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2-2

ー/ー



 気分よく目覚められたのは、睡眠薬が効いたからだろう。サリアンから渡されていた薬は強力で、身体の疲れも順当に癒してくれる。むくりと起き上がったアロナは、身体を逸らせて背伸びをした。眠っている間に身体が()っていたようで、伸びる身体の筋が心地よく感じられる。
 まだ薄い目を擦りながらアクビを一度挟み、スリッパを履いて表に出る。昨日に買っておいた歯磨きセットをもって女性用の化粧室まで出向くのだった。
 中には先約がいた。これからアロナが着替える白い軍医服を着た、やや背の小さい女性だ。同い年か少し年下だろう。
「なに?」
 誰もいないと思っていたアロナにとっては意外で、無意識のうちに見つめていたようだ。彼女は苛立つ様子でアロナに向かって言った。
「あ、すみません」
 髪色はオレンジに近い赤毛で、肩までのセミロング。視線が合った時に見えた瞳の色は緑色で髪色との対比が宝石のように美しかった。アロナと同じく華奢(きゃしゃ)であり、目は丸いながらも気が強いのがよく分かる眉の形。
 少しだけ彼女と距離を取って横に並び、同じように歯磨きに専念する。お気に入りの歯磨き粉は近くのマーケットには売っておらず、代わりに(すみ)で作られたという殺菌と防臭効果の高い刺激的なものを使うのだった。
 空白の時間に、二人分の清浄音が響く。赤髪の彼女は抵抗がない様子だが、アロナは気まずさを宿していた。
 近寄りがたい雰囲気(ふんいき)(かも)し出している。刺々しい。
 先に彼女が歯磨きを終えて口をゆすぎ表に出てから居心地は格段に良くなった。美しい宝石のようだと思えるが、できれば一ヶ月の間は接点がないのを心から祈っていた。
 朝の身支度を終え軍医服に着替えたアロナは、鏡で確認。髪は整えられ、服にシワは無く、メガネも清潔。ベッドメイキングも終わらして食堂へ。食堂で腹を満たした後は、ジェイクのいる事務所へと向かった。
 時間は朝の七時だ。初日の朝、ジェイクは座学の時間を設定した。時間外労働かと思えばそうでもなく、ジェイクははっきりと自分の趣味なのだと口にした。
「おはよう、アロナ。ホットドッグは美味しかったかい」
 食堂にジェイクの姿は無かったはずだ。
「なんで私の朝食を知ってるんです」
 半笑いのままジェイクは卓上鏡を指した。アロナは見てみれば、顎(あご)にケチャップがついているのが丸分かり。顔を紅潮させながら、ポケットティッシュで急いで拭き取った。
 白衣姿のジェイクは、ゴミ箱を片手でアロナの前に置いた。
 ティッシュを捨てる時に机の上を見て見れば見慣れない装置があった。頭を覆い隠すヘッドディスプレイであり、見た目でバーチャルリアリティ系の娯楽機器だとは分かるのだがそれほど普及はしていない。広告で目にする機会はあっても実際に見るのは初めてだ。
「これはなんですか」短くアロナが尋ねると、ジェイクは席に座るようアロナに促した。
 丸椅子に座るのを見届けてから、彼は簡潔(かんけつ)に言うのだった。
「教材だよ。冗談じゃなくね」
 ミラージ軍に所属していた時には考えられなかった。
 思い返せば、スナルデンの技術力は列強国の中でも高水準でありバーチャルに関しては頂点を独占していた。目の前にある機器が完成されたのは十年前であり、その頃から独立意識が強かったミラージ地方においてはヘッドディスプレイが市場に回らなかったのだ。
「ホワイトボードに頼ると時間がかかるし、なによりワクワクするだろう」
 慣れない環境だとはいえ、ジェイクの狙いは真ん中に当たっていた。軍医とはいえ最新技術に興奮する現代若者。アロナも例に漏れず、自然と口角が上がっていった。
