―セクション3―
研矢が塀を越えるかどうかという瞬間、大杜は研矢の背中を視界に捉えた。
大杜は躊躇することなく、そのまま後を追う。テーブルを踏み台に使う事もなく、ひらりと飛んで高いフェンスを越え、屋上から飛び降りた。
大杜は空気抵抗を最小限にした体勢で降下して研矢に追い付くと、両手で彼の手を絡めるようにして掴む。
飛び降りる直前に屋上の縁に引っ掛けたフックは、腰のホルダーの巻き取り式のストラップと繋がっている。両手が塞がっていてケーブルが伸びるのを止めることはできないが、この高さなら、途中でケーブルが尽きて止まるはずだ。
大杜はその瞬間の衝撃に備える。落下防止の安全帯ではなく、非常時に高所から脱出する簡易のホルダーなので、急な衝撃を逃すような構造ではないからだ。
ガンと大きな衝撃があり、体と腕に激しい痛みが走ったが、かろうじて意識を飛ばさず、絡ませた手を離さずに耐えた。
「……大杜……? 大杜⁉︎ 大丈夫か⁉︎」
研矢が我に返り、慌てたように叫ぶ。
大杜は苦笑いを返した。
「大丈夫じゃないよ。何で飛ぶんだよ……」
愚痴のひとつも言いたくなる。
大杜はあちこちの痛みに顔をしかめながら屋上を見上げる。屋上にはここまで運んできてくれたダスティがいるし、近くのビルには、研矢の護衛として見張っているケリアが待機している。程なくどちらかが救助に来るだろう。
が、大杜はすぐ嫌な予感に冷や汗が浮かぶ。
ダスティもだが、何より、心配性のケリアが、ビルを飛び降りた大杜をすぐに助けに来ないはずがないのだ。
(何かが起きてる……)
突如、屋上や近くのビルで同時に爆発が起きた。大規模なものではないが、見えた限りでも三箇所だ。
(……まずい……!)
大杜は焦る。
腰のホルダーだけで二人分の体重を支えている。体がもたないし、なにより手がゆっくりと離れてゆく。
「大杜! 手を離せ! 体がもたないぞ‼︎」
「っ、嫌だ!」
そのとき、そばにカラスが数羽近寄ってきた。
カラスは大杜と研矢を見定めるかのように、意思あるような瞳で見つめている。
大杜は検査室でのハイブリッド犬を思い出す。
(まさか――)
その時、カラスの一羽が、ケーブルをついばんだ。人が二人ぶら下がっても切れないケーブルが、あっさりと切れた。
その瞬間はスローモーションのようでもあった。背筋をぞくりとした感覚が這い上がり、死を覚悟する。一瞬空中に停止したような錯覚があった後、二人は手を繋いだような状態で、落下し始める。
風を切るような音を耳の横で感じた。
上空から降下してくるダスティの姿が視界に入る。だが、
(間に合わない……‼︎)
大杜は研矢の腕を掴んだまま、覚悟して目を瞑った。
次の瞬間、上空に突き上げる竜巻のような突風が巻き起こった。
ダスティはその流れを突っ切って落下し、一方、大杜たちはその強風により一瞬浮き上がった。
その一瞬のおかげで辛うじて追い付いたダスティは、大杜と研矢の腕をそれぞれ掴んだ。二人の体が止まったのは、地上から三十センチほどのところだ。
ダスティがゆっくりと地面に二人を下ろすと、大杜は背中を丸めるような体勢で横たわり、研矢は呆然とした様子で座り込んだ。
「……ボス?」
ダスティが気遣わし気に呼びながら、大杜の顔を覗き込む。
大杜は眉間に皺を寄せたまま、薄く目を開けた。
「……ごめん、救急車呼んで? 体が痛くて動けそうにない……」
ダスティは頷き、すぐさま救急車を呼ぶ。
だがその隙に、研矢の気配が側から消えた。
「……研矢?」
大杜は呟くような声で問いかけたが、返事はなかった。
今の大杜には追いかけるどころか、辺りを見回すことすら出来ない。
だからと言って、ダスティをこの場から離れさせるわけにはいかず、探させることもできなかった。野次馬への対応もしなくてはいけない上に、周囲で何が起こっているのかも不明だからだ。
大杜は胸の痛みに堪えながら、浅く息を吐く。
(まさか逃げるなんて……)
大杜は、鷹田の供述から、六連星学院に通っているのが松宮研矢ではないことを知った。
しかし、本人は松宮研矢として疑いなく生きているという。
それならば、彼には何も告げず、ひとまず保護しよう――大杜はそう考えた――矢先の出来事だった。
(研矢は死のうとしてた? なぜ?)
