤独も、光治の温もりにふわりと溶けていくようだった。自然に笑みがこぼれ、秋の冷たい夜気が、まるで春の息吹のように優しく頰を撫でた。

 九度山の入り口に着くと、光治は翠藍が歩く道先を指さして言った。

「この道を真っ直ぐ進めば、半時もせずに九度山だ。ここからは自分で進むといい。藍殿の祈りが、どのような運命を辿ろうとも、成就することを祈る」

 光治は言葉と笑みを残し、行燈の灯りを手にゆっくりと闇に消えていった。

 翠藍は一礼し、「ありがとう」と呟き、歩き出した。朝焼けが空を染め、彼女を九度山へと導いた。


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 紀ノ川の濁りは静かに残り、町は復旧の槌音に響くも、市場に笑顔が戻り、春のワスレナソウが町民の庭に根づいた。
 重臣・藤崎頼重は、旧家の名を背負う家老として、娘を父の部屋へ呼び寄せた。
 翠藍は静かに障子を開け、燭台の灯りが揺れる部屋を進む。
 床の間に紅葉の影が映り、父の厳粛な表情と低い視線が静かな威圧を漂わせた。
 香袋を握る指先が震え、胸にそよぐ不安が遠い約束を冷たく囁く。
「紀州徳川家、藩主・徳川吉宗公から縁談の申し出が参った。殿が自ら望まれたものだ。そなたの慈悲が地震の傷を癒し、その名が和歌山城に響いた。そなたの未来、藤崎家の再興を考えても、これ以上の縁はない。吉宗公は我が家の呪いの曰くも全て承知の上で、そなたを妻にと仰り、そなたの心を癒す縁とわしは願う」
 翠藍は目を伏せた。
 指先がわずかに震え、良宵の約束と父の言葉の間で心が揺れていた。
「父上、とても光栄に存じます。ですが、良宵様は仰いました。必ず迎えに来ると。それを信じて待っていたいのです」
 頼重は、馬鹿な、という言葉を飲み込んだ。娘が哀れに思えたからだ。
 淡い想いを抱いているだけだと頼重は思っていたが、どうやら娘は思い違いをしているらしい。
 目を細め、声を抑える。
「翠藍、そなたの心は分かる。父として、そなたの幸せを願わぬ日はなかった。今もそうだ。だが、これ以上の縁談があると思うか? 吉宗公が望まれた縁なのだぞ」
「重々承知しております。ですが……」
 頼重は声を荒げ、翠藍の言葉を遮る。
「高野の山は命をも削る修行の地、地震の傷が山を閉ざし、噂では僧の命も奪われた! 例え無事であろうと、良宵殿は俗世を捨てた修行僧ぞ!」
 翠藍の瞳が揺れる。
 彼女は唇噛んで涙を堪え、頼重の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「父上、わたくし、良宵様の無事を確かめたいのです。どうか、高野山の麓……九度山《くどやま》へ……」
 彼女は震える手で指を畳に付き、深く頭を下げた。
 冷たい畳に触れる指が、胸の疼きを深める。
 頼重は娘の震える肩を見て、畳を掴むように手を握りしめた。
 声がわずかに震える。藤崎の名を背負う者として、娘を危険な道に踏み出させるわけにはいかなかった。
「……いや、今、そなたを離すことはできぬ」
 頼重は静かに、だが抑えきれぬ思いを込めて言った。
 翠藍は顔を上げ、父の固い表情を見つめた。
 父は胡坐を掻く膝に手を重ね、その手を握りしめた。
 拳がわずかに震え、畳に影を落とす。
「吉宗公はそなたの微笑みを愛し、呪いの闇すら抱く慈悲深いお方だ。わしは、その慈悲に縋り、そなたを必ず幸せにしたい。父として、そなたの笑顔を守るため、是が非でもだ」
 翠藍は父の震える手を見つめ、その指先から溢れる愛情の重さに胸を締め付けられた。
 香袋の感触が疼く。
 父がどれほど彼女を愛し、旧家の呪いと戦ってきたか、痛いほど分かる。
 藤崎の重臣として藩政を支え、病に伏す彼女を案じ続けた父の心を、翠藍は知っている。
 だから、彼女の瞳に涙が滲み、良宵の遠い約束が星屑のように揺れた。
 翠藍は瞼を伏せて静かに頷いた。
 頼重は重く息を吐き、翠藍の肩に手を乗せて部屋を出て行った。
 翠藍は窓から見える空に目線を映した。
 夕暮れの紅さがほんのりと遠くに残り、紅葉の影が揺れる中、冷たい風が障子をそっと揺らし、空が暮れていった。
 ——その夜、翠藍は眠りにつけぬまま、香袋を胸に抱きしめていた。
 父の言葉が重くのしかかり、昼の拒絶が胸に響く。
 良宵の約束が遠い夢のように揺れ、香袋の温もりが心の奥で疼く。
 地震の噂——高野山の堂塔が倒れ、山道が崩れた。