「先生、めっちゃすごいです。もう被ってもいいですか」
「もちろん。被ったらそのまま動かないで、起動とかは僕に任せて」
 ついさっきケチャップを拭き取ったのは、脳が自動的に外に追いやってしまった。今は授業の始まりが待ち遠しくて仕方がなかった。
 機器を被った直後は視界のほとんどが真っ暗になった。だが起動すれば、最初に見えてきたのはさっきと変わらない景色だ。映像越しに見ているはずなのに自分の目で見ているような錯覚が感動を呼ぶ。
 次にジェイクはスマートフォンを操作した。連動しているようで、彼が五回ほど操作したあとに景色が一変した。
 まず最初に響く綺麗なピアノの音色が聞こえる。他に聞こえてくる環境音は森の中だろうか。木々の揺れる音、遠くで滝の音。そして、もはや自分がいるのは病室ではなくコテージだった。
「映し出す景色は人工知能によって補正されるんだ。僕が今座っているところを見てごらん」
 アロナの前にいるジェイクは、本来は丸椅子に座っていたはずだ。だが今は丸太になっている。周りに青い(ちょう)も飛んでいて、手を伸ばすと指先に蝶が止まった。
 無事に機械が動いているのを確認できたジェイクは立ち上がり、もう一度スマートフォンを操作する。すると、ジェイクから狐のような白い尻尾が生えてきたではないか。
「こういうの好きなんだよね、僕は」
 ジェイク自身に尻尾は見えてないだろうが、彼のユーモアな一面はアロナから緊張を瞬く間に消し去っていった。
 もう一度彼がスマートフォンを操作した後、驚いた機能のあまりアロナは言葉を失った。
「さて、そろそろ授業を始めようか」
 その言葉が映画の字幕のように視界に現れたのである。
「はい!」という元気なアロナの掛け声を皮切りに、授業が始まった。
 様々な教材映像はホームシアターのようなスクリーンに表示され、ジェイクが説明をすると字幕が流れつつホワイトボードの代わりに空間に文字が浮かび上がる。
 メモを取る必要はないらしく、これも人工知能が授業を要約してジェイクのスマートフォンにイラストを送る。そのイラストをジェイクがアロナに送り、授業は終わるシステムだという。
 新鮮な授業に、退屈さを感じる暇はなかった。

 朝八時、ホテルのベッドで目覚めたジンはこれまでに(まと)めた調書(しらべしょ、またはちょうしょ)に目を通していた。必要な事実は全て書いており、演繹的(えんえきてき)に導き出した仮説も矛盾はない。
 身軽なアロナをジェイクのところまで届けた後、ジンはマクスウェルが何者なのかについてを追っていた。新国境都市のマリンダから小鳥地区までは三つの町を(また)ぐ必要があり、電車を使っても十時間はかかるような場所だ。良い情報が手に入るとは思えなかったものの、図書館にマクスウェルについての記事が残っていた。
 まず、マクスウェルというのは家名(かめい)だ。起源は千年前に(さかのぼ)る。千年前、スナルデンのみならず世界のほとんどが魔術によって生活の基盤(きばん)を支えられる魔術時代と今では呼ばれている。
 マクスウェルとは魔術時代において魔術師協会の幹部を担っていた家系で、国民に対して様々な影響を与えていた。幹部の中でも貴族の位置に属し、あらゆる戦争の処理を任されていたと記述にある。
「だが、魔術は廃れて地位も失墜(しっつい)したわけだ」
 貴族をモチーフにしたホテルはアンティーク調。大きな時計があれば、ガラス製の机もある。その机に寄りかかってボトルワインを飲んでいるのは、ジンの旧友であるモッカイという男だった。馬のような黒い毛並みは長く、後ろで束ねてようやく引き締まる髪だ。
 ひょうきんな男、酒豪(しゅごう)。最大の特徴は女好き。酒の飲み過ぎで常に声は枯れている。
「ついでにマクスウェル家は既に消滅済みときたもんだ。なあジン、小難しい顔してねえでお前も飲みに付き合えよお」
