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完璧ノームコア

ー/ー



 了の部屋に泊まった次の日は、昼前に起きた。朝食は、彼が食欲のない日はこれですませるというゼリー飲料をもらった。大量にストックしてある中から私はマスカット味を選んで、了はグレープフルーツ味を選んだ。
 ドライブに行こうと提案したのは了だった。私は彼のクローゼットからシュプリームの白いTシャツとゆったりとしたケミカルウォッシュのデニムパンツ、それからマルセロバーロンの黒いキャップを選んで着替えた。もちろん全てメンズものだけれど、デニムパンツはウエストを調節できるものだったし、オーバーサイズのもので統一しているので全体の佇まいに違和感はない。普段登校するときに履いているリーボックのスニーカーとの相性も悪くなかった。
「欲しかったらそのまま着て帰ってもいいからな。シュプのTシャツなんてプレミアもんだけど、お前ならあげてもいいよ」
 と言われたけれど、変に借りを作りたくはないから笑って誤魔化しておいた。
 レクサスの助手席に乗るのはこれが二度目のことだった。当たり前のことなのだろうけれど、うちの家のミニバンとは乗り心地が全然違う(夏芽のところの軽自動車とは比較するのも憚られる)。柔らかい革のシートも、静かな走行音も、オーディオに繋いだスマホから流れているポスト・マローンも、エアコンからのかすかな冷風も、優しく理想的に私を包んでくれていて、マルボロの臭いがする欠伸すらもなんだか悪くないものに感じる。
「どっか行きたいとこ、ある?」
 曲と曲の切れ目に了が訊ねる。夏服が見たい、と私が言うと、左手でタバコの箱を探す素振りを見せながら「オッケー」と笑う。私は箱から一本とって自分の口に咥え、火をつけてから彼の口に咥えさせてやる。
 ドライブということで部屋を出たにも関わらず、行き先は地元のショッピングモールだった。土曜日ということもあり、駐車場はほとんど埋まっていた。車を降りると、了が私の手を取る。出会った日に海に行ったとき、手は繋がなかったのに、と思ったけれど、私はなにも言わず彼の薄い手を握る。
 いろいろな店を見て回ったけれどピンとくるものがなくて、買ったものといえば無くなりかけているファンデーションと、新商品のパウダータイプの日焼け止めくらいのものだった。夏芽と聡一郎のプレゼントの視察もしようと思っていたけれど、さすがにこのシチュエーションでは集中して見繕うことはできなかった。了は基本的にブランドものしか興味がないのか、アパレル雑貨を取り扱っているセレクトショップを少し覗いたくらいでそこまでショッピングに熱心な様子はなく、特に欲しいものも見つからないようだった。
 一通り店を回ると、了が「腹減らね?」と言ったので、私たちはフードコートへ向かった。昼時を少し過ぎているからか、いくつか空席がある。了がクレープ屋のレジに並んで、私が席取りをする。
 椅子に座ってスマホを触っていると、欠伸が漏れてしまう。ついさっきレクサスに乗っていたときとは違って、なんの予感も感じさせない、退屈と惰性を具現化したような欠伸だった。戻ってきた了にクリームブリュレのクレープを差し出されても、気分は上がらない。向かい合わせで座るけれど、お互いに口を開かず黙々とクレープを食べる。
 そろそろ帰ろうって提案しようかな、と、そんなことを考えていたときだった。
「もしかして小瀬さん?」
 頭上で、名前を呼ぶ声がした。顔を上げなくても、声だけでその正体に思い至った。だから私は、一瞬、その自分の認識が信じられなかった。
「……樋渡先輩」
 キャップのつばに遮られるようにして、顔を上げきるまで目の前に立つ人の顔は見えなかったけれど、やがて視界に入ってきたのは間違いなくあの樋渡綾だった。例の完璧な笑顔は、なにかの手違いで別人であってほしい、と見苦しく祈る私を嘲る笑みに映った。
「やっぱりそうだ。久しぶりだね」
「はい。卒業式以来ですね」
 肩甲骨よりも少し下あたりまで潔く下ろされたミディアムヘアは一目でわかるほど手入れが行き届いているし、薄く施されたナチュラルメイクは彼女の整った顔立ちをより清廉な印象に仕立て上げている。それはたしかに見慣れた樋渡綾の姿だ。
