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第6回

ー/ー



憑  依(ひょうい)

 まる一昼夜、上がるばかりで一向に下がろうとしない熱のせいで膜が張っているようにぼうっとして、ほとんど何も聞きとれなくなっている耳に、魅魎が空間を開くときに生じる、まるでガラスが縦に割れるような、キン、という細くて高い音が聞こえたのは、朱廻が天幕を抜けてからまだ数分も経ていないころだった。

 こんなもの、聞き慣れたとは思いたくないが、退魔師になって二十数年の間、幾度となく聞いてきた音だ。驚くには値しない。

 寝返りをうち、その先の闇に、いるはずのないを見ても、ルチアはせいぜいため息をついただけだった。

「そんな所で覗き見をしてないで、ちゃんと姿を現したらどうだ。
 それとも何か? 二目と見れない醜怪な容貌でもしていて恥ずかしがっているのか?」

 人為らぬもの、物為らぬもの――(いちじる)しく周囲の空気を歪めた闇の気配を見据えて言う。
 その挑発に反応してか、明るい緑の宝石のような人の目らしきものが、一段と強まった闇の塊の中に浮かび上がった。

 緑は竜石や竜心珠を連想させ、大方において魔の嫌う色。憎悪し、見ることすら嫌悪する魅魎もいるのにめずらしいものだ、と思う。
 だがときおりその緑を(おとし)め、(けが)すという意味であえて用いる魅魎もいるので、やはり驚くほどでもない。

 瘴気でできた深い闇は、緑の双眸を嗤うように細めてルチアを見下ろすと、その下に浮かび上がった朱唇を月の形に開いた。

「ほう。そのような目にあいながら、まだそのような軽口がたたけるか。退魔師」

 それはまだ若い、少女のような女の声だった。
 熱でイカレた耳でも聞き覚えがある気がしたが、その声にこめられた嘲弄が、まさかと心に浮かんだその名を打ち消させる。

「退魔師が魅魎を前におびえたりしていたら、お役目失格だろう」

 魅魎の放つ瘴気に反応して、塞がりきれていない体の傷が活性化し始めた痛みを隠し、口端に笑みさえ浮かべて見せたルチアの言葉に、緑の目が線のように締まる。

「ふ。言いよるわ」

 す……とそれまで間を遮っていた闇の幕が引かれるように、魅魎の姿がその空間へと現れる。

「わが名は冰巳! わが主たる漣さまの命において、おまえを詰問しに参った!」

 高く言い放つ赤い唇、(たぐ)(まれ)な細い肢体を包むように背を埋めた、豊かで柔らかな金のくせ毛。月の下で見るほどに白く、なめらかな肌をしたその美しい姿を前に、ルチアは初めて驚愕し、目を(みは)った。

「き、さま……」
「ほお。やはりこの体の主を知っておるようだな。
 この女が、おまえに会いたいと愁傷(しゅうしょう)に泣いておったから、こうして私がその願いをかなえてやったというわけだ」

 目に見えて動揺しているルチアに、してやったりとばかりにくつりと嗤う。

 魅魎はよく生きた人間の体を使い、攻撃をしかけてくる。その方法であれば自分には傷一つつかず、何より相対する退魔師に与える精神的打撃が大きいからだ。
 彼らは面白いほど動揺し、ときには勝てる闘いも、自尊心もかなぐり捨てて、魅魎にあるはずもない慈悲を請い、ついには自らの命をも手放してゆく。しかも、それが情を移した相手であった場合、及ぼす葛藤は遥かに増大するのだ。

「きさま、憑依したな……!」

 噴き上がる怒りに我を忘れ、高ぶった心を隠しきれずにぎりりと奥歯をかみしめるルチアの姿を見て、満足そうにその形の良い唇を横に引く。

「この姿であれば私の気配はまぎれ、あの小うるさい者たちに悟られることはないからな。
 ゆうるりとおまえに訊けるというものよ」

 手入れの行き届いた細く長い全指で胸の辺りを差し示しながら、誇るように一言一句、愉悦の響きをこめて言ってくる。
 枕元に置かれた魔導杖にルチアが手を伸ばしても、冰巳は一向に動じる様子を見せず、見せつけるように優雅に弧を描いて足を組み替えた。

