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2-3

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 話の手番はアロナに移っていたが、アーリスを蚊帳(かや)の外に追い出さない巧妙(こうみょう)均衡(きんこう)が保たれていた。今日から彼女の主治医となるだろうジェイクは、身体の向きを一切変えていないからだ。
 不信感を抱かれないような注意を求められているようにも思えない。最初の三日は見ているだけでいいという指示をしたのはジェイク自身だ。
 とどのつまり、アロナはこの問いに対して大きな責任を持つ必要はないと判断した。
「私が一番欲しいのは、強さです。誰かを守る強さがほしいんです」
 診察室は空調の音がしばらく鳴り響いた。アロナの宣告とも言える回答にジェイクは目を瞑って噛みしめていたのだ。
 目の前にいるアーリスは、驚いたような顔で研修医の札を眺めていた。口を半開きにして、目の奥に薄れていた光が表に出て来るようだった。
「人それぞれ、という常套句(じょうとうく)がある。知識人の中では()み嫌われているね」
 知識人が求めるのは探究だ。多くの分野、哲学において専門の経験、知識を用いて回答を導き出す。しかし、それらは「人それぞれ」という言葉と致命的(ちめいてき)に相性が悪いのだ。
 事実だからである。
「物事の真理を内包する言い回しは、便利ながら思考放棄(しこうほうき)として唾棄(だき)される場合が多い。だけど真理は真理。この人それぞれという個性が、精神医学を難しくしていてね」
 なぜジェイクが今この話をしているかアロナにはまだ分からなかった。今までの患者は雑談を交えた治療方針を伝えて終わり、いわゆる安定した診察だったのだ。
 初診の患者にはいつも難しい話をするのだろうか。特に、アーリスは心の深淵(しんえん)に魔物が()みついているのだ。難解な話を理解する気力はあるのかは未知数だ。
 しかしながら、アーリスの視線は興味深そうにジェイクの方を見ていると気付く。
「個性とは、環境と五大価値体験から生まれる複合のものでね。これが何を意味するかは一つ」
 手のひらと手の甲。そして視線。
 次に彼は語る。探究者としての真理を。その時、アロナは生涯(しょうがい)を共にするだろう支柱を得るのだ。
「これまで起きた、これから起こる全て。君のせいじゃない」
 口を閉じたジェイクは、そっとアロナに重ねていた手を机の上に戻した。
 今度はアロナが飲み込む番だった。私のせいじゃない。
「じゃあ、何が悪いんでしょうか。先生」
 アーリスはこう続けた。
「私は知能障害を抱えていて、家族に負担になっているんです。お母さんは毎日働かなくてはならなくて。お父さんも安月給なんです。二人とも夜の時間はなくて、私が悪いんじゃないなら誰が悪いんですか」
 救いの叫びが聞こえてくるようだった。彼女に友達がいたら、あなたは悪くないとジェイクと同じ言葉をかけているに違いない。
 ありきたりではない、自分の居場所を(かたど)ってくれる支柱を求めている。迫力ある口ぶりに、思わずアロナは目を伏せる。
「脳だよ、君の頭にある」
 その場にいる二人が、揃って主治医に頭を向けた。さっきよりなぜか空調の音が小さくなるように感じた。そしてアロナは、なぜ難しい話をしたのか()に落ちた。難しい話は理解しなくてもよかったのだ。
 知識という土台を作っていき、ジェイクは上手にアーリスを上に導いていく。
「脳と心は違う。脳の役割はあくまでも、君という人間を作り上げていくためのシステム臓器に過ぎない。君が苦しんでいるのは当然なんだ。風邪を引いた時に体温が上がるのと同じ。君を守るために、脳は君を苦しめる」
 彼女の問診票には知能障害としての診断はされていなかった。だがいくらジェイクが努力して説得を試みようともアーリスの心に火を灯すのは難しいように感じられた。
 これまで弱々しく話していたアーリスは、比較すると強い口でこう言った。
「薬が必要なんです。薬をください」
 病院に入ってきた彼女の目的は、それでしかない。アロナも痛いほど心情が流れ込んでくる。濁流(だくりゅう)だ。
「国は、自殺はこの世で一番の罪だと言います。死なせてくれないのなら、せめて。生きていて、恥ずかしくないようにしてください。そのために薬がほしいんです」