 私が違和感を覚えたのは、彼女の服装だった。
 肩にかけられた帆布の白いトートバッグ、黒い長袖のTシャツにベージュのチノパン、足元は黒いローファー。身につけているものは皺や汚れが一切なかった。
 その樋渡綾のコーディネートは、装飾するという概念の対極に位置するような、あまりに簡素すぎる服装だった。この人の私服姿を見るのは初めてだけれど、制服という普遍的なアイコンを取り払ったその単調で平坦な佇まいが、私には恐ろしく機械的に映った。
「一緒にいるのは、お友達かな?」
 そう言いながら樋渡綾は、初めまして、と微妙に体の向きを変えて小さくお辞儀をする。了が「初めまして」とにこやかに応じて、「知り合い?」と私に訊ねる。私は頷くことしかできなかった。
「まあ、友達っつーか、仲良くさせてもらってる感じっすね」
 軽薄に言って笑っている了を睨もうとして、だけど樋渡綾の手前そうすることができない。決定的なことこそ口にしていないけれど、どうぞ邪推してくださいと言っているようなものだった。樋渡綾は口角を上げるだけの笑みで頷き、再び私の方に向き直る。
「お邪魔しちゃってごめんね。たまたま見かけたものだから、つい声をかけちゃった」
「いえ」
「また、近いうちにゆっくり話そう」
「はい」
 じゃあね、とトートバッグの肩紐を持っていない方の手で樋渡綾が小さく手を振る。了が調子良くそれに合わせる。自然に伸びた背筋が人混みに消えたとき、私は初めて自分の体が強張り、心臓が不吉に弾んでいたことに気づいた。
「綺麗な人だな。なに、バイト先の人?」
「ううん」
 高校の二つ上の先輩だと教えると了は「え、年下だったの」と驚いていた。
「なんつうか、すげえ雰囲気ある人だな。あの地味な服さえどうにかすりゃ絶対モテるだろ、あの人」
「ほんとにね」
 私は、日頃からファッションのアドバイスをしてるんだけど耳を貸してくれなくて、といったふうに、いかにもなため息混じりにそう言った。あの人にあげるから今着てるこの一式もらっていい? ともう少しで口にしてしまいそうだった。


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 了の部屋に泊まった次の日は、昼前に起きた。朝食は、彼が食欲のない日はこれですませるというゼリー飲料をもらった。大量にストックしてある中から私はマスカット味を選んで、了はグレープフルーツ味を選んだ。
 ドライブに行こうと提案したのは了だった。私は彼のクローゼットからシュプリームの白いTシャツとゆったりとしたケミカルウォッシュのデニムパンツ、それからマルセロバーロンの黒いキャップを選んで着替えた。もちろん全てメンズものだけれど、デニムパンツはウエストを調節できるものだったし、オーバーサイズのもので統一しているので全体の佇まいに違和感はない。普段登校するときに履いているリーボックのスニーカーとの相性も悪くなかった。
「欲しかったらそのまま着て帰ってもいいからな。シュプのTシャツなんてプレミアもんだけど、お前ならあげてもいいよ」
 と言われたけれど、変に借りを作りたくはないから笑って誤魔化しておいた。
 レクサスの助手席に乗るのはこれが二度目のことだった。当たり前のことなのだろうけれど、うちの家のミニバンとは乗り心地が全然違う(夏芽のところの軽自動車とは比較するのも憚られる)。柔らかい革のシートも、静かな走行音も、オーディオに繋いだスマホから流れているポスト・マローンも、エアコンからのかすかな冷風も、優しく理想的に私を包んでくれていて、マルボロの臭いがする欠伸すらもなんだか悪くないものに感じる。
「どっか行きたいとこ、ある?」
 曲と曲の切れ目に了が訊ねる。夏服が見たい、と私が言うと、左手でタバコの箱を探す素振りを見せながら「オッケー」と笑う。私は箱から一本とって自分の口に咥え、火をつけてから彼の口に咥えさせてやる。
 ドライブということで部屋を出たにも関わらず、行き先は地元のショッピングモールだった。土曜日ということもあり、駐車場はほとんど埋まっていた。車を降りると、了が私の手を取る。出会った日に海に行ったとき、手は繋がなかったのに、と思ったけれど、私はなにも言わず彼の薄い手を握る。