 心話を用いて朱廻を呼ぼうとするルチアの心の動きを見抜いて、伸ばした先のシーツを裂く。

「おまえはこの町で唯一主の手を逃れた退魔師と聞いたが、その賢しいおまえらしくもないな。確かにあの魔断であればおまえ1人を護ることはそう難しいことではないだろう。
 しかし、私はまだまだ幼くてな。我慢の仕方を覚えていない上に、人形遊びも好きときている。
 そう、特に赤い血を流す人形の体を引き裂くのは、好きだよ。恐怖し、死におびえて泣き叫ぶ声は、私の力に対する称賛でもある。実に小気味よくて、ぞくぞくする。
 わが主からのお言葉に、ここの者たちの存命はなかったことだし。私の気を損ねれば、せっかく主のお目こぼしに預かっている外の者たちがどうなるか――」

 言わずとも知れたことと、冰巳は笑ってそれ以上無駄に続けることはしなかった。

 ルチアが魔導杖で朱廻を喚べば、町の者たちを殺すというのだ。彼女にはそれを行うに足る力があり、今のルチアでは防げないというのも事実だった。魅魎が人の命を、足元を這う無視ほどにも気にかけてはいないことも。

 しかしだからといって彼女の体の本当の持ち主を見殺しにするわけにはいかなかった。
 魅魎は生きた人間にしか憑依できない。だが人の体は魅魎の強大な、そして穢れた気を受け入れられるようにはできていないのだ。ああして宙に浮いているだけで、おそろしい速さで生気を使い果たし、死んでしまう。

 一刻も早く憑離(ひょうり)させなくては。

「唯一、と言ったな……」

 傷の痛みをおして、寝台から身を起こして立ち上がった。
 闇につけられた傷がますます活性化して、内側でのたうち回っているのを感じる。
 焼き印を押されるような痛みに足ががくがくと震え、よろけて寝台にぶつかり、力なく手をつく。

「おまえ、まさか、ソジュールを……」

 平静を装い、慎重に出した問いに、冰巳はあえて言葉で答えなかった。
 その目、その口元に浮かんだいやらしい笑みが意味するところは一つ。

 血に染まった友の姿が脳裏をかすめた一瞬、ルチアの体からは重傷を負った者とは思えないほど凄まじい怒気が立ちのぼった。

「き、さまあ……っ!!」
「心配するな。今ごろちゃんとケスパの町に届いているさ。その内に妖鬼という、我らからの粋な贈り物付きでな。
 あやつに退魔師としての誇りがおまえほどにあれば、退魔師に退魔されたあとでこの町の者が生き残っていることをつぶやけるくらいの気力は残っているだろうさ」

 瞬間、怒涛の波となって突き上げた憤怒もあらわな目でルチアは冰巳をにらみつけた。
 もし視線で人が殺せるのだとしたなら、冰巳はとうにただの肉片となってしまっていたに違いない。賦活(ふかつ)された闇の傷による痛みまでも炎のような憤りに変えて、ルチアは憎悪の(みなぎ)った目で見据える。しかし辛うじて、その高ぶった感情の余波を外にいる朱廻に気付かれまいとするだけの理性は保てているようだった。

 その苦悶する姿にも、さも愉快そうに冰巳の目が細く締まる。

「ああ楽しいねぇ。おまえの肉体は闇に干渉されすぎているから、その心の内は手に取るように分かるよ。
 そう、おまえは今までにないほどの憎悪の力で私を憎み、断ちたいと渇望(かつぼう)しながら、それと同じくらいの強さでこの女を取り戻したがっている。
 おまえほどの退魔師をそこまで苦しめられるとは、私も嬉しいよ。よほど大事とみえるね、この体の前主が。
 いいんだよ? そこの破魔の剣で切りつけても」

 朱廻が置いていった、彼の長剣を指して、冰巳は言う。

「そうすれば、もしかすると助かるかもしれない。この女くらいはね」

 助けるつもりなどないくせに、よくもぬけぬけと……!