 スナルデンは世界三大宗教の一つ、ビトゥス教の始典(してん)を参考に法律が作られている。幼い頃から自殺がいかに愚かな行為かを刷り込まれるのだ。事実、自殺者数は他国と比べても少ない。だがアーリスのような境遇を持つ人生において、自殺は最後の逃げ道なのだ。
 死は救い。それなのに自死の先に待っているのは永遠の苦痛。その先に待っているのは、麻薬犯罪の横行。
 アーリスを守れるのはジェイクしかいない。アロナは、切迫(せっぱく)した表情でジェイクを見た。
「今の君に薬物療法はオススメできない」
 咄嗟(とっさ)にアロナは立ち上がった。「先生!」と理解できないまま叱るような口だ。
「アーリスさんは救いを求めにきたんです。先生は患者を治すのが仕事、違いますか」
 先にアロナが声を出したものだから、一瞬だけ怒りがこみ上げたアーリスは一秒と経たずに口を閉じた。
 軍医になったばかりの頃、新人の彼女は似たような理不尽を受けた経験がある。多忙の中に放り込まれ、右も左も分からないまま持ち前の知識だけで手術をしなければならなかった。あまりのストレスに耐えかねて上官に転勤を希望したが、聞き入れてはくれなかった。
 自分よりも大きな権限を持つ者による理不尽な圧力。ジェイクの場合は非道だと強調してみせる。
「薬が逆効果になる場合があるっていうのは理解できます。でも、カウンセリングでどうにかなる問題ではないでしょう!」
 叱る、とはいえアロナはその行為に慣れていなかった。立ち上がる時に眼鏡はズレるし、ところどころ口に詰まっている。
 だからこそだろうか、その熱意はアーリスに伝わっていた。
「薬物療法以外なら、何が有効なんですか。先生」
 気の抜けた声を出しながら、アロナはアーリスの方を向いた。
「入院だ。君を苦しめて来る家族から君を守る」
 教科書にはこう書かれてはいなかったか。神経症のほとんどは環境による。この環境とは大まかに人間関係、生活習慣、家族の三つに分けられる。すなわち、入院という選択肢をとって環境を変えれば薬物を使わなくても治療できる可能性があるのだ。
 気付けなかった。アロナは自身を恥じながら、縮こまるように座った。ジェイクは、猫背になった彼女の背中を軽く撫でた。
「アーリス、君は長い間苦しんできた。苦しみ過ぎた。今日からここが、君の居場所だよ」
 治療方針はこうだった。入院し、精神の安定を図る。期限は設けない。その後病状が安定した時、回復までの期間を早めるために薬は処方されると。
 私物は市の職員が家に取りに行き、証拠が揃えば虐待の罪で治療費は親が出す手筈(てはず)になるという。
「でも、それは家族に申し訳なく思います。私もお金がないわけじゃないので」
「律儀だね。けど法律上何も問題はないんだ。気に病まなくていい」
 治療方針が決まると、ジェイクはナースを一人電話で呼び、彼女を応接室に案内するよう指示した。そこで足や身体のサイズを計り、健康診断の後で書類を書けば正式に入院が決まるのだという。細かな話は他にもあれど、今のアーリスから憂いはほとんど消えているように感じられる。
 この世の終わりを告げられたような顔立ちはもうしていない。
 ナースに連れられて病室を出る前、アーリスは振り返ってジェイクの方を向いてこう言った。
「先生のこと、一生忘れません」
「何かあったらいつでも呼んで。僕は毎日ここにいるから」
 会釈(えしゃく)をして顔を上げたアーリスに、微妙な変化があった。口角が片方だけ上を向いていたのだ。
「アロナ、君にも感謝をしないとな」
 一人だけ別の世界から見ていたような気分になっていて、自分の名前が呼ばれた時にすぐ反応できずにいた。
「え、私ですか」
 何もしてません、という表情で見返す。
「確信したよ。トラウマの治し方は人によって異なるけど、アロナはその席に座って患者に寄り添う方が刺激になる。子供の頃、よっぽどタイヘンな目にあったんだね」
 幼い頃の記憶はほとんど失われている。それでも脳が勝手に記憶しているのは、ジェイクの言う通り悪い記憶だらけだ。
「さて、そろそろかな」
 何がそろそろなのか訊ねる前に、病室のドアが勢いよく開いた。静かだったものだからアロナは飛び上がるほどの衝撃を胸に受ける。
