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第5回

ー/ー



●狭  間

 またあの夢だと思った。

 けれどそれは今までのものとは違う、かといって、ただの夢でもない、夢だった。

 伸ばした自分の手の先も見えない暗闇。一筋の光すら存在しない。そんな闇の中で、彼女はうつ伏せになっていた。
 一体いつから、なぜこうしているのか分からない。ただ、こうしているととても心が落ち着けて、すごく気持ちがよかった。

 体が異様に重かった。これといって痛む箇所はないけれど、なぜかどこもかしこもひどく疲れきっていて、このまま眠ってしまいたいほどだ。
 何も考えられなくて、からっぽなはずの頭が、妙に重くて(わずら)わしい。
 こってりとした気怠さが、十重二十重にと自分を包みこんでいる。

 もう何も考えたくない。もう眠ってしまいたい。
 そうすれば、いつか楽になれる。

 根拠はどこにもなかったが、別段おかしいとも思わずに、彼女はそう信じきっていた。

『セオドア』

 不意に、闇のどこからか自分を呼ぶ声が起こる。顔を上げて声のしたほうを見ようとしたけれど、もう指一本動かせないほど心地よい睡魔が彼女の体を満遍なく満たしていた。

『起きなさい』

 優しく、そして厳しい声は、頭上からだ。
 うっすらと開いた瞼の隙間から、靴先らしい闇が見える。

『さあ起きるのよ』

――できません。

 セオドアは呻くように頭の中でつぶやいた。

――できないんです。眠りたくて……もう、どうしようもなく疲れてしまって、このまま、こうしていたいんです。

『そう。それは大変ね。
 でもそれは、本当にあなたのしたいことなの?』

 声は尚も問いかける。

『それは今、あなたがどうしてもしたいと思っていること?』

――分かり、ません。

 一瞬、胸の中に沸き起こったものを感じて躊躇し、そう返す。

『では考えてみなさい。自分は一体何がしたいのかを。その上で、本当に眠りたいのであれば、そのまま眠るといいわ』

 選ぶのは自由で強要はしないと言うその声の言葉に、とりあえず従おうとするのだが、しかし鈍くなった頭はいつまでも働きだしてはくれなかった。

 なぜ自分はここにいるのか、ここはどこなのか、どうして眠りたがっているのか。
 疑問はわくのだがそれは考えてはいけないことだという甘い誘いがどこかでしていた。

〈このままでいいじゃないか〉

 誘いがささやく。

〈こうしていると、気持ちがいいだろう? とっても楽で、あっちなんかよりずうっと心が穏やかだと思わないか? もう心配することなんて何一つない。ほら、気分だってずっといいだろ? ここには気にかけるようなことは何もないし、だれもいない。
 このまま安らかにいられる方が、断然いいに決まってるさ。そうしなよ〉

 それは抗い難い誘惑。全身が浸り切った眠りは強い薬のようで、抵抗しきれない。
 諦め、流されかけたセオドアに、声は再び問いを投げかけた。

『喜びや楽しみをずっと感じ続けていられることは、とてもすてきね。辛いことなんて何一つなくて、ずうっとそうしていられたら、それはきっと、とても楽なことなのでしょうね、人にとって。けれど、だれもがそうできるわけではないことを、あなたは知っているでしょう?
 ここにはない、苦しみがあるわ。悲しみも、怒りも、あの世界にはあるの。大切な者を失う、哀しみもよ。
 戻れば、あなたはそのたびに傷つき、くじけ、翻弄されるでしょうね。でもそれを補ってあまりあるほどのものも、たしかにあるの。あなたは、その全てを手に入れることができるのよ。
 ここは、あなたが煩わしいと思うもの全てを取り去り、そうやって、とても楽な気持ちにしてくれるけれど、それはもう、何も手にするものはないということ。
 あなたが選びたいのは、こちら? それともそんな人たちのいる、向こう?』

 声は、先の誘いのように、誘惑の響きを含もうとはしなかった。むしろ意識して、感情を抑えながら静かに告げてくる。
 理性的なその言葉に、セオドアはここがどこであるのかをさとれた気がした。