「今夜飲んでやるって言ったろ。それまでは調べる時間だ」
 マクスウェル家自体はモッカイの言う通り魔術時代の終焉(しゅうえん)と共に破滅しているが、家系が途絶えただけでありマクスウェルという名前自体は様々に登場するのだ。
 戯曲(ぎきょく)「狼たちの鎮魂宴(ちんこんえん)」では狼団(ろうだん)という盗賊を従える女傑(じょけつ)のリーダーとして登場した。そのマクスウェルという名前を偽名に使って強盗を行った事件が百年前にある。
 一番新しい情報だと二十年前、自身をマクスウェルと名乗る女性が魔術復興を嘆願(たんがん)し、技術による環境汚染問題を揶揄(やゆ)する無許可のスピーチが広場で行われた。
「にしても、アロナちゃんだっけ。お前が連れてきたんだ、よっぽど可愛いんだろうなあ」
「少し黙ってろ」
 ジンが考える厄介な点は、どれも情報源が乏しいうえに正確な住所の記載はない点だ。スピーチが行われたのは小鳥地区ではなく、この先訪れはしないだろうセブレスト県で行われたものだ。小鳥地区とは程遠い。
 足を組みながらワインボトルに口を付けるモッカイを後目に、ジンは調書を机の上に置いた。町の案内嬢に訊ねてもマクスウェルという女性に聞き覚えはないらしく、パソコンを使って調べたところで得られた情報は図書館で調べたものの裏付けだけだ。
 これ以上マリンダにいても目新しい情報を手に入れられそうにないが、まだ古本屋は回っていない。古本屋で色々買い込んだ後は、一ヶ月かけてじっくり読書の時間が待っている。
「なあもう夜だろ。行こうぜ、酒場」
 酔っ払ったモッカイには太陽が月に見えるらしい。いい加減に鬱陶(うっとう)しく思えてきたジンは、ホテルマンに度数の高い酒を注文してたっぷり飲ませ、寝かせる計画を立てた。

 授業を終えたアロナは、興奮冷めやらぬまま十二時を迎えるのだった。五時間を過ごしたとは到底思えないが、情報量は多かった。あらゆる精神病の中からとりわけ、PTSDに関しては長い時間を割いて教えを受けた。
 とはいえ、一日で医者になれる人間はいない。医者の実力は、診察の数によって変わる。アロナがこれまで身に付けていた看護知識や人体構造、外科的療法はほとんど使われない。診療時間が始まると同時に、どこかに置いてきた緊張が戻ってきてしまうのだった。
「君は本当に物覚えが早い。あんまり好きな言葉じゃないけど、天才だとすら思う」
 照れ笑いのようなものを浮かべた彼女に対して、ジェイクは(わず)かに真剣な表情をしていた。
「けど、精神科医に大事なのは自分の判断を過信し過ぎないことなんだ。自分の判断に必ず疑いを持つ、たとえどんなに天才でも。それを忘れちゃいけないよ」
「分かりました。ちゃんと学んでみせます」
 折よく、最初の患者が入ってきたようだ。
「先生、こんにちは」
 スナルデンの軍服を着ており、まだ二十代前半の男性だった。頭は剃り上げられていて毛髪一つない。好印象を持てる男性だが、瞳の奥に見える光は弱々しく思えた。
 常連なのだろう。彼は隣に座るアロナを見て少し疑問に感じているようだったが、胸元に見える研修医の名札を見て納得したようだった。安心した様子で、彼はさっきまでアロナが座っていた丸椅子に腰掛けるのだった。
 再診は五分で終わり、服薬を継続という判断で彼は見送られた。
 同じような患者が絶え間なく続き、次に回ってきたのは初診の患者だ。問診票(もんしんひょう)を見れば、二十七歳の女性で重度のうつ病のようにアロナは思えた。名前はアーリス・チェルタ。
 扉の外で、アーリスが名前を呼ばれる機械アナウンスが流れた。すると、スライド式の扉を開けて彼女は入ってきた。
 服装は地味目な茶色のトップスに、夏なのに足全体を隠すジーンズ。頬には包帯が巻かれていた。
