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始動

ー/ー



 二人の先輩が卒業し、ボランティア部も畳まれて無所属の身となった夏芽は、放課後になると玲のために学校案内をしてあげたり、勉強を教えてあげたりしているらしい。「綾さんから玲のことを任されてる」とどこか自慢げに話していたけれど、そうやって夏芽が積極的に誰かの世話を焼くなんてこれまでになかったことで、どうやらあの子は私の想像以上に樋渡玲に関心があるらしい。
 だから私は興味を持った。あの陰気な後輩が、いったいどんな人間なのか。
「素直でいい子だよ」
 と夏芽は言う。
「一緒に遊んだりしたことはあるの?」
「ううん。勉強を教えてあげたことはあるけど」
「どこで?」
「綾さんち。あれ、前にもみーちゃんに話さなかったっけ?」
「そういえば聞いてたかも」
 もうなにそれ、と可愛らしく眉を顰める夏芽の頬を、ハンバーガーでも持つように右手で挟んで揉みしだいてやる。するとタコみたいに上下に伸びた唇が「やめてよ」と動く。夏芽のこの、癖になってしまいそうな柔らかい頬の手触りと間抜けな愛らしさに満ちた表情は、私が心から愛しているものの一つだった。
 とにかく、夏芽とのやりとりでは、この子が玲のことをどのように捉えているのかという肝心な情報ははっきりしなかった。勉強を教えてあげたというエピソードにしても、そこに含まれている厚意と好意の比率までは測れない。
 だから、これ以上は夏芽をつつくのではなく、視点を変えてみることにした。
 放課後、一年の教室に向かう。今日、玲が掃除当番だということは夏芽から聞いていた。案の定、教室の中で数人だけ残っている生徒のうちの一人が玲だった。教室の外にいる私に気づくと彼が伸びた前髪の向こうで驚きに目を見開いたのがわかった。どうやら私のことを覚えてはいるらしい。
「こ、こんにちは」
 箒を手にしたままこちらにやってきた玲が、そわそわした仕草で頭を下げる。
「ちょっと話したいことがあるんだけど、時間ある?」
 私がそう言うと、玲は「え」と言葉を詰まらせた。
「なに、もしかして夏芽からの伝言でもあるんじゃないかって期待してたわけ?」
「そ、そんなことないです」
 意地が悪いとは思うけれど、私は玲の佇まいそのものがあまり好きではなくて、そのせいか彼に対する気遣いのようなものが自分の中から欠如しているような感覚があった。
 中庭のベンチで待ってるから、と一方的に言い残してその場を後にする。玲がちゃんと現れることを私は疑っていなかった。そして予想通り、自販機で買ったカフェオレが半分も減らないうちに彼は小走りでやってきた。
 そういえば、樋渡綾と話したのもこのベンチだったっけ。特に意識してこの場所を選んだわけではなかった。因縁、という嫌な言葉の気配を感じて、私はそれを振り払う。
「ね、玲ってさ、夏芽のこと好きなの?」
 いちいち外堀を埋めるような迂遠な真似をするのは面倒だった。というより、かなり正直に言ってしまえば、彼に対してそのような配慮や警戒は不要だとさえ感じていた。
「な、なん、そ、そんな……」
 と玲は俯きながら狼狽する。大変わかりやすく素直なはずのその反応に、苛立ちのような、不満のようなものを覚えてしまう。それは生理的な嫌悪や不快感とはまた違う。まるでドラマや映画が、あまりに自分の想定通りの展開を辿ったときなんかに感じる、些細な全能感の中に混じる物足りなさのような感覚だった。
「別に認めようが認めまいがどっちでも良いよ。一つだけ言えるのは、私はあんたの味方だってこと」
「味方?」
 ってなんですか、と強張った声で玲は言った。まるっきり理解が追いついていない様子だった。
「私は、あんたと夏芽がくっついてくれればと思ってる」
 恋というものをその身で経験することで夏芽は変わる――私はずっとそう考えていた。
 けれど、当事者である夏芽は、恋心の何たるかを適切に理解することが今もなお難しく、そんな幼さの殻を破るだけの勢いを持った男の子が現れることもなかった。
 樋渡玲。彼には、これまで夏芽に思いを寄せていた男子たちとは決定的に違う前提条件が備わっていた。それは、二人の仲が樋渡綾という夏芽の慕う存在によってあらかじめ整えられていること。夏芽は「綾さんの弟だから」、「綾さんからもよろしく頼まれてるから」といった具合に、言ってしまえば盲目的に玲を肯定し、警戒を解いてしまっている。
 だから、私はそこに可能性を感じた。信頼を置いている異性からのアプローチであれば、夏芽はこれまでにない反応を示すのではないか。恋心のしっぽくらいは、掴めるんじゃないか。ずっと具体性を欠いていた私の願いが、ようやくその輪郭を露わにしようとしている。
