親父
ー/ー
「幸史、久しぶりやな」
同じ家に住んでいるのに、親父は間抜けなことを言う。子どもの頃は姿が見えないと不安になって探すのに、いい年をして家にいると、できるだけ姿を見たくなくなるらしい。
俺も親父を真正面から見るのは久しぶりだった。皮膚が薄く、黄ばんだ古い紙のようになっていて、その上にシミが散っている。いかり肩だった記憶があるが、今ではすっかり肩のラインが下がって背も丸くなり、知らない家の年寄りと初めて対峙したようだった。
「話って」
どうせまた働けとか、いつ出ていくのかといった小言だろう。
「父さんな、こないだの健康診断、引っかかったんよ」
父はいきなり、本題を切り出した。
母の淹れた濃い緑の茶が湯気をたてている。俺はその湯気を食らうように、熱い茶を二口飲んだ。
「まだ分からんけど、おまえにもそろそろ、だいじな話をしておきたい」
父からのだいじな話は、人生で三回目だ。一度目は小学校を卒業するとき。「女の子を泣かすなよ」とか、「母さんがときどき具合悪そうなときがあるだろ」とか、要は女の生理の話、つらそうなときは助けてやれという話だった。
二度目は成人式の夜だった。「男は一生の仕事を見つけろ」とか、戦国武将の誰それがどうのとか、親父もちょっと酔っていた。彼女が出来たら結婚するまで避妊はきちんとしろとも言われたが、以降俺が女性とつきあったことは一度もない。
それで三回目がこれか。
時間の流れに気が遠くなりそうだった。
親父は保険の証券や実印の場所を教え、「もしものことがあったら」という話をした。遺産は妹と分けることになるけれど、この家は俺に遺すという。
「母さんもおまえのこと、気にしとるからな。あんまり心配かけるなよ」
仕事を探せ、と父は言わなかった。
俺はそのまま部屋に引き上げようかと思ったが、このタイミングを逃したら、もう言えなくなりそうで口を開いた。
「あのな、仕事、見つかった」
俺は、真戸部さんとの新しい仕事の話をした。
「あほなことを言うな」
親父にも分かるように説明したつもりなのに、親父は仏頂面で言った。
「だまされとる」
普段はわりかし穏やかな人だが、怒ると顔が赤くなる。
「詐欺ちゃうんか」
問いかけるというより、断定的な口調だった。
「もうええ」
俺は、それ以上話すのをやめた。
理解されるわけがなかったのだ。親はまだ働いているのに、ネットや最近のビジネスの話題には疎い。
昔から、情報に疎い両親だった。小学校中学校と、クラスで流行っているものを買ってもらえなかったし、貧乏なわけでもないのに、祖母がアップリケをつけた古いトレーナーを着せられていた。高学年の夏休み、モテるヤツが親となんとかランドやハワイに旅行しているときも、俺は公民館で無料の人形劇を見ていた。思春期を迎え、高めのサロンへ通うヤツが出だしたころも、うちは親父と床屋だった。こうやって、差がついていく。今はネットがあるから情報も得られるけれど、俺の子ども時代は、リア充の親の子はリア充の暮らし、陰キャの子はダサい生活を送って、見事に道が分かれていった。
今更何十年も前のことを言ってもしかたがないが、大人になって取り返そうとしたってもう追いつけなかったのだから、しかたがない。
階段を上がるとき、脇の部屋を覗いたら、古い毛布にうずもれて丸くなっていたチイが顔を上げた。俺のほうを見ているようだが視線は合わない。濁った眼をしていた。
いつか俺のものになるこの家にはもう、溌溂とした希望はかけらもなく、すべてがゆっくり朽ちていくだけなのを俺は悟った。
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同じ家に住んでいるのに、親父は間抜けなことを言う。子どもの頃は姿が見えないと不安になって探すのに、いい年をして家にいると、できるだけ姿を見たくなくなるらしい。
俺も親父を真正面から見るのは久しぶりだった。皮膚が薄く、黄ばんだ古い紙のようになっていて、その上にシミが散っている。いかり肩だった記憶があるが、今ではすっかり肩のラインが下がって背も丸くなり、知らない家の年寄りと初めて対峙したようだった。
「話って」
どうせまた働けとか、いつ出ていくのかといった小言だろう。
「父さんな、こないだの健康診断、引っかかったんよ」
父はいきなり、本題を切り出した。
母の淹れた濃い緑の茶が湯気をたてている。俺はその湯気を食らうように、熱い茶を二口飲んだ。
「まだ分からんけど、おまえにもそろそろ、だいじな話をしておきたい」
父からのだいじな話は、人生で三回目だ。一度目は小学校を卒業するとき。「女の子を泣かすなよ」とか、「母さんがときどき具合悪そうなときがあるだろ」とか、要は女の生理の話、つらそうなときは助けてやれという話だった。
二度目は成人式の夜だった。「男は一生の仕事を見つけろ」とか、戦国武将の誰それがどうのとか、親父もちょっと酔っていた。彼女が出来たら結婚するまで避妊はきちんとしろとも言われたが、以降俺が女性とつきあったことは一度もない。
それで三回目がこれか。
時間の流れに気が遠くなりそうだった。
親父は保険の証券や実印の場所を教え、「もしものことがあったら」という話をした。遺産は妹と分けることになるけれど、この家は俺に遺すという。
「母さんもおまえのこと、気にしとるからな。あんまり心配かけるなよ」
仕事を探せ、と父は言わなかった。
俺はそのまま部屋に引き上げようかと思ったが、このタイミングを逃したら、もう言えなくなりそうで口を開いた。
「あのな、仕事、見つかった」
俺は、真戸部さんとの新しい仕事の話をした。
「あほなことを言うな」
親父にも分かるように説明したつもりなのに、親父は仏頂面で言った。
「だまされとる」
普段はわりかし穏やかな人だが、怒ると顔が赤くなる。
「詐欺ちゃうんか」
問いかけるというより、断定的な口調だった。
「もうええ」
俺は、それ以上話すのをやめた。
理解されるわけがなかったのだ。親はまだ働いているのに、ネットや最近のビジネスの話題には疎い。
昔から、情報に疎い両親だった。小学校中学校と、クラスで流行っているものを買ってもらえなかったし、貧乏なわけでもないのに、祖母がアップリケをつけた古いトレーナーを着せられていた。高学年の夏休み、モテるヤツが親となんとかランドやハワイに旅行しているときも、俺は公民館で無料の人形劇を見ていた。思春期を迎え、高めのサロンへ通うヤツが出だしたころも、うちは親父と床屋だった。こうやって、差がついていく。今はネットがあるから情報も得られるけれど、俺の子ども時代は、リア充の親の子はリア充の暮らし、陰キャの子はダサい生活を送って、見事に道が分かれていった。
今更何十年も前のことを言ってもしかたがないが、大人になって取り返そうとしたってもう追いつけなかったのだから、しかたがない。
階段を上がるとき、脇の部屋を覗いたら、古い毛布にうずもれて丸くなっていたチイが顔を上げた。俺のほうを見ているようだが視線は合わない。濁った眼をしていた。
いつか俺のものになるこの家にはもう、溌溂とした希望はかけらもなく、すべてがゆっくり朽ちていくだけなのを俺は悟った。