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2-1

ー/ー



 母体の中から少しずつ浮いてくるような。アロナの目覚めは神秘的な体験を(ともな)うものだった。起きた時、病室だと気付いても彼女は驚くわけでもなく、安堵(あんど)の息すら吐きだした。見覚えのない景色はスナルデン国内である証左(しょうさ)である。
「おはよう、アロナ。僕はジェイク、痛みとかはない?」
 子守歌を唄うような声音だ。緊張が足の先まで巡ってあくびが出そうになるのを堪えながら彼女は答えた。
「いえ、大丈夫です」
 どういう経緯でここに運ばれたのかジェイクはかいつまんで話し始めた。言うことをききそうになかったアロナに対して麻酔銃を使い昏倒(こんとう)させたジンが、貴女を背負って山を下ってきたのだそうだ。
 寡黙(かもく)な兵士、ジンは熊から助けるだけでなく山下りまでサポートしたのだという。
 偶然にも寡黙な兵士と優しそうな精神科医は旧友なのだという。
「君にとってジンはどんな人間だった?」
 まったく予想外。真面目に話していたジェイクが急に気さくな人間になるのだから戸惑いを出さずにはいられなかったが、せっかくだから少ない記憶資料からジンの情報を引っ張り出してみるのだ。
 どれくらい少ないかと言えば、三度しか顔を合わせていないのだから皆無だ。一度目は医者と患者として。二度目は医者と患者の付添人として。三度目は恩人として。三つの中だと、一度目のやり取りの方が濃密だったような気がするからと、記憶を更に漁った。
 五秒くらい考えていたが、ジェイクは急かすような真似はしなかった。
「怖い人だと思います」
 待ちに待った解答を得られた時、ジェイクは思わず吹き出してしまった。あはは、と小気味いい笑い方だ。息を吸いながら笑い、息を吐きながらも笑う。
 どこがそんなにおかしいのだろうと思いながらも、アロナの口角も重力に逆らって少しずつ持ちあがってくるのだった。
「僕と彼は学校が同じだったんだけどね。そりゃもう、何もしてないのに不良扱いでさあ。顔が怖いせいで本物の不良も近付かないんだ」
「想像できます。喧嘩も強かったんですか?」
 突然気さくになったのは距離を縮めるために演技をしていたのかとアロナは予想したものの、どうやら違うようだった。元々の性格が気さくなのだ。人懐っこいような幼少期が鮮明(せんめい)に浮かぶ。
「強かったよ、誰よりもね」
 どうして怖面(こわもて)の男と友達になったのだろう。ジェイクは優しそうだがワルの一面もあるのか、大人になってワルから卒業したのか。アロナは右脳も左脳も使って考えていた。
 気になって壁に掛けられていた灰色の丸い時計を見た。時間は朝の九時を指している。空腹感がないのはアロナにとって恒例で、受験勉強ですっかり夜型の生活に慣れきっていた彼女の身体は軍医になっても変わらない。
「私は平気です。それよりも兵士達の方が気がかりです。スナルデン軍の」
 話が前後しただけでなく、思ってもない情にジェイクは戸惑いの眉を上げた。
「強(したた)かだね。けど、君の本心は別にある」
「なぜ分かるんですか」
 ソニアミス山脈占領を報せる日誌がジェイクの上に置かれている。まだスナルデンの政治家達は降伏(こうふく)の意はないのだろう、見出しにはとある格言が用いられていた。
 ――四肢(しし)を失えども、目と耳を失えども。
 四十年前、スナルデン国王の側近だったベネチカという女性が演説で使った言葉だ。ミラージとの独立戦争が始まる前、異国同士の戦争に巻き込まれ戦死している。彼女に贈られた名誉(めいよ)は最高のものだったのを幼少期だったアロナは覚えている。
 ぼうっとしていたようだ。ジェイクが答えてくれたが、聞き逃してしまった。
「もしよかったらでいいんだけど、僕の仕事を手伝ってみないか」
 アロナにとっては思ってもない話だった。多くの色が混合するビーズの中から虹色のビーズを渡されたような。
 元々精神医学に興味があるのもあって二つ返事で首を縦に振りかけたが、すぐに思いとどまるのだ。スナルデンにとっては自分も敵だ。スナルデン兵が敵国の医者に医療をしてもらう。言語道断だった。彼らのプライド、尊厳を傷つけるだけだろう。
 瞳の中に宿った輝きをジェイクは見逃さなかった。頷けない彼女を前に、静かに声をかけた。
