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ピュア

ー/ー



「私にとって、聡一郎は理想を体現した存在なの。穏やかで、理知的で、ユーモアとは縁遠い、不器用な現実主義者。私はそんな彼を愛しているの。そんな彼から揺るぎない信頼を寄せられたいの。構築された関係性を、崩されたくないの。本当に、ただそれだけ。だから私は、その願いが脅かされない限り、聡一郎の人間関係に干渉しないよ。ただ、必要なときに必要な判断を下せるように、可能な限り把握をしておくだけ。あなたならわかるよね? ずっと夏芽と一緒にいた小瀬さんなら、私の言いたいこと」
 また、ぞっとした。
 初めて会ったそのときから、ずっと樋渡綾のことを警戒していた。いくらにこやかだろうと、優しい言葉をかけて気遣ってくれようと、この人には底知れないなにかが潜んでいる――漠然とそう思っていたけれど、その正体が今、はっきりとわかった。
 この人は、私と同じなんだ。うまく言語化できないけれど、私と樋渡綾にはたしかな共通点がある。さらに付け加えると、彼女は私よりもよっぽどナチュラルで、真性だった。
「私は聡一郎に、あなたは夏芽に執着している。理想的な存在と、理想通りの関係性を築きたくて。もしかしたら、好意や親密に思う気持ちだってあるかもしれない。でも、私はそれってごっこ遊びのようなものだと思ってる。だって、私たちは個人的な理想や役割を、一方的に相手に強いているわけでしょう? それが人間関係の本質と言ってしまうとその通りなのかもしれないけれど、やっぱり執着している自覚がある以上、私たちが彼らに向けている感情は、好意とは違うジャンルに選り分けられるべきだよね」
「私はそんなつもりじゃありません」
 樋渡綾が、自分の内に飼っている醜い獣を晒す異常な人間に映った。このまま黙って話を聞いていると、間違いなく呑まれてしまうと思った。
「違うの? でもあなた、夏芽にあの子をけしかけたんだよね」
「あの子?」
「玲。樋渡玲」
 どうしてこの人が、と思った。いや、彼らは同じ家に住む家族なんだし、理屈の上では情報が伝わる可能性があることは理解できる。けれど、どうして当然のようにその状況を樋渡綾が把握している? 高校生にもなって、自分の好きな異性に対することだけでなく、その恋がどのように成就されようとしているのか、そんな状況説明まで姉弟間でなされているとは、とても信じられない。
「玲、私にはなんでも話してくれるの。ほんと、我ながら可愛い弟」
 あのシスコン野郎! 私はもう少しで盛大に舌打ちをするところだった。聡一郎からちらりと聞いていたけれど、姉だけじゃない。弟もまた、姉に対しては普通以上に距離が近いところにいたらしい。
 けれどおそらく、玲がそんなふうな価値観――姉に己の恋愛事情をつぶさに語ってしまうような歪な価値観――を身につけたのも、きっと元を辿れば樋渡綾の影響なのだろう。
「話が逸れちゃったけど、私が言いたいのは、和久井夏芽がまだ恋という概念に対して無防備で、恋愛感情に触れるのであればあくまでも段階的である必要があるって、誰より小瀬さんがわかっていたはずなんじゃない、ということだよ。本人以上に、あなたが一番」
 組まれた指から右手の人差し指が動き、ゆっくりとこちらに向けられた。放たれた言葉から細く伸びた指の丸く磨かれた爪先にまで、確たる意志が行き届いているような気がした。
「そのことを自覚した上で二人を意図的に引き合わせたのだとしたら、そこにはやっぱり小瀬さんの利己的なビジョンが介在しているはずだよね」
そこで言葉を区切り、樋渡綾は私に視線で返答を促した。私は結んだ唇を開くことができなかった。グラスの中のストローをゆっくりと回してから、樋渡綾は続ける。
「別に、あなたのそのスタンスを否定するつもりはないんだ。むしろ、今回の件について、あなたには本当に感謝しているの。可愛い弟が素敵な恋人を作って幸せな高校生活を送ることも、私の設定している理想の一つだったからね。あなたの働きなしに、二人が距離を縮めることはなかったんだと、玲の話を聞いていると素直にそう思う」
 樋渡綾と玲。二人はれっきとした姉弟で、血縁と時間が織りなした強固な関係性で結ばれている。そんな、想像に難くないはずの至極当然である事実を、今このとき、私は改めて意識させられた。そしてなぜだか、ほんの少しだけ悲しくなった。
「ただね、さっき言った利己的なビジョン――その存在は理解していても、その詳細や意図までは読み取れないの。だって、あの無垢で稚い夏芽は、言うなれば小瀬さんが時間をかけて、努力で造り上げた理想像であるわけじゃない? でも、小瀬さんは今、他でもない自分自身の意思でそこにヒビを入れようとしている。その点が、私にはどうしても不可解に映る。だって、私が聡一郎の恋愛を容認しているのとはわけが違うんだから。あなたの目的はなんなんだろう? あなたは、夏芽をどうしたいんだろう?」