 さあ読めとばかりに心の中で叩きつけるように罵ると、芯まで熱くなりかけた頭を冷ますように二度振る。そうして再度仰ぎ見たルチアの瞳は先までのものとまるで違う、決意に満ち満ちたものとなっていた。

「……たしかに俺は、闇の傷を受けすぎた。これだけ闇に侵されては、退魔師としては致命的かもしれない。
 だがおかげで俺にもよく分かる。おまえが何をあせっているか」

 その、芝居がかった意味ありげな言葉が大きく的を射たか。冰巳があごを引き、身構える。

「あの少女だ。おまえたちが町で捕らえ損ねたセオドアという女退魔師を、おまえたちは恐れている」

 断言したのは思い当たる理由がないわけではなかったからだ。
 そうでなければ自分などにわざわざ問おうと来るものか。彼女を直接襲えばいい。今の彼女は魔導杖も持っていないのだから、簡単に殺せるだろう。

 けれど、まさにそれこそがこの者たちが懸念し、二の足を踏んでいる理由なのだ。

「彼女の瞳を見たのだろう。その力の発現におまえは本能的に畏怖(いふ)し、力を封じられた。封魔具も持たないただの少女に、だ」
「だ、黙れっ」

 ルチアの言葉に、冰巳は見るからに狼狽(ろうばい)していた。

「利いたふうな口をきくな! 既に生ける屍と化しておるくせに。そのような下等の身で、この私を愚弄するつもりか!」

 宙に四肢を張り、殺意のこもった目で威圧するようににらみつけ、それ以上言わせまいとする。
 その肯定したも同然の姿に、ルチアは推測を確信へと変えた。

「ならばどうして捨ておかない。転移鏡もなく、王都や幻聖宮との連絡を取る術も尽きたこの場では、私のように、もはや囚われの身も同然。おまえたちの謀計に支障をきたす恐れはないはずだ。
 なのになぜ、おまえの主は彼女にこだわり、おまえはそんなにもおびえる?」
「ぅ、うるさいっ! おまえごときの知ったことではないわ!!」

 無理矢理話を断ち切ろうする、張り詰めた威嚇の声が高く上がり、それに反応してルチアの体についた無数の傷が強くうずき始める。

 やはり!
 やはり、彼女があの……

 声も出せない激痛によろけながらも確信に目を輝かせるルチアの前で、突然冰巳の手の中の力がぐんと増した。

「この私がおびえるだと? ……この冰巳を前に、よくもそれだけの放言を吐けたものだ……」

 言葉さえも冷ややかな冷気をはらみ、ルチアを腹の底から(なぶ)ってゆく。
 冰巳の力の増大によって、天幕内の温度は急激に下がっていった。

「主からはあの小娘に関すること以外、何もご下命されてはいない。
 なんの気兼ねもなく、礼ができるというものだ!」

 がっ、と天井に向けて開いた冰巳の手のひらの上に現れた小さな白球が、その形とは裏腹に凄まじい威力を持っているのが分かる。

(朱廻)

 事ここに至り、ようやくルチアはひそかに心中で、ずっと生死をともにしてきた相棒である魔断の名を呼んだ。

(朱廻、来い)

 その身を取り巻く闇を対流させるほどの激情に支配された冰巳は、そのことに気付かない。

「地虫のように己の無力さに醜くもがいて死ね!
 おまえの命は私の新たな力となり、さらに数百年を生きる糧となろう!」

 けわしい口上とともに冰巳の手から膨大な力を凝縮した球が解き放たれ、瞬間、寝台ごとルチアを飲みこもうとするように肥大する。

「くそっ! 間に合わん!」

 とっさに破魔の剣を取り、球との間に掲げ持つ。その刀身にルチアの力が満ちたと同時に閃光が彼の視界をおおい――刹那、町の中央の館で緋色の玉座に座する漣の足元までも届く地鳴りが夜の静寂(しじま)をつんざいた。