『ここで眠り続けたいのであれば、そうしていなさい。悠久の安らぎが欲しいのであれば、私が導いてあげましょう。よくやったと言ってほしいのなら言ってあげてもいいわ。
 でもセオドア。辛い苦しみのある向こうの地で、それでも生きたいと思うのであれば、自分の足で立ちなさい。
 立って、そしてあの光に向かって歩きなさい。そうしたら、あなたが望まなくとも私は言ってあげるわ。よくやった、と』

 ここは冥界なのだ、と声は暗に告げていた。ここは死者の安息所に通じる道の半ばであると。
 だがまだ間に合うと言ってもいるのだ。

 そう思ったとき、セオドアの手のひらはこぶしを作った。

 確かに何の苦痛も苦悩もない世界はすばらしいと思う。死にすら怯えることのない、自分を害そうとする存在のない世界。ほかを気にかけ、心を煩わされたり、惑わされることもなく、ずっと穏やかな安らぎの心を保ち続けられる場所。
 そここそが、決して人の生きる世には築き得ない、理想郷であることは分かる。
 けれど、そこはまだ、自分の身を置く場所ではない。

「生、きたい……」

 そうつぶやいて、ぐっとこぶしに力をこめると、セオドアは渾身(こんしん)の力でもって身を起こした。

〈やめなよ。このままのほうがずっといいじゃないか。何もきみを傷つけたりしないよ? 全然痛いことなんかないし、それに、すぐに楽しい場所へ行けるんだ。
 そこにいる人はみんなきみのことが大好きで、だれもきみを悲しませたり傷つけたりなんかしないよ。あっちにいる人たちみたいにさ〉

 しつこく足や手にまとわりつく、ねっとりとした闇はさらに強烈な眠気をセオドアの中に送りこんできた。その、頭の芯がじん、と痺れるほどの甘い快楽にくじけそうになりながらも、必死に拒絶し続ける。

 不要と決めたことを強要してくる以上、それは自分を腕ずくで屈服させようとする力だ。
 強引に従わせようとする力になら、抗ってみせる。屈服してなるものか。

 今は拒んでも、やがて疲れた心の置き所として来ることになるだろう。けれどそれは今じゃなく、あくまで『いつか』なのだ。

 そうつぶやいて、ぐっとこぶしに力をこめると、セオドアは床から体を引き剥がすように身を起こそうとした。
 床にいて自分を捕らえ、快楽によって惑わそうとする誘いの手から一気に身を引き剥がして立ち上がる。
 セオドアの意識が覚醒するやいなや周囲の暗闇は劇的に薄まった。
 もしかするとこれは彼女の心象が投影される風景なのかもしれない。
 新月夜のように暗くはあるが、張りのある、すがすがしい空気がすでに辺りを満たし始めている。

 誘いたちの黒い手が、口惜しげに揺れながら床の奥底へ消えていった瞬間、なぜ忘れていられたのか不思議なほど、セオドアは今までの一切を思いだした。

 魅妖より守らなくてはならない存在――エセルの姿が、鮮明にセオドアの中に浮かび上がる。

 早く戻らなくては!

「あいつを、死なせては、いけない」

 はっきりと、明確な目的を持って口にしたセオドアの姿に、声の主らしき者は誇らしげにほほ笑んだ。

『そうよ、セオドア。よくやったわ』

 その姿は強い逆光によってほとんど見えなかったが、差し伸べられた左手の指に、蒼駕からもらったあの指輪を見つけて、セオドアはぐっと喉をつまらせる。

『さあいらっしゃい。あなたの望む場所へ連れて行ってあげるわ。そしてそここそが、本当に、あなたのいるべき場所なのよ』

「かあさん……」

 セオドアの持つ、多々ある感情・言葉全てが複雑に入りまじったその一言に、彼女は何も口にしなかった。けれど、かすかに、照れたような笑みを口元に浮かべた。

『生きなさい、セオドア。どんなにつらくとも。あの世界に、なんの意味も持たずに生まれる者などいはしないのだから。
 迷いに目を曇らせ、己の道を疑い、その意味を取り違えないように。正しい道を進む限り、私はあなたを見ているわ』

 だんだんと近付く光に飲まれる、最後の一瞬まで、セオドアはそう告げながらほほ笑む彼女から目をそらせず、ずっと、ずっと、遠ざかってゆくその遠影を目を凝らして見続けていた。