「君はヴァリシアじゃない。この言葉を知ってるかい」
 初耳だったが、文脈から想定はできた。
「ジェノサイドを引き起こした張本人、でしたっけ」
「そっちが有名だけど、一番の問題はそこじゃない」
 歴史家なら常識として語られるのが、恐怖時代と呼ばれるヴァリシア統治だ。スナルデンより西の国にあるタイタニアで五十年続いたもので、自国のみならず他国にすら民族差別を強要した女性統治者だ。
「彼女は国民を分類分けしたんだ。まるで診断するかのように」
 大きく分けて三つ。奴隷、中族、貴族。当時に貴族制度は既に撤廃(てっぱい)されていたが、便宜的(べんぎてき)に貴族と呼んでいたのだという。この三つから細分化する国民種別は百以上に及ぶとジェイクは続けた。
「賢い彼女は、中族をスケープゴートにしたんだ。そして同じ国民同士でありながら真の恐怖時代と呼ばれる七年間の国内戦争が始まる」
 昔から、政治家や王は自覚した無能であればあるほど良いとミラージで言われてきた。近年の研究では、少なくともミラージ国内の実験では有能な人材ほど非倫理的な行動を取るという結果が出ている。昔の人間は実験をせずとも、直感的にそれを理解していた。
「面白い話をしようか。君は何者かな、アロナ」
 物腰(ものごし)柔らかくジェイクが問いかけてきた。
 自分が何者か。アロナは自分という定義づけを再認識すべく神の視点で自分を見下ろした。それこそヴァリシアが分類したように大きな観点から自分を見つめる。女性、二十代、多分優しい、医者、趣味は映画鑑賞。
「まだ未熟な医者です」
 謙遜(けんそん)は美学だ。親二人から引き継がれた家訓とも呼べる性格は、無意識の内に働いている。
 答えに、ジェイクは満足げに微笑んだ。
「僕が訊いてから君が答えるまでの間に大体五秒の時間が経った。五秒の間に自分という人間を構築している要素を考えてくれたと思う」
 外から軍隊の足音が聞こえてくる。方角的に町の中心部に向かったのだろう。
 彼らの心境を思えば、アロナもどこか(うれ)いの機微(きび)が心に宿る。決して表情には出ないが、彼らは負けたのだ。やはり自分は、仕事を手伝う資格がない。戦に勝利した側であるというのに、まったく喜べなかった。
「君の考えの中に、自分はミラージ国人であるっていう認識はあったかな」
 我に返るような言葉だった。アロナは口を半開きにして固まった。
「人によってはそう思う人もいるだろうね。けど大抵の人は自分を構築する要素に、人種や国というものはないんだ。これがタイタニア人だったらまた変わったんだろうけどね」
 さらにジェイクは一呼吸置いてこう続ける。
「隣国同士の我々は程よい愛国心と、九割以上の人間が同じ種族。はっきり言おうか。アロナは、アロナなんだ。ミラージもスナルデンも関係ない」
 最後の言葉がジェイクにとって一番言いたかったのだろう。それを時間をかけて、解きほぐすように説明したのだ。彼が必死でアロナという人間を癒したいという気持ちが伝わってくる。柔らかな目つきの中にある情熱が、彼女に感じられる。
「君がミラージの人間であるとは僕が責任をもって周知するし、ここに来る患者にも受付が伝える。最大限の援助をする。これでもまだ、頷けない?」
 戦争の発起人となったスカルマチョが、今では憎い。もし過去に戻れるならば彼を必死に止めていただろう。
 大戦中に流されたり、歴史の授業で習ったりしたスナルデンの悪行は事実なのだろう。ただそれは、週刊誌の記者が芸能人が起こした過去をいつまでも報道しているようなものに感じた。過去と今は別物なのだ。
「やります。仕事をします」
 おもむろに差し出されたジェイクの右手。アロナは左手で応じた。
「今日から一ヶ月、君と僕はパートナーだ。これから仕事内容を詳しく説明していくよ」
 何気なくアロナも分かっていた。仕事の手伝いというのは名目上だ。本来はアロナの中にあるトラウマを壊すためのプロジェクトなのだろう。これ以上ない治療法だった。利他的な彼女にとって自分を癒す方法は、他人を癒すに他ならないのだから。
 手伝いが始まるのは昼の十二時からだ。最初の三日は隣で見る時間、それ以降は診療後に自身から診療方法についてのアプローチを行っていく。投薬かカウンセリングか、入院か認知行動療法(にんちこうどうりょうほう)か。
