「思い出せない……」
翌朝、雫はやや寝不足の目をこすりながら、井戸に向かっていた。
如月の話からすると、少なくとも如月は間違いなく自分に会っていると思えた。
話を誤魔化したのが、何よりの証左だ。
ごく自然に振舞っているように見えたが、普段何事にも平常心という感じの如月が、あの時はわずかに動揺していたと思う。
ただ、雫には全く思い出せなかった。
だとすれば、向こうが一方的に自分を認識したのかと思うが、それなら如月があそこまで雫に尽くして――文字通り命を賭して――くれる理由が分からない。
「うーん……なんだろ……」
バシャバシャ、と冷たい水で顔を流す。
立秋も過ぎ、月は葉月に入っている。
暑さはまだ少し残っているが、朝夕は涼しさも感じられることが多く、そして井戸の水はいつでも冷たいので顔を洗うと頭がさえてくる。
「あ、布巾、布巾……」
「どうぞ、雫姫」
「あ、ありがと……」
応えてから、雫は慌てて顔を起こした。
予想通りだが、そこに如月が立っている。
「き、如月!? いつからそこに」
「先刻から。雫姫が顔を洗っているのをお邪魔するわけにはいかないと思いましたが、布巾を持たずに顔を洗われていたので、布巾がいるかと」
「~~~~~~~」
完全に油断して、素のままで対応してしまった。
領主になってから、雫は常に自分を律している。
人々と対する時は、久遠院家の当主雫として相対し、威厳を保つ必要があると思っていた。
これは父もそうやっていたからだ。
父も、領民と触れ合う時と家族と触れ合う時では、言葉遣いも雰囲気もまるで違った。
だからそれが領主には必要なのだと雫は自分に言い聞かせて、家族同然の八次以外の前では常に領主として振舞い続けていたのだが。
「い、今のは忘れろ。いいな!」
「忘れろと言われれば忘れますが……でも、ここには私だけです。無理をなさらなくてもよろしいのでは」
「そうはいかん。私は久遠院家の当主だ。侮られることはあってはならない」
「それがお武家様に必要な事だとは理解しています。ですから普段は良いですが……ここは、私だけです。一応、家族ということになっていますし」
「あ……」
そういえばそうだった。
如月は、形だけとはいえ雫の夫、つまり家族だ。
家族枠である八次より、さらに近い関係になっている。
仮初だが。
「でも、私は……」
「行きずりの私相手に気張っても、というところです。雫姫の矜持は尊重いたしますが、私しかいない時は少しは緩めても誰も気にいたしませんよ」
如月は、本当に柔和な笑みを浮かべて雫を見ていた。
その顔は少し安心できるとすら思ってしまう。
「……他言無用、ですよ」
「もちろんです」
雫はそれを受けて、大きく息を吸い、それから吐いた。
「はーっ。分かりました。二人だけで肩肘張るのはやめます。でもそれなら、貴方の言葉遣いも少しは何とかならないですか? 丁寧すぎて」
「それは……難しいですね。私はこれが素です」
「素でそれなのですか。また、ずいぶん育ちが良かったのですか?」
すると如月は、一瞬これまで見たことがないほど複雑な表情になった。
だがそれはすぐに消えて、いつもの、しかし先の表情を見た後だと、明らかに作ったと思える笑みを浮かべる。
「そういうわけではないです。私は普通の貧農の出です。ただ、育ててくれた人は多分元は良い家の出だったのかと」
「……育ててくれた人?」
その言い方は奇妙だ。普通ならそこは、親のはずだが――。
「故あって、私は
十の頃に両親を亡くしました。それで引き取られたのが、妖切りだったので」
「……ものすごく今更なのですが、如月って一体何歳なのですか?」
すると、如月は今度は本当に面食らったような顔になった。
こんな顔もするのだ、と雫は少し面白くて笑いそうになる。
「そう言えば……言ってなかったですね。満年齢で十七です」
「え!? 嘘……」
