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第3回

ー/ー



●別  離

「ああ……っ」

 飢えた獣のように容赦なく全身にその牙を突き立てた氷柱に、朱廻の口からぱっと血塵が舞う。ぼきりと自分の骨の折れる鈍い音が数回、朱廻の痺れた耳に届いた。

「おうおう脆いこと。なんて貧弱なものだろう?」

 宙で捕えた朱廻から、自分の手を伝ってしたたり落ちる、決して少ないとはいえない血を見て冰巳が陶然とした声で言う。
 ふと。

「うん? よもやこの程度で死んだというのであるまいな?」

 横の壁へたたきつける冰巳。
 ぎり、とさらに強まったしめつけに声も出さず堪える、朱廻の歯が噛みしめられる。

「そうそう。おまえには、もっと醜くあがいてもらわねば。容易に死なれては、面白くないからな。
 そら。もっと醜く歪め。力のないものが死を恐れ、もがきのたうつ姿こそ、もっとも醜き姿よ」

 狂った獣のような醜怪な嗤いに薄い唇がますますめくれて、土気色した歯茎がのぞく。
 壁に貼り付けられた朱廻の肩に突き刺さったままの氷柱をつかみ、ねじった。さらに押し込み、それごと腕をちぎりとろうとする。
 寸断されてゆく筋肉の感触を、一つ一つ味わうようにゆっくりと。

「どうした? もはや痛みに悲鳴を上げることもできぬか。
 だがこの程度では足らぬ。まだまだ死なせてなどやるものか。私はきさまらをよぉーく知っているんだ。
 人なんかと違って、こうして四肢を切断し、そのおきれいな顔を剥いでも、それでも死ねないのだろう? 胸部の奥底にある芯を破壊されるか、頭部を完全に破壊されないとだめなんだ。
 壊れにくいおもちゃ。それがおまえたち魔断さ」

 血の通わなくなった朱廻の右手から、破魔の剣がこぼれ落ちる。

「あーっはっはっはっは!
 もっと、もっとだ。もっと苦しめ!もがいて泣いて、哀願してみろ! そうすれば――」

 床に突き刺さるそれを見て己の勝利を確信し、ことさら高く嘲る冰巳の姿と声が、痛みに遠のきかけた朱廻の意識の大部分を占める。残りは、今までの主人達の遠影。次々と浮かんでは闇の中に消えていく。

 そして最後の操主となるだろう、ルチアの顔が鮮明に浮かんだとき。
 朱廻は、同じ声がいくつも重なったような、水中で聞くようにぼやけているが、本質的には透き通った、まだ若い、少年の声を聞いた。

『朱廻、おまえは死んじゃいけない』

 それは人のものとも思えない、かといって自分のようなものでも魅魎などの自我欲に凝り固まったものでもない。
 まるでこの世の何にも属さない、束縛という干渉を受けない、異質な……やすらぎに満ちた穏やかな声。
 胸に浮かんでいたルチアが発しているのではないかと錯覚する、無垢な声に、朱廻はまさかと目を見開いた。

 そこには懐かしい、明るい榛色(はしばみいろ)の瞳と同色の髪を撫でつけた少年がいた。

 見覚えのある、勝ち気な大きな瞳。高揚した健康的な頬に強気の笑みをひいて、腰元に手をあてている。
 純白の盛装衣、肩から落とした聖布。鈍色した魔導杖を、腰帯に斜に挟みこんで……。

 20年経た今でも、まるで昨日の出来事のようにはっきりと覚えている。自分と感応したばかりの、そしてこれからへの期待に満ち溢れていたルチア。

『おまえは、消えちゃいけないんだ』

「ルチア!? まさか――」

 どくん、と。息もできないほど激しい痛みめいた音をたてて、動悸が格段に強まる。

『魅魎を断つ力を、おまえは持っている。人にとって、本当に希有な存在は俺たち退魔師じゃなく、こんな弱い人間の味方になってくれる、おまえたちのほうなんだ。
 俺なんかに気兼ねするんじゃない。もう、俺はいいから。おまえはその力を、この世界から失わせちゃいけない』

「そんな……そんなことより、どうかルチア! お願いです!! 早く戻ってください! 必ず助けます! 助けますから!」

 恐怖にわななく心の底から必死に哀願する。朱廻のその姿にルチアは、普段であれば絶対に見せたりしない、どこか泣きたがっているような、でも嬉しがっているような、はかないほほ笑みを浮かべると、朱廻の紅玉の瞳を押し隠すようにして額に手をあてた。

『いつかまためぐり逢う、新しい主人のために、おまえは生きろ』

 薄れゆく気配とともに外された手の下、朱廻の額には、紅玉石色の誓血石があった。

 誓血石。感応したあの日、ルチアに手渡した、己の心の一部。

「ルチア……」

 呆然と、その名をつぶやく。
 ルチアはもういない。どこにも、あの天幕にも。


 もう、この世界のどこにもいない!!