 入ってきたのは、驚くべきことに朝に歯磨きが一緒になった赤毛の女性だった。彼女は明らかに不機嫌そうに扉を閉め、患者が座るべき椅子に腰かけると苛立ちを隠しもせずこう言った。
「入院には私の許可が必要だって言ったよね。なんで勝手に入院させるの?」
 よほど偉い立場にいるのだろう。高圧的な話し方に本来は関係ないアロナが萎縮(いしゅく)していた。
「すみません。彼女に必要なのは安心感でした。今すぐに安全を確保するというもので――」
「現実を見て」
 彼女がポケットから取り出したのは四つ折りにされた紙だった。そこには細かい文字で、今月の決算のようなものが書かれている。ところどころスナルデン独特の方言があり読めずにいる。
「本部からチルスタインを使えって指示が出てるの」
 スナルデンの医学会が発明した最新薬だ。
 本来薬の研究は専門の研究機関がされるものだが、研究機関の一つを借用して軍本部と癒着(ゆちゃく)の強い医学会が開発したという噂だけはアロナの耳に入っていた。戦争中に開発されたが、治験はまだ済んでいないだろう。
「ガナル医長(いちょう)、申し訳ないのですがチルスタインはまだ使用段階に入っていません」
「だからこそってなんで分からないかね」
 呆れたように、ガナルと呼ばれた女性は腕を組んだ。
「別に私だって使わなくていいならそんなリスク冒したくないわ。けどね、本部からの指示なの。いくら戦争に負けてようがこの国で一番デカい声が使えって言ってきてんだから、大人しく従っとけばいいのよ」
「僕は、患者を実験台になんてできません」
 大きな舌打ちをした彼女は、次にため息を吐く。悪態(あくたい)祭囃子(まつりばやし)を発揮したガナルは、アロナの方を向いてこう言った。
「ちょっと席外して。部外者は出てって」
 怒られたくない気持ちが勝り、アロナは立ち上がって病室から出た。
 ロビーにはたくさんの患者が座っていた。安息を求めて本を読む若者、スマートフォンを操作しておそらくメッセージを送っている中年男性。誰もかれも視線は下を向いていた。
 話が終わるまで時間がかかりそうだ。座席もほとんどが埋まっているし、どうしようかと悩んでいた矢先。彼女の肩にゴツゴツした手が乗り込んできた。短く、なんとも素っ頓狂な驚き声がロビー内を走り回った。


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 話の手番はアロナに移っていたが、アーリスを蚊帳《かや》の外に追い出さない巧妙《こうみょう》な均衡《きんこう》が保たれていた。今日から彼女の主治医となるだろうジェイクは、身体の向きを一切変えていないからだ。
 不信感を抱かれないような注意を求められているようにも思えない。最初の三日は見ているだけでいいという指示をしたのはジェイク自身だ。
 とどのつまり、アロナはこの問いに対して大きな責任を持つ必要はないと判断した。
「私が一番欲しいのは、強さです。誰かを守る強さがほしいんです」
 診察室は空調の音がしばらく鳴り響いた。アロナの宣告とも言える回答にジェイクは目を瞑って噛みしめていたのだ。
 目の前にいるアーリスは、驚いたような顔で研修医の札を眺めていた。口を半開きにして、目の奥に薄れていた光が表に出て来るようだった。
「人それぞれ、という常套句《じょうとうく》がある。知識人の中では忌《い》み嫌われているね」
 知識人が求めるのは探究だ。多くの分野、哲学において専門の経験、知識を用いて回答を導き出す。しかし、それらは「人それぞれ」という言葉と致命的《ちめいてき》に相性が悪いのだ。
 事実だからである。
「物事の真理を内包する言い回しは、便利ながら思考放棄《しこうほうき》として唾棄《だき》される場合が多い。だけど真理は真理。この人それぞれという個性が、精神医学を難しくしていてね」
 なぜジェイクが今この話をしているかアロナにはまだ分からなかった。今までの患者は雑談を交えた治療方針を伝えて終わり、いわゆる安定した診察だったのだ。
 初診の患者にはいつも難しい話をするのだろうか。特に、アーリスは心の深淵《しんえん》に魔物が棲《す》みついているのだ。難解な話を理解する気力はあるのかは未知数だ。
 しかしながら、アーリスの視線は興味深そうにジェイクの方を見ていると気付く。
「個性とは、環境と五大価値体験から生まれる複合のものでね。これが何を意味するかは一つ」