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 またあの夢だと思った。
 けれどそれは今までのものとは違う、かといって、ただの夢でもない、夢だった。
 伸ばした自分の手の先も見えない暗闇。一筋の光すら存在しない。そんな闇の中で、彼女はうつ伏せになっていた。
 一体いつから、なぜこうしているのか分からない。ただ、こうしているととても心が落ち着けて、すごく気持ちがよかった。
 体が異様に重かった。これといって痛む箇所はないけれど、なぜかどこもかしこもひどく疲れきっていて、このまま眠ってしまいたいほどだ。
 何も考えられなくて、からっぽなはずの頭が、妙に重くて|煩《わずら》わしい。
 こってりとした気怠さが、十重二十重にと自分を包みこんでいる。
 もう何も考えたくない。もう眠ってしまいたい。
 そうすれば、いつか楽になれる。
 根拠はどこにもなかったが、別段おかしいとも思わずに、彼女はそう信じきっていた。
『セオドア』
 不意に、闇のどこからか自分を呼ぶ声が起こる。顔を上げて声のしたほうを見ようとしたけれど、もう指一本動かせないほど心地よい睡魔が彼女の体を満遍なく満たしていた。
『起きなさい』
 優しく、そして厳しい声は、頭上からだ。
 うっすらと開いた瞼の隙間から、靴先らしい闇が見える。
『さあ起きるのよ』
――できません。
 セオドアは呻くように頭の中でつぶやいた。
――できないんです。眠りたくて……もう、どうしようもなく疲れてしまって、このまま、こうしていたいんです。
『そう。それは大変ね。
 でもそれは、本当にあなたのしたいことなの?』
 声は尚も問いかける。
『それは今、あなたがどうしてもしたいと思っていること?』
――分かり、ません。
 一瞬、胸の中に沸き起こったものを感じて躊躇し、そう返す。
『では考えてみなさい。自分は一体何がしたいのかを。その上で、本当に眠りたいのであれば、そのまま眠るといいわ』
 選ぶのは自由で強要はしないと言うその声の言葉に、とりあえず従おうとするのだが、しかし鈍くなった頭はいつまでも働きだしてはくれなかった。
 なぜ自分はここにいるのか、ここはどこなのか、どうして眠りたがっているのか。
 疑問はわくのだがそれは考えてはいけないことだという甘い誘いがどこかでしていた。
〈このままでいいじゃないか〉
 誘いがささやく。
〈こうしていると、気持ちがいいだろう? とっても楽で、あっちなんかよりずうっと心が穏やかだと思わないか? もう心配することなんて何一つない。ほら、気分だってずっといいだろ? ここには気にかけるようなことは何もないし、だれもいない。
 このまま安らかにいられる方が、断然いいに決まってるさ。そうしなよ〉
 それは抗い難い誘惑。全身が浸り切った眠りは強い薬のようで、抵抗しきれない。
 諦め、流されかけたセオドアに、声は再び問いを投げかけた。
『喜びや楽しみをずっと感じ続けていられることは、とてもすてきね。辛いことなんて何一つなくて、ずうっとそうしていられたら、それはきっと、とても楽なことなのでしょうね、人にとって。けれど、だれもがそうできるわけではないことを、あなたは知っているでしょう?
 ここにはない、苦しみがあるわ。悲しみも、怒りも、あの世界にはあるの。大切な者を失う、哀しみもよ。
 戻れば、あなたはそのたびに傷つき、くじけ、翻弄されるでしょうね。でもそれを補ってあまりあるほどのものも、たしかにあるの。あなたは、その全てを手に入れることができるのよ。
 ここは、あなたが煩わしいと思うもの全てを取り去り、そうやって、とても楽な気持ちにしてくれるけれど、それはもう、何も手にするものはないということ。
 あなたが選びたいのは、こちら? それともそんな人たちのいる、向こう?』
 声は、先の誘いのように、誘惑の響きを含もうとはしなかった。むしろ意識して、感情を抑えながら静かに告げてくる。
 理性的なその言葉に、セオドアはここがどこであるのかをさとれた気がした。