 良宵様は無事なのか、その不安が胸を締める。
 部屋の闇が深まる中、冷たい風が障子をそっと揺らし、彼女の耳に静かな声が響いた。
『―― 九度山へ行くのです』
 翠藍は驚き、布団から体を起こした。
「誰です?」
 声はどこからともなく聞こえ、部屋の隅に黒い靄が揺らめいているように見えた。 
 翠藍は目を凝らしたが、その瞬間、部屋の空気がわずかに重くなった気がした。
「お前は、私の夢見に出て来た女ですね。藤崎家を呪う大蛇ですか?」
 翠藍は不思議と恐怖を感じなかった。
 真っ直ぐ黒い靄に向かって問うと、靄はゆっくりと形を変え始めた。
 闇から長い髪が現れ、まるで水面に浮かぶ墨のように広がった。
 やがて、髪に覆われた顔を持つ女の姿が浮かび上がり、その姿は古い絵巻物から抜け出たように美しかった。
 顔を覆う髪の隙間から、冷たい瞳と影のような笑みが滲む。
『高野山の麓へ行くのです。そして真実を確かめればいい』
「ですが……」
 翠藍は言葉を詰まらせる。
 父の必死な姿が目に焼き付いて離れず、胸が締め付けられるようだった。
『真実を確かめぬまま、徳川の嫁になるおつもりですか? もし、あの方が約束を守って現れた時、そなたの心が後悔で裂けるのを耐えられるのですか?』
 翠藍の眉が微かに動き、胸の奥で小さな疼きが広がった。
 彼女は香袋を握り、唇を噛んだ。
 もし、良宵様が無事で、わたくしのことを想ってあの約束を守って迎えに来てくださった時、わたくしが藤崎家の姫ではなくなっていたら……彼を裏切ることになるのではないかと、心が裂けるように痛んだ。
 黒髪の女は、翠藍の揺れる心を静かに見つめていた。その瞳には、まるで翠藍の魂を覗き込むような冷たい光が宿り、彼女の存在は不思議な重みを放っていた。
 翠藍の胸に秘められた思いが、ついに言葉となって溢れ出す。
「武家の娘として生まれたわたくしに、己の心に生きる自由など許されるのでしょうか……。父上の愛に報いるため、家を背負う覚悟はできております。良宵様の約束の言葉は、遠い星の光のよう…… 届かぬと知りつつ、わたくしは手を伸ばさずにはいられないのです」
 翠藍は思わず息を呑み、香袋をぎゅっと握りしめた。
『そなたの心の奥底に眠る真実は、何を求めているのですか?』
 女の声が響き、翠藍は答えた。
「わたくしは知りたいのです。あの約束が真実であったのかを。たとえ高野山に入れずとも、せめて麓で……あの方の御無事を知りたいのです」
 翠藍の声は純粋な叫びとなり、長い間抑え込んできた感情が解き放たれたようだった。
 黒髪の女は小さく微笑み、その答えを待っていたかのように穏やかに頷いた。
 黒髪の女は、瞳に読めぬ光を湛えながら、ゆっくりと屋敷の外へと指を差し伸べた。
 その仕草は挑戦であり、誘いでもあった。
 翠藍を未知の世界へと踏み出させる、静かな力に満ちていて、彼女に決意を固めさせた。
 翠藍は上着を羽織り、息を潜めて障子を開けた。
 彼女の心臓は高鳴り、夜の静寂が耳に痛いほどだった。
 従者を連れず、深夜の屋敷を静かに抜け出した。
* * *
 夜は静寂に包まれ、ただ彼女の足音だけが響き合った。目指すは九度山。高野山への入り口となるその地へ、翠藍はひたすら走った。
 枯れ葉が道に散り、彼女の足元で小さく音を立てた。
 一歩ごとに、心に刻まれた真実を追い求める強い意志が彼女を突き動かしていた。
 冷たい風が頬を刺し、懐の香袋が微かに温もりを感じさせた。
 月光が細く道を照らし、彼女の影を長く伸ばす。足元の枯れ葉が砕ける音が、静寂の中で不穏に響いた。
 九度山への道は遠く、険しい。漁村を抜けて和歌の浦の波音は遠ざかり、森の縁を縫う道を歩き続けた。
 翠藍の心臓はまだ高鳴り、頭の中では黒髪の女の冷たい光を宿した瞳がちらつく。
 あの仕草が、彼女をここまで突き動かしたのだ。
 良宵の声が聞こえた気がして振り返るが、そこにはただ秋の夜の深い闇があるだけだった。
 しかし、翠藍は歩を進めた。燃えるような決意と、どこか冷えていく予感が交錯する。
 明かりを頼りに進んだが、深い闇に道標は見えず、ついに立ち尽くした。
冷たい秋風が頬を撫で、上着を引き寄せると、不安が胸に広がった。
 その時、後ろから行燈の灯りが揺らめき、木々の間を縫って近づいてきた。
 翠藍の心臓が早鐘を打ち、恐怖に足がすくんだ。野盗か、獣か——息を潜めると、静かな足音が聞こえた。