 一日三万円の手当が出れば、それ以降は働かずとも小鳥地区という場所まで辿り着けるだろう。
 簡単な説明が終わった後、ジェイクは深呼吸をアロナに促した。腕を上まで伸ばし、背筋を張る。
「降伏の合意には二ヶ月はかかるだろうと見てる」
「そうなんですか」
 深呼吸を終え、息を多く吐きながらアロナが応えた。
「ギザン国王が今朝、全国民に向けて声明文を出したんだ」
 驚くことに、国王直筆にスナルデン国民に向けて手紙が届いたのだという。配達業者は大忙しだったに違いない。
「三十行くらい書かれていて、要約するとこうだった。敗戦は確定的だが、死者の名誉(めいよ)に逆らう敗北にはしない」
 どういう意味かとアロナが問えば、返ってきた答えはこうだった。
「降伏はするが、ミラージの独立に関する独立宣言には関与するといったところだろうね」
「条約について反論する立場を持つ、みたいなことですか」
 机に置いてある記事には降伏をしないように書かれているが、出版社の主張が強く反映されているのだろう。
「そうだ。条約の締結(ていけつ)には二ヶ月、長くて三ヶ月かかる。似た境遇を持つ他国の戦争を見れば大抵は一ヶ月以上はかかっているし、ギザン国王も慎重にならざるを得ない」
 心置きなく一ヶ月を過ごせる。アロナにとってはこれ以上の安心材料はなかった。
 戦命書(いくさみしょ)という戦争に関するルールが世界的に提示されている。独立戦争の章、ある約にはこんな記述がある。降伏合意までの間、他国領土への侵入を禁ずると。最低でも二ヶ月、ミラージ軍はこの町に入れないのだ。
「ひとまず、この病室は好きに使ってほしい」
 えっ。思わず声を出した。
「ここは戦いで酷く負傷した兵士が送られてくるための病室なんだ。これから先、そういった出来事はないだろうからね。一ヶ月の間、好きに改造していいよ」
 宿泊費については度外視(どがいし)していた。これ以上ないジェイクからの申し出だ。
 どこからともなく風が吹いた。レースのカーテンが揺れて、卓上に置かれていた花がこぼれた。よく見ればかなり枯れている。長い間使われていなかったのだろう。当然だ。
 ミラージの兵器は傷を負わせるために作られていない。
 殺すために作られている。地雷も、銃も。
「こっちを見て、アロナ」
 枯れた花に散った兵士の命を重ねていた彼女は、心を取り戻してジェイクを見た。
「サリアンは君に出会えて幸運だった。これから君は、たくさんの人を幸運にする使命を持っている。君にしかできないことだ」
 沈黙の中で、自分の中に芽生える可能性に名前を付けた。それは、星だ。
 決意が宿った眼差しを見たジェイクは、椅子から立ち上がった。
 好きに使っていいという言葉と「明日からよろしく」と告げた。アロナは元気よく返し、彼は病室を出て行った。これから一時間後、ここは病室ではなくアロナの部屋に切りかわる。
 まずは枯れた花の手入れ、それから――日記を書かないと。


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 母体の中から少しずつ浮いてくるような。アロナの目覚めは神秘的な体験を伴《ともな》うものだった。起きた時、病室だと気付いても彼女は驚くわけでもなく、安堵《あんど》の息すら吐きだした。見覚えのない景色はスナルデン国内である証左《しょうさ》である。
「おはよう、アロナ。僕はジェイク、痛みとかはない?」
 子守歌を唄うような声音だ。緊張が足の先まで巡ってあくびが出そうになるのを堪えながら彼女は答えた。
「いえ、大丈夫です」
 どういう経緯でここに運ばれたのかジェイクはかいつまんで話し始めた。言うことをききそうになかったアロナに対して麻酔銃を使い昏倒《こんとう》させたジンが、貴女を背負って山を下ってきたのだそうだ。
 寡黙《かもく》な兵士、ジンは熊から助けるだけでなく山下りまでサポートしたのだという。
 偶然にも寡黙な兵士と優しそうな精神科医は旧友なのだという。
「君にとってジンはどんな人間だった?」
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 五秒くらい考えていたが、ジェイクは急かすような真似はしなかった。
「怖い人だと思います」
 待ちに待った解答を得られた時、ジェイクは思わず吹き出してしまった。あはは、と小気味いい笑い方だ。息を吸いながら笑い、息を吐きながらも笑う。
