4.
ー/ー
「いいか、お前の名前はムクだ。いつまでも名前がないのは可哀想だから名付けてやる。ムクだ、ムク。どうだ、わかったか?」
俺はあの後頭部に向かって説明していた。帰宅早々驚かされ、ビビった俺を見て楽しんでいるのか、ぶるぶると震えていた毛むくじゃら、もといムクは、俺の言葉を聞くと動きをピタリと止めたのだった。
「名前がないのは不便だろ? ムク、と俺が呼んだら返事しろよ。いや、やっぱり返事はしなくていいや。騒音問題とかになったら困るし。とにかく、ムクっていうのはお前のことだからな」
我ながら良い名前だと思う。毛むくじゃらだからムクなのだが、二文字で呼びやすいし、これなら林さんと話す時に名前を言っても怪しまれないだろうという打算もあった。
そしてムクは、考えているのか理解しようとしているのか、動かないまま宙に浮かんでいた。特段邪魔になる位置でもないので、そのまま放っておいて、俺は説明を続けることにした。
「ムク、いいか? ここは俺の家で、お前は俺のペットだ。だから、こっちのルールを守ってもらう。一つ、朝俺のことを起こすのはやめろ。その髪の毛で起こされるのは不快なんだ。じゃれるなら別のタイミングにしてくれ」
面と向かってムクに対峙して話す。心なしか、ムクは殊勝にうなだれているように見える。……俺の妄想かもしれないが。
「二つ、俺を驚かすのはやめろ。構って欲しいのは分かるが、突然のことだと心臓に悪いし、あんまりうるさくすると近所迷惑になって余計なトラブルに発展しかねない。そんな面倒事はごめんだからな」
これも大事なことだ。慣れてきたとはいえ、暗闇からムクがわさわさと這い出てきた時や、咄嗟に振り返ったその眼前に居られると、さすがに冷や汗や変な声が出る。わかっていても心臓はバクバクと早鐘を打つし、おぞましいという感情でムクを見てしまう。
こいつは俺のペットになるのだから、そんな感情や感覚からは早く解放されたいものだ。
「三つ、俺の言うことを聞くこと。ここは俺が家賃を払って、俺が住んでいる場所だ。お前はそこに入り込んできたペットなんだから、飼い主の俺の言うことをちゃんと聞いてくれ」
俺は今までの完璧で平穏な日常の中で、時々は何者かの温もりが欲しかった。人間を側に置けばうるさいし、面倒を見てやらないといけない動物の存在はもっと煩わしい。
だがこいつのような、散歩の必要のない、おそらく食事も排泄物の世話の必要もない、手のかからない何者かの存在は、そんな俺の願望にピッタリと合致している。
「お互いの生活のためだ。仲良くしようぜ」
思わずムクに向かって右手を差し出したが、手なんてあるはずもない。握れる手がないのに、それがわかっていたのに差し出してしまった自分の右手が恥ずかしい。
俺はその恥ずかしさを払拭するように、ムクの頭を撫でた。
ぞわり、と、得体の知れないおぞけが背中を這い上がって来る感覚に襲われた。
「よろしくな」
これからペットとして接する相手を怖がってたまるか。
撫でるついでにムクを観察してみた。人間の頭にはうなじというものがあるが、ムクにはそれがない。どこが始まりで終わりなのかわからないが、とにかくびっしりと髪の毛が生えている。そしてそれが不揃いであることにも気がついた。あるものは短く、あるものは長く、そしてあるものは細く、あるものは太い。髪の毛とはこういうものなのだろうか。他人の頭などまじまじ見ないからわからないが、案外そうなのかもしれない。
そしてその髪の毛は脂でギトギトしている場所と、なぜかパサパサしている部分があった。まるで別の生き物をつぎはぎに合わせたようだ。
「じゃあ、そういうことで」
どの髪の毛も、等しく不快だった。
ムクから手を離すと、何本かの髪が俺の指へまとわりついた。ただ撫でていただけなのにこんなにも抜けるのか。今までヘドバンされたりしたのに抜けなかったのが奇跡だ。
俺は髪の毛をゴミ箱に捨てると丁寧に手を洗った。食事の世話は必要ないが、シャンプーの必要はあるかもしれない。面倒だが、そのくらいならしてやってもいいかもしれない。
そんなことを考えながら、いつまでも指に残る不快な感触を洗い流そうと、ごしごしと手をこすり続けた。