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●|憑  依《ひょうい》
 まる一昼夜、上がるばかりで一向に下がろうとしない熱のせいで膜が張っているようにぼうっとして、ほとんど何も聞きとれなくなっている耳に、魅魎が空間を開くときに生じる、まるでガラスが縦に割れるような、キン、という細くて高い音が聞こえたのは、朱廻が天幕を抜けてからまだ数分も経ていないころだった。
 こんなもの、聞き慣れたとは思いたくないが、退魔師になって二十数年の間、幾度となく聞いてきた音だ。驚くには値しない。
 寝返りをうち、その先の闇に、いるはずのない《《もの》》を見ても、ルチアはせいぜいため息をついただけだった。
「そんな所で覗き見をしてないで、ちゃんと姿を現したらどうだ。
 それとも何か? 二目と見れない醜怪な容貌でもしていて恥ずかしがっているのか?」
 人為らぬもの、物為らぬもの――|著《いちじる》しく周囲の空気を歪めた闇の気配を見据えて言う。
 その挑発に反応してか、明るい緑の宝石のような人の目らしきものが、一段と強まった闇の塊の中に浮かび上がった。
 緑は竜石や竜心珠を連想させ、大方において魔の嫌う色。憎悪し、見ることすら嫌悪する魅魎もいるのにめずらしいものだ、と思う。
 だがときおりその緑を|貶《おとし》め、|穢《けが》すという意味であえて用いる魅魎もいるので、やはり驚くほどでもない。
 瘴気でできた深い闇は、緑の双眸を嗤うように細めてルチアを見下ろすと、その下に浮かび上がった朱唇を月の形に開いた。
「ほう。そのような目にあいながら、まだそのような軽口がたたけるか。退魔師」
 それはまだ若い、少女のような女の声だった。
 熱でイカレた耳でも聞き覚えがある気がしたが、その声にこめられた嘲弄が、まさかと心に浮かんだその名を打ち消させる。
「退魔師が魅魎を前におびえたりしていたら、お役目失格だろう」
 魅魎の放つ瘴気に反応して、塞がりきれていない体の傷が活性化し始めた痛みを隠し、口端に笑みさえ浮かべて見せたルチアの言葉に、緑の目が線のように締まる。
「ふ。言いよるわ」
 す……とそれまで間を遮っていた闇の幕が引かれるように、魅魎の姿がその空間へと現れる。
「わが名は冰巳! わが主たる漣さまの命において、おまえを詰問しに参った!」
 高く言い放つ赤い唇、|類《たぐ》い|希《まれ》な細い肢体を包むように背を埋めた、豊かで柔らかな金のくせ毛。月の下で見るほどに白く、なめらかな肌をしたその美しい姿を前に、ルチアは初めて驚愕し、目を|瞠《みは》った。
「き、さま……」
「ほお。やはりこの体の主を知っておるようだな。
 この女が、おまえに会いたいと|愁傷《しゅうしょう》に泣いておったから、こうして私がその願いをかなえてやったというわけだ」
 目に見えて動揺しているルチアに、してやったりとばかりにくつりと嗤う。
 魅魎はよく生きた人間の体を使い、攻撃をしかけてくる。その方法であれば自分には傷一つつかず、何より相対する退魔師に与える精神的打撃が大きいからだ。
 彼らは面白いほど動揺し、ときには勝てる闘いも、自尊心もかなぐり捨てて、魅魎にあるはずもない慈悲を請い、ついには自らの命をも手放してゆく。しかも、それが情を移した相手であった場合、及ぼす葛藤は遥かに増大するのだ。
「きさま、憑依したな……!」
 噴き上がる怒りに我を忘れ、高ぶった心を隠しきれずにぎりりと奥歯をかみしめるルチアの姿を見て、満足そうにその形の良い唇を横に引く。
「この姿であれば私の気配はまぎれ、あの小うるさい者たちに悟られることはないからな。
 ゆうるりとおまえに訊けるというものよ」