 どこがそんなにおかしいのだろうと思いながらも、アロナの口角も重力に逆らって少しずつ持ちあがってくるのだった。
「僕と彼は学校が同じだったんだけどね。そりゃもう、何もしてないのに不良扱いでさあ。顔が怖いせいで本物の不良も近付かないんだ」
「想像できます。喧嘩も強かったんですか?」
 突然気さくになったのは距離を縮めるために演技をしていたのかとアロナは予想したものの、どうやら違うようだった。元々の性格が気さくなのだ。人懐っこいような幼少期が鮮明《せんめい》に浮かぶ。
「強かったよ、誰よりもね」
 どうして怖面《こわもて》の男と友達になったのだろう。ジェイクは優しそうだがワルの一面もあるのか、大人になってワルから卒業したのか。アロナは右脳も左脳も使って考えていた。
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 話が前後しただけでなく、思ってもない情にジェイクは戸惑いの眉を上げた。
「強《したた》かだね。けど、君の本心は別にある」
「なぜ分かるんですか」
 ソニアミス山脈占領を報せる日誌がジェイクの上に置かれている。まだスナルデンの政治家達は降伏《こうふく》の意はないのだろう、見出しにはとある格言が用いられていた。
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 四十年前、スナルデン国王の側近だったベネチカという女性が演説で使った言葉だ。ミラージとの独立戦争が始まる前、異国同士の戦争に巻き込まれ戦死している。彼女に贈られた名誉《めいよ》は最高のものだったのを幼少期だったアロナは覚えている。
 ぼうっとしていたようだ。ジェイクが答えてくれたが、聞き逃してしまった。
「もしよかったらでいいんだけど、僕の仕事を手伝ってみないか」
 アロナにとっては思ってもない話だった。多くの色が混合するビーズの中から虹色のビーズを渡されたような。
 元々精神医学に興味があるのもあって二つ返事で首を縦に振りかけたが、すぐに思いとどまるのだ。スナルデンにとっては自分も敵だ。スナルデン兵が敵国の医者に医療をしてもらう。言語道断だった。彼らのプライド、尊厳を傷つけるだけだろう。
 瞳の中に宿った輝きをジェイクは見逃さなかった。頷けない彼女を前に、静かに声をかけた。
「君はヴァリシアじゃない。この言葉を知ってるかい」
 初耳だったが、文脈から想定はできた。
「ジェノサイドを引き起こした張本人、でしたっけ」
「そっちが有名だけど、一番の問題はそこじゃない」
 歴史家なら常識として語られるのが、恐怖時代と呼ばれるヴァリシア統治だ。スナルデンより西の国にあるタイタニアで五十年続いたもので、自国のみならず他国にすら民族差別を強要した女性統治者だ。
「彼女は国民を分類分けしたんだ。まるで診断するかのように」
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 謙遜《けんそん》は美学だ。親二人から引き継がれた家訓とも呼べる性格は、無意識の内に働いている。
 答えに、ジェイクは満足げに微笑んだ。
「僕が訊いてから君が答えるまでの間に大体五秒の時間が経った。五秒の間に自分という人間を構築している要素を考えてくれたと思う」
 外から軍隊の足音が聞こえてくる。方角的に町の中心部に向かったのだろう。
 彼らの心境を思えば、アロナもどこか憂《うれ》いの機微《きび》が心に宿る。決して表情には出ないが、彼らは負けたのだ。やはり自分は、仕事を手伝う資格がない。戦に勝利した側であるというのに、まったく喜べなかった。
「君の考えの中に、自分はミラージ国人であるっていう認識はあったかな」
 我に返るような言葉だった。アロナは口を半開きにして固まった。
「人によってはそう思う人もいるだろうね。けど大抵の人は自分を構築する要素に、人種や国というものはないんだ。これがタイタニア人だったらまた変わったんだろうけどね」
 さらにジェイクは一呼吸置いてこう続ける。
「隣国同士の我々は程よい愛国心と、九割以上の人間が同じ種族。はっきり言おうか。アロナは、アロナなんだ。ミラージもスナルデンも関係ない」
