2 冒険者ギルド
ー/ー
あれほど不安を抱えた夜なんて初めてだった。
こんなことなら、昨日は出かけなければ良かった。
ため息をつきながら起きて、私はお父さんと二人分の朝食を作った。
物心ついたときから、ずっとしている。
食事の準備をして、後片付けをして、洗濯をして、掃除をする。手慣れたものだ。今日もいつもの作業を繰り返すだけなのに、テンポが、崩れた。
目玉焼きを、焦がしてしまった。不用意に皿を掴んで、落としてしまった。洗剤を入れすぎた。掃除が雑になった。
息をつく。
ちらちらと、あの男の人の顔が頭をよぎったからだ。
今日は買い物に行かないといけない。昨日行けなかったから、食材がないんだ。
お父さんは仕事で忙しい。私が行くしかない。
外は晴れた青空なのに、私には曇って見えた。家の中を振り返り、貯金箱に目を止める。
私が長年、コツコツ貯め続けたお金。それこそ、結婚費用にでも使おうかな、と思っていたもの。今では私のお守り代わりだ。
一度、家へ戻った私は、重たい足を引きずって市場に向かった。
行き交う人の間を小さくなって歩く。昨日追いかけられた場所だった。よけいに慎重になった。
だから、私の方が一瞬早く気づいた。坊主頭が振り返る寸前、身を屈めた。急に私がうずくまったので、近くの女性が私に寄り添って、「大丈夫?」と尋ねてくれた。
「はい……」
あの人に聞こえないよう、声を潜めて答えた。
もう嫌だ。私はずっと、このまま怯えて暮らさないといけないのかな。
ふらつきそうな足元を踏ん張って立ち上がる。近くの建物の体を預けて足を引きずった。見つかっていないか、後ろを振り返って確認した。
-----------
扉を開けると、ちりんと鈴の音が鳴った。
私は胃を押さえてカウンターに向かった。冒険者ギルドに来るのは初めてだ。こんなことで、お世話になるなんて思ってもなかった。
屈強な体格のマスターに声をかけた。
街を歩くだけのためにボディーガードを雇う。こんな依頼主いるのだろうか。恥ずかしい。
渡された紙に必要事項を記入する。マスターは記入された紙を確認し、依頼内容の欄で目を止め、怪訝そうに眉を寄せて私を見た。
断られるだろうか。こんな依頼内容なんて、やりがいがなさすぎて、誰も引き受けてくれないかもしれない。
今さら場違いに思えてきた。重苦しい空気感に耐え切れず、胸元の服をぎゅっと握りしめた。
「おい、リオ!」
空気を揺るがすような声に体が強張った。びっくりした。
張り裂けそうなほど、肌が刺激に敏感になってる。
背中のほうで、ガタンと音が鳴った。席から立ちあがったらしい。
リオ、と呼ばれた人が私の隣に来たのが分かった。私は服を掴んでカウンターを眺めることしかできなかった。
「お前、今日からしばらく、手開いてたよな。これ受けてやれ」
カサという音がして、依頼書がリオさんに渡された。
目が合った。私は服を離していた。手に汗が滲む。
リオさんは私から視線を反らして、依頼書を確認する。
「ボディーガード、ですか」
リオさんは少し気まずそうな顔をした。
私だって気まずい。でも、扉を振り返る。今にもあの男の人がやってきそうで、体が震えた。
お父さんには言えない。もう他に頼る人はいない。この人に受けてもらうしかないんだ。
「お願いします」
気まずいだの恥ずかしいだの言ってられない。頭を下げて、とにかく頼むことにした。お願い断らないで。
お金なら、お金なら、この貯金で何とかなるはず。家から持ってきた、お守り代わりの結婚資金。
「まあ、オレでいいなら」
リオさんは、仕方ないなとでも言うように、苦笑いをして太い指で頭を掻く。短い髪が指に当たって跳ねた。
私はハッとして、慌ててカバンに手を突っ込んだ。騒がしい音を立てる貯金箱を引き出し、カウンターに置いた。
「貯金箱?」
こんなところに貯金箱を持ってくる依頼人などいないだろう。
リオさんも、マスターも目を丸くしている。
もう恥も外聞も捨ててやる。私は貯金箱の中身をぶちまけた。
「あの、あの、細かいのしかありませんが、代金はこれでどうかお願いします」
私はリオさんとマスターに対して、交互に頭を下げた。
「とりあえず、次の仕事まで三日間あるから、その間でいいですか? それから先は、状況に応じて考えましょう」
「はい。よろしく、お願いします」
断られる可能性も考えていた私は、感謝の意を込めて精一杯頭を下げた。
「お嬢ちゃん、こいつは若いが腕は確かだ。大船に乗った気でいな」
マスターの声に頼もしさを感じ、私はリオさんとともに外へ出た。
