正確に言えばマリンダは国境の都市ではなかった。今でこそミラージという国は復活したが、スナルデンの一部だったのだからこの町を国境というには違和感に等しい。
精神科医のジェイクは、ベッドの上で静かに眠るアロナを見ながら腕を組んでいた。内科医が診察を終え、身体のどこにも異常がないのは確認している。精神的な疾病は悪目立ちはせず、一般人という枠に収まっている少女。
彼はため息を一つこぼして病室を出た。外で待っていたのは少女を運んできた兵士、ジンだった。
長い褐色の廊下は横に伸びる。土の煉瓦で出来た簡易的な病院は五階建てだが、来週には十階になっているだろう。上階から響くような工事音が時々療養兵士のトラウマを引き起こす。
看護師や医師達が早歩きで左右に向かう中、二人は向かい合って立っていた。ジェイクは白衣の下に黒のシャツと黒のスキニー。ジンは神聖な青いコートと灰色に合わせた上下。土で汚れている。向き合って最初に口を開いたのはジェイクだった。
「交友関係を広く持つという点において、僕は積極的だった」
くせ毛の白い髪を指で絡めながら、ジェイクは慎重に言葉を選ぶ。独特なゆったりした声音で続けた。
「中にはどうして距離を置く切っ掛けになったのか分からない友人もいる。そんな中で明確に君と離れた切っ掛けになった出来事は五年経った今でも鮮明に覚えている」
向き合う二人は旧知の仲だった。ジェイクは昔と髪型は変えているが、ジンは一切変わらない。茶色の髪を手入れしているのか分からないくらい見た目にはガサツだ。愛想もあまり良いとは言えない。
戦争が始まる前、ミラージ側が勝つと予測していたジンは真っ先にスナルデン軍から抜け、秘密裏に募集されていたミラージ義勇軍へと入隊したのだ。
「聞かせてほしい。どうして裏切ったんだ。僕たちは幼馴染だった」
普通ならバツが悪そうにするところを、ジンは表情を変えずにこう返した。
「この国に待っているのは破滅だと知っていた、それ以外に理由はない」
「君の勝手な妄想じゃないか」
ジェイクの言い分は正しかった。
本物の予言者でもない限り、国が滅亡に向かうか復興するかは分からない。ジェイクはジンが理知的な人間であるとよく理解している。だからこそ、妄想だけで祖国を裏切るのは憤りを感じるのだ。
「歴史を見れば分かる。国って大仰な名前がついているから勘違いする奴が多いが、国も所詮人間が作ったものだ。国は人間と同じだ。そして、人間は歴史を繰り返す」
テレビやラジオでは連日、いかにスナルデンが優れているかを市民達に届けるような番組が放送されていた。ほとんどの人間は愛国心があるから無条件で信じ、他国よりも優れているのだと理解する。そこに傲慢と驕りが生まれる。
テレビが無かった時代。兵士達が槍と剣だけで戦っていた時代はプロパガンダを作る必要が無かった。
「人間は歴史から学ぶ生き物だよ、ジン」
「そうだといい」
昔を懐かしむという点において、二人の心は一致していた。こういった議論は何度もしてきた。喧嘩にはならないものの、お互いに一歩も譲らずに数時間も同じ話題で議論した日がある。その中で暗黙の了解となっていたのが一つあり、二人とも互いの論を根本から否定しない。お前の考えは間違っている、とは口にしない。
喧嘩になるからではない。分かっているのだ。どんな議論にも間違いが無ければ正解も無いという、唯一の正解を。
「話が逸れたね。アロナのことだけど、申し訳ないけど僕に診察はできない」
旧知の仲ならば、ジェイクがそう言って申し出を断るのは承知の上だった。サリアンへの紹介状、それを渡しても受け入れるかどうかはジェイクにかかっていた。
「そんなに深刻か」
訊ねれば、ジェイクは首を横に振った。
「違う。経緯を考えたら診察するのは当然だ。襲われたうえに人が死ぬところまで見た。心的外傷は計り知れない。可哀相っていう言葉が不謹慎に思えるくらいだ」
ジンは腰に片手を乗せて、何も言わずともジェイクに続きを促した。
「君の話によると、そんなショックを受けても彼女は次の日に働いて、しかも下山しようとした。恐らく、あまりのショックに脳の防衛機制が働いて……難しい言葉を使わずに言うと、手紙への使命感が今は大事なんだ」
「つまり?」
話はかなり単純だった。
「診察したら、余計悪化する可能性が高い」
失った兵士から託された手紙がアロナにとっては一番の精神安定剤。マクスウェルという女性に届けるまでは挫けられない、ショック反応を隅に追いやっているのはアロナの中にある正義感だった。
診察や薬物投与は正義感を揺らがせる心配があると、医療の知識は疎いジンでも納得できるほどの説得力があった。
「もし断られた時のためにもう一つの頼みを持ってきてる」