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俺はあの後頭部に向かって説明していた。帰宅早々驚かされ、ビビった俺を見て楽しんでいるのか、ぶるぶると震えていた毛むくじゃら、もといムクは、俺の言葉を聞くと動きをピタリと止めたのだった。
「名前がないのは不便だろ? ムク、と俺が呼んだら返事しろよ。いや、やっぱり返事はしなくていいや。騒音問題とかになったら困るし。とにかく、ムクっていうのはお前のことだからな」
我ながら良い名前だと思う。毛むくじゃらだからムクなのだが、二文字で呼びやすいし、これなら林さんと話す時に名前を言っても怪しまれないだろうという打算もあった。
そしてムクは、考えているのか理解しようとしているのか、動かないまま宙に浮かんでいた。特段邪魔になる位置でもないので、そのまま放っておいて、俺は説明を続けることにした。
「ムク、いいか? ここは俺の家で、お前は俺のペットだ。だから、こっちのルールを守ってもらう。一つ、朝俺のことを起こすのはやめろ。その髪の毛で起こされるのは不快なんだ。じゃれるなら別のタイミングにしてくれ」
面と向かってムクに対峙して話す。心なしか、ムクは殊勝にうなだれているように見える。……俺の妄想かもしれないが。
「二つ、俺を驚かすのはやめろ。構って欲しいのは分かるが、突然のことだと心臓に悪いし、あんまりうるさくすると近所迷惑になって余計なトラブルに発展しかねない。そんな面倒事はごめんだからな」
これも大事なことだ。慣れてきたとはいえ、暗闇からムクがわさわさと這い出てきた時や、咄嗟に振り返ったその眼前に居られると、さすがに冷や汗や変な声が出る。わかっていても心臓はバクバクと早鐘を打つし、おぞましいという感情でムクを見てしまう。
こいつは俺のペットになるのだから、そんな感情や感覚からは早く解放されたいものだ。
「三つ、俺の言うことを聞くこと。ここは俺が家賃を払って、俺が住んでいる場所だ。お前はそこに入り込んできたペットなんだから、飼い主の俺の言うことをちゃんと聞いてくれ」
俺は今までの完璧で平穏な日常の中で、時々は何者かの温もりが欲しかった。人間を側に置けばうるさいし、面倒を見てやらないといけない動物の存在はもっと煩わしい。
だがこいつのような、散歩の必要のない、おそらく食事も排泄物の世話の必要もない、手のかからない何者かの存在は、そんな俺の願望にピッタリと合致している。
「お互いの生活のためだ。仲良くしようぜ」
思わずムクに向かって右手を差し出したが、手なんてあるはずもない。握れる手がないのに、それがわかっていたのに差し出してしまった自分の右手が恥ずかしい。
俺はその恥ずかしさを払拭するように、ムクの頭を撫でた。
ぞわり、と、得体の知れないおぞけが背中を這い上がって来る感覚に襲われた。
「よろしくな」
これからペットとして接する相手を怖がってたまるか。
撫でるついでにムクを観察してみた。人間の頭にはうなじというものがあるが、ムクにはそれがない。どこが始まりで終わりなのかわからないが、とにかくびっしりと髪の毛が生えている。そしてそれが不揃いであることにも気がついた。あるものは短く、あるものは長く、そしてあるものは細く、あるものは太い。髪の毛とはこういうものなのだろうか。他人の頭などまじまじ見ないからわからないが、案外そうなのかもしれない。
そしてその髪の毛は脂でギトギトしている場所と、なぜかパサパサしている部分があった。まるで別の生き物をつぎはぎに合わせたようだ。
「じゃあ、そういうことで」
どの髪の毛も、等しく不快だった。
ムクから手を離すと、何本かの髪が俺の指へまとわりついた。ただ撫でていただけなのにこんなにも抜けるのか。今までヘドバンされたりしたのに抜けなかったのが奇跡だ。
俺は髪の毛をゴミ箱に捨てると丁寧に手を洗った。食事の世話は必要ないが、シャンプーの必要はあるかもしれない。面倒だが、そのくらいならしてやってもいいかもしれない。
そんなことを考えながら、いつまでも指に残る不快な感触を洗い流そうと、ごしごしと手をこすり続けた。