「やあ、アーリス。そこに座って」
 彼女に付き添いはいなかった。アロナには彼女が緊張しているように見えて、何か声をかけてみようとしたものの、何も思い浮かばなかった。
「一番重い症状を教えて」
「紙に書きました」
 ジェイクは当然、全てを読み込んでいる。アロナもなぜ改めて訊くのか疑問に思うのだった。
「もう一度教えてほしいんだ。今日はなぜ、ここに来たんだい」
 アーリスはしばらく考え込んだ。当然ながらジェイクも、アロナも何も言わない。さっきの授業内容にあったのだ。患者が求めているのは安心感なのだと。
 二分経った。その間、アーリスは足を小刻みに揺らしていた。
 足が揺れる度に、彼女の長く黒い髪が揺れる。前髪は目元まで下がっている。身なりは家族に整えてもらったのだろうか。見た目の整われた風貌(ふうぼう)とは別で深い絶望の最中にいるような目をしている。
「お父さんに、襲われて」
 彼女が口を開いた瞬間、穏やかだったアロナの顔つきが変わった。あの夜の出来事が、五感を使って鮮明に(よみがえ)ってきたのだ。ジェイクはすかさず、アロナの手を握った。
 右手で左手を支えられたアロナは、動悸が抑制(よくせい)されてくるのを感じた。
「思い出さなくていい、アーリス。これから僕は、君がイエスかノーかだけで答えられる話をしていくよ。君は喋らず、首を縦にふるか横にふるかだけすればいい。いいかな」
 早速、アーリスは首を縦にふった。
「ありがとう。じゃあ、最初にアロナに訊いてみようか」
「ええ?」
 ここ数時間ずっと口を開かなかったアロナは、驚いて声をあげた。アーリスの前だから派手な驚き方はできなかったが、本来なら椅子から飛び上がっていたところだ。
 冗談かと思ってジェイクの顔を見れば、彼の表情には凛々(りり)しさがあるのだった。
「アロナ。君が今求めているものはなんだい。励ましか、それか薬か。それとも別の何か?」


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 気分よく目覚められたのは、睡眠薬が効いたからだろう。サリアンから渡されていた薬は強力で、身体の疲れも順当に癒してくれる。むくりと起き上がったアロナは、身体を逸らせて背伸びをした。眠っている間に身体が凝《こ》っていたようで、伸びる身体の筋が心地よく感じられる。
 まだ薄い目を擦りながらアクビを一度挟み、スリッパを履いて表に出る。昨日に買っておいた歯磨きセットをもって女性用の化粧室まで出向くのだった。
 中には先約がいた。これからアロナが着替える白い軍医服を着た、やや背の小さい女性だ。同い年か少し年下だろう。
「なに?」
 誰もいないと思っていたアロナにとっては意外で、無意識のうちに見つめていたようだ。彼女は苛立つ様子でアロナに向かって言った。
「あ、すみません」
 髪色はオレンジに近い赤毛で、肩までのセミロング。視線が合った時に見えた瞳の色は緑色で髪色との対比が宝石のように美しかった。アロナと同じく華奢《きゃしゃ》であり、目は丸いながらも気が強いのがよく分かる眉の形。
 少しだけ彼女と距離を取って横に並び、同じように歯磨きに専念する。お気に入りの歯磨き粉は近くのマーケットには売っておらず、代わりに炭《すみ》で作られたという殺菌と防臭効果の高い刺激的なものを使うのだった。
 空白の時間に、二人分の清浄音が響く。赤髪の彼女は抵抗がない様子だが、アロナは気まずさを宿していた。
 近寄りがたい雰囲気《ふんいき》を醸《かも》し出している。刺々しい。
 先に彼女が歯磨きを終えて口をゆすぎ表に出てから居心地は格段に良くなった。美しい宝石のようだと思えるが、できれば一ヶ月の間は接点がないのを心から祈っていた。
