了と一緒にいたことは、すぐに樋渡綾の口から聡一郎にチクられるだろうな、と覚悟していた。けれど、週末に聡一郎とメッセージや通話のやり取りをしていても、それまでと変わった様子はなく、むしろ私の方が不自然にメッセージを送りすぎてしまわないように気をつけなければいけなかった。
どういうつもりだろう、と私は疑問を覚える。樋渡綾は、間違いなく私と聡一郎が付き合っていることを知っているはずだ。そして、あのときの了の言葉からなにも読み取れないほど鈍いわけもない。だとすれば、私が二股をかけているという結論に至って当然なのに、どうやら聡一郎にはなにも伝えていないらしい。聡一郎がすべてを聞いた上で態度に出していないという可能性は、まずあり得ない。
樋渡綾の真意がわからず、晴れない気分のまま、月曜日を迎えた。教室に入ると、なぜか夏芽まで浮かない顔をしていて、私の姿を見ると「みーちゃん」と元気のない声が聞こえてきた。
「なに? 体調悪いなら保健室まで連れてったげるけど」
夏芽が朝一番に顔を合わせたときに辛そうな顔をしているのは、大体具合が悪いときだ。今日もそのパターンだろう、と思って先回りして提案すると、「ううん。そうじゃなくて」と、珍しく口ごもる様子だった。始業までまだ時間があったので、私は夏芽を連れて屋上に続く階段の踊り場に向かった。私たちの教室は三階にあって、屋上そのものは封鎖されているから、必然的にこの階段を登るのは人目を避けてなにごとか密談するときに限定される。
「なんかあったの」
切り出しやすいようにそう言ってあげると、夏芽は視線をあちこちさせたり、頑張ってローポニーにまとめた髪の毛を触ったりと落ち着かない仕草を繰り返すばかりで一向に話し始める兆しが見えない。多分、どこから話せばいいのかがわからないほど、混乱しているのだろう。
「あ、あのね、土曜日、玲と一緒に勉強するって言ったでしょ?」
「うん」
「勉強したあと、綾さんが蛍を見に連れて行ってくれたの」
「うん」
多分、時間帯的にショッピングモールで私と遭遇したあとだろう。夏芽からもなにも訊ねられないことから、どういうつもりか樋渡綾は私と了のことを誰にも口外していないことが推して知れた。
「そ、それで……」
いや、今は私のことなんてどうでもいいじゃないか。夏芽は今、大事なことを打ち明けようとしている。そんな予感があった。私たちにとって、とても大事なことを。頭の中で次の言葉を探しているであろうその様子を見つめながら、私の心臓が引き攣るように弾みだす。
「玲と、なにかあったんでしょ」
たまりかねて口出しすると、夏芽の表情は今にも泣き出しそうに歪んだ。
「れ、玲と二人で蛍を見に行ったんだけど、そのときにね、て、手を、繋いだんだ」
テヲ、ツナイダンダ。
不安に瞳を潤ませながら、夏芽が恐る恐る口にしたその言葉の意味を、私はすぐに理解することができなかった。手を繋いだ、とようやく頭が変換できたとき、私は困惑してしまった。
どうして、そんな些細なことを口にするのに、ここまで言葉を詰まらせる必要があるのだろう。
この子が恋愛感情やそれに近いあれこれから遠ざかって今日まで生きてきたのは誰よりも知っているはずなのに、私は、今の夏芽の様子にはっきりと違和感を覚えた。
「それで?」
私は続きを促す。夏芽は「え?」と予想外のことを訊かれたときのような反応を見せる。私はその察しの悪さに苛立ってしまう。夏芽に対して、優しくなれない。
「手繋いだだけじゃないでしょ? まだなにか話の続きがあるんじゃないの」
「み、みーちゃん、もしかして怒ってるの?」
詰め寄るような態度の私に、いよいよ夏芽は涙を流す一歩手前まで追い詰められてしまう。
「別に怒ってなんかない」
平坦に言おうとしたけれど、上手くいかなかった。しっかりしろ、と私は自分に言い聞かせる。どうにかひとつ咳払いをして「ごめん、続けて」と笑うことで、夏芽は少しだけ安心した様子だった。
「話の続きなんて言っても、玲と手を繋いで、一緒に林を抜けて川辺まで歩いて、蛍を見たの。ただそれだけのことなんだけど……なんだか、ずっと変な感じなの。家に帰ってからもそのときのことばっかり考えちゃって、玲にメッセージを送ろうとしても、なにを送ったらいいのかわからなくなっちゃって」
そこまで話して、夏芽はその場に膝を抱いてうずくまってしまう。まるで小さな子どもが拗ねてしまったときのような格好だった。
「とりあえず、玲となにかあったらまた教えて」
少し頭と心を整理する必要がある。私も、夏芽も。
普段は朗らかで爛漫としている夏芽の気持ちが沈んでしまうと、当然周囲に気づかれるのも時間の問題だった。男子に優しい言葉で気遣われ、女子からは察したふうに慰められていた。クラスメートだけでなく授業を終えた教師にまで「和久井、今日は元気ないな」と心配されていた。それらに応じ続けることで、放課後を迎える頃には、夏芽はすっかり気疲れしてしまっていた。
いよいよだ、と私は思った。いよいよ夏芽は、恋を知ろうとしている。私の望み通り、生まれ変わろうとしている。
本当に、私の望み通りなの?
くだらない自問自答だ。そのことを疑ってしまうと、私はなにも信じられなくなる。
とりあえず、玲にも話を聞いてみよう。夏芽の話だけだとわからなかった部分が見えてくるかもしれない。今日はアルバイトも、誰かと会う予定もない。私は早々に家に帰って一人になりたかった。姉の部屋からラークをくすねて、思考を落ち着けてから、玲にメッセージを送ろう。夏芽の方は、今日のところはひとまずつつかないでおこうか。明日、改めて顔を合わせたときにまだ元気が出ないようであれば、優しく慰めてあげればいい。
そんなことを考えながら校門を出たときだった。
「小瀬さん」
不意に名前を呼ばれた。覚えのある声だった。顔を見なくてもわかる。一瞬で心臓が弾んでしまった自分が、情けない。
「こんにちは、樋渡先輩」
ため息混じりに名前を呼んだにも関わらず、樋渡綾は一切表情を崩さずに笑っていた。