 手のひらと手の甲。そして視線。
 次に彼は語る。探究者としての真理を。その時、アロナは生涯《しょうがい》を共にするだろう支柱を得るのだ。
「これまで起きた、これから起こる全て。君のせいじゃない」
 口を閉じたジェイクは、そっとアロナに重ねていた手を机の上に戻した。
 今度はアロナが飲み込む番だった。私のせいじゃない。
「じゃあ、何が悪いんでしょうか。先生」
 アーリスはこう続けた。
「私は知能障害を抱えていて、家族に負担になっているんです。お母さんは毎日働かなくてはならなくて。お父さんも安月給なんです。二人とも夜の時間はなくて、私が悪いんじゃないなら誰が悪いんですか」
 救いの叫びが聞こえてくるようだった。彼女に友達がいたら、あなたは悪くないとジェイクと同じ言葉をかけているに違いない。
 ありきたりではない、自分の居場所を象《かたど》ってくれる支柱を求めている。迫力ある口ぶりに、思わずアロナは目を伏せる。
「脳だよ、君の頭にある」
 その場にいる二人が、揃って主治医に頭を向けた。さっきよりなぜか空調の音が小さくなるように感じた。そしてアロナは、なぜ難しい話をしたのか腑《ふ》に落ちた。難しい話は理解しなくてもよかったのだ。
 知識という土台を作っていき、ジェイクは上手にアーリスを上に導いていく。
「脳と心は違う。脳の役割はあくまでも、君という人間を作り上げていくためのシステム臓器に過ぎない。君が苦しんでいるのは当然なんだ。風邪を引いた時に体温が上がるのと同じ。君を守るために、脳は君を苦しめる」
 彼女の問診票には知能障害としての診断はされていなかった。だがいくらジェイクが努力して説得を試みようともアーリスの心に火を灯すのは難しいように感じられた。
 これまで弱々しく話していたアーリスは、比較すると強い口でこう言った。
「薬が必要なんです。薬をください」
 病院に入ってきた彼女の目的は、それでしかない。アロナも痛いほど心情が流れ込んでくる。濁流《だくりゅう》だ。
「国は、自殺はこの世で一番の罪だと言います。死なせてくれないのなら、せめて。生きていて、恥ずかしくないようにしてください。そのために薬がほしいんです」
 スナルデンは世界三大宗教の一つ、ビトゥス教の始典《してん》を参考に法律が作られている。幼い頃から自殺がいかに愚かな行為かを刷り込まれるのだ。事実、自殺者数は他国と比べても少ない。だがアーリスのような境遇を持つ人生において、自殺は最後の逃げ道なのだ。
 死は救い。それなのに自死の先に待っているのは永遠の苦痛。その先に待っているのは、麻薬犯罪の横行。
 アーリスを守れるのはジェイクしかいない。アロナは、切迫《せっぱく》した表情でジェイクを見た。
「今の君に薬物療法はオススメできない」
 咄嗟《とっさ》にアロナは立ち上がった。「先生!」と理解できないまま叱るような口だ。
「アーリスさんは救いを求めにきたんです。先生は患者を治すのが仕事、違いますか」
 先にアロナが声を出したものだから、一瞬だけ怒りがこみ上げたアーリスは一秒と経たずに口を閉じた。
 軍医になったばかりの頃、新人の彼女は似たような理不尽を受けた経験がある。多忙の中に放り込まれ、右も左も分からないまま持ち前の知識だけで手術をしなければならなかった。あまりのストレスに耐えかねて上官に転勤を希望したが、聞き入れてはくれなかった。
 自分よりも大きな権限を持つ者による理不尽な圧力。ジェイクの場合は非道だと強調してみせる。
「薬が逆効果になる場合があるっていうのは理解できます。でも、カウンセリングでどうにかなる問題ではないでしょう!」
 叱る、とはいえアロナはその行為に慣れていなかった。立ち上がる時に眼鏡はズレるし、ところどころ口に詰まっている。
 だからこそだろうか、その熱意はアーリスに伝わっていた。
「薬物療法以外なら、何が有効なんですか。先生」
 気の抜けた声を出しながら、アロナはアーリスの方を向いた。
「入院だ。君を苦しめて来る家族から君を守る」
 教科書にはこう書かれてはいなかったか。神経症のほとんどは環境による。この環境とは大まかに人間関係、生活習慣、家族の三つに分けられる。すなわち、入院という選択肢をとって環境を変えれば薬物を使わなくても治療できる可能性があるのだ。
 気付けなかった。アロナは自身を恥じながら、縮こまるように座った。ジェイクは、猫背になった彼女の背中を軽く撫でた。