臨時に建てられた兵士用の病院とはいえ、マリンダには病院の数が少ないのもあって緊急性の高い一般人も車で運ばれてきているらしい。エレベーターから急患が青色のストレッチャーに乗せて運ばれていた。交通事故だろう、意識は混濁としている。
「しばらくアイツの師匠になってほしい」
「ええ!?」
眼を丸くする、口をあんぐり開ける、眉を上に動かす。人間が驚く時にする大体の行動をジェイクはやってくれた。
「お前は精神医学の中じゃ成績トップだったか」
驚いた顔の後は、落胆しながら呆れるようにこう返した。
「皮肉が上手だな。僕は史上最大の落ちこぼれさ」
史上最大は過ぎた言葉なものの、ジェイクの腕が未熟なのはジンがよく分かっていた。転勤を次々と繰り返しているのは左遷と同義で、判断ミスも多かった。人は良いから三回くらいまでは人が来るものの、三回以上はほとんどない。
精神や心療内科だと、医師よりも患者の方がよっぽど調べたり知識があったりする場合が多い。とはいえ大抵は間違った知識であり、ネットの情報を鵜呑みにしてしまう。妄信といってもいいくらいだ。
「僕には無理だ。できない」
人の良いジェイクは、否定の仕方が上手ではなかった。頼りないように見えてしまう。精神疾患に悩まされている患者は安心感を求める。それを求めた人間にとって頼りないというのは致命的だった。
経験を積むだけで補える欠点ではない。実際にジェイクは、ここでの仕事が終われば転職を考えていた。
「俺は一度、お前に救われた」
気付けば目を視線に向けていたジェイクが顔を上げた。今の言葉が本当にジンが言ったのか確かめるためだ。
紛れもなく、彼がそう言った。
「お前の居場所は医師という肩書ではないんだろうが、最後にもう一人。アロナを救ってくれないか」
「救うって言っても」
歯切れが悪く、ジェイクには自信が無かった。ジンは彼に近寄ると、肩に手を置いてこう言った。
「お前ならできる。一回やってみろ。医師としてじゃない、師匠としてアロナのトラウマ克服を手伝ってやってほしい」
配達人になるという使命感は応急処置のようなものだった。数ヶ月かかるか、もっと早く終わるか分からない。応急処置として貼り付けられた絆創膏、もしそれが一つしかなかったら。その間に傷口が塞がなかったら。
誰よりもジェイクはトラウマの危険性について知っていた。心の傷は癒えないというが、実際はもっと酷いのだ。人間を変えてしまう、酷い人間へと成長させてしまう危険性。
「出来る限り、手は尽くしてみる。もし力になれなかった時はごめん」
ジンは笑ってこう返した。
「医者ってのはバッドエンドを防ぐだけでいい。兵士もそうだ。お前が若い時に言ってた言葉だ、忘れるなよ」
「まだ若いんだけどな」
ジンが静かに笑い、ジェイクは続いてクスっと微笑で応じた。
「僕からも一ついいかな。ジンはなぜ、アロナを助けたいと思うんだ? 何か特別な思い入れがあるのか」
軍を離れたという点ではジンも同じだ。いわばアロナは裏切り者、そんな彼女を助けたジンもまた悪いレッテル貼りからは逃れられない。なぜ逃げたのか訊くために生かしたという言い訳の道は幾つも用意されているが、友人として訊ねたのはそれらの道がどれも違うように感じたからだ。
二人が特別な関係であるとも思えない。深い思い入れがあるのだろうか。
「アイツは敵国である兵士に温情を見せた。多くの人間が失っている温情と、勇気」
「それが君の心を動かしたと」
信じられない、という目をする他にない。ジンは身体を窓の方に向けて近付くと、下を見下ろして敷地内の公園で遊んでいる子供達を瞳に映していた。
「もし手紙の中身が良くないものだったら? 水を差すようで悪いんだけど、アロナの行動に意味はあるのかな」
子供達ははしゃいでいる。無邪気だ。
「アイツにとっては希望だ。俺はもうこれ以上、純粋で可愛げがあって、あったかい奴が汚れていくところを見たくない」
話の終わりに、ジンは階段の方へ歩いて行った。途中兵士とすれ違ったらしく、スナルデン式の敬礼で応じていた。その背中は、戦争が始まる前に見た頃より小さいように思えるのだった。
スケジュール的にはこれからが忙しくなる。戦争が終結し、敗戦。となれば強い精神ダメージを負った兵士がこぞって病院を訪れて忙しさでパンクするだろう。アロナは精神科医でないから患者へのケアは期待できそうにない。多少の知識や経験はあれど、専門ではないのだから。
師匠としてどういう役割をすべきか、弟子にはどういう役割を与えるべきか。今日は暇を持て余す予定が、思いもよらぬ予定ができてしまった。彼女が起きるまで残り三時間と推定して、その間に考え事を形にする必要がある。
憂鬱ではなかった。自分にとっての試練だ。彼は事務所に戻り、早速とその試練に立ち向かい始めるのだった。