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第4回

ー/ー



●変  貌

 自然発光する水苔による明かりだけが唯一の光源である水路内の闇よりも、さらに濃い闇でほのかな灯をまとった己の身を包み、漣は()れるように足の指先のみを水面へと触れさせていた。

 しっとりとしたきめ細かな青白い肌は、口元へ指をあてる、ただそれだけの動作でさえなまめかしく映る。一体何がそんなにおかしいのか、クスクスとよく笑う、鈴のような声。透き通っているのに聞き惚れるにはどこか心に引っかかる。豊かに波打つ豪奢な金の髪一筋とっても腹立たしいほど魅力にあふれ、目を引かれずにいられないのだが、それ以上に彼女の本質の一端を露呈するような冷酷さを(はら)んだ眼差しに、膝がわななくほどの恐ろしさを感じずにいられない。

 到底、自分などのかなう相手ではない。

 本能的にそれと感じ取りながらも、しかしだからといって剣を捨て、抵抗を諦める気にはなれなかった。

「ねえ冰巳? こおんな場所へわざわざこの私を出向かせるだなんて、ちょっと厚かましすぎてると思わないかしら?」

 用心深く剣の柄に手をかける朱廻など目もくれず、その頭上を越えて、その先にいる冰巳を、あどけない、まるで無垢な少女さながらに、奥にある冷たい悪意を全く感じさせない声で責める。

「お、お許しを、わがきみ……」

 対して冰巳は、先までの自信と愉悦に満ち満ちたものとは正反対の、そして返事としては全く不似合いの、おびえた弱々しい声で、その場に膝を折り、頭を下げた。

「ほんと、あなたってどこまでも庸愚(ようぐ)な子ね。認めたくないけど、どうやら買いかぶっていたみたいだわ。
 私が何をしているのか、知っているはずよ? なのにたかがあなたごときが私の楽しみの邪魔をしようだなんて、一体何様になったつもりなのかしら?」

 それは幼い……外見はともかく、その内は本当に幼な子なのではないかとさえ疑いたくなるほど子どもっぽい表情を浮かべて漣は言う。

 その姿に全身が粟立ち、知らず朱廻は後退っていた。

 慄然(りつぜん)とする。
 死の臭いを含んだ純粋な恐怖が、自分を圧倒しているのが分かる。決して自分に向けられているわけではなく、自分はただ2人の魅魎のやり取りをはたから見ているだけなのに、足が小刻みに震え、身の疎む思いで壁へと肩を押しあてて、そのおかげで辛うじて立っていられるという始末だ。

 言うなればそれは、格の違いというものだった。

 その身から放出されている悪意。禍々しい、あまりに強大すぎる力が、空間を歪ませている。突然の転移に、引き裂かれた空間が彼女の周囲で悲鳴のようにひずんでいるのが分かる。
 彼女の、まるで理解の範疇(はんちゅう)を越えた残虐な性質を推し量ろうとするのは、さながら底があるのか全く予想のできない広大な暗黒の淵を覗き見るのに似ていた。

 冰巳のまとっていた威圧感さえ彼女の浮かべる冷笑には比べるまでもななく、頬を撫でてゆくそよ風のようなものだ。

 これほどまでにかけ離れた力の持ち主を前に、どうすれば戦意を沸き立たせられるのだろうか?
 何をしかけたところでおそらくそれは相手に触れることもできずにその効力を失ってしまうに違いない。

 今さらのように思い知る朱廻の前で、漣は呆れたように腕を胸のところで組み合わせた。

「もうすでに1つをあなたは使いものにならなくしてしまったわ。ほかの退魔師がやってくるまでの、ひまつぶしにととっておいたものだったのに。あれでは台なし。もう遊べないわ。なのに、今度は残りの3つとも取ってしまうつもりだったの?
 身にすぎた考えは、己の滅びを早めるだけだということも、覚えておいたほうがよかったわね……」