 朝の身支度を終え軍医服に着替えたアロナは、鏡で確認。髪は整えられ、服にシワは無く、メガネも清潔。ベッドメイキングも終わらして食堂へ。食堂で腹を満たした後は、ジェイクのいる事務所へと向かった。
 時間は朝の七時だ。初日の朝、ジェイクは座学の時間を設定した。時間外労働かと思えばそうでもなく、ジェイクははっきりと自分の趣味なのだと口にした。
「おはよう、アロナ。ホットドッグは美味しかったかい」
 食堂にジェイクの姿は無かったはずだ。
「なんで私の朝食を知ってるんです」
 半笑いのままジェイクは卓上鏡を指した。アロナは見てみれば、顎《あご》にケチャップがついているのが丸分かり。顔を紅潮させながら、ポケットティッシュで急いで拭き取った。
 白衣姿のジェイクは、ゴミ箱を片手でアロナの前に置いた。
 ティッシュを捨てる時に机の上を見て見れば見慣れない装置があった。頭を覆い隠すヘッドディスプレイであり、見た目でバーチャルリアリティ系の娯楽機器だとは分かるのだがそれほど普及はしていない。広告で目にする機会はあっても実際に見るのは初めてだ。
「これはなんですか」短くアロナが尋ねると、ジェイクは席に座るようアロナに促した。
 丸椅子に座るのを見届けてから、彼は簡潔《かんけつ》に言うのだった。
「教材だよ。冗談じゃなくね」
 ミラージ軍に所属していた時には考えられなかった。
 思い返せば、スナルデンの技術力は列強国の中でも高水準でありバーチャルに関しては頂点を独占していた。目の前にある機器が完成されたのは十年前であり、その頃から独立意識が強かったミラージ地方においてはヘッドディスプレイが市場に回らなかったのだ。
「ホワイトボードに頼ると時間がかかるし、なによりワクワクするだろう」
 慣れない環境だとはいえ、ジェイクの狙いは真ん中に当たっていた。軍医とはいえ最新技術に興奮する現代若者。アロナも例に漏れず、自然と口角が上がっていった。
「先生、めっちゃすごいです。もう被ってもいいですか」
「もちろん。被ったらそのまま動かないで、起動とかは僕に任せて」
 ついさっきケチャップを拭き取ったのは、脳が自動的に外に追いやってしまった。今は授業の始まりが待ち遠しくて仕方がなかった。
 機器を被った直後は視界のほとんどが真っ暗になった。だが起動すれば、最初に見えてきたのはさっきと変わらない景色だ。映像越しに見ているはずなのに自分の目で見ているような錯覚が感動を呼ぶ。
 次にジェイクはスマートフォンを操作した。連動しているようで、彼が五回ほど操作したあとに景色が一変した。
 まず最初に響く綺麗なピアノの音色が聞こえる。他に聞こえてくる環境音は森の中だろうか。木々の揺れる音、遠くで滝の音。そして、もはや自分がいるのは病室ではなくコテージだった。
「映し出す景色は人工知能によって補正されるんだ。僕が今座っているところを見てごらん」
 アロナの前にいるジェイクは、本来は丸椅子に座っていたはずだ。だが今は丸太になっている。周りに青い蝶《ちょう》も飛んでいて、手を伸ばすと指先に蝶が止まった。
 無事に機械が動いているのを確認できたジェイクは立ち上がり、もう一度スマートフォンを操作する。すると、ジェイクから狐のような白い尻尾が生えてきたではないか。
「こういうの好きなんだよね、僕は」
 ジェイク自身に尻尾は見えてないだろうが、彼のユーモアな一面はアロナから緊張を瞬く間に消し去っていった。
 もう一度彼がスマートフォンを操作した後、驚いた機能のあまりアロナは言葉を失った。
「さて、そろそろ授業を始めようか」
 その言葉が映画の字幕のように視界に現れたのである。
「はい!」という元気なアロナの掛け声を皮切りに、授業が始まった。
 様々な教材映像はホームシアターのようなスクリーンに表示され、ジェイクが説明をすると字幕が流れつつホワイトボードの代わりに空間に文字が浮かび上がる。