「失礼、拙者は旅の者で、名は光治《みつじ》と申す。この様な夜更けにどこへ行かれるのだろうか?」
 落ち着いた声が闇を切り裂いた。目を凝らすと、行燈を手にした青年が立っていた。質素な旅装に身を包み、腰に差した刀と背筋を伸ばした立ち姿には武士の風格が漂う。
 月明かりと行燈の灯りが彼の顔を照らし、穏やかな目元に温かさが宿っていた。
 翠藍は一瞬警戒したが、その声と姿に敵意がないことを感じ、少し肩の力を抜いた。
「九度山へ向かう旅の者で、名は……藍《あい》と申します……」
 翠藍が慎重に答えた。
 屋敷は今頃、彼女の不在で騒ぎになっているかもしれない。
 素性を明かさなかったのは、連れ戻されるのを怖れたからだ。
「なるほど、道に迷っていたか」
 光治は納得したように微笑み、穏やかに続けた。
「拙者も所用でそちらへ参る。女性が一人で夜道は危うい。九度山まで送ろう」
「道を教えていただければ、自分で進みます」
「ならば分かれ道まで案内しよう。野盗や獣に襲われては困る」
 翠藍が頷くと、光治は行燈を手に歩き始めた。
 灯りが揺れ、二人の影を長く伸ばし、風に踊った。
 一刻、二刻歩き、夜明けが近づく中、翠藍の足は重く、息が上がっていた。
 彼女は時折、疲れた足を休めようと立ち止まり、空を見上げた。秋の星が瞬き、朝焼けの気配が微かに漂い始めていた。
 光治は翠藍に歩調を合わせた。
 行燈を傾け、「そこ、段差だ」と告げる気遣いに、武士の態度の奥に温かさが滲む。翠藍は光治の優しさに心が温かくなるのを感じた。
「九度山は高野山の門前町だ。女人禁制の高野山に入れない女性たちが、そこで祈りを捧げる場所でもある。そなたが一人で向かう理由は何か。無粋だが気になる」
 その言葉に、翠藍は一瞬警戒の目を向けた。
 だが、光治の声音には押しつけがましさはなく、純粋な好奇心と――どこか深い優しさが滲んでいる。
 まるで彼女の孤独を見透かしたかのような温かさが、そこにあった。
 翠藍は小さく息を吐き、目を伏せた。心のどこかで、ずっと閉ざしていた扉が軋む音がした。
 これまで生涯で、翠藍が心を許したのは良宵ただ一人だった。
 良宵の深い優しさと真っ直ぐな眼差しは、彼女の凍てついた胸を溶かした唯一の存在だった。
 そして、この青年の言葉に、なぜか同じような温もりを感じている。警戒していたはずの心が、知らず知らずのうちに緩んでいた。
「修行僧様を探しております。良宵《りょうしょう》という方で、かつて私の病を癒し、約束を交わしてくださった方です。九度山へ行けば手がかりが掴めるかと」
「ほう」と光治は頷き、柔らかく笑った。
「実は俺も、高野山に世間を騒がせている謎の僧の噂を聞き、少し気になっている所だ。一度会 ってみたいのだが、藩の政務や家臣に追われてなかなか機会がない。今も寝る間を惜しんで夜の散策に勤しんでいる」
 その真面目な口調と、どこか滑稽な理由に、翠藍は思わず小さく笑ってしまった。
「ふふっ……変わったお武家様ですね」
 青年は目を細めて、優しく笑顔を返した。
「君も武家の娘だろう? 着物の家紋、紀州藩の重臣、藤崎家のものと見たが」
 翠藍は一瞬驚いた。
 己の素性を見抜かれていた為だ。
 でも、不思議と笑みが零れた。
「武家に生まれた娘として、どう生きるべきか迷っておりましたが、己の心のまま飛び出してみたのです。しかし、今度は道に迷ってしまいました」
 光治は「ははは」と明るく笑い声を上げたが、すぐに穏やかな声で言った。
「己の心に真っ直ぐに生きることは、存外難しいものだ。だが、それでも己を貫く姿は、何よりも美しく尊ばれるものだと俺は思っている」
 そう言って、少し息を吐いた後、「だが、道に迷うのは困るな」と柔らかな声で付け加えた。
 翠藍は光治の言葉と笑顔に、良宵の深い優しさを重ね合わせ、胸の奥がじんわりと温かくなる。
 旅の疲れも孤独も、光治の温もりにふわりと溶けていくようだった。自然に笑みがこぼれ、秋の冷たい夜気が、まるで春の息吹のように優しく頰を撫でた。
 九度山の入り口に着くと、光治は翠藍が歩く道先を指さして言った。
「この道を真っ直ぐ進めば、半時もせずに九度山だ。ここからは自分で進むといい。藍殿の祈りが、どのような運命を辿ろうとも、成就することを祈る」
 光治は言葉と笑みを残し、行燈の灯りを手にゆっくりと闇に消えていった。
 翠藍は一礼し、「ありがとう」と呟き、歩き出した。朝焼けが空を染め、彼女を九度山へと導いた。