 低いつぶやきで終わる、その怒りの言葉に含まれた意味に気付いて、急ぎ冰巳が面を上げる。
 その前で、漣は上を向けて開いた手の中に、小さな小さな黒球を作り出した。

「お、お待ちください、わがきみ!」

 形とは裏腹の、凝縮された巨大な力に己の消滅を瞬時にさとった冰巳は顔色を失い、必死に存命を請う。けれども漣は不機嫌さを隠さず、まるで汚いものでも見るように冷然(れいぜん)とした態度で彼女を見下していた。

「私、何より馬鹿な子が嫌いよ。平気な顔して私をこんなにいら立たせるんだから。
 せっかくの私の楽しみを、自分勝手に損なわせようとするなんて、許せない。そんな子なんていらないわ。大嫌いだもの」

 きゃらきゃらと笑う、彼女は魅妖のはずだった。

 魅魔でなく、魎鬼帝でもない。今までにも幾度となくルチアとともに断ってきた魅妖。それ以前も含めれば、たしかに恐ろしい相手ではあるが自分1人であっても勝機は見つけられると思えた相手だ。
 なのにこの畏怖はなんだ? 身も心も萎縮させる、腹の奥底からこみ上げる恐怖は。

 ルチアがいないせいだろうか。
 操主がいないから、こんなにも心細さを感じるのか……。

「おそれながら、わがきみ!」

 ピン、と張りつめた糸のような冰巳の声に、朱廻の気は現実へと引き戻された。

「なあに? これだけ私に言わせておきながら、図々しくもまだ私に逆らうというの?」
「いいえ! ことここにおいてはもはや命乞いなど致しません! 浅はかな私の軽率な行動があなたさまのお心を痛めさせてしまったと思うだけで、私は私を許せません。この身を形造るものすべてをあなたさまにお返しし、この場において消滅することをなぜ(いと)いましょうか。
 この世界以上に大切なわがきみ。あなたさまこそ私の総て、私の神。そのあなたさまがお望みであられるなら、わざわざそのお手を煩わせることなく、自ら依り代を砕いて見せましょう」

 この殊勝な物言いに、漣も放とうとする手を一時止める。

「ですが、どうかわがきみ。今しばしの猶予をこの冰巳めにお与えください。そして、このものをわが手によって葬り去ることをどうか、どうかお許しくださいませ……!」
「なんですって?」

 ぴくりと漣の形の良い眉が反応する。

「この私にこのような醜い傷をつけ、誇りをズタズタに裂いたたものとして、この手で八つ裂きにせねば私の気がおさまらないのです!」
「あなたの気など、どうだっていいことよ。あれは私のおもちゃなの。私が目をつけ、残しておいたお人形よ。それでも欲しいと言うの?」
「……僭越(せんえつ)であることは百も承知しております。ですが、何とぞ……」

 それだけを口にして、じっと頭を垂れたまま微動だにしない冰巳に、漣はふっと息をつくとそれまで手にしていた力とともに殺気までも散らしてしまった。

「もういいわ。好きにしなさい」

 その言葉に、ぱっと喜びに輝いた目をして冰巳の面が上がる。

「あなたを傷つけたものは私を傷つけたも同じと思う、その一途さが可愛くないわけはないもの。
 それに、私には今のところあれがあるし。
 まったく、こっちの目をかすめるように小賢しいことばかりしてくれるわ。あれが人であるなら、とうに生気を喰らってやってるのだけど……ずっと扱いづらいったら。
 そう、私の気をささくれ立たせるのが上手ということでは、あなたや人間の数十倍も向こうが上ね、冰巳。
 まあ、手ごたえが大きいということは喜ばしいことではあるのだけれど」

 途中から、漣は冰巳や朱廻の理解を越える言葉をつぶやきながら親指の爪を歯ではじくと宙を見た。

 その『人ではない相手』のことを考えているのだろうか。やがて思い切ってか、目を移して再び2人を見たとき。漣は、組んでいた足を伸ばして宙に見えない足場でもあるように、すっくと立った。