 ――それを知りたいというのが、本題と言えば本題かな。
 樋渡綾はそう締めくくった。そして、目を瞑ってブレンドに口をつけた。薄く柔和な笑みが溶けるようにそっと広がるのを、私は眺めている。止まっていた時間が動き出し、自分一人だけが過去に取り残されてしまったような気がした。
 私の今日までの努力を、抱えていた矛盾を、樋渡綾は言い当ててみせた。もう、私の中には、彼女に対する敵意や嫌悪といった負の感情すら残っていなかった。『だからこの人と関わりたくなかったんだ』という、今更すぎる、どうしようもない嘆きが、胸の中で小さな木枯らしのように弱々しく渦巻いているだけだった。
「私は」
 うまく喉が開けなくて、呻くような低い声が漏れてしまう。
「ずっと、夏芽のことを見てきました。変わることなく今日まで生きてきたあの子を守りたい気持ちはあります。でも、あの子が今のまま変わることなく自然に生きるのは不可能です。もう、先延ばしできないところまで来てしまったんです。私は、私の知らないところで変わってしまうあの子を、見たくない」
 それだけのことを口にするのに、私は何度も息継ぎを必要とした。そしてますます、樋渡綾の異常性を実感する。どうしてこの人は、日常会話の延長のように心のうちをああも躊躇いなく曝け出すことができたんだ。
 樋渡綾は、数秒の間、考え込むように自分の手元を見つめていた。そして顔を上げると、再び私の目をまっすぐに捉える。
「もしかしたら小瀬さんは、夏芽に対して憧れを抱いているんじゃないかな」
 憧れ? それは場違いな言葉で、どこか滑稽な響きすら感じた。私が、夏芽に憧れている? まさか。
「見当違いですね」
 私はどうにかそれだけ口にした。樋渡綾は一度だけ頷いた。それは決して肯定なんかではなく、汚れた床を箒ではくような、ひどくそっけない相槌だった。
「つまり、小瀬さんは避け難く迫る自然な変化ではなく、あなた自身の手で夏芽を変えたいんだね」
「はい」
「そうすることで、ハッピーエンドを迎えられる?」
 ハッピーエンド。それは、私の中で大事にあたためていたつもりの言葉。握っていた小さな宝物が、いつの間にか樋渡綾の手に渡り、つぶさに観察されている。そんな気がした。
「はい」
 答えに窮してはいけない。私は、自分を奮い立たせて樋渡綾の視線を正面から受け止める。
「小瀬さんって――」
 この日、見知らぬ喫茶店で樋渡綾から向けられた言葉を、きっと私は生涯記憶しているだろう。
「とってもピュアなんだね」


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 また、ぞっとした。
 初めて会ったそのときから、ずっと樋渡綾のことを警戒していた。いくらにこやかだろうと、優しい言葉をかけて気遣ってくれようと、この人には底知れないなにかが潜んでいる――漠然とそう思っていたけれど、その正体が今、はっきりとわかった。
 この人は、私と同じなんだ。うまく言語化できないけれど、私と樋渡綾にはたしかな共通点がある。さらに付け加えると、彼女は私よりもよっぽどナチュラルで、真性だった。
「私は聡一郎に、あなたは夏芽に執着している。理想的な存在と、理想通りの関係性を築きたくて。もしかしたら、好意や親密に思う気持ちだってあるかもしれない。でも、私はそれってごっこ遊びのようなものだと思ってる。だって、私たちは個人的な理想や役割を、一方的に相手に強いているわけでしょう? それが人間関係の本質と言ってしまうとその通りなのかもしれないけれど、やっぱり執着している自覚がある以上、私たちが彼らに向けている感情は、好意とは違うジャンルに選り分けられるべきだよね」
「私はそんなつもりじゃありません」
 樋渡綾が、自分の内に飼っている醜い獣を晒す異常な人間に映った。このまま黙って話を聞いていると、間違いなく呑まれてしまうと思った。
「違うの? でもあなた、夏芽にあの子をけしかけたんだよね」
「あの子?」
「玲。樋渡玲」
 どうしてこの人が、と思った。いや、彼らは同じ家に住む家族なんだし、理屈の上では情報が伝わる可能性があることは理解できる。けれど、どうして当然のようにその状況を樋渡綾が把握している? 高校生にもなって、自分の好きな異性に対することだけでなく、その恋がどのように成就されようとしているのか、そんな状況説明まで姉弟間でなされているとは、とても信じられない。
「玲、私にはなんでも話してくれるの。ほんと、我ながら可愛い弟」
 あのシスコン野郎! 私はもう少しで盛大に舌打ちをするところだった。聡一郎からちらりと聞いていたけれど、姉だけじゃない。弟もまた、姉に対しては普通以上に距離が近いところにいたらしい。
