シャワーを浴びて、普段から持ち運んでいるポーチに入っているもので簡単にメイクを済ませて、畳んだ制服を着込んで、了の部屋を出る。いつもと違う通学路が新鮮だった。普段は乗らない電車に乗って高校の最寄り駅まで向かう。少し時間に余裕があったから、コンビニに寄って雑誌を立ち読みしてパックのリプトンを買った。
そういえば、と私は思う。
了といる間、聡一郎のことをまったく考えなかった。それはつまり、あそこを訪れた当初の目的が文句なしに達成されているということに他ならず、私は了の部屋で、ちゃんと現実を忘れることができていたのだ。
忘れてしまえる程度のことだったんだな、つまり。
スマホを開くと、聡一郎からのメッセージが届いている。週末にピクニックに行かないか、と誘うメッセージだった。大学生になったばかりで忙しいはずなのに、聡一郎は週に一度は私と会おうとしてくれる。私の方だって、週に一度は会わないとなんとなく落ち着かない気持ちになる。けれどそれは彼に会いたい気持ちがもたらすときめきというより、果たすべき義務を果たせずにいるときの落ち着かなさに近い。
聡一郎が私に向ける言葉や態度に、嘘はないのだと思う。愛情と誠意を、彼なりに惜しみなく注いでくれているのだとも思う。けれど、けっきょく最後は優しく裏切られる。だから私たちが過ごした時間は、例外なく沈黙と気まずさで綴じられてしまう。
長岡聡一郎。これまでに関係を持った男の中で、一番賢く、一番謙虚で、一番不可解な人。私はそんな彼を、自分にはないものを持っている彼を、尊敬している。けれど、どこかで軽んじている。私自身は軽んじているつもりはないけれど、客観的にみると、私は言い訳のしようもなく、彼を軽んじていることになる。そういう視点を持つことは、とても大切だ。私のように、享楽的に生きている人間にとっては。
ついでにもう少し客観的に考えてみると、私は間違いなく聡一郎と別れたほうがいいのだろう。私が求めるものを与えてくれるのは聡一郎ではなく了だし、聡一郎が求めているものを、私はきっと与えられていない。そして、なにより今の私は、聡一郎を裏切ってしまっている。けれど、このまま別れてしまうには、私たちはあまりにお互いのことを理解していなさすぎる。
それに私は、恋愛関係の終わらせ方を知らない。何人もの男の子と関係を持ってきたけれど、「私たちは別れましょう」と実際にそのような言葉にしたことは一度としてなかった。これまであまり意識してこなかったけれど、入念な観察と下準備を以て関係を結んでいた理由の中には、関係を清算することのストレスや煩わしさを避けたい気持ちがあったのかもしれない。
すべて、自分で呑みこんでしまえばいいだけの話だ――そんなふうに開き直ることが、今の私にはまだ難しい。了と一緒にいるときはこうやってなにかについて真剣に考えることなんてなかった。彼といっしょに過ごす時間の効用を改めて意識してしまうと、ふわふわと浮かんでいるだけだった関係性の清算という選択肢が一気に現実的なものとなってしまう。
教室に入ると、一番に夏芽が「おはよっ」と抱きついてきた。夏芽からは、いつもの青いレモンのような匂いがする。
「あれ、みーちゃん、いつもと違う匂いがするね」
了の部屋の匂いだろう。フレグランスのサンプルをもらったからつけてみたと適当に答えておく。「そんなことよりさ」と私は夏芽を引き剥がした。
「昨日、玲と帰ったの?」
自分がけしかけたあの後輩がきちんとミッションを果たせたのか、そのことが気になっていた。
「うん。ゲームセンターに連れてってくれたよ」
「へえ」
夏芽が男の子と二人きりで出かけるのは、私が知る限り(まあおそらく正真正銘)これが初めてのことだった。もっと感情が揺さぶられるかと思ったけれど、意外なほど私はその事実をすんなりと受け入れられた。
「なんだっけ、名前は忘れちゃったけど、なんかいっぱいタッチするリズムゲームみたいなのがあって、それを玲がやってたんだけど、とっても上手でびっくりしちゃった」
「へえ」
玲が音ゲーを得意としているというのは、なんだかすごく納得してしまう、きっと、太鼓の達人のマイバチとか持ってるタイプだ。
「なんか話したりしたの?」
「んー、どんな人がタイプですかって訊かれたかな」
それはなかなか攻めた質問だ。
「で、なんて答えたの」
「そんなのわからないから、正直にわからないって答えたよ」
「そしたら玲は?」
「そうですか、ってつまんなそうな顔してたよ」
多分それは、つまんない顔じゃなくて残念に思う顔だ。私はちょっとだけ玲に同情してしまう。内緒だとか、恥ずかしくて言えない、じゃなくてわからないとくれば、がっかりするのも無理はない。
けれど、この様子だと、玲は思いのほか積極的にアプローチを仕掛けることができるのかもしれない。今は反応が芳しくなくとも、ある一点を超えると、夏芽は必ずその真意に触れる。そして、喜びやときめきよりも戸惑いを色濃く感じる。そうすれば、あの子は、十中八九私に相談してくるだろう。
日に日に、夏芽が恋心を抱くことに対して抵抗を感じなくなっているような気がする。私はそれを良い傾向だと――健全な傾向だと――そう思うようにする。