「私の機嫌が良かったことにも感謝するのね、冰巳。少なくともここへ来てあげるほどにはまだあなたを買ってあげているのだから」
「あ、ありがとうございます、わがきみ」

 深々と頭を垂れる冰巳に、当然だと漣がうなずく。
 と、その目がおもむろに壁の朱廻へと向けられた。


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●変  貌
 自然発光する水苔による明かりだけが唯一の光源である水路内の闇よりも、さらに濃い闇でほのかな灯をまとった己の身を包み、漣は|戯《ざ》れるように足の指先のみを水面へと触れさせていた。
 しっとりとしたきめ細かな青白い肌は、口元へ指をあてる、ただそれだけの動作でさえなまめかしく映る。一体何がそんなにおかしいのか、クスクスとよく笑う、鈴のような声。透き通っているのに聞き惚れるにはどこか心に引っかかる。豊かに波打つ豪奢な金の髪一筋とっても腹立たしいほど魅力にあふれ、目を引かれずにいられないのだが、それ以上に彼女の本質の一端を露呈するような冷酷さを|孕《はら》んだ眼差しに、膝がわななくほどの恐ろしさを感じずにいられない。
 到底、自分などのかなう相手ではない。
 本能的にそれと感じ取りながらも、しかしだからといって剣を捨て、抵抗を諦める気にはなれなかった。
「ねえ冰巳? こおんな場所へわざわざこの私を出向かせるだなんて、ちょっと厚かましすぎてると思わないかしら?」
 用心深く剣の柄に手をかける朱廻など目もくれず、その頭上を越えて、その先にいる冰巳を、あどけない、まるで無垢な少女さながらに、奥にある冷たい悪意を全く感じさせない声で責める。
「お、お許しを、わがきみ……」
 対して冰巳は、先までの自信と愉悦に満ち満ちたものとは正反対の、そして返事としては全く不似合いの、おびえた弱々しい声で、その場に膝を折り、頭を下げた。
「ほんと、あなたってどこまでも|庸愚《ようぐ》な子ね。認めたくないけど、どうやら買いかぶっていたみたいだわ。
 私が何をしているのか、知っているはずよ? なのにたかがあなたごときが私の楽しみの邪魔をしようだなんて、一体何様になったつもりなのかしら?」
 それは幼い……外見はともかく、その内は本当に幼な子なのではないかとさえ疑いたくなるほど子どもっぽい表情を浮かべて漣は言う。
 その姿に全身が粟立ち、知らず朱廻は後退っていた。
 |慄然《りつぜん》とする。
 死の臭いを含んだ純粋な恐怖が、自分を圧倒しているのが分かる。決して自分に向けられているわけではなく、自分はただ2人の魅魎のやり取りをはたから見ているだけなのに、足が小刻みに震え、身の疎む思いで壁へと肩を押しあてて、そのおかげで辛うじて立っていられるという始末だ。
 言うなればそれは、格の違いというものだった。
 その身から放出されている悪意。禍々しい、あまりに強大すぎる力が、空間を歪ませている。突然の転移に、引き裂かれた空間が彼女の周囲で悲鳴のようにひずんでいるのが分かる。
 彼女の、まるで理解の|範疇《はんちゅう》を越えた残虐な性質を推し量ろうとするのは、さながら底があるのか全く予想のできない広大な暗黒の淵を覗き見るのに似ていた。
 冰巳のまとっていた威圧感さえ彼女の浮かべる冷笑には比べるまでもななく、頬を撫でてゆくそよ風のようなものだ。
 これほどまでにかけ離れた力の持ち主を前に、どうすれば戦意を沸き立たせられるのだろうか?
 何をしかけたところでおそらくそれは相手に触れることもできずにその効力を失ってしまうに違いない。
 今さらのように思い知る朱廻の前で、漣は呆れたように腕を胸のところで組み合わせた。
「もうすでに1つをあなたは使いものにならなくしてしまったわ。ほかの退魔師がやってくるまでの、ひまつぶしにととっておいたものだったのに。あれでは台なし。もう遊べないわ。なのに、今度は残りの3つとも取ってしまうつもりだったの?
 身にすぎた考えは、己の滅びを早めるだけだということも、覚えておいたほうがよかったわね……」