 いろいろな店を見て回ったけれどピンとくるものがなくて、買ったものといえば無くなりかけているファンデーションと、新商品のパウダータイプの日焼け止めくらいのものだった。夏芽と聡一郎のプレゼントの視察もしようと思っていたけれど、さすがにこのシチュエーションでは集中して見繕うことはできなかった。了は基本的にブランドものしか興味がないのか、アパレル雑貨を取り扱っているセレクトショップを少し覗いたくらいでそこまでショッピングに熱心な様子はなく、特に欲しいものも見つからないようだった。
 一通り店を回ると、了が「腹減らね?」と言ったので、私たちはフードコートへ向かった。昼時を少し過ぎているからか、いくつか空席がある。了がクレープ屋のレジに並んで、私が席取りをする。
 椅子に座ってスマホを触っていると、欠伸が漏れてしまう。ついさっきレクサスに乗っていたときとは違って、なんの予感も感じさせない、退屈と惰性を具現化したような欠伸だった。戻ってきた了にクリームブリュレのクレープを差し出されても、気分は上がらない。向かい合わせで座るけれど、お互いに口を開かず黙々とクレープを食べる。
 そろそろ帰ろうって提案しようかな、と、そんなことを考えていたときだった。
「もしかして小瀬さん?」
 頭上で、名前を呼ぶ声がした。顔を上げなくても、声だけでその正体に思い至った。だから私は、一瞬、その自分の認識が信じられなかった。
「……樋渡先輩」
 キャップのつばに遮られるようにして、顔を上げきるまで目の前に立つ人の顔は見えなかったけれど、やがて視界に入ってきたのは間違いなくあの樋渡綾だった。例の完璧な笑顔は、なにかの手違いで別人であってほしい、と見苦しく祈る私を嘲る笑みに映った。
「やっぱりそうだ。久しぶりだね」
「はい。卒業式以来ですね」
 肩甲骨よりも少し下あたりまで潔く下ろされたミディアムヘアは一目でわかるほど手入れが行き届いているし、薄く施されたナチュラルメイクは彼女の整った顔立ちをより清廉な印象に仕立て上げている。それはたしかに見慣れた樋渡綾の姿だ。
 私が違和感を覚えたのは、彼女の服装だった。
 肩にかけられた帆布の白いトートバッグ、黒い長袖のTシャツにベージュのチノパン、足元は黒いローファー。身につけているものは皺や汚れが一切なかった。
 その樋渡綾のコーディネートは、装飾するという概念の対極に位置するような、あまりに簡素すぎる服装だった。この人の私服姿を見るのは初めてだけれど、制服という普遍的なアイコンを取り払ったその単調で平坦な佇まいが、私には恐ろしく機械的に映った。
「一緒にいるのは、お友達かな?」
 そう言いながら樋渡綾は、初めまして、と微妙に体の向きを変えて小さくお辞儀をする。了が「初めまして」とにこやかに応じて、「知り合い?」と私に訊ねる。私は頷くことしかできなかった。
「まあ、友達っつーか、仲良くさせてもらってる感じっすね」
 軽薄に言って笑っている了を睨もうとして、だけど樋渡綾の手前そうすることができない。決定的なことこそ口にしていないけれど、どうぞ邪推してくださいと言っているようなものだった。樋渡綾は口角を上げるだけの笑みで頷き、再び私の方に向き直る。
「お邪魔しちゃってごめんね。たまたま見かけたものだから、つい声をかけちゃった」
「いえ」
「また、近いうちにゆっくり話そう」
「はい」
 じゃあね、とトートバッグの肩紐を持っていない方の手で樋渡綾が小さく手を振る。了が調子良くそれに合わせる。自然に伸びた背筋が人混みに消えたとき、私は初めて自分の体が強張り、心臓が不吉に弾んでいたことに気づいた。
「綺麗な人だな。なに、バイト先の人?」
「ううん」
 高校の二つ上の先輩だと教えると了は「え、年下だったの」と驚いていた。
「なんつうか、すげえ雰囲気ある人だな。あの地味な服さえどうにかすりゃ絶対モテるだろ、あの人」
「ほんとにね」
 私は、日頃からファッションのアドバイスをしてるんだけど耳を貸してくれなくて、といったふうに、いかにもなため息混じりにそう言った。あの人にあげるから今着てるこの一式もらっていい? ともう少しで口にしてしまいそうだった。