「ねぇ、デートに行かない?」
そんな声が聞こえた気がした。だから、僕はデートに行くことにした。
「どこに行きたい?」
首を傾げながら、僕に訊ねる。
ふと、僕の頭の中に、ある場所が浮かんだ。
「……鎌倉」
僕はベッドから起き上がり、足の踏み場を探りながら洗面所へと向かう。
身支度を整え、ドアを開けると、視界が真っ白になった。
しばらくして目が慣れてきた。朝の光が足元を照らしている。
僕はその眩しい世界に一歩踏み出した。
*
駅前のロータリーにはバスが数台停まっていた。
九月になったというのに、太陽はかんかんに照っていて、アスファルトの上で陽炎が揺れている。
改札から向かって左側に、小町通りの赤い鳥居がそびえていた。
照り返しに目を細めながら、僕は熱気に押されるように鳥居をくぐり抜ける。
奥へと伸びる道の両脇には、食事処や土産屋が軒を連ねている。
右でも左でも、店員が自慢げに、いや、実際自慢しているのだろうが、声を張り上げて客を呼んでいる。
あちこちから香ばしい匂いが漂ってくる。
観光客がすれ違い、立ち止まり、写真を撮り合う。その流れに、僕も飲み込まれていく。
「あ、ここ」
左手の小さな雑貨屋に目が留まる。店先には、箸やらガラス細工やらがずらりと並べられている。朝の光を浴びてきらきらと輝いていて、とても綺麗だ。
僕は吸い込まれるようにして、中に入っていった。
その時、貧血を起こしたように、通りの喧騒が遠退いた。
「懐かしいね。ほら、覚えてる? ここで髪留めを買ってくれたの。桜の飾りが付いた、綺麗な……」
そよ風のような声だった。忘れるはずのない声。忘れたくても忘れられない声。
髪留めを前髪に当てがって、「どう?」と微笑む君の姿が見えた。
——風景に色が戻ってきた時、店員の視線に気がついた。
僕は何か誤魔化すように、慌ててかんざしを一本、手に取った。薄紅色のガラスの桜が、綺麗に花びらを広げていた。花びらに触れてみると、指先にガラスの冷たさが伝わってきた。
別に買う相手もいないのに、こんなにじっと眺めているのは、何だか馬鹿らしい。
ふ、と鼻で笑ってしまった。僕はそれを棚に戻して店を出た。
やがて、シャッターの下りた店が目立ち始めた。人波も薄れ、雑踏は後ろへ後ろへ遠ざかっていく。目の前には静けさが広がっている。
「こんなに短かったっけ」
小町通りの終わりが近い。あの頃はもっと長く感じたのに。
通りを抜けて右に曲がり、少し進むと左手に真っ赤な鳥居が見えた。
池には大きな蓮が背伸びしている。ぶつぶつと穴の開いた蓮の実がじっと僕を見つめている。
ずっと見ていると吸い込まれそうだった。僕は視線を逸らし、長い参道を進んでいく。
道の先に、大きな階段が見えた。ずっと上の方まで続いている。その階段の下まで来たとき、あまりの高さに圧倒されてしまった。押しつぶされるかと思った。見上げると、本殿の朱の梁が、昼間のぎらぎらとした日の光を受けて鮮やかに輝いている。
「あのう……」
不意に後ろから声を掛けられた。びくっと肩を跳ねさせてから振り返ると、二人の男が立っていた。大きなリュックを背負っている。観光客らしい。
「旅の思い出に、ちょっと写真を撮ってもらいたいんですけど……いいですか?」
大学生くらいの青年が、遠慮がちに窺ってきた。
「ええ、いいですよ」
特に断る理由もなかったので、彼から携帯を受け取る。
「ありがとうございます。実は俺たち、源氏にゆかりのある場所をめぐってて……」
へぇ、と僕は適当に相槌を打った。それから二人は数段上ってこちらに向かってポーズをとった。
サンダルで駆け足気味に上る音が、やけに耳に残る。
「撮りますよ、はい……」
カメラを構えたとき、僕ははっとした。忘れていた。そうだ、ここだった。君と写真を撮った場所は。白いワンピース。つばの広い麦わら帽子。長くきれいな黒髪。真っ白な歯。
シャッター音が鳴る。
「すみません、少しぶれちゃって……」
僕は二人に恐る恐る写真を見せる。
「え……? とても綺麗に撮れていますよ?」
二人はそう言ったけれど、僕にはどうもピントが合っているようには見えない。急に冷たい汗が噴き出した。
「……すみません、何でも無いです」
携帯を返し、僕は足早にその場を離れた。参拝もせずに。今は、一刻も早くここから逃げたかった。喉が渇く。きっと暑さのせいだ。ずっと、カメラ越しの景色を見ているようだ。
たぶん、ひどい顔をしている。バスには乗りたくない。
僕は歩くことにした。向かう先は報国寺。鳥居をくぐり、狭い歩道を進んでいく。日陰を選んで歩いても、じめっとした空気が肌にまとわりつく。
途中、コンビニに逃げ込む。自動ドアが開くと、涼しい風がふわっと吹いてきた。
アイスを一つ手に取り、そのままレジへ向かおうとすると、浴衣の二人組とすれ違った。彼女らもアイスを買っている。二本一組になっているやつだ。昔、よく一緒に食べたな。
あまりじろじろ見てもいけないと思って、勘定を済まして外に出た。
アイスをくわえながらさらに道を進んでいく。
「あ……」
アイスの棒に「当たり」の文字。そうか、そういえばこのアイスは当たりくじ付きか。
当たってしまったけれども、今更戻るのも面倒だし、二つも食べられない。僕はこっそりそれを側溝に捨てた。棒は音もなく暗闇に消えていった。