「――一撃で殺してやるよ?」

 唐突に現実の冰巳の声が聞こえてくる。その面には優しいとさえ表せる表情が浮かんでいたが、それは漣と同じで上辺だけの、到底信じるには値しない――だが、朱廻の怒りの豪炎を導くには十分の、ものだった。

「……魘魅!」

 文字どおり、血を吐く叫びとともに紅蓮の炎が朱廻の全身から噴き出す。
 まるで命をも吹きこまれたように炎は自然と龍の形を取り、燃え上がる雄叫びを放つや驚異的な速度でもって朱廻の体を捕えた腕を伝い、冰巳の全身を覆いつくした。

「ぎゃああああああっ!!」

 己が焼ける痛みに全身を引き攣らせ、悲鳴を上げて水の中を転がる。だが、人のひざまでの高さしかない水では、肥大した冰巳の体についた炎を消すには足りない。
 怒りによって導かれた炎は何よりも強い。そう思わなくては説明がつかないほど、このとき導かれた炎は凄まじかった。
 新たに再生しようとする細胞よりも、その細胞までも焼きつくそうとする猛火の方がはるかに勝っているのだ。

 操主の助けもなく、たかが300年生きただけの自分に、なぜこれほどの炎を導けたのか……。

 怒りと悲しみにとらわれた心のどこかがちらと考えたが、それはもはや、今の朱廻にはどうでもいいことだった。

「ひいっ、……ひいいっ」

 熱で溶けただれ、崩れゆく顔を覆い、浅い水の中を転げ回って消そうと躍起になっている。

「無駄だ! 私の炎はそれごときで防げるものではない!」

 憎悪もあらわに言葉を叩きつける。それは、聞く者をおののかせる、恐ろしく冷徹な声だった。
 彼を、温和で情け深い者であると信じ切っているセオドアには到底想像もつかない厳しさで、朱廻は冰巳を裁いていた。

 ルチアを、自分から奪ったことを。

「そんなばかな……この私が……」

 これは何かの間違いだと、虚ろな声がする。
 全身を襲う苦痛によろけながら、冰巳は炎天下の犬のようにあえいだ。

「……許さん! きさまだけは、許すものかーっ!」

 全身から発せられる叫び。
 燃え盛る体のまま、朱廻へと突進する。

 その姿を見据えて、静かに、床に突き刺さった剣を引き抜くと、持ち直し、かまえて。朱廻は受けてたつようにまっすぐ突きこんだ。
 人であるならばちょうど右の鎖骨、その裏に隠れるようにしてある、依り代へ向けて。

 冰巳の爪は空を()ぎ、ぐずぐずに崩れかけた体を貫いた破魔の剣は、ガチリと音をたてて依り代に刃先を食いこませる。

「こんな……きさまなどに……私、が……」

 これは何かの間違いだと、虚ろな声が降ってくる。
 だが主のその思いを裏切るように、依り代は粉々に砕け散る音を周囲に響かせた。

 依り代を失った冰巳の体はひと握りの塵と化し、散ってゆく。

 その光景に朱廻の手から力が抜け、破魔の剣がこぼれ落ちる。よろけ、ずるずると壁にそってその場に身を崩した朱廻の瞳にはもう、あの烈火の如く燃え盛っていた怒りの輝きはなく。ただ、深い絶望をたたえた哀しみの色だけが満ちている。

「分かっています、ルチア。今だけです。今だけ――つとめは、果たしますから……」

 荒い息を吐き出しながら、かみ締めるようにつぶやく朱廻の頬を、静かに涙が伝っていく。
 失われた血と折れた骨のせいで感覚のほとんどを失っている四肢を無造作に投げ出して目を閉じた。