「アーリス、君は長い間苦しんできた。苦しみ過ぎた。今日からここが、君の居場所だよ」
 治療方針はこうだった。入院し、精神の安定を図る。期限は設けない。その後病状が安定した時、回復までの期間を早めるために薬は処方されると。
 私物は市の職員が家に取りに行き、証拠が揃えば虐待の罪で治療費は親が出す手筈《てはず》になるという。
「でも、それは家族に申し訳なく思います。私もお金がないわけじゃないので」
「律儀だね。けど法律上何も問題はないんだ。気に病まなくていい」
 治療方針が決まると、ジェイクはナースを一人電話で呼び、彼女を応接室に案内するよう指示した。そこで足や身体のサイズを計り、健康診断の後で書類を書けば正式に入院が決まるのだという。細かな話は他にもあれど、今のアーリスから憂いはほとんど消えているように感じられる。
 この世の終わりを告げられたような顔立ちはもうしていない。
 ナースに連れられて病室を出る前、アーリスは振り返ってジェイクの方を向いてこう言った。
「先生のこと、一生忘れません」
「何かあったらいつでも呼んで。僕は毎日ここにいるから」
 会釈《えしゃく》をして顔を上げたアーリスに、微妙な変化があった。口角が片方だけ上を向いていたのだ。
「アロナ、君にも感謝をしないとな」
 一人だけ別の世界から見ていたような気分になっていて、自分の名前が呼ばれた時にすぐ反応できずにいた。
「え、私ですか」
 何もしてません、という表情で見返す。
「確信したよ。トラウマの治し方は人によって異なるけど、アロナはその席に座って患者に寄り添う方が刺激になる。子供の頃、よっぽどタイヘンな目にあったんだね」
 幼い頃の記憶はほとんど失われている。それでも脳が勝手に記憶しているのは、ジェイクの言う通り悪い記憶だらけだ。
「さて、そろそろかな」
 何がそろそろなのか訊ねる前に、病室のドアが勢いよく開いた。静かだったものだからアロナは飛び上がるほどの衝撃を胸に受ける。
 入ってきたのは、驚くべきことに朝に歯磨きが一緒になった赤毛の女性だった。彼女は明らかに不機嫌そうに扉を閉め、患者が座るべき椅子に腰かけると苛立ちを隠しもせずこう言った。
「入院には私の許可が必要だって言ったよね。なんで勝手に入院させるの?」
 よほど偉い立場にいるのだろう。高圧的な話し方に本来は関係ないアロナが萎縮《いしゅく》していた。
「すみません。彼女に必要なのは安心感でした。今すぐに安全を確保するというもので――」
「現実を見て」
 彼女がポケットから取り出したのは四つ折りにされた紙だった。そこには細かい文字で、今月の決算のようなものが書かれている。ところどころスナルデン独特の方言があり読めずにいる。
「本部からチルスタインを使えって指示が出てるの」
 スナルデンの医学会が発明した最新薬だ。
 本来薬の研究は専門の研究機関がされるものだが、研究機関の一つを借用して軍本部と癒着《ゆちゃく》の強い医学会が開発したという噂だけはアロナの耳に入っていた。戦争中に開発されたが、治験はまだ済んでいないだろう。
「ガナル医長《いちょう》、申し訳ないのですがチルスタインはまだ使用段階に入っていません」
「だからこそってなんで分からないかね」
 呆れたように、ガナルと呼ばれた女性は腕を組んだ。
「別に私だって使わなくていいならそんなリスク冒したくないわ。けどね、本部からの指示なの。いくら戦争に負けてようがこの国で一番デカい声が使えって言ってきてんだから、大人しく従っとけばいいのよ」
「僕は、患者を実験台になんてできません」
 大きな舌打ちをした彼女は、次にため息を吐く。悪態《あくたい》の祭囃子《まつりばやし》を発揮したガナルは、アロナの方を向いてこう言った。
「ちょっと席外して。部外者は出てって」
 怒られたくない気持ちが勝り、アロナは立ち上がって病室から出た。
 ロビーにはたくさんの患者が座っていた。安息を求めて本を読む若者、スマートフォンを操作しておそらくメッセージを送っている中年男性。誰もかれも視線は下を向いていた。
 話が終わるまで時間がかかりそうだ。座席もほとんどが埋まっているし、どうしようかと悩んでいた矢先。彼女の肩にゴツゴツした手が乗り込んできた。短く、なんとも素っ頓狂な驚き声がロビー内を走り回った。