 手入れの行き届いた細く長い全指で胸の辺りを差し示しながら、誇るように一言一句、愉悦の響きをこめて言ってくる。
 枕元に置かれた魔導杖にルチアが手を伸ばしても、冰巳は一向に動じる様子を見せず、見せつけるように優雅に弧を描いて足を組み替えた。
 心話を用いて朱廻を呼ぼうとするルチアの心の動きを見抜いて、伸ばした先のシーツを裂く。
「おまえはこの町で唯一主の手を逃れた退魔師と聞いたが、その賢しいおまえらしくもないな。確かにあの魔断であればおまえ1人を護ることはそう難しいことではないだろう。
 しかし、私はまだまだ幼くてな。我慢の仕方を覚えていない上に、人形遊びも好きときている。
 そう、特に赤い血を流す人形の体を引き裂くのは、好きだよ。恐怖し、死におびえて泣き叫ぶ声は、私の力に対する称賛でもある。実に小気味よくて、ぞくぞくする。
 わが主からのお言葉に、ここの者たちの存命はなかったことだし。私の気を損ねれば、せっかく主のお目こぼしに預かっている外の者たちがどうなるか――」
 言わずとも知れたことと、冰巳は笑ってそれ以上無駄に続けることはしなかった。
 ルチアが魔導杖で朱廻を喚べば、町の者たちを殺すというのだ。彼女にはそれを行うに足る力があり、今のルチアでは防げないというのも事実だった。魅魎が人の命を、足元を這う無視ほどにも気にかけてはいないことも。
 しかしだからといって彼女の体の本当の持ち主を見殺しにするわけにはいかなかった。
 魅魎は生きた人間にしか憑依できない。だが人の体は魅魎の強大な、そして穢れた気を受け入れられるようにはできていないのだ。ああして宙に浮いているだけで、おそろしい速さで生気を使い果たし、死んでしまう。
 一刻も早く|憑離《ひょうり》させなくては。
「唯一、と言ったな……」
 傷の痛みをおして、寝台から身を起こして立ち上がった。
 闇につけられた傷がますます活性化して、内側でのたうち回っているのを感じる。
 焼き印を押されるような痛みに足ががくがくと震え、よろけて寝台にぶつかり、力なく手をつく。
「おまえ、まさか、ソジュールを……」
 平静を装い、慎重に出した問いに、冰巳はあえて言葉で答えなかった。
 その目、その口元に浮かんだいやらしい笑みが意味するところは一つ。
 血に染まった友の姿が脳裏をかすめた一瞬、ルチアの体からは重傷を負った者とは思えないほど凄まじい怒気が立ちのぼった。
「き、さまあ……っ!!」
「心配するな。今ごろちゃんとケスパの町に届いているさ。その内に妖鬼という、我らからの粋な贈り物付きでな。
 あやつに退魔師としての誇りがおまえほどにあれば、退魔師に退魔されたあとでこの町の者が生き残っていることをつぶやけるくらいの気力は残っているだろうさ」
 瞬間、怒涛の波となって突き上げた憤怒もあらわな目でルチアは冰巳をにらみつけた。
 もし視線で人が殺せるのだとしたなら、冰巳はとうにただの肉片となってしまっていたに違いない。|賦活《ふかつ》された闇の傷による痛みまでも炎のような憤りに変えて、ルチアは憎悪の|漲《みなぎ》った目で見据える。しかし辛うじて、その高ぶった感情の余波を外にいる朱廻に気付かれまいとするだけの理性は保てているようだった。
 その苦悶する姿にも、さも愉快そうに冰巳の目が細く締まる。
「ああ楽しいねぇ。おまえの肉体は闇に干渉されすぎているから、その心の内は手に取るように分かるよ。
 そう、おまえは今までにないほどの憎悪の力で私を憎み、断ちたいと|渇望《かつぼう》しながら、それと同じくらいの強さでこの女を取り戻したがっている。
 おまえほどの退魔師をそこまで苦しめられるとは、私も嬉しいよ。よほど大事とみえるね、この体の前主が。
 いいんだよ? そこの破魔の剣で切りつけても」