 ここで死んでしまえたら、いっそどんなに楽だろう。そうすればもう、こんな悲しみを味合わずにすむ。これ以上、だれも失わずにすむのに。

紅刺(こうし)さん……どうか、あの方をお願いします。私はまだ、動けそうにありません……」

 だれともなしにつぶやく。それはもはや声にもなっておらず、がくりと朱廻は頭を垂らした。


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「ああ……っ」
 飢えた獣のように容赦なく全身にその牙を突き立てた氷柱に、朱廻の口からぱっと血塵が舞う。ぼきりと自分の骨の折れる鈍い音が数回、朱廻の痺れた耳に届いた。
「おうおう脆いこと。なんて貧弱なものだろう?」
 宙で捕えた朱廻から、自分の手を伝ってしたたり落ちる、決して少ないとはいえない血を見て冰巳が陶然とした声で言う。
 ふと。
「うん? よもやこの程度で死んだというのであるまいな?」
 横の壁へたたきつける冰巳。
 ぎり、とさらに強まったしめつけに声も出さず堪える、朱廻の歯が噛みしめられる。
「そうそう。おまえには、もっと醜くあがいてもらわねば。容易に死なれては、面白くないからな。
 そら。もっと醜く歪め。力のないものが死を恐れ、もがきのたうつ姿こそ、もっとも醜き姿よ」
 狂った獣のような醜怪な嗤いに薄い唇がますますめくれて、土気色した歯茎がのぞく。
 壁に貼り付けられた朱廻の肩に突き刺さったままの氷柱をつかみ、ねじった。さらに押し込み、それごと腕をちぎりとろうとする。
 寸断されてゆく筋肉の感触を、一つ一つ味わうようにゆっくりと。
「どうした? もはや痛みに悲鳴を上げることもできぬか。
 だがこの程度では足らぬ。まだまだ死なせてなどやるものか。私はきさまらをよぉーく知っているんだ。
 人なんかと違って、こうして四肢を切断し、そのおきれいな顔を剥いでも、それでも死ねないのだろう? 胸部の奥底にある芯を破壊されるか、頭部を完全に破壊されないとだめなんだ。
 壊れにくいおもちゃ。それがおまえたち魔断さ」
 血の通わなくなった朱廻の右手から、破魔の剣がこぼれ落ちる。
「あーっはっはっはっは!
 もっと、もっとだ。もっと苦しめ!もがいて泣いて、哀願してみろ! そうすれば――」
 床に突き刺さるそれを見て己の勝利を確信し、ことさら高く嘲る冰巳の姿と声が、痛みに遠のきかけた朱廻の意識の大部分を占める。残りは、今までの主人達の遠影。次々と浮かんでは闇の中に消えていく。
 そして最後の操主となるだろう、ルチアの顔が鮮明に浮かんだとき。
 朱廻は、同じ声がいくつも重なったような、水中で聞くようにぼやけているが、本質的には透き通った、まだ若い、少年の声を聞いた。
『朱廻、おまえは死んじゃいけない』
 それは人のものとも思えない、かといって自分のようなものでも魅魎などの自我欲に凝り固まったものでもない。
 まるでこの世の何にも属さない、束縛という干渉を受けない、異質な……やすらぎに満ちた穏やかな声。
 胸に浮かんでいたルチアが発しているのではないかと錯覚する、無垢な声に、朱廻はまさかと目を見開いた。
 そこには懐かしい、明るい|榛色《はしばみいろ》の瞳と同色の髪を撫でつけた少年がいた。
 見覚えのある、勝ち気な大きな瞳。高揚した健康的な頬に強気の笑みをひいて、腰元に手をあてている。
 純白の盛装衣、肩から落とした聖布。鈍色した魔導杖を、腰帯に斜に挟みこんで……。
 20年経た今でも、まるで昨日の出来事のようにはっきりと覚えている。自分と感応したばかりの、そしてこれからへの期待に満ち溢れていたルチア。
『おまえは、消えちゃいけないんだ』
「ルチア!? まさか――」
 どくん、と。息もできないほど激しい痛みめいた音をたてて、動悸が格段に強まる。
『魅魎を断つ力を、おまえは持っている。人にとって、本当に希有な存在は俺たち退魔師じゃなく、こんな弱い人間の味方になってくれる、おまえたちのほうなんだ。
 俺なんかに気兼ねするんじゃない。もう、俺はいいから。おまえはその力を、この世界から失わせちゃいけない』
「そんな……そんなことより、どうかルチア! お願いです!! 早く戻ってください! 必ず助けます! 助けますから!」