 低いつぶやきで終わる、その怒りの言葉に含まれた意味に気付いて、急ぎ冰巳が面を上げる。
 その前で、漣は上を向けて開いた手の中に、小さな小さな黒球を作り出した。
「お、お待ちください、わがきみ!」
 形とは裏腹の、凝縮された巨大な力に己の消滅を瞬時にさとった冰巳は顔色を失い、必死に存命を請う。けれども漣は不機嫌さを隠さず、まるで汚いものでも見るように|冷然《れいぜん》とした態度で彼女を見下していた。
「私、何より馬鹿な子が嫌いよ。平気な顔して私をこんなにいら立たせるんだから。
 せっかくの私の楽しみを、自分勝手に損なわせようとするなんて、許せない。そんな子なんていらないわ。大嫌いだもの」
 きゃらきゃらと笑う、彼女は魅妖のはずだった。
 魅魔でなく、魎鬼帝でもない。今までにも幾度となくルチアとともに断ってきた魅妖。それ以前も含めれば、たしかに恐ろしい相手ではあるが自分1人であっても勝機は見つけられると思えた相手だ。
 なのにこの畏怖はなんだ? 身も心も萎縮させる、腹の奥底からこみ上げる恐怖は。
 ルチアがいないせいだろうか。
 操主がいないから、こんなにも心細さを感じるのか……。
「おそれながら、わがきみ!」
 ピン、と張りつめた糸のような冰巳の声に、朱廻の気は現実へと引き戻された。
「なあに? これだけ私に言わせておきながら、図々しくもまだ私に逆らうというの?」
「いいえ! ことここにおいてはもはや命乞いなど致しません! 浅はかな私の軽率な行動があなたさまのお心を痛めさせてしまったと思うだけで、私は私を許せません。この身を形造るものすべてをあなたさまにお返しし、この場において消滅することをなぜ|厭《いと》いましょうか。
 この世界以上に大切なわがきみ。あなたさまこそ私の総て、私の神。そのあなたさまがお望みであられるなら、わざわざそのお手を煩わせることなく、自ら依り代を砕いて見せましょう」
 この殊勝な物言いに、漣も放とうとする手を一時止める。
「ですが、どうかわがきみ。今しばしの猶予をこの冰巳めにお与えください。そして、このものをわが手によって葬り去ることをどうか、どうかお許しくださいませ……!」
「なんですって?」
 ぴくりと漣の形の良い眉が反応する。
「この私にこのような醜い傷をつけ、誇りをズタズタに裂いたたものとして、この手で八つ裂きにせねば私の気がおさまらないのです!」
「あなたの気など、どうだっていいことよ。あれは私のおもちゃなの。私が目をつけ、残しておいたお人形よ。それでも欲しいと言うの?」
「……|僭越《せんえつ》であることは百も承知しております。ですが、何とぞ……」
 それだけを口にして、じっと頭を垂れたまま微動だにしない冰巳に、漣はふっと息をつくとそれまで手にしていた力とともに殺気までも散らしてしまった。
「もういいわ。好きにしなさい」
 その言葉に、ぱっと喜びに輝いた目をして冰巳の面が上がる。
「あなたを傷つけたものは私を傷つけたも同じと思う、その一途さが可愛くないわけはないもの。
 それに、私には今のところあれがあるし。
 まったく、こっちの目をかすめるように小賢しいことばかりしてくれるわ。あれが人であるなら、とうに生気を喰らってやってるのだけど……ずっと扱いづらいったら。
 そう、私の気をささくれ立たせるのが上手ということでは、あなたや人間の数十倍も向こうが上ね、冰巳。
 まあ、手ごたえが大きいということは喜ばしいことではあるのだけれど」
 途中から、漣は冰巳や朱廻の理解を越える言葉をつぶやきながら親指の爪を歯ではじくと宙を見た。
 その『人ではない相手』のことを考えているのだろうか。やがて思い切ってか、目を移して再び2人を見たとき。漣は、組んでいた足を伸ばして宙に見えない足場でもあるように、すっくと立った。
「私の機嫌が良かったことにも感謝するのね、冰巳。少なくともここへ来てあげるほどにはまだあなたを買ってあげているのだから」
「あ、ありがとうございます、わがきみ」
 深々と頭を垂れる冰巳に、当然だと漣がうなずく。
 と、その目がおもむろに壁の朱廻へと向けられた。