彼が自身を松宮研矢と思って生きているのであれば、なぜ死ぬようなことになったのだろうか――さっぱりわからない。
だが彼を早く保護しなければいけないことは確かだ。そうしないと、彼を永遠に失ってしまうかもしれない。
その焦りと、自身の体の限界による焦りに苛まれ、大杜はぎゅっと目を瞑ったが、すぐに瞼の向こうに人影を感じて目を開けた。
そこには六連星学院の制服を着た長身の少年が立っていた。
「高犯対は無茶をする」
少年が事実を淡々と告げるような口調で言う。
「いや、考えなしの馬鹿だな。俺が手を貸さなかったら死んでたぞ」
「君は?」
大杜のそばに立っていたダスティが聞く。が、少年はそれには答えず、大杜の脇に屈み込んだ。
「ひどい有様だな」
「……まぁね……」
大杜が視線を広場の方に向けると、迷彩仕様のヘリが見えた。野次馬を遠ざけるように、自衛官らしき人間が数人辺りに立っている。
「来てくれてありがとう――貴島君」
ブルースターの報告から、貴島武朗が防衛省所属の特務員であることを知った大杜は、ここに向かう直前に、貴島の所属する部署の長を経由して、彼の応援を頼んでいたのだ。
ブルースターの話では、彼もまた研矢と親しくなっていたと言うから、異常事態を伝えれば、きっとなんらかの手を貸してくれると信じて。
だがこんなにすぐに駆けつけてくれるとは思わず、大杜は心から感謝した。
「さっきの竜巻、君だよね。風も起こせたんだ……すごいな……」
「雲の流れは風によるものだ。だから風も可能なんじゃないかと思って、訓練してた。起こせるようになったのはほんの最近だ」
「……助かったよ……」
「だがコントロールできたのは、さっきが初めてだ。運が良かったな」
「運が良かったのか……そっか……」
大杜はそう呟いた後、ほどなく意識を失った。
その直後、後から来ると言っていた花鈴が、人だかりの真ん中にいるのが大杜だと気付いて、慌てて駆け寄って来る。
「大杜⁉︎ 何があったの⁉︎ 死んじゃダメよ‼︎」
目に涙を浮かべ、大杜の服を握り締める。
「そいつ、死なないと思うぞ。――まだ」
貴島の言い様に、花鈴はムッとして睨む。
「まだってなによ‼︎」
「そのまんまだろ。うるさいな」
貴島は呆れたように二人を見下ろした。
アイビーは、南波記念病院別館のエレベーターホールで、立ち尽くしていた。
ナショナルタウンズでの騒動はかなり大きなものだったので、紀伊国は事後処理が長引き、とても本部を空けられる状態ではなく、アイビーが大杜の付き添いと梨々子の対応を任せられた。
アイビーを動揺させられるのは、この世に二人だけだ。大杜と、大杜の母――梨々子。
梨々子ははっきりと大杜の能力や任務を理解しているわけではないが、見守りロボットのアイビーと、警官ロボットのアイビーが同一であるという認識はあった。だがアイビーがヒューマン型で梨々子に会うことはない。彼女は夫と長男が死ぬ原因になったヒューマン型のロボットを、激しく嫌悪しているからだ。
だが今アイビーは、Q0ー01という警官ロボットの姿だった。大杜が研矢の保護に出る際、何か起きた場合に対応できるようにと、こちらに核を移していったからだ。
――つまり、これからやってくるであろう梨々子に、この姿のままで会うしかないのだ。
アイビーはこの任務だけは、逃げ出せるなら逃げ出したいと本気で思っていた。
有りもしない心臓が締め付けられるような感覚でエレベーターを待っていると、
「また誰かが大杜を傷つけたの⁉︎」
梨々子が降りてきて、アイビーを憎悪の眼差しで睨み付けた。
「もうたくさん、もうたくさんよ!」
梨々子は鬼の形相でフロアを進む。心配を超えて、怒りが爆発している。
それでも、怒っているだけの時はまだいい。やがてパニックに陥り、支離滅裂でどうしようもなくなる。そんな時、大杜と紀伊国は実力行使として薬を用いるが、自分がそれをするわけにはいかない。
そんな状況になったとき、どう対処すればいいのだろうかと考えながら、アイビーは梨々子のあとをついて行く。
怒りのまま、梨々子は病室の扉を勢いよく開けた――がそのまま動きが止まった。
ベッドの隣に椅子を寄せて座っていた花鈴と、ソファーに座って缶コーヒーを飲んでいた武朗が、驚いて梨々子を見つめ返したからだ。
「あの……?」
花鈴が困ったように聞いたとき、アイビーが背後から言った。
「タイトの母、リリコさんだ」
直後、花鈴は自分の髪を慌てて撫で整え、立ち上がった。
「初めまして!」
動揺が口調に現れていて、アイビーは意外に思った。花鈴はどんな相手にも飄々としているものだと思っていたからだ。
「あなたたちは……?」
毒気を抜かれたように、梨々子はさっきとは違う静かな口調で尋ねた。
「わ、私は、えっと……」
「タイトの彼女と友人です。事故時に居合わせて、心配して、付き添いを」
アイビーがすかさずそう説明する。
「は……羽曳野花鈴です。よ、よろしくお願いします」
彼女と紹介された花鈴は動揺の末、完全に声が裏返ってしまっていたが、そのことを恥ずかしく思う余裕すらなかった。
一方、友人と紹介された武朗も戸惑ったが、仕方なく、立ち上がると名乗った。
「クラスメイトの貴島です」
しかし、梨々子は無反応で、花鈴と武朗は困惑する。特に花鈴は動揺した。
(ナショナルタウンズへ行くから、色味の強いリップに塗り変えてたけど――それがまずかった?)