 けれどおそらく、玲がそんなふうな価値観――姉に己の恋愛事情をつぶさに語ってしまうような歪な価値観――を身につけたのも、きっと元を辿れば樋渡綾の影響なのだろう。
「話が逸れちゃったけど、私が言いたいのは、和久井夏芽がまだ恋という概念に対して無防備で、恋愛感情に触れるのであればあくまでも段階的である必要があるって、誰より小瀬さんがわかっていたはずなんじゃない、ということだよ。本人以上に、あなたが一番」
 組まれた指から右手の人差し指が動き、ゆっくりとこちらに向けられた。放たれた言葉から細く伸びた指の丸く磨かれた爪先にまで、確たる意志が行き届いているような気がした。
「そのことを自覚した上で二人を意図的に引き合わせたのだとしたら、そこにはやっぱり小瀬さんの利己的なビジョンが介在しているはずだよね」
そこで言葉を区切り、樋渡綾は私に視線で返答を促した。私は結んだ唇を開くことができなかった。グラスの中のストローをゆっくりと回してから、樋渡綾は続ける。
「別に、あなたのそのスタンスを否定するつもりはないんだ。むしろ、今回の件について、あなたには本当に感謝しているの。可愛い弟が素敵な恋人を作って幸せな高校生活を送ることも、私の設定している理想の一つだったからね。あなたの働きなしに、二人が距離を縮めることはなかったんだと、玲の話を聞いていると素直にそう思う」
 樋渡綾と玲。二人はれっきとした姉弟で、血縁と時間が織りなした強固な関係性で結ばれている。そんな、想像に難くないはずの至極当然である事実を、今このとき、私は改めて意識させられた。そしてなぜだか、ほんの少しだけ悲しくなった。
「ただね、さっき言った利己的なビジョン――その存在は理解していても、その詳細や意図までは読み取れないの。だって、あの無垢で稚い夏芽は、言うなれば小瀬さんが時間をかけて、努力で造り上げた理想像であるわけじゃない? でも、小瀬さんは今、他でもない自分自身の意思でそこにヒビを入れようとしている。その点が、私にはどうしても不可解に映る。だって、私が聡一郎の恋愛を容認しているのとはわけが違うんだから。あなたの目的はなんなんだろう? あなたは、夏芽をどうしたいんだろう?」
 ――それを知りたいというのが、本題と言えば本題かな。
 樋渡綾はそう締めくくった。そして、目を瞑ってブレンドに口をつけた。薄く柔和な笑みが溶けるようにそっと広がるのを、私は眺めている。止まっていた時間が動き出し、自分一人だけが過去に取り残されてしまったような気がした。
 私の今日までの努力を、抱えていた矛盾を、樋渡綾は言い当ててみせた。もう、私の中には、彼女に対する敵意や嫌悪といった負の感情すら残っていなかった。『だからこの人と関わりたくなかったんだ』という、今更すぎる、どうしようもない嘆きが、胸の中で小さな木枯らしのように弱々しく渦巻いているだけだった。
「私は」
 うまく喉が開けなくて、呻くような低い声が漏れてしまう。
「ずっと、夏芽のことを見てきました。変わることなく今日まで生きてきたあの子を守りたい気持ちはあります。でも、あの子が今のまま変わることなく自然に生きるのは不可能です。もう、先延ばしできないところまで来てしまったんです。私は、私の知らないところで変わってしまうあの子を、見たくない」
 それだけのことを口にするのに、私は何度も息継ぎを必要とした。そしてますます、樋渡綾の異常性を実感する。どうしてこの人は、日常会話の延長のように心のうちをああも躊躇いなく曝け出すことができたんだ。
 樋渡綾は、数秒の間、考え込むように自分の手元を見つめていた。そして顔を上げると、再び私の目をまっすぐに捉える。
「もしかしたら小瀬さんは、夏芽に対して憧れを抱いているんじゃないかな」
 憧れ? それは場違いな言葉で、どこか滑稽な響きすら感じた。私が、夏芽に憧れている? まさか。
「見当違いですね」
 私はどうにかそれだけ口にした。樋渡綾は一度だけ頷いた。それは決して肯定なんかではなく、汚れた床を箒ではくような、ひどくそっけない相槌だった。
「つまり、小瀬さんは避け難く迫る自然な変化ではなく、あなた自身の手で夏芽を変えたいんだね」
「はい」
「そうすることで、ハッピーエンドを迎えられる?」
 ハッピーエンド。それは、私の中で大事にあたためていたつもりの言葉。握っていた小さな宝物が、いつの間にか樋渡綾の手に渡り、つぶさに観察されている。そんな気がした。
「はい」
 答えに窮してはいけない。私は、自分を奮い立たせて樋渡綾の視線を正面から受け止める。
「小瀬さんって――」
 この日、見知らぬ喫茶店で樋渡綾から向けられた言葉を、きっと私は生涯記憶しているだろう。
「とってもピュアなんだね」