 メモを取る必要はないらしく、これも人工知能が授業を要約してジェイクのスマートフォンにイラストを送る。そのイラストをジェイクがアロナに送り、授業は終わるシステムだという。
 新鮮な授業に、退屈さを感じる暇はなかった。
 朝八時、ホテルのベッドで目覚めたジンはこれまでに纏《まと》めた調書(しらべしょ、またはちょうしょ)に目を通していた。必要な事実は全て書いており、演繹的《えんえきてき》に導き出した仮説も矛盾はない。
 身軽なアロナをジェイクのところまで届けた後、ジンはマクスウェルが何者なのかについてを追っていた。新国境都市のマリンダから小鳥地区までは三つの町を跨《また》ぐ必要があり、電車を使っても十時間はかかるような場所だ。良い情報が手に入るとは思えなかったものの、図書館にマクスウェルについての記事が残っていた。
 まず、マクスウェルというのは家名《かめい》だ。起源は千年前に遡《さかのぼ》る。千年前、スナルデンのみならず世界のほとんどが魔術によって生活の基盤《きばん》を支えられる魔術時代と今では呼ばれている。
 マクスウェルとは魔術時代において魔術師協会の幹部を担っていた家系で、国民に対して様々な影響を与えていた。幹部の中でも貴族の位置に属し、あらゆる戦争の処理を任されていたと記述にある。
「だが、魔術は廃れて地位も失墜《しっつい》したわけだ」
 貴族をモチーフにしたホテルはアンティーク調。大きな時計があれば、ガラス製の机もある。その机に寄りかかってボトルワインを飲んでいるのは、ジンの旧友であるモッカイという男だった。馬のような黒い毛並みは長く、後ろで束ねてようやく引き締まる髪だ。
 ひょうきんな男、酒豪《しゅごう》。最大の特徴は女好き。酒の飲み過ぎで常に声は枯れている。
「ついでにマクスウェル家は既に消滅済みときたもんだ。なあジン、小難しい顔してねえでお前も飲みに付き合えよお」
「今夜飲んでやるって言ったろ。それまでは調べる時間だ」
 マクスウェル家自体はモッカイの言う通り魔術時代の終焉《しゅうえん》と共に破滅しているが、家系が途絶えただけでありマクスウェルという名前自体は様々に登場するのだ。
 戯曲《ぎきょく》「狼たちの鎮魂宴《ちんこんえん》」では狼団《ろうだん》という盗賊を従える女傑《じょけつ》のリーダーとして登場した。そのマクスウェルという名前を偽名に使って強盗を行った事件が百年前にある。
 一番新しい情報だと二十年前、自身をマクスウェルと名乗る女性が魔術復興を嘆願《たんがん》し、技術による環境汚染問題を揶揄《やゆ》する無許可のスピーチが広場で行われた。
「にしても、アロナちゃんだっけ。お前が連れてきたんだ、よっぽど可愛いんだろうなあ」
「少し黙ってろ」
 ジンが考える厄介な点は、どれも情報源が乏しいうえに正確な住所の記載はない点だ。スピーチが行われたのは小鳥地区ではなく、この先訪れはしないだろうセブレスト県で行われたものだ。小鳥地区とは程遠い。
 足を組みながらワインボトルに口を付けるモッカイを後目に、ジンは調書を机の上に置いた。町の案内嬢に訊ねてもマクスウェルという女性に聞き覚えはないらしく、パソコンを使って調べたところで得られた情報は図書館で調べたものの裏付けだけだ。
 これ以上マリンダにいても目新しい情報を手に入れられそうにないが、まだ古本屋は回っていない。古本屋で色々買い込んだ後は、一ヶ月かけてじっくり読書の時間が待っている。
「なあもう夜だろ。行こうぜ、酒場」
 酔っ払ったモッカイには太陽が月に見えるらしい。いい加減に鬱陶《うっとう》しく思えてきたジンは、ホテルマンに度数の高い酒を注文してたっぷり飲ませ、寝かせる計画を立てた。
