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ある冬の日に

ー/ー



 ある冬のよく晴れた日。

 ストゥルテは雪支度のために木を伐りに出かけた。家の南東の、崖をずっと下った先にはほんの少し暖かい窪地があって、そこには長く燃える木がそろっていた。代々、目立つ家で暮らすことになった者たちが、大切に管理してきた林だった。

 いくらか前までは薪を取るのも枝を折るのも老人がやっていたのだけれど、寄る年波でふらつくようになったから、土を整えるところからストゥルテがするようになった。もちろん、体の調子がよいときに。

 崖を降りてすぐ、ストゥルテは「おや」と立ち止まる。
 甘い香りがしたのだ。
 ひそやかな女らの話し声がしたのだ。

 ストゥルテは危険の先触れに詳しかったので、猿人の声真似が得意な植物でも来たのかなと緊張した。音は森の湧き水の辺りから聞こえたので、ストゥルテはう回することにした。
 後から考えてみると、これは精霊たちの水浴びの声だったかもしれないので、やはり見ないのが正解だったのだ。

 精霊の水浴びを見たために、動物に変えられた男たちの話は雪砂高原の雪片の数ほどある。

(じぃさまが心配だ。でも、今を逃すと次いつ来られるか分からない。温かく過ごすのがいいものな)