 最後の言葉がジェイクにとって一番言いたかったのだろう。それを時間をかけて、解きほぐすように説明したのだ。彼が必死でアロナという人間を癒したいという気持ちが伝わってくる。柔らかな目つきの中にある情熱が、彼女に感じられる。
「君がミラージの人間であるとは僕が責任をもって周知するし、ここに来る患者にも受付が伝える。最大限の援助をする。これでもまだ、頷けない?」
 戦争の発起人となったスカルマチョが、今では憎い。もし過去に戻れるならば彼を必死に止めていただろう。
 大戦中に流されたり、歴史の授業で習ったりしたスナルデンの悪行は事実なのだろう。ただそれは、週刊誌の記者が芸能人が起こした過去をいつまでも報道しているようなものに感じた。過去と今は別物なのだ。
「やります。仕事をします」
 おもむろに差し出されたジェイクの右手。アロナは左手で応じた。
「今日から一ヶ月、君と僕はパートナーだ。これから仕事内容を詳しく説明していくよ」
 何気なくアロナも分かっていた。仕事の手伝いというのは名目上だ。本来はアロナの中にあるトラウマを壊すためのプロジェクトなのだろう。これ以上ない治療法だった。利他的な彼女にとって自分を癒す方法は、他人を癒すに他ならないのだから。
 手伝いが始まるのは昼の十二時からだ。最初の三日は隣で見る時間、それ以降は診療後に自身から診療方法についてのアプローチを行っていく。投薬かカウンセリングか、入院か認知行動療法《にんちこうどうりょうほう》か。
 一日三万円の手当が出れば、それ以降は働かずとも小鳥地区という場所まで辿り着けるだろう。
 簡単な説明が終わった後、ジェイクは深呼吸をアロナに促した。腕を上まで伸ばし、背筋を張る。
「降伏の合意には二ヶ月はかかるだろうと見てる」
「そうなんですか」
 深呼吸を終え、息を多く吐きながらアロナが応えた。
「ギザン国王が今朝、全国民に向けて声明文を出したんだ」
 驚くことに、国王直筆にスナルデン国民に向けて手紙が届いたのだという。配達業者は大忙しだったに違いない。
「三十行くらい書かれていて、要約するとこうだった。敗戦は確定的だが、死者の名誉《めいよ》に逆らう敗北にはしない」
 どういう意味かとアロナが問えば、返ってきた答えはこうだった。
「降伏はするが、ミラージの独立に関する独立宣言には関与するといったところだろうね」
「条約について反論する立場を持つ、みたいなことですか」
 机に置いてある記事には降伏をしないように書かれているが、出版社の主張が強く反映されているのだろう。
「そうだ。条約の締結《ていけつ》には二ヶ月、長くて三ヶ月かかる。似た境遇を持つ他国の戦争を見れば大抵は一ヶ月以上はかかっているし、ギザン国王も慎重にならざるを得ない」
 心置きなく一ヶ月を過ごせる。アロナにとってはこれ以上の安心材料はなかった。
 戦命書《いくさみしょ》という戦争に関するルールが世界的に提示されている。独立戦争の章、ある約にはこんな記述がある。降伏合意までの間、他国領土への侵入を禁ずると。最低でも二ヶ月、ミラージ軍はこの町に入れないのだ。
「ひとまず、この病室は好きに使ってほしい」
 えっ。思わず声を出した。
「ここは戦いで酷く負傷した兵士が送られてくるための病室なんだ。これから先、そういった出来事はないだろうからね。一ヶ月の間、好きに改造していいよ」
 宿泊費については度外視《どがいし》していた。これ以上ないジェイクからの申し出だ。
 どこからともなく風が吹いた。レースのカーテンが揺れて、卓上に置かれていた花がこぼれた。よく見ればかなり枯れている。長い間使われていなかったのだろう。当然だ。
 ミラージの兵器は傷を負わせるために作られていない。
 殺すために作られている。地雷も、銃も。
「こっちを見て、アロナ」
 枯れた花に散った兵士の命を重ねていた彼女は、心を取り戻してジェイクを見た。
「サリアンは君に出会えて幸運だった。これから君は、たくさんの人を幸運にする使命を持っている。君にしかできないことだ」
 沈黙の中で、自分の中に芽生える可能性に名前を付けた。それは、星だ。
 決意が宿った眼差しを見たジェイクは、椅子から立ち上がった。
 好きに使っていいという言葉と「明日からよろしく」と告げた。アロナは元気よく返し、彼は病室を出て行った。これから一時間後、ここは病室ではなくアロナの部屋に切りかわる。
 まずは枯れた花の手入れ、それから――日記を書かないと。