 授業を終えたアロナは、興奮冷めやらぬまま十二時を迎えるのだった。五時間を過ごしたとは到底思えないが、情報量は多かった。あらゆる精神病の中からとりわけ、PTSDに関しては長い時間を割いて教えを受けた。
 とはいえ、一日で医者になれる人間はいない。医者の実力は、診察の数によって変わる。アロナがこれまで身に付けていた看護知識や人体構造、外科的療法はほとんど使われない。診療時間が始まると同時に、どこかに置いてきた緊張が戻ってきてしまうのだった。
「君は本当に物覚えが早い。あんまり好きな言葉じゃないけど、天才だとすら思う」
 照れ笑いのようなものを浮かべた彼女に対して、ジェイクは僅《わず》かに真剣な表情をしていた。
「けど、精神科医に大事なのは自分の判断を過信し過ぎないことなんだ。自分の判断に必ず疑いを持つ、たとえどんなに天才でも。それを忘れちゃいけないよ」
「分かりました。ちゃんと学んでみせます」
 折よく、最初の患者が入ってきたようだ。
「先生、こんにちは」
 スナルデンの軍服を着ており、まだ二十代前半の男性だった。頭は剃り上げられていて毛髪一つない。好印象を持てる男性だが、瞳の奥に見える光は弱々しく思えた。
 常連なのだろう。彼は隣に座るアロナを見て少し疑問に感じているようだったが、胸元に見える研修医の名札を見て納得したようだった。安心した様子で、彼はさっきまでアロナが座っていた丸椅子に腰掛けるのだった。
 再診は五分で終わり、服薬を継続という判断で彼は見送られた。
 同じような患者が絶え間なく続き、次に回ってきたのは初診の患者だ。問診票《もんしんひょう》を見れば、二十七歳の女性で重度のうつ病のようにアロナは思えた。名前はアーリス・チェルタ。
 扉の外で、アーリスが名前を呼ばれる機械アナウンスが流れた。すると、スライド式の扉を開けて彼女は入ってきた。
 服装は地味目な茶色のトップスに、夏なのに足全体を隠すジーンズ。頬には包帯が巻かれていた。
「やあ、アーリス。そこに座って」
 彼女に付き添いはいなかった。アロナには彼女が緊張しているように見えて、何か声をかけてみようとしたものの、何も思い浮かばなかった。
「一番重い症状を教えて」
「紙に書きました」
 ジェイクは当然、全てを読み込んでいる。アロナもなぜ改めて訊くのか疑問に思うのだった。
「もう一度教えてほしいんだ。今日はなぜ、ここに来たんだい」
 アーリスはしばらく考え込んだ。当然ながらジェイクも、アロナも何も言わない。さっきの授業内容にあったのだ。患者が求めているのは安心感なのだと。
 二分経った。その間、アーリスは足を小刻みに揺らしていた。
 足が揺れる度に、彼女の長く黒い髪が揺れる。前髪は目元まで下がっている。身なりは家族に整えてもらったのだろうか。見た目の整われた風貌《ふうぼう》とは別で深い絶望の最中にいるような目をしている。
「お父さんに、襲われて」
 彼女が口を開いた瞬間、穏やかだったアロナの顔つきが変わった。あの夜の出来事が、五感を使って鮮明に蘇《よみがえ》ってきたのだ。ジェイクはすかさず、アロナの手を握った。
 右手で左手を支えられたアロナは、動悸が抑制《よくせい》されてくるのを感じた。
「思い出さなくていい、アーリス。これから僕は、君がイエスかノーかだけで答えられる話をしていくよ。君は喋らず、首を縦にふるか横にふるかだけすればいい。いいかな」
 早速、アーリスは首を縦にふった。
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「ええ?」
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 冗談かと思ってジェイクの顔を見れば、彼の表情には凛々《りり》しさがあるのだった。
「アロナ。君が今求めているものはなんだい。励ましか、それか薬か。それとも別の何か?」