川沿いを進むと、バス停が見えてきた。浄明寺駅。
手前で右に折れ、坂を上っていく。すると、真っ白な漆喰の壁が見えてきた。報国寺だ。
入園料を支払い、庭園に入る。音が消えたようだ。
目の前に、自分の背丈の何倍あるかも知れない巨大な竹がいくつもそびえたっていた。青い、青い竹だ。
少し進んで、小さなベンチに腰掛けた。
目の前に切り立った崖が見える。クリーム色の岩盤に、えぐられたような大きな空洞がぽっかり空いていた。
「綺麗だけど、この庭園ちょっと小さいよね」
そんなことを二人で言い合ったことを思い出す。
君と手を重ねる真似をしてみる。隣は空席。
しばらくぼうっとしていると、汗も乾いてきて、むしろ寒くなった。
僕はぱっと立ち上がり、ぐるりと庭園をめぐって外に出る。
すると、先ほどコンビニですれ違った浴衣の二人組がいた。何やら本尊に向かって手を合わせている。彼女らは何を祈っているのだろうか。そんなことを考えながら寺を後にした。
坂を下り、バス停へ。ちょうどバスが来ていたから、待たずに済んだ。そのまま鎌倉へ戻る。
段々と背の高い建物が増えてきた。人や車の通りも多くなり、辺りが騒がしい。
次に向かう場所は決めていた。小動岬。
僕は小さなトンネルをくぐり、江ノ電の改札へ向かった。
江ノ電は観光客でぎゅうぎゅう詰めだった。そこかしこから、日本語とは異なる、聞き取れない言葉が飛び交う。
しばらくして、電車が発車した。カタンカタンと音を立てて僕たちを揺すっていく。
由比ヶ浜で大勢降りた。それから、子連れが二組、乗ってきた。
「ねぇねぇ、このあと図書館いくのはどう?」
「いいねぇ。ねぇ、ママ。リサ、ゆみちゃんと図書館いきたい! いいでしょう?」
「わたしね、すきなひとがいるの!」
「え! だれだれ!?」
無邪気な声が車内に弾むように響いた。僕はそんな会話を聞いて、苦い笑みをたたえた。胸の辺りがつきんと痛んだ。
「腰越、腰越」
アナウンスが響く。ここだ。降りなきゃ。
けれども、人に押しつぶされそうになり、ドアに辿り着けない。そうこうしているうちにドアが閉まってしまった。
「次は、江ノ島、江ノ島です」
「乗り過ごしちゃったね」
眉を八の字にして笑うあなたが見えた。そうか、君なら笑ってくれるのか。
まぁ、一駅くらい歩くか。そう思った。
江ノ島に着いた。みんな降りる。僕も降りる。
僕は他の人に付いていった。磯の匂いがほのかに漂ってくる。みんなが砂浜へと向かう中、僕は人の波から外れて左へ逸れた。がやがやとした喧騒が離れていく。
黒蟻のようになった観光客たちが、砂浜でちょこまか動いているのを横目に、狭い道を行く。
海に流れ込む用水路に架かる橋を越え、どこまでも歩いた。足取りがどんどん重くなる。けれども、涼しい海風が背を押しているのだろうか、決して足は止まらなかった。
「涼しいねぇ」
風に急かされなくても、僕は進むのに。
右手に、小さな林のようなものが見えた。その中に鳥居が一つ、立っている。小動神社、と書かれていた。
目的の場所は、もうすぐそこだった。
神社を通り過ぎて、右に曲がり、細い路地に入る。コンクリートの坂道をずんずん下っていく。狭い青空には雲一つなかった。
坂が砂に埋もれていく。磯の香りが濃くなった。急に、視界がぱっと開けた。目の前には日の光を浴びて鈍く光る青い海が広がっていた。
「着いた……」
小動岬。最後の、目的地だ。
小走りに波打ち際まで進む。砂に足を取られて歩きづらかった。
ざざん、と波の音が砂浜に響き渡る。
「ここは……」
僕は砂浜に座り込む。波が運んできた貝殻や海藻が、小さな堤防のように見える。
「ここは、君とは一度も行ったことが無かったね」
額に張り付いた前髪を掻き分ける。
「小動岬。太宰が心中未遂をした場所なんだ」
困った顔で僕を覗き込む君が、横にいる気がした。
話を続ける。言葉がするすると口を滑る。
「結局、太宰は一人生き残ってしまうんだけどね……。そういえば、川端康成も鎌倉に住んでたんだっけ。最後はすぐそこの逗子で死んじゃうんだけど」
僕は苦笑した。いつのまにか、海岸は日陰になっていた。
「最後の場所に選びたいほど、いい街なんだろうね、ここは」
波がゆっくりと引いていく。
「……僕も、今ならその気持ちが分かるよ」
消波ブロックの先の水平線をじっと眺める。
「ここの人は……みんな楽しそうだったなぁ。生きる意味を持ってた」
目を閉じて、今日出会った人たちを思い浮かべる。
「ねぇ、こんな僕にも、生きる資格くらいはあると思うんだ。でもね……資格があっても意味が無いんだ。君のいない日常に、僕は生きる意味を見出せなかった。だからさ……」
僕は立ち上がる。ズボンにまみれた砂も払い落とさずに、まっすぐ、波が引くのに合わせて進んでいく。
向こうから海風が吹いた。誰かに、腕を掴まれているような、そんな感覚があった。
「こんなに楽しいデートができて嬉しかった。でも、これでおしまい。僕はここで、君と……思い出の君と……」
僕は白波の中へ一歩踏み出した。足元を波がさらう。存外温かった。
白いスカートが一瞬、波間に揺れた。
さらさらとそよ風が吹く。最後の言葉は潮騒が飲み込んでいった。