息子に似合わない派手な女の子だと思われたのかも……と花鈴がヤキモキしているのをよそに、梨々子は無言でベッドのそばに移動した。
花鈴は場所を空けるべく慌てて下がった。
「症状は?」
梨々子は大杜の頬をそっと撫でてから、アイビーに尋ねた。
「頸椎捻挫と肋骨骨折です。骨折は内臓を損傷する程ではなく軽症、他も固定して安静のみです」
「……何があったの?」
「それは――」
三十五階建てビルの屋上から飛び降りて云々――なんて言ったら、卒倒してしまうかもしれないと、アイビーが言葉に詰まっていると、梨々子は首を振った。
「やっぱり理由はいいわ」
「は?」
アイビーが驚いて聞き返すが、それを無視して、梨々子は花鈴を振り返った。
その表情は穏やかで、まるで憑きものが落ちたような柔らかな笑みを浮かべていた。
病室に入ってきた時は長い髪を振り乱した般若でもやって来たのかと思った花鈴は、とても美しい女性だとわかり驚いた。
「可愛いらしいお嬢さんね。大杜に彼女ができてたなんて知らなかったわ」
梨々子はそう言ってから、武朗に視線を移した。
「お友達ができたのね。お見舞いに来てくれるような、親しい子が」
梨々子は何度か瞬きをしてから、ゆっくりアイビーに視線を移した。
「もうとっくに――見守りロボットなんて卒業してる年齢だわね。私ったら、この子を、いつまでも小さな子どもだと思ってたのね……」
呟くように言うと、もう一度花鈴の方を向く。
「私ね、保育士なの。小さな子どもばかり見ていて、自分の子どもまで、小さな子どもとでも思ってたみたいだわ。もう親の手なんて離れて、どこにでも自分で行ける、自分でできる――そんな歳だったのに。私ったら、恥ずかしいわね……」
「あ、い、いえ、だって親なら心配しますよね!」
花鈴が慌てて言う。
梨々子は「優しいわね。ありがとう」と笑い返す。
「本当は危険なことなんてして欲しくない――ずっと安全なところで生きていて欲しい。でも、自分で選んだ道を行って、もう彼女も友人も自分で作って、私の庇護なんて必要なかったのね。気づいてあげられなくて、ごめんなさい」
梨々子はそう言うと、もう一度大杜の頬を撫でた。
「アイビー、大杜が起きたら、無茶はほどほどにって伝えて――って、無理ねぇ。うちの男どもはみんな、無茶ばかり……」
梨々子は肩をすくめる。
「ご自分で伝えられないんですか? 起きるまで待たれるのでは?」
「いいえ、いいわ。命に別状はないんでしょう? この子に自分の世界があるように、私も、しっかりと自分の世界を生きることにするわ」
梨々子はふふっと笑う。
こんな風に穏やかに、そして少し悪戯っぽく笑う時、大杜は母親似なのだと改めて思わされる。
「それから、了介さんにも伝言を。一ヶ月は私に顔を見せないで、って」
「え! それはどういう――」
「そのままの意味よ。お仕事が忙しくて、帰ってくる暇もないでしょうから、丁度いいでしょ」
アイビーは汗をかけるなら、今絶対に冷や汗をかいているだろうと思った。
「花鈴さん、貴島君、これからも仲良くしてやってね。家にはいつでも遊びに来てちょうだいね」
梨々子はそう言うと、二人に頭を下げてから、帰っていった。
「了介さんって?」
扉が閉まった後、花鈴がアイビーに聞いた。
「タイトの父だ。義理の、だが」
「ええ⁉︎ お母様、すごく静かな口調だったけど、あれ、怒ってたんじゃない? それって大丈夫なの?」
「まぁ……大丈夫だろう。怒っている体で、ケジメをつけただけだろうからな」
「ケジメ?」
「長らく、タイトと、タイトの義理の父は、彼女に嘘をついていた。だから一度怒って見せることで、本当は嘘に気付いていたと――そしてこれからは全て受け入れる覚悟ができたことを、示したんだろう」
だが、怒られる紀伊国はとばっちりでもある。まあ、騙してきたのは確かなのだが。
そして梨々子の言葉を伝えるという新たな任務を受けたアイビーは、溜め息というものを吐くのは、きっとこういうときなのだろうと学んだ。