 どうか家に気が付くなと祈りながら、ストゥルテは速足に仕事を終えた。
 目の前に小山と積んだ薪を担ぎ「さてふんばるぞ」と両脇をしっかりしめたときである。

 雪を散らす風にもてあそばれながら、一枚の薄衣(うすぎぬ)が落ちてきた。伸ばした右手に吸い付くように薄衣が広がる。

 暗い紫紺の朔月の空に、銀の雪片を散らしたような薄衣だった。
 雪を踏む音がしたので、ストゥルテは左を見る。

 まだ若い木の下に、雪と同じ白い毛並みのうさぎがいた。

 見たことのない鮮やかな、底が抜けたような青い目を持っていた。
 うさぎの目に映るストゥルテの赤い目は、驚きで丸くなっていた。

――精霊だ。

「この薄衣は、あなたの持ち物だろうか」

 ストゥルテがしゃがんで薄衣を差し出すと、背負った薪が揺れて音を立てた。踏ん張ることもできずに尻もちをつく。

 ストゥルテは誠実だったので『他人(ひと)のものを汚してはいけない』と思い、薄衣の地面につけることはなかった。
 が、代わりについた左手から軽い音がした。

 手首がにわかに熱を持つ。
 痛みにうめき、脂汗を流しながら、ストゥルテは右手に持った薄衣をうさぎに差し出した。

「あなたのものなら持っていってほしい。もしあなたのものでないにしても、どうか持ち主に届けてはもらえないだろうか。わたしは、この様だから」

 聞き届けたのかどうか。
 うさぎはすぐ逃げ出せる恰好でジリジリと近寄り、歯に引っかからないよう薄衣をくわえると、くるりと背を向けて走りだした。

「もし届けてくれたなら崖上に家に来てほしい。可能なお礼はするから」

 うさぎは何か言いたげに振りむいたが、何も言わずに雪の林を走っていった。

 闇夜にひらめく銀雪が見えなくなったころ、ストゥルテは左手を適当な木で固定して、左手首を庇いながらのろのろと立ち上がった。

 ストゥルテはいつもより時間をかけて坂を上り、鼻を衝く鉄の臭いに顔を上げた。坂は、あと20分ほどで登り切れる。

「じぃさま」

 こらえきれなかった呟きを最後に、ストゥルテは音を発さないよう細心の注意を払って崖の坂道を登り切った。

 坂の上には、血だまりといくつかの骨が残るばかりだった。

 ストゥルテが祖父と慕う老人は、もうどこにもいなかった。
 血だまりのすぐそばに落ちた行燈には、老人の愛用する手ぬぐいが張り付いていた。


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 ある冬のよく晴れた日。
 ストゥルテは雪支度のために木を伐りに出かけた。家の南東の、崖をずっと下った先にはほんの少し暖かい窪地があって、そこには長く燃える木がそろっていた。代々、目立つ家で暮らすことになった者たちが、大切に管理してきた林だった。
 いくらか前までは薪を取るのも枝を折るのも老人がやっていたのだけれど、寄る年波でふらつくようになったから、土を整えるところからストゥルテがするようになった。もちろん、体の調子がよいときに。
 崖を降りてすぐ、ストゥルテは「おや」と立ち止まる。
 甘い香りがしたのだ。
 ひそやかな女らの話し声がしたのだ。
 ストゥルテは危険の先触れに詳しかったので、猿人の声真似が得意な植物でも来たのかなと緊張した。音は森の湧き水の辺りから聞こえたので、ストゥルテはう回することにした。
 後から考えてみると、これは精霊たちの水浴びの声だったかもしれないので、やはり見ないのが正解だったのだ。
 精霊の水浴びを見たために、動物に変えられた男たちの話は雪砂高原の雪片の数ほどある。
(じぃさまが心配だ。でも、今を逃すと次いつ来られるか分からない。温かく過ごすのがいいものな)
 どうか家に気が付くなと祈りながら、ストゥルテは速足に仕事を終えた。
 目の前に小山と積んだ薪を担ぎ「さてふんばるぞ」と両脇をしっかりしめたときである。
 雪を散らす風にもてあそばれながら、一枚の|薄衣《うすぎぬ》が落ちてきた。伸ばした右手に吸い付くように薄衣が広がる。
 暗い紫紺の朔月の空に、銀の雪片を散らしたような薄衣だった。
 雪を踏む音がしたので、ストゥルテは左を見る。
 まだ若い木の下に、雪と同じ白い毛並みのうさぎがいた。
 見たことのない鮮やかな、底が抜けたような青い目を持っていた。
 うさぎの目に映るストゥルテの赤い目は、驚きで丸くなっていた。
――精霊だ。
「この薄衣は、あなたの持ち物だろうか」
 ストゥルテがしゃがんで薄衣を差し出すと、背負った薪が揺れて音を立てた。踏ん張ることもできずに尻もちをつく。
 ストゥルテは誠実だったので『|他人《ひと》のものを汚してはいけない』と思い、薄衣の地面につけることはなかった。
 が、代わりについた左手から軽い音がした。
 手首がにわかに熱を持つ。
 痛みにうめき、脂汗を流しながら、ストゥルテは右手に持った薄衣をうさぎに差し出した。
「あなたのものなら持っていってほしい。もしあなたのものでないにしても、どうか持ち主に届けてはもらえないだろうか。わたしは、この様だから」
 聞き届けたのかどうか。
 うさぎはすぐ逃げ出せる恰好でジリジリと近寄り、歯に引っかからないよう薄衣をくわえると、くるりと背を向けて走りだした。
「もし届けてくれたなら崖上に家に来てほしい。可能なお礼はするから」
 うさぎは何か言いたげに振りむいたが、何も言わずに雪の林を走っていった。
 闇夜にひらめく銀雪が見えなくなったころ、ストゥルテは左手を適当な木で固定して、左手首を庇いながらのろのろと立ち上がった。
 ストゥルテはいつもより時間をかけて坂を上り、鼻を衝く鉄の臭いに顔を上げた。坂は、あと20分ほどで登り切れる。
「じぃさま」
 こらえきれなかった呟きを最後に、ストゥルテは音を発さないよう細心の注意を払って崖の坂道を登り切った。
 坂の上には、血だまりといくつかの骨が残るばかりだった。
 ストゥルテが祖父と慕う老人は、もうどこにもいなかった。
 血だまりのすぐそばに落ちた行燈には、老人の愛用する手ぬぐいが張り付いていた。