 朱廻が置いていった、彼の長剣を指して、冰巳は言う。
「そうすれば、もしかすると助かるかもしれない。この女くらいはね」
 助けるつもりなどないくせに、よくもぬけぬけと……!
 さあ読めとばかりに心の中で叩きつけるように罵ると、芯まで熱くなりかけた頭を冷ますように二度振る。そうして再度仰ぎ見たルチアの瞳は先までのものとまるで違う、決意に満ち満ちたものとなっていた。
「……たしかに俺は、闇の傷を受けすぎた。これだけ闇に侵されては、退魔師としては致命的かもしれない。
 だがおかげで俺にもよく分かる。おまえが何をあせっているか」
 その、芝居がかった意味ありげな言葉が大きく的を射たか。冰巳があごを引き、身構える。
「あの少女だ。おまえたちが町で捕らえ損ねたセオドアという女退魔師を、おまえたちは恐れている」
 断言したのは思い当たる理由がないわけではなかったからだ。
 そうでなければ自分などにわざわざ問おうと来るものか。彼女を直接襲えばいい。今の彼女は魔導杖も持っていないのだから、簡単に殺せるだろう。
 けれど、まさにそれこそがこの者たちが懸念し、二の足を踏んでいる理由なのだ。
「彼女の瞳を見たのだろう。その力の発現におまえは本能的に|畏怖《いふ》し、力を封じられた。封魔具も持たないただの少女に、だ」
「だ、黙れっ」
 ルチアの言葉に、冰巳は見るからに|狼狽《ろうばい》していた。
「利いたふうな口をきくな! 既に生ける屍と化しておるくせに。そのような下等の身で、この私を愚弄するつもりか!」
 宙に四肢を張り、殺意のこもった目で威圧するようににらみつけ、それ以上言わせまいとする。
 その肯定したも同然の姿に、ルチアは推測を確信へと変えた。
「ならばどうして捨ておかない。転移鏡もなく、王都や幻聖宮との連絡を取る術も尽きたこの場では、私のように、もはや囚われの身も同然。おまえたちの謀計に支障をきたす恐れはないはずだ。
 なのになぜ、おまえの主は彼女にこだわり、おまえはそんなにもおびえる?」
「ぅ、うるさいっ! おまえごときの知ったことではないわ!!」
 無理矢理話を断ち切ろうする、張り詰めた威嚇の声が高く上がり、それに反応してルチアの体についた無数の傷が強くうずき始める。
 やはり!
 やはり、彼女があの……
 声も出せない激痛によろけながらも確信に目を輝かせるルチアの前で、突然冰巳の手の中の力がぐんと増した。
「この私がおびえるだと? ……この冰巳を前に、よくもそれだけの放言を吐けたものだ……」
 言葉さえも冷ややかな冷気をはらみ、ルチアを腹の底から|嬲《なぶ》ってゆく。
 冰巳の力の増大によって、天幕内の温度は急激に下がっていった。
「主からはあの小娘に関すること以外、何もご下命されてはいない。
 なんの気兼ねもなく、礼ができるというものだ!」
 がっ、と天井に向けて開いた冰巳の手のひらの上に現れた小さな白球が、その形とは裏腹に凄まじい威力を持っているのが分かる。
(朱廻)
 事ここに至り、ようやくルチアはひそかに心中で、ずっと生死をともにしてきた相棒である魔断の名を呼んだ。
(朱廻、来い)
 その身を取り巻く闇を対流させるほどの激情に支配された冰巳は、そのことに気付かない。
「地虫のように己の無力さに醜くもがいて死ね!
 おまえの命は私の新たな力となり、さらに数百年を生きる糧となろう!」
 けわしい口上とともに冰巳の手から膨大な力を凝縮した球が解き放たれ、瞬間、寝台ごとルチアを飲みこもうとするように肥大する。
「くそっ! 間に合わん!」
 とっさに破魔の剣を取り、球との間に掲げ持つ。その刀身にルチアの力が満ちたと同時に閃光が彼の視界をおおい――刹那、町の中央の館で緋色の玉座に座する漣の足元までも届く地鳴りが夜の|静寂《しじま》をつんざいた。