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3.

ー/ー



「はぁ……」

 俺はここ数日のイレギュラーに悩まされていた。あの毛むくじゃら、毎朝不快な髪の毛でセットしたアラームよりも早く起こしてくるし、帰宅すれば暖簾のようにお出迎え、風呂で自分の髪を洗っている時や、洗濯を干そうと洗濯カゴに視線を落とし顔を上げた瞬間や、トイレの便座を開けた時や、ドアを開けた直後に、瞬時に俺の視界を埋め尽くし、俺の行動をことごとく邪魔してきた。

 その度に俺は、驚いたり、腹を立てたり、怒鳴ったり、肝を冷やしたりした。まだ慣れるということはないようだ。いや、こんな非日常に慣れてしまうのもどうかとは思うのだが。

 この数年間で築いてきた、完璧に整えられた俺の日常がガラガラと音を立てて崩壊していく。それを毎日見せつけられていて、俺は少し、ナーバスになっていた。

「はぁ~……」

「おはようございます。……大きな溜め息ですね」

 ふと気がつくと、コーヒーを淹れてくれた臨時職員の林さんが俺を気遣うように見ていた。二十代半ばくらいの若い女性で、話好きなのか、いつも誰かと話している。いつもはそれをうるさく見ていたのだが、こういう時に気遣われると嬉しいものだ。

「ああ、聞こえちゃいました? 最近、困ったことがありましてね」

「人手不足ですもんね。この前も他部署で辞めた人が出たって聞きましたし」

「いや、そうじゃなくて」

 確かにここ最近の病欠やら休職やら辞任者やら、そういうのが増えて仕事が大変なのはそうだしそれも困ったことだけれども。

 なんと説明したものか。

「なんというかね……。そう、毛むくじゃらの存在に困っているんだよ」

「毛むくじゃら……?」

 そんな怪訝な顔をしないでほしい。俺だって、ハッキリと答えられないことを心苦しく思っているのだから。

「もしかしてワンちゃんとかネコちゃんとかのこと言ってます?」

「あ、あー……、ああ!」

 ビクッと驚いた表情の林さんは面白かった。いやそんなことよりも。

 どうして気がつかなかったのか。

 あれを動物だと。つまりペットみたいなもんだと思えばいいんだと。

「そうなんだよ、林さん。いやぁ、困っちゃうよね、意思の疎通ができないって」

「ま、まあ、そうですね。……普田巻(ふだまき)さんがそんな話をするのって意外ですね」

 林さんの『意外と』というところに引っかかるが、大いなる気づきの前ではそんなことは些末なことだった。

 ペットか。悪くないどころか、最高の発想の転換だ。ずっと同じ毎日というものにも、少々飽きが来ていたところじゃないか。不快な侵入者に乱される日常は最悪だが、こちらの支配下にあるペットとの新たな生活ならイレギュラーが楽しみですらある。

「おはようございます。珍しいですね、林さんが普田巻さんと話しているなんて」

「あ、進藤さん、おはようございます」

 せっかく林さんとの会話が弾んできたところだというのに邪魔者の登場だ。

 会話に加わってきた進藤という男を、俺は嫌っていた。大した仕事もしていないクセに、誰にでもいい顔して、周りから何かと可愛がられている。進藤を中心としたグループができていることも珍しくない。こいつの話の何が面白いのか、俺にはさっぱり理解できない。

「今、普田巻さんが飼われている子の話を聞いていたところです」

「へえ? 普田巻さんって動物とか好きなの? 意外ですね」

 また『意外』だ。意外意外と言うが、お前らは俺の何を知っているというんだ。こいつにまで意外だと言われて気分が悪くなった。

「まあね。好き勝手やられて参っちゃうよ」

「そりゃ躾けないとだめですよ」

「……躾、か」

 なるほど、ペットなら躾をしなければならないのは道理だ。いや、これは進藤の言葉に納得した訳じゃない。そう、忘れていただけで言われずとも辿り着いていた答えだ。

「動物だって人間の言葉を理解するんですから、トイレの場所教えたり、やっちゃいけないことをしたら叱らないと」

「お利口な子だと一回で覚えてくれる子もいるんですよね」

「そうだな」

 進藤は嫌いだが、林さんの言葉には思い当たる節がある。あの毛むくじゃらは、俺の言葉が理解できる様子だった。何回か、俺の言葉に従って場所を移動したりしているわけだから、ちゃんと説明すれば言うことを聞くようになる可能性は高い。

「その子のことはなんて呼んでいるんですか?」

「え? ……毛むくじゃらとか」

「毛むくじゃら、って。せっかくの可愛い家族なのに」

 可愛い家族、か。

 あいつの行動をよく思い返してみよう。

 確かにぷるぷると小刻みに震えているのも、小型犬が震えている可愛さと同じと思えばその通りかもしれない。あちこち動くのも、動物なら動いて当たり前だし、飼い主である俺に構って欲しくて色々なアクションを起こしていると思えば、やっぱり可愛い奴に見えてくる……気がする。

「そうか、名前か。そのうち考えてみるよ、ありがとう」

「まさか普田巻さんが動物に興味があってペット飼ってるなんてね。人ってわかんないもんですね」

 進藤の言葉はかなり余計に感じたが、林さんのおかげで俺の生活に光が差した。

 あの毛むくじゃらをペットだと思うことで、俺の新たな日常が始まる。あいつを追い出そうと躍起になっていたが、どうせ存在してしまっているのなら、あいつを俺の支配下に置けばいいだけの話だったのだ。

 若さが取り柄なだけのおしゃべりな女だと思っていたが、案外役に立つ情報をくれるなんてやるじゃないか林さん。彼女からの情報に感謝しつつ、俺は帰宅後の毛むくじゃらペット計画について考えることにした。