 夏芽と玲を、くっつけてみせる。そうすることで、不自然に幼い感性を少しずつ葬っていく。私が愛した夏芽を、そこら辺にいる凡庸な女の子にまで堕としてあげる。
 それが、私なりに導き出した終止符の打ち方だった。そしてそれは、樋渡玲という存在なしには決して成り立たない計画だった。
「ど、どうして、そこまで協力してくれるんですか」
 膝の上で組んだ指を忙しなく動かしながら、玲はやはり足元に視線を這わせたままそう訊ねた。
「私が夏芽の友達だから。友達の恋愛がうまくいってほしいって願うのは、ごく普通のことじゃない?」
「それは、たしかにそうかもしれないですけど」
 けど、と文末を締めたくせに、玲はその続きを口にしようとしない。他の人ならおそらく気にも留めなかったであろう些細なことにまで反応して、勝手に苛立ってしまうのを止められない。私は気を取り直して話を進める。
「とにかく、必要なのは積極的な姿勢だから。最低限のデリカシーさえ確保すれば、夏芽があんたを拒むことはないよ」
「拒むことはないって言われても……」
 そんなの信用できない、と沈黙で訴えてくる。訝るのも無理はないと思う。私の言うことが玲からすれば荒唐無稽に響くのはわかっていたけれど、いちいち誠実さを示すのは面倒だった。
「そんなこと言ってる間に夏芽が誰かにとられてもいいの? あんたもわかるでしょ、あの子のことが気になってる男子はいくらでもいるんだから」
 と言うと、玲は反論もなく黙り込んでしまう。「試しにさ、明日の放課後、夏芽を誘って帰ってみたら」と私は勧める。
「急に言われても、さ、誘えませんよ」
 こいつ、本当にあの樋渡綾の弟なんだろうか。私は舌打ちを堪えて、どうにか苛立ちをため息に変えて吐き出す。
「大丈夫。明日、放課後にあんたが呼んでるって夏芽に伝えといてあげるから、あとは適当にやったらいいよ」
 ええ! と声を裏返して驚く玲を置いて、私はその場を後にする。どうしてか、心臓がわずかに弾んでいた。
 翌日の昼休み、夏芽に「放課後、玲があんたに会いたいって言ってたよ」と話すと、「えー、なんだろ」とどこか当事者意識の欠けた能天気な物言いで笑顔を浮かべる。私は、玲との対比を勝手に感じてしまっておかしくなる。どうせだからサービスのつもりで、「玲の教室まで迎えにいってあげたら喜ぶんじゃない」と付け加えた。


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 二人の先輩が卒業し、ボランティア部も畳まれて無所属の身となった夏芽は、放課後になると玲のために学校案内をしてあげたり、勉強を教えてあげたりしているらしい。「綾さんから玲のことを任されてる」とどこか自慢げに話していたけれど、そうやって夏芽が積極的に誰かの世話を焼くなんてこれまでになかったことで、どうやらあの子は私の想像以上に樋渡玲に関心があるらしい。
 だから私は興味を持った。あの陰気な後輩が、いったいどんな人間なのか。
「素直でいい子だよ」
 と夏芽は言う。
「一緒に遊んだりしたことはあるの?」
「ううん。勉強を教えてあげたことはあるけど」
「どこで?」
「綾さんち。あれ、前にもみーちゃんに話さなかったっけ?」
「そういえば聞いてたかも」
 もうなにそれ、と可愛らしく眉を顰める夏芽の頬を、ハンバーガーでも持つように右手で挟んで揉みしだいてやる。するとタコみたいに上下に伸びた唇が「やめてよ」と動く。夏芽のこの、癖になってしまいそうな柔らかい頬の手触りと間抜けな愛らしさに満ちた表情は、私が心から愛しているものの一つだった。
 とにかく、夏芽とのやりとりでは、この子が玲のことをどのように捉えているのかという肝心な情報ははっきりしなかった。勉強を教えてあげたというエピソードにしても、そこに含まれている厚意と好意の比率までは測れない。
 だから、これ以上は夏芽をつつくのではなく、視点を変えてみることにした。
 放課後、一年の教室に向かう。今日、玲が掃除当番だということは夏芽から聞いていた。案の定、教室の中で数人だけ残っている生徒のうちの一人が玲だった。教室の外にいる私に気づくと彼が伸びた前髪の向こうで驚きに目を見開いたのがわかった。どうやら私のことを覚えてはいるらしい。
「こ、こんにちは」
 箒を手にしたままこちらにやってきた玲が、そわそわした仕草で頭を下げる。
「ちょっと話したいことがあるんだけど、時間ある?」
 私がそう言うと、玲は「え」と言葉を詰まらせた。
「なに、もしかして夏芽からの伝言でもあるんじゃないかって期待してたわけ?」
「そ、そんなことないです」
 意地が悪いとは思うけれど、私は玲の佇まいそのものがあまり好きではなくて、そのせいか彼に対する気遣いのようなものが自分の中から欠如しているような感覚があった。