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こんなことなら、昨日は出かけなければ良かった。
ため息をつきながら起きて、私はお父さんと二人分の朝食を作った。
物心ついたときから、ずっとしている。
食事の準備をして、後片付けをして、洗濯をして、掃除をする。手慣れたものだ。今日もいつもの作業を繰り返すだけなのに、テンポが、崩れた。
目玉焼きを、焦がしてしまった。不用意に皿を掴んで、落としてしまった。洗剤を入れすぎた。掃除が雑になった。
息をつく。
ちらちらと、あの男の人の顔が頭をよぎったからだ。
今日は買い物に行かないといけない。昨日行けなかったから、食材がないんだ。
お父さんは仕事で忙しい。私が行くしかない。
外は晴れた青空なのに、私には曇って見えた。家の中を振り返り、貯金箱に目を止める。
私が長年、コツコツ貯め続けたお金。それこそ、結婚費用にでも使おうかな、と思っていたもの。今では私のお守り代わりだ。
一度、家へ戻った私は、重たい足を引きずって市場に向かった。
行き交う人の間を小さくなって歩く。昨日追いかけられた場所だった。よけいに慎重になった。
だから、私の方が一瞬早く気づいた。坊主頭が振り返る寸前、身を屈めた。急に私がうずくまったので、近くの女性が私に寄り添って、「大丈夫?」と尋ねてくれた。
「はい……」
あの人に聞こえないよう、声を潜めて答えた。
もう嫌だ。私はずっと、このまま怯えて暮らさないといけないのかな。
ふらつきそうな足元を踏ん張って立ち上がる。近くの建物の体を預けて足を引きずった。見つかっていないか、後ろを振り返って確認した。
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扉を開けると、ちりんと鈴の音が鳴った。
私は胃を押さえてカウンターに向かった。冒険者ギルドに来るのは初めてだ。こんなことで、お世話になるなんて思ってもなかった。
屈強な体格のマスターに声をかけた。
街を歩くだけのためにボディーガードを雇う。こんな依頼主いるのだろうか。恥ずかしい。
渡された紙に必要事項を記入する。マスターは記入された紙を確認し、依頼内容の欄で目を止め、怪訝そうに眉を寄せて私を見た。
断られるだろうか。こんな依頼内容なんて、やりがいがなさすぎて、誰も引き受けてくれないかもしれない。
今さら場違いに思えてきた。重苦しい空気感に耐え切れず、胸元の服をぎゅっと握りしめた。
「おい、リオ!」
空気を揺るがすような声に体が強張った。びっくりした。
張り裂けそうなほど、肌が刺激に敏感になってる。
背中のほうで、ガタンと音が鳴った。席から立ちあがったらしい。
リオ、と呼ばれた人が私の隣に来たのが分かった。私は服を掴んでカウンターを眺めることしかできなかった。
「お前、今日からしばらく、手開いてたよな。これ受けてやれ」
カサという音がして、依頼書がリオさんに渡された。
目が合った。私は服を離していた。手に汗が滲む。
リオさんは私から視線を反らして、依頼書を確認する。
「ボディーガード、ですか」
リオさんは少し気まずそうな顔をした。
私だって気まずい。でも、扉を振り返る。今にもあの男の人がやってきそうで、体が震えた。
お父さんには言えない。もう他に頼る人はいない。この人に受けてもらうしかないんだ。
「お願いします」
気まずいだの恥ずかしいだの言ってられない。頭を下げて、とにかく頼むことにした。お願い断らないで。
お金なら、お金なら、この貯金で何とかなるはず。家から持ってきた、お守り代わりの結婚資金。
「まあ、オレでいいなら」
リオさんは、仕方ないなとでも言うように、苦笑いをして太い指で頭を掻く。短い髪が指に当たって跳ねた。
私はハッとして、慌ててカバンに手を突っ込んだ。騒がしい音を立てる貯金箱を引き出し、カウンターに置いた。
「貯金箱?」
こんなところに貯金箱を持ってくる依頼人などいないだろう。
リオさんも、マスターも目を丸くしている。
もう恥も外聞も捨ててやる。私は貯金箱の中身をぶちまけた。
「あの、あの、細かいのしかありませんが、代金はこれでどうかお願いします」
私はリオさんとマスターに対して、交互に頭を下げた。
「とりあえず、次の仕事まで三日間あるから、その間でいいですか? それから先は、状況に応じて考えましょう」
「はい。よろしく、お願いします」
断られる可能性も考えていた私は、感謝の意を込めて精一杯頭を下げた。
「お嬢ちゃん、こいつは若いが腕は確かだ。大船に乗った気でいな」
マスターの声に頼もしさを感じ、私はリオさんとともに外へ出た。