「老けて見えましたか」
悪いと思いつつ、雫は頷いた。
「実のところ、ある程度はわざとです。妖切りとはいえ、若いと侮られることが多く、それでこのように。今ではこちらの方が馴染んでおりますが」
「あ……なるほどですね」
確かに、無頼漢ともされる妖切りで、いかにも若いと
下手に見られることもあるだろう。
そういう意味では、この風貌にしているのは納得だ。
「さて、それでは朝餉にしましょう。主菜は昨日、鮎を頂きましたから、朝から贅沢に行きますよ」
「それは……本当に贅沢ですね」
如月はそう笑いつつ、しかし鮎の味を想像したのか、少し嬉しそうでもあった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あれ。如月……? どこに行くのかしら」
昼まで領地を八次と見て回っていた雫は、用事があるという八次と別れて邸に戻ってきたところで、邸の影に消える如月に気付いた。
文字通り入れ違いだ。
太陽はちょうど中天。昼餉をこれから食べるつもりだったが、どこへ向かうのかが気になってきた。
「まだ時間はありますね」
そう言うと、雫は如月が消えた角まで行く。
角から覗き込むと、如月の後ろ姿が見えた。
この方向は、山に向かう道だ。
(薬草とかを採りに行くのでしょうか)
この地域ではあまり薬草などは採れないと思っていたが、確かに山の方に詳しい人間はいない。
如月が先日色々見つけてきていたが、あれはどうやって見つけたのかというのも気になってきた。
薬草なども採れるとなれば、それが新しい
生業に繋がる可能性もある。
蛇妖を何とかして、まだこの地を治めていく可能性が出てきている以上、この先の未来も考えなければならない。
(未来の事なんて――前は考えなかったのに)
蛇妖に殺される未来しかないと思っていたのは、ほんの半月ほど前だ。
それが、如月が来てからずっと前向きになっている自分に驚く。
話している回数などたかが知れているのに、それでも彼は雫を前向きにしてくれる何かがある様に思えた。
(それはともかく……どこまで行くのでしょう)
なんとなく見つからないように後をつけるが、だんだん道なき道に入っていく。
さすがにこれ以上は迷う可能性も――と思ったところで、如月が足を止めた。
「雫姫。この先はさすがに離れていては危険なので、来るのであれば隣に来ていただけますか」
「ふぇ!?」
如月が振り返って大きな声で呼びかけた。
一応、見つからないように身を隠していたつもりだが――雫はバツが悪そうに物陰から出てくる。
「いつ気付いていたのですか……」
「失礼ながら最初の角から。途中であきらめるかと思ったのですが、ここまで来られるとは」
「そりゃあ、私にとってこの地は庭みたいなものですから」
すると如月が小さく笑う。
(え――?)
急に、何かを思い出しそうになった。
その笑いが、忘れていた記憶を刺激し――。
「来ていただくのは構いませんが、さすがに離れないでください。運が悪いと熊に遭遇したりもしますから」
如月の言葉でそれが中断され――同時に聞いてはいけない単語を耳にした気がした。
「え。熊?!」
「大丈夫です。熊というのは本来臆病な生き物ですから、滅多なことで人は襲いません。ただし、逃げたらその限りではないので、私から離れないでください」
雫はコクコク、と頷く。
そして如月の袖を握った。
「雫姫?」
「そ、その、はぐれないように、です」
「その……でしたら、よろしければ」
すると如月はやはりあの安心できる笑みを浮かべ――雫の手を取った。
「この方が安心できるでしょう」
「そ、そうですね――」
『手を繋いだ方が安心できるね』
不意に、そんな言葉が思い出された。
それと同時に、一瞬、小さな影が幻視される。
(だ、れ……?)
だが、その答えを得られないまま、雫は如月に手を引かれて山道を分け入って歩いていた。