 中庭のベンチで待ってるから、と一方的に言い残してその場を後にする。玲がちゃんと現れることを私は疑っていなかった。そして予想通り、自販機で買ったカフェオレが半分も減らないうちに彼は小走りでやってきた。
 そういえば、樋渡綾と話したのもこのベンチだったっけ。特に意識してこの場所を選んだわけではなかった。因縁、という嫌な言葉の気配を感じて、私はそれを振り払う。
「ね、玲ってさ、夏芽のこと好きなの?」
 いちいち外堀を埋めるような迂遠な真似をするのは面倒だった。というより、かなり正直に言ってしまえば、彼に対してそのような配慮や警戒は不要だとさえ感じていた。
「な、なん、そ、そんな……」
 と玲は俯きながら狼狽する。大変わかりやすく素直なはずのその反応に、苛立ちのような、不満のようなものを覚えてしまう。それは生理的な嫌悪や不快感とはまた違う。まるでドラマや映画が、あまりに自分の想定通りの展開を辿ったときなんかに感じる、些細な全能感の中に混じる物足りなさのような感覚だった。
「別に認めようが認めまいがどっちでも良いよ。一つだけ言えるのは、私はあんたの味方だってこと」
「味方?」
 ってなんですか、と強張った声で玲は言った。まるっきり理解が追いついていない様子だった。
「私は、あんたと夏芽がくっついてくれればと思ってる」
 恋というものをその身で経験することで夏芽は変わる――私はずっとそう考えていた。
 けれど、当事者である夏芽は、恋心の何たるかを適切に理解することが今もなお難しく、そんな幼さの殻を破るだけの勢いを持った男の子が現れることもなかった。
 樋渡玲。彼には、これまで夏芽に思いを寄せていた男子たちとは決定的に違う前提条件が備わっていた。それは、二人の仲が樋渡綾という夏芽の慕う存在によってあらかじめ整えられていること。夏芽は「綾さんの弟だから」、「綾さんからもよろしく頼まれてるから」といった具合に、言ってしまえば盲目的に玲を肯定し、警戒を解いてしまっている。
 だから、私はそこに可能性を感じた。信頼を置いている異性からのアプローチであれば、夏芽はこれまでにない反応を示すのではないか。恋心のしっぽくらいは、掴めるんじゃないか。ずっと具体性を欠いていた私の願いが、ようやくその輪郭を露わにしようとしている。
 夏芽と玲を、くっつけてみせる。そうすることで、不自然に幼い感性を少しずつ葬っていく。私が愛した夏芽を、そこら辺にいる凡庸な女の子にまで堕としてあげる。
 それが、私なりに導き出した終止符の打ち方だった。そしてそれは、樋渡玲という存在なしには決して成り立たない計画だった。
「ど、どうして、そこまで協力してくれるんですか」
 膝の上で組んだ指を忙しなく動かしながら、玲はやはり足元に視線を這わせたままそう訊ねた。
「私が夏芽の友達だから。友達の恋愛がうまくいってほしいって願うのは、ごく普通のことじゃない?」
「それは、たしかにそうかもしれないですけど」
 けど、と文末を締めたくせに、玲はその続きを口にしようとしない。他の人ならおそらく気にも留めなかったであろう些細なことにまで反応して、勝手に苛立ってしまうのを止められない。私は気を取り直して話を進める。
「とにかく、必要なのは積極的な姿勢だから。最低限のデリカシーさえ確保すれば、夏芽があんたを拒むことはないよ」
「拒むことはないって言われても……」
 そんなの信用できない、と沈黙で訴えてくる。訝るのも無理はないと思う。私の言うことが玲からすれば荒唐無稽に響くのはわかっていたけれど、いちいち誠実さを示すのは面倒だった。
「そんなこと言ってる間に夏芽が誰かにとられてもいいの? あんたもわかるでしょ、あの子のことが気になってる男子はいくらでもいるんだから」
 と言うと、玲は反論もなく黙り込んでしまう。「試しにさ、明日の放課後、夏芽を誘って帰ってみたら」と私は勧める。
「急に言われても、さ、誘えませんよ」
 こいつ、本当にあの樋渡綾の弟なんだろうか。私は舌打ちを堪えて、どうにか苛立ちをため息に変えて吐き出す。
「大丈夫。明日、放課後にあんたが呼んでるって夏芽に伝えといてあげるから、あとは適当にやったらいいよ」
 ええ! と声を裏返して驚く玲を置いて、私はその場を後にする。どうしてか、心臓がわずかに弾んでいた。
 翌日の昼休み、夏芽に「放課後、玲があんたに会いたいって言ってたよ」と話すと、「えー、なんだろ」とどこか当事者意識の欠けた能天気な物言いで笑顔を浮かべる。私は、玲との対比を勝手に感じてしまっておかしくなる。どうせだからサービスのつもりで、「玲の教室まで迎えにいってあげたら喜ぶんじゃない」と付け加えた。