夏芽をけしかけたその日の放課後には、聡一郎と会うことになっていた。大学に遊びに行ったあの日からまだ一週間も経っていないのに、なんだかひどく久しぶりに会うような気がする。今日の約束を取りつけるとき、どこで会いたいかと訊かれて、私は迷いなく聡一郎の部屋と答えた。彼も受け入れてはくれたけれど、本心では外の方がいいと思っているのかもしれない。
わかっている。私を部屋に招いた聡一郎が、緊張と気遣い、そして罪悪感を抱いていること。そのせいで、外で会うときと比べて明らかに口数が少ないし、決して自分からは私の方に近づいてこない。だから、私にしてもそんな状態の恋人と会っても楽しいわけがないのだけれど、なんだか意固地になってしまって、見えない可能性みたいなものに縋ってしまう。
聡一郎と話がしたいなら、喫茶店にでも行けばいい。カメラを構えている姿を見たいのなら、公園を歩き回ればいい。けれどそれは、相手が私でなくてもできることだ。私は、私とでなければできないことを彼としたいと願っている。これからの二人についての展望を語り、本心を引き出したい。そんな真っ当で純粋な希望は、重い鎖で心の奥底に繋がれてしまっている。
大学の講義を終えた聡一郎と待ち合わせて、彼の部屋へと向かう。私は彼の手をとる。拒否されることはない。歩きながら、私たちはお互いの近況を報告をする。聡一郎が入ろうとしているゼミのことや、私のバイト先にそこそこ有名なユーチューバーが来たこと。聡一郎の笑みはぎこちない――ような気がする。実際のところがどうなのか、私にはよくわからない。
コーヒーを淹れるから先に部屋に向かっていてくれ、と聡一郎は言う。私は部屋に入ると、電気をつけて、半ば指定席と化しているベッドに腰掛ける。こうやって私がベッドにいることで聡一郎にプレッシャーを与えているであろうことはわかっていた。けれど、彼が気負うことのないように気遣い、譲歩するように振る舞うことはしたくなかった。案の定、カップを二つ手にして戻ってきた聡一郎はあまりこちらを見ないように机の上を片付けたり、落ちているゴミを拾ったりしている。まるで反発し合う磁石のように、私たちは一定の距離から近づけずにいる。
私は、沈黙を破るために夏芽と玲の関係を聡一郎に話した。
「そうか、玲は和久井のことが好きなのか」
と少し意外そうに聡一郎は言った。
「玲って、誰かと付き合ったりしたことあるのかな」
「彼女がいたって話は聞いたことがないな」
「ふうん」
実に想像通りだった。
「まあ、綾のような存在が身内にいたら、異性に対するハードルも無意識のうちに上がってしまうんだろうな」
「……ふうん」
玲の冴えない見た目に言及しないあたり、聡一郎も気を遣っているんだろうな、と、そう思おうとした。けれど、彼のその言葉は、私がずっと感じていた違和感を一気に鮮明なものとした。
だから私は、答え合わせのつもりでこう訊ねた。
「聡一郎ってさ、本当に樋渡先輩のことが好きなんだね」
すると、案の定、彼は迷いのない口ぶりで断言した。
「ああ。俺は綾のことが好きだよ」
「どんなところが好きなの?」
「核を持っているところ」
「カク?」
「コアだよ。彼女は、揺るがないんだ。誰といても、どんな状況でも。たとえ世界の終わりが目前に迫っていても、今と同じように笑っているだろうなって、そういうイメージが簡単に湧くんだ。そんな綾の再現性を俺は信頼している。その信頼が、換言するところの好意なんだ」
饒舌だな、と思った。私は「へえ」と言った。呆れとか、怖気とか、感心とか、新鮮さとか、得心とか、挙げていけばキリがないほどの感情が、その一言に詰まっていた。
「ごめん、もう帰るね。家の買い物頼まれてるの、忘れてた」
「ああ、わかった」
「コーヒー、淹れてくれたのにごめんね」
「ああ」
引き止める気配もなく、あっさりと聡一郎は私を見送る。
彼の表情を見るのが怖かった。寂しさや悔しさではなく、痛々しさを感じてしまうかもしれないと思った。
あの卒業式の夜以来、もしかしたら、という不定形な甘い理想を夢見て聡一郎の部屋に通っていた。けれど、彼の部屋を後にした今、不思議なほど頭が冷め切っている。
聡一郎は、樋渡綾のことを特別視している。それも、おそらくは本人が気づいていないほど、根深いところから。
知り合ってから今日まで、彼の口から、樋渡綾以外の異性の名前が出たことは一度だってなかった。それは、ある時点からは私を意識してのことだと思っていた。幼馴染である彼女以外の名前を、意図的に口にしていないのだとばかり思っていた。けれど、どうやら違うようだ。聡一郎はおそらく、掛値なしに樋渡綾以外の異性に関心がなかったのだ。
だとすると、私は? 急に寒気を感じる。聡一郎はどういうつもりで私を認め、私に告白したのだろう。彼の本心と、それに応えた私の本心。頭の中で生まれた不吉な黒いイメージを振り払おうとしたけれど、逆にその黒い靄の中に取り込まれてしまいそうな気がした。
だから私は、目を逸らした。考えないようにしよう。まるでスマホの待ち受け画面を変更するように、自分を取り囲むものを綺麗さっぱり変化させてしまえばいい。
私には、そうすることができるはずだ。
LINEのIDを交換して以来、その人の名前をタップするのは初めてだった。スタンプ一つさえ散らされていない寒々しいトークルームに、私は【今からそっち行きたい】、【部屋番教えて】と一方的なメッセージを送りこんだ。
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