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「はぁ……」
 俺はここ数日のイレギュラーに悩まされていた。あの毛むくじゃら、毎朝不快な髪の毛でセットしたアラームよりも早く起こしてくるし、帰宅すれば暖簾のようにお出迎え、風呂で自分の髪を洗っている時や、洗濯を干そうと洗濯カゴに視線を落とし顔を上げた瞬間や、トイレの便座を開けた時や、ドアを開けた直後に、瞬時に俺の視界を埋め尽くし、俺の行動をことごとく邪魔してきた。
 その度に俺は、驚いたり、腹を立てたり、怒鳴ったり、肝を冷やしたりした。まだ慣れるということはないようだ。いや、こんな非日常に慣れてしまうのもどうかとは思うのだが。
 この数年間で築いてきた、完璧に整えられた俺の日常がガラガラと音を立てて崩壊していく。それを毎日見せつけられていて、俺は少し、ナーバスになっていた。
「はぁ~……」
「おはようございます。……大きな溜め息ですね」
 ふと気がつくと、コーヒーを淹れてくれた臨時職員の林さんが俺を気遣うように見ていた。二十代半ばくらいの若い女性で、話好きなのか、いつも誰かと話している。いつもはそれをうるさく見ていたのだが、こういう時に気遣われると嬉しいものだ。
「ああ、聞こえちゃいました? 最近、困ったことがありましてね」
「人手不足ですもんね。この前も他部署で辞めた人が出たって聞きましたし」
「いや、そうじゃなくて」
 確かにここ最近の病欠やら休職やら辞任者やら、そういうのが増えて仕事が大変なのはそうだしそれも困ったことだけれども。
 なんと説明したものか。
「なんというかね……。そう、毛むくじゃらの存在に困っているんだよ」
「毛むくじゃら……?」
 そんな怪訝な顔をしないでほしい。俺だって、ハッキリと答えられないことを心苦しく思っているのだから。
「もしかしてワンちゃんとかネコちゃんとかのこと言ってます?」
「あ、あー……、ああ!」
 ビクッと驚いた表情の林さんは面白かった。いやそんなことよりも。
 どうして気がつかなかったのか。
 あれを動物だと。つまりペットみたいなもんだと思えばいいんだと。
「そうなんだよ、林さん。いやぁ、困っちゃうよね、意思の疎通ができないって」
「ま、まあ、そうですね。……|普田巻《ふだまき》さんがそんな話をするのって意外ですね」
 林さんの『意外と』というところに引っかかるが、大いなる気づきの前ではそんなことは些末なことだった。
 ペットか。悪くないどころか、最高の発想の転換だ。ずっと同じ毎日というものにも、少々飽きが来ていたところじゃないか。不快な侵入者に乱される日常は最悪だが、こちらの支配下にあるペットとの新たな生活ならイレギュラーが楽しみですらある。
「おはようございます。珍しいですね、林さんが普田巻さんと話しているなんて」
「あ、進藤さん、おはようございます」
 せっかく林さんとの会話が弾んできたところだというのに邪魔者の登場だ。
 会話に加わってきた進藤という男を、俺は嫌っていた。大した仕事もしていないクセに、誰にでもいい顔して、周りから何かと可愛がられている。進藤を中心としたグループができていることも珍しくない。こいつの話の何が面白いのか、俺にはさっぱり理解できない。
「今、普田巻さんが飼われている子の話を聞いていたところです」
「へえ? 普田巻さんって動物とか好きなの? 意外ですね」
 また『意外』だ。意外意外と言うが、お前らは俺の何を知っているというんだ。こいつにまで意外だと言われて気分が悪くなった。
「まあね。好き勝手やられて参っちゃうよ」
「そりゃ躾けないとだめですよ」
「……躾、か」
 なるほど、ペットなら躾をしなければならないのは道理だ。いや、これは進藤の言葉に納得した訳じゃない。そう、忘れていただけで言われずとも辿り着いていた答えだ。
「動物だって人間の言葉を理解するんですから、トイレの場所教えたり、やっちゃいけないことをしたら叱らないと」
「お利口な子だと一回で覚えてくれる子もいるんですよね」
「そうだな」
 進藤は嫌いだが、林さんの言葉には思い当たる節がある。あの毛むくじゃらは、俺の言葉が理解できる様子だった。何回か、俺の言葉に従って場所を移動したりしているわけだから、ちゃんと説明すれば言うことを聞くようになる可能性は高い。
「その子のことはなんて呼んでいるんですか?」
「え? ……毛むくじゃらとか」
「毛むくじゃら、って。せっかくの可愛い家族なのに」
 可愛い家族、か。
 あいつの行動をよく思い返してみよう。
 確かにぷるぷると小刻みに震えているのも、小型犬が震えている可愛さと同じと思えばその通りかもしれない。あちこち動くのも、動物なら動いて当たり前だし、飼い主である俺に構って欲しくて色々なアクションを起こしていると思えば、やっぱり可愛い奴に見えてくる……気がする。
「そうか、名前か。そのうち考えてみるよ、ありがとう」
「まさか普田巻さんが動物に興味があってペット飼ってるなんてね。人ってわかんないもんですね」
 進藤の言葉はかなり余計に感じたが、林さんのおかげで俺の生活に光が差した。
 あの毛むくじゃらをペットだと思うことで、俺の新たな日常が始まる。あいつを追い出そうと躍起になっていたが、どうせ存在してしまっているのなら、あいつを俺の支配下に置けばいいだけの話だったのだ。
 若さが取り柄なだけのおしゃべりな女だと思っていたが、案外役に立つ情報をくれるなんてやるじゃないか林さん。彼女からの情報に感謝しつつ、俺は帰宅後の毛むくじゃらペット計画について考えることにした。