 恐怖にわななく心の底から必死に哀願する。朱廻のその姿にルチアは、普段であれば絶対に見せたりしない、どこか泣きたがっているような、でも嬉しがっているような、はかないほほ笑みを浮かべると、朱廻の紅玉の瞳を押し隠すようにして額に手をあてた。
『いつかまためぐり逢う、新しい主人のために、おまえは生きろ』
 薄れゆく気配とともに外された手の下、朱廻の額には、紅玉石色の誓血石があった。
 誓血石。感応したあの日、ルチアに手渡した、己の心の一部。
「ルチア……」
 呆然と、その名をつぶやく。
 ルチアはもういない。どこにも、あの天幕にも。
 もう、この世界のどこにもいない!!
「――一撃で殺してやるよ?」
 唐突に現実の冰巳の声が聞こえてくる。その面には優しいとさえ表せる表情が浮かんでいたが、それは漣と同じで上辺だけの、到底信じるには値しない――だが、朱廻の怒りの豪炎を導くには十分の、ものだった。
「……魘魅!」
 文字どおり、血を吐く叫びとともに紅蓮の炎が朱廻の全身から噴き出す。
 まるで命をも吹きこまれたように炎は自然と龍の形を取り、燃え上がる雄叫びを放つや驚異的な速度でもって朱廻の体を捕えた腕を伝い、冰巳の全身を覆いつくした。
「ぎゃああああああっ!!」
 己が焼ける痛みに全身を引き攣らせ、悲鳴を上げて水の中を転がる。だが、人のひざまでの高さしかない水では、肥大した冰巳の体についた炎を消すには足りない。
 怒りによって導かれた炎は何よりも強い。そう思わなくては説明がつかないほど、このとき導かれた炎は凄まじかった。
 新たに再生しようとする細胞よりも、その細胞までも焼きつくそうとする猛火の方がはるかに勝っているのだ。
 操主の助けもなく、たかが300年生きただけの自分に、なぜこれほどの炎を導けたのか……。
 怒りと悲しみにとらわれた心のどこかがちらと考えたが、それはもはや、今の朱廻にはどうでもいいことだった。
「ひいっ、……ひいいっ」
 熱で溶けただれ、崩れゆく顔を覆い、浅い水の中を転げ回って消そうと躍起になっている。
「無駄だ! 私の炎はそれごときで防げるものではない!」
 憎悪もあらわに言葉を叩きつける。それは、聞く者をおののかせる、恐ろしく冷徹な声だった。
 彼を、温和で情け深い者であると信じ切っているセオドアには到底想像もつかない厳しさで、朱廻は冰巳を裁いていた。
 ルチアを、自分から奪ったことを。
「そんなばかな……この私が……」
 これは何かの間違いだと、虚ろな声がする。
 全身を襲う苦痛によろけながら、冰巳は炎天下の犬のようにあえいだ。
「……許さん! きさまだけは、許すものかーっ!」
 全身から発せられる叫び。
 燃え盛る体のまま、朱廻へと突進する。
 その姿を見据えて、静かに、床に突き刺さった剣を引き抜くと、持ち直し、かまえて。朱廻は受けてたつようにまっすぐ突きこんだ。
 人であるならばちょうど右の鎖骨、その裏に隠れるようにしてある、依り代へ向けて。
 冰巳の爪は空を|薙《な》ぎ、ぐずぐずに崩れかけた体を貫いた破魔の剣は、ガチリと音をたてて依り代に刃先を食いこませる。
「こんな……きさまなどに……私、が……」
 これは何かの間違いだと、虚ろな声が降ってくる。
 だが主のその思いを裏切るように、依り代は粉々に砕け散る音を周囲に響かせた。
 依り代を失った冰巳の体はひと握りの塵と化し、散ってゆく。
 その光景に朱廻の手から力が抜け、破魔の剣がこぼれ落ちる。よろけ、ずるずると壁にそってその場に身を崩した朱廻の瞳にはもう、あの烈火の如く燃え盛っていた怒りの輝きはなく。ただ、深い絶望をたたえた哀しみの色だけが満ちている。
「分かっています、ルチア。今だけです。今だけ――つとめは、果たしますから……」
 荒い息を吐き出しながら、かみ締めるようにつぶやく朱廻の頬を、静かに涙が伝っていく。
 失われた血と折れた骨のせいで感覚のほとんどを失っている四肢を無造作に投げ出して目を閉じた。
 ここで死んでしまえたら、いっそどんなに楽だろう。そうすればもう、こんな悲しみを味合わずにすむ。これ以上、だれも失わずにすむのに。
「|紅刺《こうし》さん……どうか、あの方をお願いします。私はまだ、動けそうにありません……」
 だれともなしにつぶやく。それはもはや声にもなっておらず、がくりと朱廻は頭を垂らした。