『ここで眠り続けたいのであれば、そうしていなさい。悠久の安らぎが欲しいのであれば、私が導いてあげましょう。よくやったと言ってほしいのなら言ってあげてもいいわ。
 でもセオドア。辛い苦しみのある向こうの地で、それでも生きたいと思うのであれば、自分の足で立ちなさい。
 立って、そしてあの光に向かって歩きなさい。そうしたら、あなたが望まなくとも私は言ってあげるわ。よくやった、と』
 ここは冥界なのだ、と声は暗に告げていた。ここは死者の安息所に通じる道の半ばであると。
 だがまだ間に合うと言ってもいるのだ。
 そう思ったとき、セオドアの手のひらはこぶしを作った。
 確かに何の苦痛も苦悩もない世界はすばらしいと思う。死にすら怯えることのない、自分を害そうとする存在のない世界。ほかを気にかけ、心を煩わされたり、惑わされることもなく、ずっと穏やかな安らぎの心を保ち続けられる場所。
 そここそが、決して人の生きる世には築き得ない、理想郷であることは分かる。
 けれど、そこはまだ、自分の身を置く場所ではない。
「生、きたい……」
 そうつぶやいて、ぐっとこぶしに力をこめると、セオドアは|渾身《こんしん》の力でもって身を起こした。
〈やめなよ。このままのほうがずっといいじゃないか。何もきみを傷つけたりしないよ? 全然痛いことなんかないし、それに、すぐに楽しい場所へ行けるんだ。
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 しつこく足や手にまとわりつく、ねっとりとした闇はさらに強烈な眠気をセオドアの中に送りこんできた。その、頭の芯がじん、と痺れるほどの甘い快楽にくじけそうになりながらも、必死に拒絶し続ける。
 不要と決めたことを強要してくる以上、それは自分を腕ずくで屈服させようとする力だ。
 強引に従わせようとする力になら、抗ってみせる。屈服してなるものか。
 今は拒んでも、やがて疲れた心の置き所として来ることになるだろう。けれどそれは今じゃなく、あくまで『いつか』なのだ。
 そうつぶやいて、ぐっとこぶしに力をこめると、セオドアは床から体を引き剥がすように身を起こそうとした。
 床にいて自分を捕らえ、快楽によって惑わそうとする誘いの手から一気に身を引き剥がして立ち上がる。
 セオドアの意識が覚醒するやいなや周囲の暗闇は劇的に薄まった。
 もしかするとこれは彼女の心象が投影される風景なのかもしれない。
 新月夜のように暗くはあるが、張りのある、すがすがしい空気がすでに辺りを満たし始めている。
 誘いたちの黒い手が、口惜しげに揺れながら床の奥底へ消えていった瞬間、なぜ忘れていられたのか不思議なほど、セオドアは今までの一切を思いだした。
 魅妖より守らなくてはならない存在――エセルの姿が、鮮明にセオドアの中に浮かび上がる。
 早く戻らなくては!
「あいつを、死なせては、いけない」
 はっきりと、明確な目的を持って口にしたセオドアの姿に、声の主らしき者は誇らしげにほほ笑んだ。
『そうよ、セオドア。よくやったわ』
 その姿は強い逆光によってほとんど見えなかったが、差し伸べられた左手の指に、蒼駕からもらったあの指輪を見つけて、セオドアはぐっと喉をつまらせる。
『さあいらっしゃい。あなたの望む場所へ連れて行ってあげるわ。そしてそここそが、本当に、あなたのいるべき場所なのよ』
「かあさん……」
 セオドアの持つ、多々ある感情・言葉全てが複雑に入りまじったその一言に、彼女は何も口にしなかった。けれど、かすかに、照れたような笑みを口元に浮かべた。
『生きなさい、セオドア。どんなにつらくとも。あの世界に、なんの意味も持たずに生まれる者などいはしないのだから。
 迷いに目を曇らせ、己の道を疑い、その意味を取り違えないように。正しい道を進む限り、私はあなたを見ているわ』
 だんだんと近付く光に飲まれる、最後の一瞬まで、セオドアはそう告げながらほほ笑む彼女から目をそらせず、ずっと、ずっと、遠ざかってゆくその遠影を目を凝らして見続けていた。